「愛されるとは何か?」についての思弁
友人と恋愛や性愛の話をしていたとき、その友人は、「今の望みとしては、とにかく愛されたい」と言っていた。しかし、「愛される」とはどういうことだろうか?
「愛するとは何か?」や「愛し合うとは何か?」ということは話し合われたり、考えを聞くことは多いと思うが、「愛されるとは何か?」ということは、話し合われることも、考えを聞くこともあまりないように思う。
その友人と話しているときには、深く考えることができなかったが、次にその友人と会ったとき、話を深めるためにも、僕は「愛されるとは何か?」について考えてみたい。
また、このテクストは、恋愛の愛について書かれているように思えるかもしれないが、友愛など、広義の愛として読むことも可能なはずだ。私自身、そのように読まれることを望むが、どう読むかは読者に委ねる。
1.解釈と感覚
「愛されるとは何か?」ということを考えるとき、どういうふうに考えていったらいいのだろうか?「愛される」とは、大事にされていて、理解してくれることで……など、このように考えていけばいいだろうか?これは「愛される」を、他者の行為や姿勢などから解釈し、定義づけるということになるだろう。その定義が「愛されるとは何か?」の答えになる。
しかし、「2辺の長さが等しい三角形は二等辺三角形」のように、「愛される」ということを確実に定義づけることは可能だろうか?「大事にされている」や「理解してくれている」は定義として、どれほど有効であろうか?
では、次のことは定義としてどうだろう?愛されるとは何か?それは、「愛されていると感じている」ということである。なるほど、これは「愛されるとは何か?」の定義としては有効なように感じる。
しかし、これでも不十分である。もしも誰かから愛されていると感じたとしても、その相手から本当に愛されているとは限らない。人は勘違いや思い込みなどによって、喜んだり悲しんだりすることがある。それと同様に、勘違いや思い込みなどによって、愛されていると感じることもある。
以上のことから、「愛されるとは何か?」という問いは、2つに分けることができる。一つは他者から「愛されているとはどういうことか?」という解釈的な問いで、もう一つは、私が「愛されていると感じるとはどういうことか?」という感覚に対する問いである。
前者の相手から「愛されているとはどういうことか?」は、「愛するとは何か?」という問いと、問いの一部が一致する。どういうことか?
もし、相手が私を愛しているなら、即ち私は愛されていることになる。つまり、「愛されているとはどういうことか?」という問いは、「愛するとは何か?」という問いと、同じことを考えていることになる。
もう少し正確に述べよう。先程問いの一部と言ったのは、「愛するとは何か?」も「愛されるとは何か?」と同じように、解釈と感覚に分けられるからだ。「愛するとはどういうことか?」という解釈と、「愛している」という感覚だ。このうち「愛されているとはどいうことか?」と一致するのは、「愛するとはどういうことか?」の解釈だ。「愛するとは何か?」と「愛されるとは何か?」という問いは、解釈の部分で一致する。
2.愛されるとはどういうことか?
「愛されるとは何か?」という問いは、解釈と感覚で分けられる。「愛されているとはどういうことか?」と「愛されていると感じるとはどういうことか?」という問いにだ。まずは、「愛されているとはどういうことか?」について考えよう。
この問いにあたって、僕は先に述べたことを自ら指摘する。愛されることと、愛されていると感じることは別であった。それは、愛されていると感じていても、愛されていないことがあるからだ。
しかし、「愛されるとはどういうことか?」ということには、何をもって愛されたとするかが必要ではないか?そして、それはやはり「愛されていると感じること」ではないだろうか?
ただ、愛されていなかったのに、愛されていると感じてしまうことは確かにあるだろう。悪く言えば、嘘でも愛されていると感じさせてしまうことができるということでもある。
なるほど、それならば、相手に「愛している」という気持ちが必要なのだろう。相手に愛があり、愛されていると感じる。これが「愛されるとはどういうことか?」の答えになるかもしれない。
愛されていると感じても、愛されているとは限らない。しかし、相手に愛しているという気持ちがあれば、それは愛されているということになる。
また、「愛されるとはどういうことか?」と「愛するとはどういうことか?」という問いは、同じことを考えているのであった。それであれば、「愛するとはどういうことか?」は「愛しているという気持ちをもち、相手に愛されていると感じてもらえる」ということになるだろう。
しかし、相手に愛していると感じてもらえなくても、ただひっそりと相手が幸せであることを願うこと。これが愛するということではないと、僕は否定できない。
次に感覚について考えたい。愛されているという感覚はどういうことなのか?
