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やめる勇気で手にした、たったひとつの宝物~睡眠と仕事と病気編~

分かってはいるけど、やめられない。

やめたらいいことも、分かってる。

やめれることなら、もうやめている。

本当は、本気で手放したいなんて

思っていないのかもしれない。

きっとみんな、

そんな何かを抱えてる。

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………


はじめまして。
こんにちは、泣き虫パン子と申します。

旦那さんである、パンの耳男くんと
夫婦でたまに漫画を描いています。

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もぐもぐ。

これは漫画の私たちを
クッキーにした時の写真です。

無心にオレオを食べている耳男くん。
その頭は
ほんわか笑顔のパン子に食べられました。

(どんな漫画か気になってしまった方は
最後にURLを載せてますので
覗いてみてくださいね。)

そして
いつも漫画をみてくださっている皆さん、
ありがとうございます。

今回、心を込めて
エッセイのような実話を書きました。

今、私が伝えたいことを
心のまま言葉にしています。

最初は、漫画で描いていた
「睡眠との闘い」の話を文章で
まとめようと書き始めたんです。

だけど。
今、頑張っている「あなた」に
ぜひ読んで欲しい。

書き終わったら、
そんなストーリーになっていました。

睡眠の話に留まらない、
悩みを抱えている誰かの
生きるヒントになる気がしました。

やめる勇気で手にした、
たったひとつの宝物

とは。

私の経験が
体や心の不調を抱えている
あなたの力になれたら幸いです。

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(今の想いを花束みたいに
ギュッと束ねたら
想像以上に長くなりました。
読みやすいよう写真多めにしてみましたが
数日に分けて、ゆっくりと。
写真の意味も考えながら、のんびりと。
最後まで読んでいただけたら嬉しいです。)


やめる勇気、ありますか?

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………


では、12年前の
22歳の春まで、時を戻そう。

むしゃり。

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泣き虫パン子、
ピッカピカの新入生まで戻る。


社会人一年目。400倍の倍率。
その難関をくぐり抜け、私は
就活生が選ぶ「働きたい企業ランキング」
上位にもランクインした
ある企業に入社した。

スパルタな先輩に鍛えられ、
朝は吐き気と腹痛に襲われながらも
念願だった
制作部に配属された。

「文章を書く人になりたい」
小さな頃からの夢が叶ったと、
キラキラ瞳を輝かせ働いた。
コピーライター。
その響きがかっこよくて好きだった。

主な仕事はざっくり、
商品を売るための
広告や冊子の制作。

もちろん、やること全てがはじめて。
仕事量は
想像以上にファンキーだった。
でもそれ以上に
「文章」に関する仕事を任された時、
自分の言葉が誌面に載った時、
誰かに自分の想いが届いた時の喜びに
やりがいを感じていた。
何でも頑張ろうと思った。

幸か不幸か、
会社の急成長に対して
スタッフの人数も育成も
追いついていなかったおかげで、
いろんなことを
ぶっつけ本番でさせてもらった。

広告制作はもちろん、  
普通の新入社員なら体験できないような
企画やキャンペーンの立案、著名人の取材、
広告に使う素材の撮影やインタビュー、
モデルのオーディションや撮影など
任せてもらえた。

当時、会社の経営はうなぎ上りで
商品のCMが流れれば
朝刊に広告が掲載されれば
受注の電話が鳴りやまず、
電話対応や
発送業務の仕事もしていた。
あれをしたりこれをしたり。
一点集中じゃなかったから
作業効率は悪かったと思う。

もちろん、残業がデフォルトだった。
むしろ本業をできるのが
残業タイムからだった。
当時はそれほど、
コールセンターも対応できない位に
注文の電話が殺到していた。

そんな中。
月2回発行される冊子に
「芸能人を3人載せよう!
もちろん無料で。」
という社長の気まぐれ企画が始まった。
表紙のオープナーにするためだという。

どんな贅沢使いだろうか。
でもNOなど、
口裂け女になっても言えない。

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知名度のない会社からの
突然の無料掲載オファー。
武器は発行部数のみ。
「今をときめく方に
生き方のヒントや美の秘訣を
お伺いしたい。そのかわり
誌面の一部を宣伝として
使っていただけます。
発行部数はこのくらいです。」

