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現代社会における人類の堕落


学生の堕落

中学校に入る頃から、同級生がおかしくなりだした。例えば、学ぶことに無気力になり、本当は意味のある何もかもが気に食わないような態度を取り出す。敬意の欠如、といえばいいのだろうか。誰も彼も意味のないことに時間を費やしだす。言葉と行動が乱れる。

日本の教育で新しいことを知る喜びを奪われたから生きる力を失い、このような結果を導いたというふうに以前は思っていたが、原因はそれだけではないのかもしれない。インターネットを見ていると、状況はインドでもアメリカでも同じなのだとわかった。

では何が原因なのか。原因を一つに絞ることは不可能だろう。複数の原因が絡み合っている現象が世界の大半を占めている。だから、私がこれから書くことをただ一つの答えと捉えるのではなく、多くの原因要素の中のほんの一部として考えてお読みいただきたい。

大衆文化の腐敗

「言葉の乱れ」から入っていけばわかりやすいかもしれないと考えた。人権感覚を失っているのは、人権意識の薄い世界に生きているからだろう。ゲーム、アニメ、ライトノベル、この類のもののすべてを否定するつもりはないが、流行のコンテンツは血腥いものが多くないだろうか。平気で人を殺すシーンがエンターテインメントとして定着していること、それが趨勢となっているのが口惜しくてならない。

小学生頃からテレビをあまり見ないようになったのだが、久し振りに点けてみると、自他を卑下する言葉、暴力と無知とが溢れていて、そのおぞましさに吐き気がした。誰も彼もこの板を空っぽな目で見つめているうち、このような世界に対して何も感じなくなるのだろうか。

私の母は私に「ドラマを観ないからあなたは人の感情がわからない」と言うのだが、どうしても面白いと思えずに、観ないで生きてきた。少し前ふと母の点けているドラマが目に入ると、何事もないように流れるヒステリーと暴力に精神的ショックを受けずにはいられなかった。母の言うことを聞かずにおいて本当によかったと思った。

言葉がインスタントなものになっている

言葉の重みが失われているのも問題だ。少し前、某アプリにおいて句読点を使わないのが若者の主流というニュースがあった。書き言葉は正しくあるべきと思っていた私はにわかに信じられなかった。私は同級生とそのアプリでやり取りをすることはないのだが、彼らが句読点すら使えないとは驚いた。
テクノロジーの発達により情報の伝達が一瞬で行われるようになり、言葉はインスタントなものに変えられてしまった。これは言葉の乱れに大きく影響しているかもしれない。またそれだけでなく、言葉によって行われる人間の思考や営みにも影響があるに違いない。

(数年前大流行した某楽曲を父が「これは音楽ではなくコミックだ」と言っていたのを思い出した。私もその音楽は好きではなかったが、同級生が言うには「誰も歌詞など見ていない」らしかった。こういう時代になってしまったのだ。私は音楽も含めどうしてもキャッチーなものが好きになれない。)

大衆文学の衰え

「文学の衰え」ではない。良い文学は依然として存在する。ただ、大衆の好むものは大抵つまらない。前述したデジタルカルチャーのトレンドがそれをよく物語っている。文学においてもそうだ。ちゃちい恋愛小説がそこら中に出回っている。本当に良い文学を読む者は少ない。少なくとも、そういった中学生は。

私の中学校の図書館。切ない恋愛小説や有り触れたつまらないホラー小説ばかり本棚に並んでいるところや、そういったものが「図書委員のおすすめ」として掲示されているところを見ると毎回眩暈がする。

彼らは読書をエンターテインメントとして見ている。まさにアニメやゲームやドラマのように。

私はそうは思わない。「人」ではなく「人々」に私は興味がある。人間を人間たらしめるものは何なのかを知りたい。人生の真実に近づきたい。そういった知への欲望が私の本を読む原動力になっている。

人間性を高めるような、齋藤孝の言葉を借りれば「精神の緊張を伴う読書」を推進すべきだ。

最も人間らしい者が最も生きづらい

大衆の文化から離れ、他の中学生はあまり読まないような本ばかり読んで生きてきた私だが、このような人間が、真の意味で人間らしいのではなかろうか(自分の人間性が優れている、豊かだという意味ではない)。私が"The Catcher in the Rye"や『人間失格』に心打たれたのは、私が自己欺瞞をせず、社交辞令のような上辺だけのものや生き抜くための嘘をついてそれでも平気で笑っているようなことを心から嫌っていたからだろうと思う。繊細すぎるのかもしれない。彼等とは全く違う生き方をし、全く違う見方を持っているから、摩擦はよく起きる。そのたびに傷つき、それでも自他を騙して生きることは決してなかったのが私だ。幾度もこの世の無知と無理解を嘆いた。人々の神経の太さを憎んだ。幾度もこの世から消えたいと思った。だが私は生き延びなければならない。人類に目を覚まさせ、彼らをこの零落から救うために。そして私と同類の心やさしい者たちを救うために。

私のすべきこと

ではどうすればいいのか。やはり教育だ。文学だ。

子どもたちが目の輝きと知への情熱を失わないでいられるような教育。

具体的には、「自分の時間割を自分で作る」こと。

私の創立する学校の図書館には多くのよい本を厳選して置く。読書教育も重要。

創作を人生の何処かで行いたいとも思う。人間の豊かな言葉を、豊かな心を、取り戻すために。

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