3.感覚を定義することの不可能性
嬉しいや悲しいという感覚を言葉で説明すれば、人によって違った説明になる。詩才のある人は、悲しいという言葉を使わずに、悲しいという言葉以上に、悲しみを伝えることができるだろう。
しかし、誰にでも嬉しいや悲しいを伝わるように言うとなれば、嬉しい、悲しいと、そのまま言ったほうがいいだろう。「私は嬉しい」「私は悲しい」と言えば、最低限、私が嬉しい気持ちでいることや、私が悲しんでいることが伝わる。それは嬉しいや悲しいという感覚が、どういう感覚かという共通認知があるからだ。
ところで、共通認知についてだが、共通認知を言葉で語ることは可能だろうか?感覚を言葉で説明すれば、人それぞれ違った説明になる。それでも人は、嬉しいや悲しいという感覚を伝え合うことができる。これは、言葉で掬いきれないところで、感覚を認知しているということではないか?それは、先に感覚を経験し、後から「言葉では、こういうことを嬉しい、悲しいと言うのか」と知るということなのだろう。
4.「愛されていている」という感覚の共通認知
「愛されている」という感覚についての共通認知について考えよう。
A「僕は愛されたい」
B「分かる!私も愛されたい」
という会話があったとして、恐らくこの二人は「愛されている」ということを経験しているからこそ、「愛されている」という感覚の共通認知があるのかもしれない(愛されてることはきっと素晴らしいことなんだろうなど、憧れとして語っているケースも考えられるが)。しかし、「愛されている」は嬉しいや悲しいに比べて、共通認知があやふやだと思う。
共通認知があやふやなのは、ここでは置いておこう。問いは「愛されているという感覚はどういうことか?」だった。この答えを共通認知から導き出すのであれば、経験しなければ分からないということになる。「愛されているという感覚はどういうことか?」という問いの答えは、「愛されていると感じたことがなければ分からない」ということになる。
しかし、これでは投げやりに思える。他に考えられることはないだろうか?
愛されているという感覚は、愛されていると感じたことがなければ分からない。ならば、愛されていると感じるにはどうすればいいのだろうか?
5.方法ではなく条件
何か楽しいことをしたいと思った時、人は自分が楽しいと感じるにはどうするか?ということを考える。
友達と遊ぼうとか、買い物をしようとか、映画を観にいこうとか、飲みにいこうなど。これは自分が楽しいと感じる方法を問うているということになる。なるほど、「感じる方法」、これなら僕にも考えることできるかもしれない。しかし、方法ではあまりにも数が多く、人によって千差万別だろう。
例えば「恋人をつくる」という方法で誰しもが「愛されている」と感じるわけではない。方法ではやはり、個々で違いがありすぎる。問うべきなのは方法よりも、もっと深いもの、それは条件だろう。もちろん条件も個々で違いがある。そして条件も、条件の条件と深めることができ、終わりのない問いになる。しかし、方法より深く、共通性がある、ある程度の深さの条件ならば、私の考えられる範囲の限界としては適切だと思う。
結論を少し先取りしよう。「愛されている」と感じるための条件。それは3つある。
一つは愛されることを望む人であれば、誰でも持っているものである。もう1つはほとんどの人が無意識にもっている。また、もっていなくても、経験などによって、もつようになることも可能である。そして最後の一つが、最も難しい条件となる。では、3つの条件を確認していこう。
6.出発地点
愛されていると感じられるようにることを、愛されているという感覚に至ると表現してみよう。
至るということは、到着地点があるということ。そこに至るということだ。そして、到着地点があるのなら、出発地点もある。「愛されている」という感覚に至る、出発地点とはどこか?それは、「この人は私のことを愛しているのか?」という問いだ(もしくは、この人は愛してくれるのではないかという期待)。
しかし、これだけでは出発地点としては、まだ不十分に思われる。先ほど設定した出発地点とは問いであった。では、この問いは如何にして発生するのだろうか?