もちろん、
大手の芸能事務所が相手をするわけない。
逆の立場になれば当然だ。
100人当たって1人、
奇跡が起きるか起きないか。
緊張して電話をかけては
門前払いか、
企画書を送って返事がないか、
何度アタックしてもかわされるか、
とんでもない金額を提示されるか、
そんな世界で
毎日、奮闘していた。

本命の芸能人はほぼNGだ。
たまに「いや、それだれだよ」と
突っ込みたくなる無名な人や、
潮時のきた”あの人は今”みたいな人を
紹介されることもあった。
申し訳ないが、それじゃ
オープナーにならない。
そんな中でも、
商品のことを知ってる
マネージャーさんに当たると、
大物歌手や女優さんに
奇跡的にOKをもらえることがあった。

「もう無理だろ…」と思うことも、
どうすればできるか考えて
「できるまでやる」のが仕事だと
頭に叩き込まれた。

しかし。
さすがにストレスが溜まっていたのか、
その頃から
極度の睡眠不足に悩まされ始めた。

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無理もない。
日々、迫りくる締め切り。  
冊子の制作が
ひと段落したかと思えば
また次の号に向けて
芸能人探し。
オファーから価格交渉、取材、ライティング、
発行後の諸手配まで全て自分。
もちろん、ヘアメイクやカメラマン、
衣装さん、場所の手配も。
芸能人の方を軸に
全員のスケジュールを調整するのも
地味に頭が痛かった。

社会人一年目、
業界の常識など持ち合わせてないし、
教えてくれる人もいなかった。
分からないことがあっても
頼る人がいなかった。
でもどんなことも
「やる」しか、選択肢はなかった。

きっと、ずっと緊張状態だったと思う。

事務所のマネージャーさんに
常識のなさを怒られながら
撮影は冷や汗をかきながら
段取りの悪さに呆れられながら、
たまに褒められて、
情熱だけで
コミュニケーションをとっていた。
むしろマネージャーさんや
現場に関わる人たちに
育ててもらったかもしれない。
突拍子もない質問を
たくさんしたと思う。

いろいろ大変ではあったけど
インタビューのライティングは
好きだったし、
芸能人ご本人から直接電話で
原稿を褒めてもらえた時や
担当した誌面が出来上がった時、
読者からよかったと感想をもらえた時は
嬉しかった。

何より波瀾万丈な人生を歩んできた
芸能人の話は自分の身になった。
芸能人以外にもいろんな年代の
モデルさんと仕事をする中で、
何歳になっても「美しい人」の
共通点を知ることができた。
それは今でも役立っている。
ご縁があった方の魅力を
最大限引き出せるように、
感謝を込めて一生懸命言葉にした。
今でも人のバックグラウンドを
聞くのは好きだ。

もちろん、仕事はそれだけじゃない。  
担当企画の1つにしか過ぎない。
他にも常に10個以上の原稿は持っていた。
ゆっくりする時間は1分もなかった。
原稿を両手に抱えては走り、
文章を添削しながら
お客様からの受注電話を受けた。
今思うと
お客様には失礼過ぎることをしていた。
でもその位、
ちょっとの時間も惜しかった。
同じ脳みそで
口は受注の電話にこたえ、
手は原稿の修正を進め、
頭の中では芸能人や
他の企画の構成を考えていた。

思い返すと、入稿日2日前なのに
掲載する芸能人すら
決まってない時もあった。
ストレスで全身が痛かった。

秘書のミスで
行き先の違った飛行機のチケットを
手に握っていたことに、
搭乗前に気づいた時もある。
そんな日に限って
他の便の予約が埋まっていて
心臓が爆発するかと思った。
全員のスケジュールをひっくり返し、
めちゃくちゃ怒られた。

極めつけは、入稿日前日。
社長の気分で制作中の冊子が
一からやり直しになることが
よくあった。
よく、ってなんでだ。

気分って、怖い。
深夜まで残業して、
夜12時の休憩でもらったおにぎりで
お腹を壊した。
もちろん、終わる訳がなくて
原稿を持って帰って
家で続きをした。
社外秘だとは分かっていたけど、
みんなこそっと印刷して
持って帰ってた(と思う)。
「どうすればできるか」を
考え抜いた結果が
家で徹夜する、
もうこれしかなかった。
毎日、胃が痛かった。

