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微妙な動きー「知る」「愛する」は動作動詞か状態動詞か

はじめに愛についての問いがあった。「愛する」とはどういうことだろう。人を愛するという行為はどういうことかという問い。しかし、この問いについて考えているうちに、いつのまにか行為の世界から言葉の世界に迷い込んでいた。行為の世界に戻るために、ひとまずこのテクストを書くことにした。

迷い込んだきっかけは「I love you」という英語だ。ここでの「love」は状態動詞となる。つまり「私はあなたを愛している」という状態を表している。では、「私はあなたを愛する」は英語ではどう表現したらいいのだろうか。
日本語であれば「愛している」を状態動詞とし、「愛する」を動作動詞とすることができるだろう。僕の最初の問い、「愛するとはどういうことか」は、「愛する」ということを動作、正確に言えば行為としている。
しかし、英語で「愛する」をどのように表現したらいいか調べたところ、ハッキリとした答えに辿り着けなかった。そのうちに「愛する」ということが行為だということも、僕の中で揺らぎ始めてしまった。
そして日本語の「愛する」ということを動作動詞とすることにも、何か問題があるように思えてきた。「愛する」ということが動作だとして、その動作を想像したり、ジェスチャーにしたりできるだろうか?
※「愛する」の英語での表現の仕方については、英語に詳しい友達が知識をくれた。その友達によると、「愛している」も「愛する」も「love」を使用するが、コンテクストで意味を使い分けるとのことだ。

ここで愛から一旦離れて、「知る」という言葉について考えてみる。
みなさんは「知る」は動作動詞だと思うだろうか、それとも状態動詞だと思うだろうか?ちなみに僕は「知っている」は状態動詞で、「知る」は動作動詞だと考える。しかし何かスッキリしないものがある。
また、「知っている」と「知る」は英語だと、「知っている」が「know」という状態動詞で「知る」を「learn」という動作動詞とすることができる。しかし「learn」を動作動詞とすることも何か釈然としないものがある「learn」を「学ぶ」とするなら動作動詞として納得できる。しかし、「知る」は動作動詞なのだろうか。

他の言葉も考えてみよう。「感じる」についてはどうだろうか。「感じている」と表現すれば、私がそれを感じているという状態を表しているだろう。「感じる」はどうか。「感じる」はどこか動作のように思える。だが、動作を想像することはできない。
これを能動と受動という視点で考えてみる。「感じている」も「感じる」もどちらも文法は能動態だろう。しかし、「感じている」は能動というよりも、ただ状態を表していようように思える。能動態ではなく、ただ状態とした方が腑に落ちる。では「感じる」はどうだろうか。「感じる」はどこか能動的な要素が強くはないか。私の心が主体的に動いているニュアンスを強く表したいように思える。「感じている」よりも「感じる」の方が積極的だろう。
能動受動というのもはっきり分けられるものではない。「感じている」はどちらかといえば受動の要素が多く、「感じる」は能動の要素が多い。しかし、私が「感じている」状態になるにせよ「感じる」にせよ、それは外から何かしらの刺激が与えられなければならない。そういった意味では常に「感じさせられている」とも表現できる。しかし、「感じている」状態になるにせよ、「感じる」にせよ、外からの刺激だけではなく、その刺激に対して私が感じないといけない。私の感覚が作動しなければ、「感じている」も「感じる」も成り立たない。外からの刺激に対して感じるというのは、私の力であり、いわば無意識的ではるが(例えば意識して、または自分の意志で悲しむというのは出来ないだろう)動作でもあるだろう。私は何かに感じさせられているが、感じることができるということでもある。
また、「怒る」を考えてみると分かりやすい。英語でも「怒っている」と「怒る」は区別に容易い。「怒っている」は「be angry」で「怒る」は「get angry」だ。「怒る」は確かに、心の動きの中でも特に積極性を感じる。
※能動受動の考え方は中動態の考え方、主に國分功一郎 著『中動態の世界 意志と責任の考古学』を参考にしている。

ここまでの思索を経て、やはり動作動詞か状態動詞かという二分法に無理があるのかもしれないと思った(能動/受動に無理があるように)。そこで、状態動詞にできない動詞が強引に動作動詞にされていると考え、動作動詞を5つに分けてみた。

・動作動詞
例:歩く(walk)、食べる(eat)
動作が明確に想像できる。
人それぞれのジェスチャーの共通点が明確(「食べる」だったら口が関わる)。
直接の動作を示す。

・行為動詞
例:掃除をする(clean)、料理をする(cook)、作る(make)、learn(学ぶ)
動作が想像できる。
動作のジェスチャーの共通点が説明しにくい。
直接の動作を示すわけではない(「掃除をする」であれば、直接の動作は「掃除機をかける」、「拭く」など)。
動作というよりも行為と言った方がスッキリする。
日本語だと動詞と名詞に分けられる場合もある。
換喩的と言えるかもしれない。

・抽象行為動詞
例:愛する(love)
動作が想像できない。
動作をジェスチャーで表現できない。
直接の動作を示すわけではない。
動作ではないが行為ではある。
実際の動作が明確ではない。

・心的動作動詞
例:感じる(feel)、怒る(get angry)
動作が想像できない。
動作をジェスチャーで表現できない(怒るはできそうですが)。
能動的に感じるような、積極的な心の動きを表す。

・結果動詞
例:知る(learn)
動作が想像できない。
動作をジェスチャーで表現できない。
動作を示すわけではない。
行為でもない。
動作の結果を表す。例えば「ニュースを見てそのことを知る」というのは、実際の動作はニュースを見ることで、「知る」は動作の結果。
能動性が強いコンテクストの場合は「心的動作動詞」とすることもできる。
例えば「その本を読んで人は多様だと知る」の、「知る」には主体的な心の動き、能動性が感じられる(多くの人がその本を読んだとして、誰もが人は多様だと知ることができるわけではない)。先の例えの「ニュースを見てそのことを知る」は、私の主体性とは関係なく、受動的にそのことを知るというニュアンスだろう。また、「知る」の対象にもよるだろう。「そのこと(ただ情報としてのこと。例えば今日の天気など)」と「人は多様」を知ることには大きな差があるだろう。


以上で動作動詞の仕分けを終える。いかがだっただろうか。もちろんこの分け方にも限界があり、そしてツッコミどころもあるだろう。
言い訳がましくなるが、言葉はやはり言葉。表現できることに限界があるし、明確な分けはできない。

今僕が考えられることとしては、出来る限り考えたと思う。またいずれこちらの世界に戻ってくる必要があるかもしれないが、再び行為の世界に戻り、元の問いを考えたい。「愛する」とは一体どういうことなのか。どういう行為なのかを。

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