まずはこの問いが、どういう状況で発生しているかについて考えてみよう。状況は3つ考えられる。
A.私が誰かを愛していている状況。
B.私が誰かから愛されることを望んでいる状況。
C.状況AでもBでもなく、愛を求めていない状況。
では、それぞれの状況で、どのようにして問いが発生するのか考えよう。
まずは状況Aからだが、これは難しいことはないだろう。私はその人を愛している。だから私はその人から愛されたい。つまり、その人の愛を求めているから、「この人は私のことを愛しているのか?」という問いが発生する(しかし、これは必然のことではない。誰かを愛しているからといって、必ずしもその人から愛されたいかといえば、そうではない人もいる)。
次に状況Bを考える前に、状況Cを考えてみよう。これはもう少し状況の説明が必要だろう。この状況は、例えば相手を恋愛対象として全くみていなく(友達としてしかみれないなど)、誰かから愛されたいということも望んでいない。そのような状況だ。しかし、そのような状況にも関わらず、「この人私のこと好きなのかな?」と思ってしまうことがある。何故だろうか?
それは、自分のもっている物語に触れるからだと考える。
物語をもっているとはどういうことか?例えば近所の人に挨拶して、無視されたとする。そうすると人は驚いたり、戸惑ったり、あるいは怒ったりする。それは、自分が「挨拶をしたら挨拶が返ってくる」という物語を、無意識のレベルでもっているからだ。
「この人私のこと好きなのかな?」も同じように考えられる。「こういう行動や言動は愛情表現だ」という物語を無意識のレベルでもっていて、他者の言動などがその物語に触れたとき、「この人私のこと好きなのかな?」という問いが発生すると考えられる。
最後に状況Bについて考える。状況Bでいかに問いが発生するかは、状況Aと状況Cのグラデーションと考えられるだろう。誰かから愛されていることを強く望んでいれば、自分の物語に触れなくても、「この人は私のことを愛しているのか?」と問いが発生することが考えられる。逆に、誰かから愛されることを望んでいるが、その気持ちはそこまで強くない場合、物語に触れたときのみ問いが発生すると考えられる。
ここまでは、「この人は私のことを愛しているのか?」という、問いの発生する理由について考えてきた。問いの発生する理由は、「愛されていると感じるための条件」といえる。その条件とは、「他者の言動などが、物語に触れること」もしくは「愛されることを望むこと」だろう。では、この条件はどのようにすれば満たせるだろうか?
「愛されることを望む」というのは、言うまでもないが、愛されたいと願う人であれば、誰もが持っているものだ。愛されたいという願いそのものが条件で、願った瞬間にその条件は満たされる。また、「愛されたい」という願いは、様々な原因や因果の果てに、無意識に立ち上がるものである。これは、自分で意識して得られる条件ではなく、また意識して得る必要のないものだ。愛されたいと思わないなら、わざわざ愛されたいと思う必要は全くない。このことに付け加えるなら、「なぜ私は愛されたいと思うのか?」を問うことは、僕は大切なことだと思う。それは、本当に求めているものを探ることでもある。
次に、「他者の言動などが、物語に触れること」という条件について考えよう。これは、どうやったら「物語」をもてるのかということだ。物語は、ほとんどの人が無意識にもっているものだ。物語は生きていく中で自然と構築されていく。何によって構築されていくかといえば、私たちが生きる社会の規範、価値観、常識からや、経験などから自然と構築されていく。また、物語は常に構築されていく。例えば「この人は私のことが好きなのでは?」と思わせる物語がなくても、後に構築されていくことは考えられる。
「愛されていると感じるにはどうすればいいのか?」の3つの条件の内、2つを確認した。最後の条件に行きたいところだが、その条件の前に少し寄り道をしなければならない。3つ目の条件を確認するために、感覚の共通認知について再考する。
7.ポジティブとネガティブ
先の章で、僕は感覚の共通認知について言葉で掬いきれないと言ったが、一つだけ共通認知で言葉にできることがあった。
嬉しいの共通認知で言葉にできることはなにか?それはポジティブな感覚ということだ。逆に、悲しいはネガディブな感覚だ。その他にも、喜び、幸せ、楽しいはポジティブ。怒り、恨み、嫉妬はネガティブとなる。このように、感覚の共通認知は、ポジティブかネガティブかは言葉にすることができる。
愛されているという感覚はどうだろうか?もちろん、ポジティブな感覚だと考えられる。愛されたいという願いは、何を求めているかといえば、ポジティブな感覚であるはずだ。だが、愛されているという感覚には、ネガティブな愛されているという感覚も考えられる。
では、ポジティブな「愛されている」とネガティブな「愛されている」は、その感覚に至る条件も違うのだろうか?