だけど、
どんなに「もうダメだ」と思う仕事も
なぜかギリギリどうにかなる。
不思議なことに
上手くおさまってしまう。

これが厄介で、
「ギリギリどうにかなってしまう」
根性スパイラルは
社長の要求度を高め、
スタッフをさらに苦しめた。

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最初に異変が起きたのは
一番サバサバしていた明るい同期。
家に引きこもって、
連絡がつかなくなった。
玄関前まで行ったこともある。
でも、開けてはもらえなかった。
隣の席の子は目の下が
青を通り越して緑色になっていた。

昼休みをとらず、
自分の体より仕事を優先して
やせ細っていく同期、
いきなり泣き出す同期、
突然倒れる同期もいた。
しかし、
次第にその光景にも慣れて
「死にそうな顔をしている制作部」が
デフォルトになった。
絶対異動したくない部署、
と言われていた。

頭が良く情が薄いタイプの同期は
早々に「この会社ヤバイから」と
見切りをつけ、あっけらかんと辞めた。

当時の私はそんな同期を
「なぜ自分で選んで入社した会社を
こんなに早く
簡単に辞めてしまうんだろう?
三年頑張りなさい、と
松下幸之助が言ってたじゃないか。
忍耐力がないなぁ」
と本気で思っていた。
(今じゃ全く思わない)
くそ真面目だった。

しかし。
会社や社長に従順な私も、
睡眠不足を筆頭に
慢性疲労&ひどい怠慢感&体の痛み
腹痛頭痛&耳鳴り&吐き気&喉の渇き…、
何か月も続く体の不調に
ピークを感じはじめた。

とにかく寝たかった。

そんな私を母のほうが心配し、
ある日地元の
山奥にあるメンタルクリニックに
連れて行かれた。

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長いカウンセリングを終えると
お医者さんから、
「君ハ今メチャクチャヤバイ状態ダ」
ひと言で要約すると
そんな感じのことを言われた。 

なぜか結構怒り気味で
「診断書を出すから、
明日から会社を休みなさい。
いいね?
これは君を守るためです。
君はガソリンがない体で
アクセル全開で走っている、
このままじゃ危険だ。」
と言われた。

何を言う。
私は機械じゃない。
車扱いしないでくれ。
明日も会社に行きたいから
寝れるようになりたくて、
ここに来たのだ。

私も怒り気味で
「私は車ではありません。
大丈夫です。
会社はいけます。
寝れる薬をください。」

「いいかい?
薬は出せる。
だけど、薬では根本は治らない。
会社は行っちゃだめだ。」

話が違う。
それに同期だって同じ環境で働いてる。
くそっ。
みんなに置いてかれるじゃないか。
病院に来たのが間違いだった。

当時の私は、
みんな同じ場所で
同じように働いているのに
「自分はなんて弱い人間なんだろう」と
傷心していた。
のちに「頑張れる度合い」は
いろんなことが折り重なって、
みんな同じではないことを知った。

診断書ひとつで休職できる
絶好のチャンスなのに、
どうしても仕事に行こうとする私に
お医者さんはこう言った。

「私はね、
君の会社なんかより
君の命のほうが大事なんだ。
君は1人しかいない。
君の命が大事だ。
命が何より大事だ。」

≪君の命が大事だ≫
その言葉は偽物じゃなかった。

この人は医者ではなく、
味方だと思った。

そして。その7年後、
私は本当に死にかけたから
すごい。
(話すと漫画のワンピースみたいに
すんごく長くなるから
いつかまたここら辺の話も書こうと思う)

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≪君の命が大事だ≫

その言葉は
私の胸の奥をギュッとさせた。
すると、
泣きたい訳でもないのに
ポロポロと涙が零れ落ちてきた。
今までの我慢が涙になって
溢れ出てきたのかもしれない。
ケースが空になるくらい
大量のティッシュを消費した。

気づけば診察から1時間。
診察室を出ると
患者さんたちが溢れていた。
す、すまない!
みんな如何にも「患者さん」という
悲壮な顔をしていた。
大人も子供も年配の人も、
何があったんだろう…。

