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病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈42〉

 タルーは結局、コタールを保健隊へ勧誘することは諦め、「病菌をわざわざばら撒いたりしないようにだけはしてくださいよ」と、笑いながら相手に「不要不急な行動の自粛」を促すのだった。それに対してコタールは「自分はペストを望んだわけではなく、ペストは来たのだから来たまでで、おかげで今のところ自分の事件が具合よくなっているからといって、それはなにも自分の罪ではない」と反論した。(※1)
 いささか身勝手な側面のあることは否めないとしても、コタールの言い分は尤もなことだと言わざるをえない。見方によれば、実際ここで「罪を犯している」のはむしろ、無実の人間をあたかも大罪を犯しかねない予備軍であるかのように、しかも笑いながらそうと決めつけているタルーの方なのではないかとさえ思えてくる。
 しかし、タルー自身はあくまでそれを「正義の心」から言っているつもりなのであり、そういう視点から「孤独な罪人」コタールのことを見続けるのを別に止めようともしないのであった。もちろん、こういったことから逆にタルーのことを「悪」だと決めつけるというのも、それはそれでやはり道理に反することのようだが、しかし「一般論」として悪とはたいがい、それを為す者は自分自身では「良かれと思って」いるものなのである。
 また、タルーによるコタールへのこういった何気ない言葉というものは、あるいは「いじめの現場」などでよく見受けられる言動と、実に似通った構造があるというように考えることもできるだろう。言った方に悪気はない、しかし言われた方としてはその言葉に、確実に心を抉られているのである。
 人による罪というのはある意味で、他人のことを「断定する」ものでもあると言えよう。相手の「可能性」を切り捨て、「その全て、あるいはその全体」を、当人の意思とは無関係に決めつけてしまうことになるのだから。一度決めつけられてしまえば、彼にはもう「それ以外」のものにはなりえない。少なくともそれを決めつけた当の相手にとっては。
 それにしてもコタールは、これまでもこういう濡れ衣をどれだけ着せられた人生を送ってきたのかと、そんな暗い想像も容易に可能である。まさしくそういった「断定」の積み重ねが、むしろ彼の「疚しさ」への道を、図らずも開いてしまったのではないだろうか。筋違いの濡れ衣を着せられ続けると、いつしかその者は自分自身でも見当違いな罪の影に怯え、その実体のない重みに、圧し潰されそうになっていくものなのではないのだろうか。

 やがてペスト収束の様相が見えはじめ、人々がようやくの解放の兆しに期待をあらわにするようになった頃、反対にコタールは、自らの拘束が現実のものとして迫ってくる恐怖におののくようになっていった。
 彼はしきりにリウーの元を訪ね、このペスト衰退は本当のものになりそうなのかと詰め寄ったかと思えば、一方でタルーには、当局の組織形態が(もちろん彼の言わんとする「当局」とは警察のことである)元のようなものに戻りそうなのかなどと聞いてきたりしていた。これまでの社交的な振る舞いはすっかり消え失せ、以前にも増して自分の殻に閉じこもるようになったばかりか、数日にわたって行方をくらませることさえあった。
 そんなある日、街に出ていたタルーと偶然遭遇したコタールは、自分の部屋まで同道するよう強く相手にせがんだ。そのとき異様な疲労感を覚えていたタルーは(後にこれはペスト罹患の予兆であったことが知れることとなる)、いっそ断ろうとも考えたのだが、あまりに執拗な誘いに折れて、渋々それに応じることにしたのだった。
 コタールの自宅前まで来ると、そこであたかも待ち伏せをしていたかのように、二人の男が突然彼らの目の前に現われた。それを見たコタールは慌てて踵を返すと、奇妙な叫び声を上げながら一目散にその場から逃げ出していった。不意に取り残されてしまったタルーは、男たちに来訪の用件を尋ねたのだったが、その怪しげな割に身なりのよい、小役人風情の二人組は、「単なる調査だ」とだけタルーに答えて、落ち着き払った様子で逃げたコタールの後を追っていった。
 そしてそれ以来、コタールは全くの消息不明となった。

 その後、リウーが最後にコタールの姿を見たのは、オランの町が開放されて、かつての生活が取り戻されつつあるようになった頃、彼の暮らしていたアパートの前においてだった。
 リウーは往診の途上、コタールやグランの住むアパートがある通りの方へと入っていった。すると彼は警察の通行規制に、その行く手を阻まれてしまう。事情を聞くと、まさにリウーの行き先である当の建物で発砲事件があったのだと尋ねられた警官は彼に向かって答える。
 そこにちょうどグランがやって来た。二人は肩を並べて、固唾を飲むように事の成り行きを見守ることとなった。
 アパートの窓からはまだ銃撃が続いていた。グランは、「コタールの部屋だ」と傍らのリウーに告げる。
 警官隊の機関銃がその窓に銃弾の雨を浴びせ、それを機に数人の警官が突入して、やがて半狂乱の男が外に引きずり出されてきた。それはまさにコタールだった。その姿を見て「気が違ってしまったんですね」とグランはつぶやいた。
 たしかにコタールは錯乱した挙げ句、本当の精神病となってしまっていた。そして警官を撃ってしまった彼は、これで元々の罪よりも、さらに重い罪を自ら背負うことにまでなってしまったのである。
 リウーとグランが見守る目前をコタールは、仲間を撃たれた腹いせに警官たちから殴られ蹴られしながら、もはや力なく無抵抗のまま引きずられるように連行されていった。
 この、英雄として語り継がれることなどもちろんありえず、かといって犯罪史に名を残すこともけっしてないであろう、一人の哀れな小悪党の「転落」をもって、オランの町を襲ったペストの物語は、その幕を閉じることになるわけである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

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