前の章で確認した、「この人は私のことを愛しているのか?」という問いが発生する状況を、もう一度並べよう。
A.私が誰かを愛していている状況。
B.私が誰かから愛されることを望んでいる状況。
C.状況Aでも状況Bでもなく、愛を求めていない状況。
この段階では、愛されているという感覚には至っていない。そこに至る問いが発生しただけだ。では、この状況はその後、愛されているという感覚に至ったとして、それぞれポジティブとネガティブ、どちらの「愛されている」に至るのだろうか?
このことを明らかにする為に、愛されている感覚に至る為の3つ目の条件を確認しよう。3つ目の条件は、問いが発生する状況によって異なると考える。
8.状況Cの3つ目の条件
まずは状況Cにおいての、愛されていると感じるための、3つ目の条件から確認しよう。それは、「結論」することである。問いに対して結論する。これは当然のことと言えば当然のことだろう。
では、結論をして至った愛されているという感覚は、ポジティブなものか?それともネガティブなものか?
何回か述べてきたが、状況Cがどういう状況かについて、もう一度確認しよう。状況Cは、要するに愛されることを望んでいない状況だ。愛されていないのに、愛されていると感じてしまった。これはネガティブな感覚になると考えられるだろう。
確かに、自分が愛されたくない人から愛されたなら、それはネガティブに感じると思う。しかし、望んでいないながらも、ポジティブに考えられるケースも考えられる。例えば「付き合ってほしい」という告白を断るとき、こんなセリフをよく聞かないだろうか?
「好きになってくれたことは嬉しいけど、あなたとは付き合えない」
これを本当に言葉通りに受け取るのであれば、確かに好きになってくれたこと(愛されたこと)はポジティブに受け取っている。これはポジティブな「愛されている」という感覚になるであろう。
しかし、ここでふと疑問に思う。果たしてこれは感覚なのだろうか?僕にはどうも感覚に思えない。
「好きになってくれたことは嬉しいけど、あなたとは付き合えない」
これは、愛されているという感覚というより、愛されている事実を認め(結論)、その事実に嬉しさを感じているのだと思う。ここで感じているのは「愛されている」ではなく嬉しさだ。また、事実を認め、その事実に反応しているとも考えられる。つまり愛されているという感覚ではなく、愛されているという事実に対する、承認と反応ということになる。
では、あんまり考えたくないが、愛されていることが本当に嫌なときはどうだろうか?もし愛されていることが嫌な人、愛されたくない人に愛されたときは、問いが生まれたそのときから、ある程度「結論」をしているのかもしれない。つまり、「あの人は私のことを好きなのだろうか?」ではなく、「好きなのかもしれない」と思うということだ。愛されたくない人から愛されたとき、その人から距離を取ろうとすることは、愛されていることを少なからず前提としているのではないか?そしてこれも、ネガティブな「愛されている」というよりも、愛されている(かもしれない)という事実に対する反応だろう。なるほど、ネガティブな「愛されている」という感覚はないのかもしれない。
補足として、一応中立のパターンも確認しておこう。中立、それは結論をしないこと、正確に言えば結論する必要がないということ。
「あの人は私のこと好きなのかな?もしかしたら、好きなのかもしれない。でも、別にどっちでもいいや」
これは「愛されているのか?」という問いに対して、どっちでもいいと思っていることである。
さて、次に状況A、Bついて、愛されている感覚に至る為の3つ目の条件を確認しよう。
9.状況A、Bの3つ目の条件
先の章では、「結論」という条件が愛されている感覚ではなく、事実に対する承認と反応とした。また、ネガティブな「愛されている」を、ないのかもしれないと否定した。よって、愛されているという感覚は、ポジティブな感覚しかなく、この章で語られる条件こそが、愛されているという感覚に至る条件となる。
まずは改めて、状況A、Bの2つの条件を整理しよう。
状況A、Bはどちらも愛されることを望んでいる。この愛されることを望むことが条件の一つとなる。ではもう一つの条件「物語」はどうだろうか?
物語は、状況Cにおいては、「この人私のこと好きなのかな?」という問いの発生する条件となった。しかし、状況A、Bにおいては物語がなくても問いは発生する。状況Aにおいて、その好きな人から「愛されたい」と望むのであれば、「その人が私のことを愛してくれるのか?」と考えるのは自然だろう。これは、物語に触れることが起因で問いが発生しているのではない。Bにおいては、恐らくどれぐらい愛されたいと望んでいるかによるだろう。強く誰かから愛されたいと望んでいれば、物語がなくても問いが発生する可能性もある。このことから、状況A、Bにおいて、物語は必須の条件ではないと考える(推測には使われるが)。
状況A、Bにおいて「愛されたい」という願いから、発生した問いはどのような条件で愛されているという感覚に至るのか?問いから出発しているのであれば、状況Cのように「結論」が条件かもしれない。しかし、それは「結論」ではない。それは「委ねる」だ。
10.委ねる
「委ねる」は、どうして愛されているという感覚に至る条件になるのか?