私は
「魔法のお休みチケット」ともいえる
診断書を手にして病院を出た。

空を見上げた瞬間、
ホッとしたのを覚えている。

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診断書には難しい漢字の病名が
何個か書かれていた。

どんな合併症だよ、
と自分に突っ込んだ。

あの先生のことだから
大袈裟に書いた病名もあったと思う。
分かりやすく言えば、
「過労による重度の鬱病」みたいな感じだ。

先生とはとても親しくなった。
癌で亡くなる直前まで
ずっと心配してくれていた。
(亡くなるまで病名は伏せられていた)
管でつながれながらも、入院中は
電話越しでも診察してくれた。
先生は「命」を大切にする人だった。
きっとどうしても救えなかった命が
あったのだろう。いくつも。
もらった遺書は今でも大切にしている。

それにしてもどうしたもんか。

ただ頑張って働いてただけなんだけどなぁ。

はぁ。
こんな紙切れ、
社長に響くわけねぇ。
弱い者扱いされるんだろうな。

会社に事情を話し、
私は3カ月休職することになった。

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最初の1カ月は「人生の夏休みだ」と
自由な時間を楽しんだ。
寝れるだけ寝た。
この休みを利用して転職でもしてやるか!
という意気込みだった。
しかし結局は
会社を辞める選択をすることはなかった。
なにか楽しんでいても
頭の片隅に
会社のことがチラチラしていた。

2カ月目に入ると
復帰が視野に入ってきて
会社のことを考える度、
胸がドキドキした。
職場にいる自分を想像すると
拒否反応のように具合が悪くなった。
冷や汗がでた。
「また頑張ろう!」と思うほど、
体がずっしり重くなって寝込んだ。

今考えると休職中、
心や体が芯から休まった時はなかった。
会社に所属している以上、
私にとってどんな長期休暇も
休養にはならなかった。

そして、
体から出てくるあらゆる諸症状は
心からの切実な
「た・す・け・て」のサインだった。

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あの時
もっと自分の心と向き合い、
会社を辞める選択をしていたら
私の人生はどうなっていただろうか。

長い目で見て何が大切か。
それを考えることができていたら、
私は今どこにいただろうか。 

立派でありたいとか良く思われたいとか、
勝ちたいとか成功したいとか、
そんな見栄を捨てることができていたら
どんな選択をしていただろうか。

その答えが出ることはないけど、
一生付き合うことになる
「あれ」を背負うことは
もしかしたらなかったのかもしれない。

ふと、そんなことを思う。

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間違いなんてきっとない。
頑張ることは悪いことではない。
体と心のバランスとは難しいものだ。
ただ、どんな選択をしても
過去に戻ることはできない。

三か月の休職期間を経て、
私は軽やかなフリをして
仕事復帰した。

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睡眠薬とは友達になった。

睡眠薬があれば、寝れる。
その安心感が仕事をする上で
一つの支えだった。
当時は
精神薬もいくつか服用していた。

ドキドキして会社に行くと、
同期が休職していたり
辞めていたり。
なんだかデスクが寂しく見えた。
それからも
次々に人が辞めていくから
はじめは誰かが辞めると悲しかったけど、
別れにも慣れてしまった。

それから月日が経ち、
セーブされていた仕事量も
元に戻った。
責任のある仕事を任されるようになった。
斬新な企画で成果も出した。
働く楽しさを感じた。

しかし、お昼頃になると
謎の発熱や頭痛に悩まされ、
毎日のように頭痛薬を飲んだ。
「お昼になると頭が痛くなる私」
がデフォルトになっていった。

そして。
会社のある事件をきっかけに、
大量に人が辞めた。
40人いた同期は10人になっていた。

仲良しだった同期も、
心を無くして去っていった。
入社当時はみんな輝いていたのに。

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それでもなぜか、
私は頑なに辞めなかった。
毎週一回は本気で
この会社辞めてやる!と思うのに
「あと少し頑張れば楽になるかもしれない」
「もう少し我慢したら体調が良くなるかも」
そんな希望を抱き、
働いた。

