レオを追いかけて/ただ親密であることはありえないのか -映画『CLOSE』について

映画『CLOSE』は、予告やメディアのコメントなどで「感動」や「涙」といった、いかにもな言葉が溢れていたので、正直どうなのかなーと思っていた。あまり期待していないどころか疑っていた。
しかし、今のところ今年観た映画の中で、特にいい映画の一つだと感じた。

観る前の思い込みというか、こういう映画なのではないだろうかという予想として、マイノリティをテーマにした映画なのかと思っていた。
もちろんそういうテーマもあった。正確にいえば「親密性」についてだ。そのことについては、監督もインタビューで語っている。そのインタビューについては、後にふれる。
しかし、僕はそれ以上に「一人の人間と誠実に向き合う」ということを主題にしているように感じた。それは、映画の中で説明されたり、教えられたり、物語を通じて理解するのではない。この映画そのものに「一人の人間と誠実に向き合う」という行為を強制させられる。つまり、この映画を観るということが、「一人の人間と誠実に向き合う」という行為になっている。

私が感じた「一人の人間と誠実に向き合う」ことと「親密性」について、この映画のことを語ってみる。

レオを追いかけて

この映画は、主人公レオをひたすら追いかけている。カメラはほぼ全てのショットでレオか、もしくはレオの目線の先を捉えている。そして、観客にもレオを追いかけている感覚を抱かせる。ここでの「追いかける」とは、観察的なものでない。もっと深い意味での「追いかける」ということだ。

なぜ観客がレオを追いかけているように感じるのかの一つに、カメラワークの技術があるのではないだろうか。この映画は手振れが多く、恐らくハンドカメラメインで撮っていると思われる。このことが、観客とレオの距離を縮める効果を生み、観客にとってレオは画面の向こうの遠い他人ではなくなり、レオに親密さを感じるのではないのかと思う。
また、レオが身体的に感じていることを、こちらに忠実に伝えようとしているとも思える。これは音の聞かせ方によるものだろうか。子供たちの群れの中にいるときのざわつき声のノイズは、まるでレオがいるその場所に、僕も実際にいるように感じた。アイスホッケーの練習で体に感じるときの衝撃も、生々しく感じた。

しかし、実際にレオが何を考え、何を思い、何を心的に感じているかの答えは与えられらない。
カメラはレオを追いかける。しかしレオは語らない。カメラはレオの表情を映す。しかしレオは感情が溢れることもあるが、基本的には何かを秘めた表情をしている。
一体レオは何を考えているのか?何を思っているのか?何を感じているのか?人と誠実に向き合うとは、この答えのなさと向き合うことではないだろうか。私たちはレオ追いかけ、レオと向き合うことを強制させられる。

「この脚本の執筆は、後悔の念からはじまりました。若かった頃、(私と仲良くする男子が周囲からどう見られるかが気になり同性との)親密性を自ら否定してしまったんです。『親密』とは本当の意味で自分を見てもらい、許容してもらうことだと思うのです」

Esquire 映画『CLOSE/クロース』カンヌ映画祭グランプリ受賞監督
ルーカス・ドンに児玉美月が迫る

ルーカス・ドン監督はインタビューでこのように語っていた。
もしかしたらレオとは、幼い頃のルーカス・ドン監督の幻影なのかもしれない。ルーカス・ドン監督自身がその幻影を追いかけている。そういった可能性もありえるだろう。

ただ親密であることはありえないのか

「ヘテロノーマティヴで家父長的なシステムは、親密な者同士を必ず性的に見るよう植えつけるものです。だから、そのまなざしを解体したかった。自分にとって大事なのは、名前のない愛を見せることでした」

Esquire 映画『CLOSE/クロース』カンヌ映画祭グランプリ受賞監督
ルーカス・ドンに児玉美月が迫る

クラスメイトたちは、レオとレミの親密さに疑問を抱いていた。レオが親友だと説明しても納得しなかった。
この映画を観た他の人は、レオとレミの親密さについてどう思っただろう?
レオとレミは親友だと納得できたとしよう。しかし、仮にレオとレミがキスをしていたらどうだろうか。それでも親友だと納得できるだろうか?
映画を離れて日常に視点を移そう。街を歩いていて、手を繋いでいる2人がいれば、恋人など、恋愛的な関係にあると思ってしまうだろう。
ルーカス・ドン監督がいうことは恐らく正しい。一般的に親密だということは、即ち恋愛的な関係であるとされてしまう。
このことの根底には、人の関係を友達か恋愛関係かで分けることがあると思われる。友達/恋人、友情/恋愛感情の二元論である。この二元論にはもちろん、ルーカス・ドン監督のいう名前のない愛はない。

親密だということには、必ず恋愛感情が伴うのだろうか?友愛でも恋愛でもない、名前のない愛はありえないのだろうか?ただ親密であるということはありえないのだろうか?
人は何かである前に、他の何にでもないその人自身という。それならば「私たち」という関係においても、友達や恋人などである前に、他の何ものでもない「私たち」ではないか?「私たち」は他の何でもない「私たち」であり、レオとレミは、他の何でもないレオとレミだ。

友達/恋人、友情/恋愛感情の二元論については、実は私も以前テクストにて問題提起をしたことがある。もしよければ、こちらのテクストも読んでもらえたら嬉しい。


追補

この映画は、マイノリティや男の子2人という題材が一致することで、映画『怪物』と比較されることがあるかと思う。僕は全く違う映画だと思ったが、物語の方向では思うことがあった。それは、2つの物語の方向が、逆向きだということだ。
『怪物』は「人間」の世界の外へ行く。「人間」から解放され、2人だけの世界に行く。一方で『CLOSE』は、2人だけの世界から「人間」の世界へ行く。レオは「人間」の世界へ行ったが、レミは一人置いていかれてしまったのだ。

※ルーカス・ドン監督のインタビューでの発言は、以下の記事より引用しました。


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