愛されているという感覚はポジティブなものだ。では、「委ねる」はポジティブと結びつくのだろうか?まずは、そのことについて確認しよう。
状況Cにおいては、愛される感覚には至ることはできなかった。それは、愛されている感覚ではなく、事実に対する承認と反応である。なぜそうなってしまうのだろう?特に「好きになってくれたことは嬉しい」と思っているのであれば、不思議にも思う。そこには状況A、Bのような、愛されたいと望んでいることとの違いがあるのだろう。その違いは何か?それは、「距離」である。
愛されたくない人から愛されることは、明確に距離を取りたくなるだろう。「好きになってくれたことは嬉しい。でも付き合いたくない」というのも、ある程度の距離を取りたいということだ。愛されることを望んでいる人は、遠ざかることではなく、近づくことを望んでいる。距離は何を意味するのだろうか?距離を取るということは、その人に自分を明け渡すことができないということである。逆に距離が近いということは、自分を明け渡すということである。
極端に考えてみよう。距離が近ければ何を言われるか分からないし、何をされるか分からない。つまり自分の主導権を少なからず明け渡す事になる。これは、相手に自分を委ねていることになる。逆に距離を取ることは、自分の主導権は自分のもの。自分を明け渡さない。委ねていないことになる。距離さえ取れていれば、絶対に安全だ。
ここで、「波に委ねる」ということについて考えてみよう。
波に委ねることは、自分の主導権を波に明け渡すことになる。自分を波に委ねるということだ。波に身を委ねて、波に漂うことは心地よいだろう。心地いいとは、もちろんポジティブな感覚だ。しかし、波に委ねることは、当然危険を伴う。もしかしたら波にさらわれしまうかもしれない。波への恐怖や不安が勝れば、波に委ねることはできない。それは自分を波に明け渡せないということである。波には近付かないで、砂浜から波を眺めるに留まるだろう。
波に漂う心地よさという感覚に至るには、波に自分を委ねなかればならない。僕は愛するという感覚に至ることを、これと同じだと考える。
つまり、相手を信じ、相手に自分を明け渡し、委ねる。そうすれば、愛されているという感覚に至ることができるかもしれない。これが、「委ねる」ことが愛されているという感覚に至る条件と考える理由だ。
また、人はポジティブな感覚でいるとき、自分を失うような感覚になると思われる。例えば幸せという感覚に浸っているとき、その幸せという感覚に支配され、自分を失っているように思えないだろうか?
愛されているという感覚がポジティブな感覚であるとすれば、その感覚の強度が強くなればなるほど、その感覚に我を忘れることも考えられる。
委ねることも、委ねれば委ねるほど、その委ねた対象に自分を明け渡していく、つまり自分を任せていくことにより、自分を失うということになる。そう考えれば委ねることは、自分を失うという意味でも条件として考えられるだろう(しかし、これはネガティブな感覚にも言える。強い拒絶、例えば憎しみは、憎むあまり、憎しみに自分を支配される)。
委ねることが、どうして愛されているという感覚に至る条件になるのかを確認した。しかし、これだけでは不十分だ。どうして条件になるのかだけではなく、「委ねる」ということそのものについても、考えていかねばならない。
11.複数の委ね
委ねることは簡単ではない。
「愛されている」という感覚に至ることができたとしよう。しかしある時、問いに戻ることがある。愛されているという感覚に至ることができたのに、「この人は私を愛しているのだろうか?」と、問いに戻ってしまう。このときの「この人は私を愛しているのだろうか?」という問いは、不安からくるものだと思われる。このことは「委ね」を失っている状態と言えるだろう。この不安はどこからやってくるのだろうか?
「委ね」というものは不思議なもので、本来自分を失うことであるはずが、委ねた対象を自分が所有している、もしくはしたい、また、コントロールしたいと思うようになる。私が委ねられる相手を失いたくないと思ってしまう。所有やコントロールは、自分を明け渡し、任せることである「委ね」とはかけ離れたものだろう。そうなれば辛うじて出来ることは、委ねようとすることだろう、しかしこれも「委ね」とは違う。
しかし、人はどうしても喪失の不安を感じてしまうだろう。では、どうすればいいのだろう?