だけどその希望だけは
やってくることはなかった。

会社は次々バッシングに遭い、
トラブルが絶えなかった。
テレビのニュースを見るのが怖くて、
大袈裟に演じられる報道に嫌気がさして、
数年くらいテレビ離れした。

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それでも、
真面目に誠実に。
会社のためにお客様のために。
(本当に、真面目だった。)
愚直に頑張って働いていたおかげか、
私は能力以上にトントンと昇進した。
気づけば等級は、最上級にいた。 

社長のお気に入りだった(と思う)。
だって、何か試練を与えたら
期待以上に応えてくれるんだから。

そして、会社が期待をかける
新商品開発チームに
広告担当として配属された。
上司はなんと社長。
朝と夕方2回、毎日社長に
広告のプレゼンをすることになった。
これがキツかった。

そんな簡単に新しいクリエイティブは
生まれない。
だけど生まなければならなかった。
常に追い詰められる
ストレスフルな環境の中、
チームの女子3人とも
同じタイミングで生理がとまった。

とっても心やさしかった後輩は
頭がいかれたのか、いきなり
怒ったり泣いたり冷めたり…感情が
火山のよう噴火して、別人になった。
(今は転職をして元のやさしい彼女に
戻っている。「あの頃は面白いほど
頭がおかしかった」と笑っていた。
そして今、結婚してハッピー妊娠中だ。)

私もどうしたら
社長の壁を超えれるのか
分からなくなり、
夜キャッチコピーを200個くらい
考えてる最中、デスクで大号泣。
しかし、苦肉にもそこで生み出した
キャッチコピーが化け物になった。

ある新商品を大ヒットに導いたのだ。

広告1つでモノがどんどん売れた。
「会社の救世主」と言われた。

テスト商品はすぐにブランドとなり、
会社の主力商品となった。
ブランドからは
次々と新しい商品が発売された。
素直に嬉しかった。

期待されるほど期待に応えたい、
期待以上のものを生み出したい、
と自分のキャパ以上に働いた。

今思うとバカだなと思うけど、
自分がつくった子供のような広告を
他の人が手を加えるのが嫌だった。
正直言えば、任せられるほど
信頼できるスタッフがいなかった。

新聞やタブロイド誌、雑誌など
何十種類もある広告のリサイズを
ひとりでこなした。
(のちに物理的限界がきて、
ちゃんとメンバーにお願いしました)

時間単位で何本も迫ってくる締め切り。
新聞社出版社ごとに違う、
薬事法やコンプライアンスのチェック。
添削、修正、入稿。
他にも、折込広告の制作。
リピーター様に向けた同梱物や
月発行の冊子の企画・制作。

人にやさしくする余裕など一切なかった。
私にしゃべりかける時間も制限した。
別室まで用意してもらった。
次第に感情のコントロールが
上手くできなくなって
常にイライラするようになった。
常にピリピリした顔で
眉間にシワを寄せて、原稿を乱雑に
置いたり、キーボードを強く叩いたり…。
デザイナーに対して
思ってもいないひどい言葉や嫌味が
つい口から出てしまうようになった。
そんな自分が
どんどん嫌いになっていった。

帰り道は歩くことさえツラく、
腰に手をあてながら
ゆっくりゆっくり足を進めた。
1日を振り返り、
自分の性格の悪さに落胆した。

会社が黒字になるほど、
自分の心が赤字になっていることに
まったく気づいていなかった。

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商品はあっという間に
100万個売れた。

でも、紙広告で
モノを売り続けるというのは
簡単なことではなかった。
薬事法の規制も厳しく、
アンチやライバル会社からの
やっかみも受けた。

売れるということは、
壁が厚くなるということであった。
数字を出し続けなければ
いけないということであった。


だけど、やっぱり
「もうダメだ」という最後の最後で、
いつもギリギリのギリギリで、
ボンッと成果が出た。

睡眠薬と同じように
いつも手元に原稿がないと
落ち着かなくなった。

仕事が終わっても
帰りの電車の中でも
家の中でもお風呂の中でも
広告のことが気になって、
もっと良くするには…と考えていた。
原稿が手放せなかった。

常に頭は仕事モード。
心は緊張感でいっぱい。
睡眠薬を飲んでもなかなか眠れなかった。

そして売れ過ぎたが故に
皮肉にも私の広告は
ターゲットになってしまった。
どんな事態があったかは
どうしても言えないが、
出る釘は打たれてしまった。

全く食事がとれない日があったり
逆に暴飲暴食をする日があったり、
記憶にないことをしていたり、
毎日使っていたパスワードを忘れたり。
身体には様々な異変があらわれていた。