もう一度「波に委ねる」ことについて考えよう。
波に委ねるとは自分の主導権を波に明け渡す。自分を波に委ねるということだ。しかし、波に委ねるにはどうしたらいいのだろうか?それは、波だけではなく、自分を自分自身に委ねられることも必要だ。
「波に委ねる」の場合であれば、波に浮かぶ方法を会得しているということである。波と自分、両方に委ねられなければ、波に委ねることはできない。
だが、もっと考えらえる。波に委ねることは、波と自分の双数な関係だけだろうか?
波に漂うのが好きで、私は浮かび方も会得している。しかし、もしも世の中が不安定で、そんなことをしている場合ではない、無駄なことや遊びが許されない状況だったら、波に委ねることはできないだろう。そう考えれば、波に委ねることには、社会などに委ねられることも必要になる。遊んでも大丈夫、無駄ことをしても大丈夫という、委ねられる社会が必要だろう。また、これ以外にも「委ね」の対象は複数あると考えられる。「委ね」は単数や双数ではなく、複数の「委ね」が必要で、それらが合わさることで、自分の人生に委ねられるようになるのかもしれない。そのとき、何かに自分を明け渡し、心から委ねられるようになるのかもしれない。
12.受け取ってもらうこと
ここまでの記述で、委ねることの帰結は、もしかしたら、相手にされるがままというふうに捉えられてしまっているかもしれない。もしそうであれば、誤解を解かねばならない。委ねることの帰結は、言いなりになることではなく、受け取ってもらうことである。また、受け取ってもらうこととは、思い通りになることを望むものではない。受け取ってもらえた後でどうなるかは分からない。
「言葉を委ねる」ということについて考えてみよう。言葉を委ねるということは、言葉を受け取ってもらうこと。
何を言ってもすぐに否定する人というのは、言葉を受け取らない人だ。その人にはもちろん、言葉を委ねることはできない。では、言葉を受け取ってもらうとはどういうことだろうか?それは、相手が言葉通りにしてくれるということであろうか?それも「委ね」かもしれないが、少なくとも言葉通りにしてくれることを前提とすることは、僕は「委ね」だとは思わない。
言葉を受け取ってもらうことと、言葉通りにしてもらうことには違いがある。言葉通りにしてもうらことを前提とすることは、自分に委ねることができない状態であり、きつい言い方をすれば、相手に委ねているのではなく、相手を都合のいいように理想化、モノ化しているということでもある。言葉を受け取ってもらうということは、受け取った後についてどうなるかは含まれない。もしかしたらこちらの言葉通り、思い通りにはならないかもしれない。言葉を受け取ってもらうことができるということは、言い換えれば、対話ができるということだ。
言葉以外にも考えてみよう。例えば「否定」はどうだろうか?
ここでの否定とは、相手の行為などに改善を求めるという意味である。矛盾するようだが、「否定」も委ねの対象となるはずだ。
「相手から嫌われるのではないか?」という不安から、否定することを委ねられないという事態が考える。これも、相手からどう思われるかや、好かれていたいという、相手の気持ちのコントロールとも考えられるだろう。
また、「否定」を委ねられない理由には、「相手から嫌われるのではないか?」という理由ではなく、相手のことを思いやるが故にということもあるだろう。このことはどう考えればいいのか?これも、委ねることができていないといえば、その通りなのだろう。しかし、こういう状況でこそ「どうすれば委ねることができるのか?」を問うべきだろう。
相手が弱っているときや疲れているときは、委ねることはできないが、逆に落ち着いているときなら委ねられるかもしれない。お酒の席などリラックスできる環境で、まずは少し濁しつつ話してみるのも、一つの手になるだろう。また、自分がちゃんと冷静にしっかりと伝えられるかなど、自分に委ねられることも大切だろう。委ねられる状況、状態を作っていくということだ。
しかし、そもそも願うことは利己的なことだと考え、それ故に「否定」を委ねず、自分の中で留める人もいるだろう。確かに「愛されたい」ということは、利己的な願いだろう。しかし、人との関係は、何かを求めないとは始まらないのではないだろうか?「愛されたい」ということだけではない。この人と「話してみたいな」や「この人と関わっていきたいな」というのも、ささやかなことではあるが、利己的な願いである。しかし、こうした自分の願いがないことには、そして、それを委ねないことには、関係は始まらない。僕が言いたいことはこうだ。もちろん、なんでも遠慮なく自分の願いを委ねるということではないが、もし利己的なことは悪いことと思っているとすれば、そんなことはない。傷付けることも同じだ。今は傷付けることが、すごく悪いことのように思われている風潮を感じる。もちろん、それとは関係なく、傷付けてしまったら、そのことは苦しく感じる。しかし、傷付けることも、相手を傷付けることが目的であって傷付けるのでなければ、悪ではない。「これを言ったらたら相手は傷付くかもしれない」、そのような自覚や想像力はもちろん大切で、傷付けることを避けるのも必要であろう。しかし、傷を避けることではなく、傷と向き合うことも必要だと思う。
「否定」に限らずだが、委ねたあとでどうなるかは分からない。「委ねる」とは、中身が何が入っている箱に手を入れるようなものだ。それは非常に不安や恐れを感じることであろう。その箱の中に手を入れる、つまり、箱の中に手を委ねるには、手を委ねられる「委ね」が必要だ。その「委ね」をいかに作るかは、個別具体的なことであり、試行錯誤するしかなく、また、自力だけで作れることではない。
ここまでは、言葉や否定など、どこか行為に関わることや、要求的なことであった。では、「愛されたい」という気持ちを委ねることについてはどうであろうか?
言葉や否定は受け取った後、どうなるのか分からないのであった。例えば言葉で願いを伝えたとしたら、言葉通りになるかは分からない。
気持ちも同じことがいえるだろう。「愛されたい」という気持ちを受け取ることは、その先はどうなるか分からない。では、「愛されたい」という気持ちは、受け取られるだけで「愛されている」と感じることはできるだろうか?僕は「愛されている」と感じるには、受け取られるだけではなく、受け入れられなければならないと思う。委ねることの帰結は、受け取ってもらうことである。それは、「愛されたい」という気持ちも変わらない。
「愛されている」と感じるには受け入れられるしかない。しかし、その気持ちは、受け取ってもらうことを経由しなければならないだろう。
13.私の行為
人はどうしても喪失の不安を感じてしまうだろう。そのことにより、「委ね」の強度が落ちたり、失われたりするのであった。
しかし、どうしても不安を感じてしまうのであれば、不安を全く感じないことは不可能ということになる。それは「委ね」ということには、不安が必ず含まれるということである。
「委ねる」とは、確かに相手に任せることであり、受動に思われる。しかし、委ねることは委ねた人の行為である。つまり、能動でもある。
もしも、相手が受け入れてくれるとことが確実に分かっているのであれば、もはや「委ねる」という行為は不要になる。どういうことか?
僕は以前、旧統一教会問題に際し、『神は信じなさいと言うが、疑うなとは言っていない』というテクストを書いた。タイトルの意味はこうだ。
例えば、このテクストは本当に僕が書いているのか?本当はゴーストライターかAIかもしれない。僕がこのテクストを書いているところを最初から最後まで常に見ており、投稿するところを見てるいる人がいたとしよう。その人にとっては、僕が書いていることは事実になる。事実に対しては、信じるという行為は発生しない。信じるということは、それが事実かどうか、僅かでも不確実性がある場合に発生する、私の行為である。信じるとは、信じようとしている私が常にいるということである。洗脳、もしくはそれに近い状態というのは、不確実性があり、本来であれば信じるという行為が発生することを、事実化することだと考える。事実に対しては、それが本当か嘘かをめぐって、私は何かを行為する必要はない。事実に対しては、「私」はなくてもいいのである。「信じる」の対としての事実の中にいることは、私の消失である。信じるとは不確実なものを、私が信じようとするからこそ、尊いのではないだろうか?
「委ねる」に話を戻そう。委ねるということも、僅かでも不確実性があるために発生する行為である。委ねることは、まず受け取ってもらえるかにも不確実性があり、受け取ってもらえたとしても、その後どうなるかは分からない。つまり、「委ねる」にも不確実性がある。二重の不確実性だ。
相手に確実に受け取ってもらえ、さらに受け入れられると分かるということは、相手の考えも、無意識も、相手の全てが分かるということである。もちろんそんなことは絶対に不可能だ。
そうであるならば、「委ねる」ということには常に不確実性があり、不安が含まれる。そして、不確実で不安が含まれるからこそ、「委ねる」という行為が発生する。不確実性に悩ませられながら、不安などと向き合いながら、それでも委ねようとする。それが「委ねる」という私の行為なのだろう。
14.揺らぐこと
「愛されている」という感覚の持続性について考えてみよう。
前の章では、不確実性や不安があるからこそ、「委ねる」という行為が発生すると確認した。では、「信じる」においての事実のように、「委ねる」という行為が必要がない状況とは、どいう状況であろうか?それは、受け入れられている状況だ。
受け入れられるか(その手前の受け取ってもらえるかも)分からないから、私は「委ねる」という行為をする。ならば、受け入れられているとき、私の行為は必要なくなるということだ。これは「信じる」の対としての事実の中にいるのと同じように、私が消失している状況であると考えられる。繰り返すが、受け入れられているということは、私はそこで行為をする必要がない。これは、限りなく完全な受動の状態にいることであろう。言い換えれば、受け入れられていることの満足な状態に、私を支配されているということでもある。
このことから、受け入れられてもらえている状態が常に続くということは、その状態に私を奪われていることになる。また、その状態に依存させられてしまっていることでもある。例え相手に悪気はないとしても、相手に支配されている状態であるとも考えられる。これは、愛で考えるのであれば、愛の奴隷である。
例えば誰かをケアするとき、なんでもかんでもケアしてしまえば、そのケアされた人は、ケアした人なしでは何もできなくなってしまう。それはケアをされた人から力、つまり私を奪うことになる。これは、悪意なき支配であろう。
しかし、その逆に受け取られないことが続くことも、支配されることに繋がる。「委ねる」とは不安が含まれる。その不安が大きくなったとき、その人は不安に支配される。そのときの人の行為は、私が行為しているのではなく、不安に行為させられているということになる。これも、愛で考えるのであれば、愛の奴隷だろう。また、これは既に確認したことだが、不安が大きくなれば、もはや「委ねる」という行為ではなくなる。それは、コントロール、または支配である。
では、結局はバランスが大切なのか?しかし、思うようにバランスを取るのは難しいだろう。また、常に中間地点にいること、フラットな状態であることには、感動があるのだろうか?それに「愛されている」という感覚は、我を失うような感覚とも考えられるのだった。
大切なのは、コントロールすることではないのだろう。コントロールというのは、常にいい状態を目指そうとする。それは、過剰なプラス、もしくは過剰なフラットが想定される。
そうではなく、大切なのは出来事や気持ちと向き合い、対応していくことだと思う。それは、プラスやマイナスの否定ではない。プラスやマイナスに振れることを避けることではない。揺らぎがあることを肯定することだ。特定の場所に留まるのではなく、行ったり来たりを繰り返すことを受け入れること。プラスやマイナスになったときに、そのことに向き合うということだ。それは私が私でありながら、「愛されている」と感じることや、「不安」を感じるということである。そこでは、私は消失していない。
15.何を委ねるのか?
いよいよ、このテクストの最後の問いとなる。
私は散々「委ねる」と言ってきたが、一体何を委ねるのだろうか?
真っ先に思い浮かぶのは、「愛されたい」という思いだろう。
「愛されたい」という思いを、相手に委ね、受け取ってもらい、受け入れられたとき、「愛されている」と感じるのかもしれない。
では、「愛されたい」という思い以外はどうだろうか?例えば、深い悲しみをもち、その悲しみを受け取ってもらいたい、つまり委ねたいと思ったとき、その悲しみを受け取ってもらえたならば、これも「愛されている」と感じることがあるのではないか?
「愛されたい」との逆で、「愛している」という気持ちはどうだろうか?
「愛している」という気持ちを、相手に委ね、受け取ってもらい、受け入れられたとき、「愛されている」と感じることがあるのではないだろうか?
もう一つ考えよう。委ねることは贈与か?
贈与とは与えるものだ。しかし、ここでは受け取る、受け入れることの方が贈与に思える。本当は受け取ることも贈与なのだろう。「愛する」というのは贈与だが、それを受け取ることもまた、贈与なのだろう。なるほど、それならば委ねることも贈与であり、それを受け取ることも贈与となるだろう。
愛されたい、悲しい、愛している。これらは全て私の思いや気持ち、つまり私だ。「愛されていると感じるにはどうすれいいのか?」ということの条件を長々と思弁してきたが、「私を委ね、受け取ってもらい、受け入れてもらうこと」、これが「愛されている」と感じるための条件なのかもしれない。例え愛されたいと思っていなかったとしても、私を委ね、受け取ってもらい、受け入れられたとき、「愛されている」と感じることがあるのかもしれない。
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