「満身創痍」がデフォルトだった。

会社に貢献するほど
私の身体は蝕まわれていった。

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思えば
一年のうち8割くらいは具合が悪かった。

「体調が悪い私」がデフォルトだった。
休みの日は友人が談笑する横で寝ていた。
「気づけば寝ている私」もデフォルトだった。
冬は人一倍寒くて、
会社では毛布を身体に巻いていた。
「雪ん子姿の私」もデフォルトだった。 


睡眠薬の量は増えていった。


そして、30歳のある日。
私の体に
最後のサインが発せられた。

ギリギリの淵にいた私の心身は
ガラガラと
崖から崩れ落ちていった。

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緊急入院。

何があったかは割愛するが、
2度、入院した。
合わせて約半年、
病室での生活を送った。

退院後の体重は33キロくらいだった。

想像すらしていなかった。

約10年身を焦がして
一生懸命働いた日々と引き換えに、
私は「ある厄介な病気」に
なってしまったのだ。

病気の原因って
ウィルスだったり、遺伝だったり
環境のせいだったり、原因不明だったり。
いろいろある。
人のせいや何かのせいにする人もいる。
中には自分じゃ防ぎようのない、
運命のような病もあるのかもしれない。

だけど私は、癌でも風邪でも
どんな病気も根本は
「私の生き方全てがつながって
引き起こされたもの」
だと捉えている。
単純に言えば、
日々の生活習慣が原因だと思う。

私は自分で自分自身を
病気にしてしまったのだ。


そして、「ある厄介な病気」は
私の人生に当たり前にあった幸せを、
毎日の楽しみを奪った。

毎日その症状に苦しめられた。
死ぬまで一生、
こんなに辛い想いをするのか。
そう思ったら
生きるのが嫌になった。
症状から逃げるように生きた。
何のために生きてるんだろう、
そう思った。

ちなみに、今日も小さく戦っている。


あれ?

睡眠の話はどこにいった?

もうしばらく、お付き合いください。

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(疲れた方もいらっしゃると思うので、
休憩でもして
また気が向いたら遊びにきてくださいね)


………


緊急入院した当時、
私は心も身体も粉々だった。

何もない病室。
初めての長期入院。
だけど、
現実から切り離された世界は
穏やかだった。

病室から見える空が好きになった。

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病棟内にはいろんな病気を抱えた
患者さんがいた。
自分の病気なんて大したことないと
思えた。
手足を縛られながらも夢を語る少年。
髪の抜けた少女の屈託のない笑顔。
逆境の中でも希望を抱く
子どもたちの姿は励みになった。
「絶対良くなってみせる!」
と治療に専念した。

そして、
なんとか退院できるまで回復し、
なにかを急ぐように
すぐ仕事復帰した。

しかし、
「ある厄介な病気」は
入院したら治るという、
簡単になものではなかった。

本当は仕事どころじゃなかった。
病気は当たり前だった
日常生活を送ることですら
困難にしていた。

会社の人たちは楽しそうに
私ができなくなったことを
している。
それを見る度、辛かった。
「なんで私は当たり前のことが
できないの…」
毎日泣きながら家に帰った。

だけど、
全部自分が悪いと思った。
早くいろんなことを
取り戻さなきゃ、と思った。

ゆっくりすればいいのに
相変わらず頑張り過ぎた結果、
私はまた身体を壊した。
病気の症状はどんどん悪くなり、
3ヶ月も入院したのに
その4ヶ月後には
再入院することになった。

「厄介な病気」は本当に厄介で、
2回目の入院の時は
笑い方すら忘れてしまっていた。
どうやったら笑顔がつくれるのか
本当に分からなかった。

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でも。
そんな瀕死な私でも
神様は見捨てなかった。

ガリガリヨボヨボの私を
病気の荒波から
救ってくれた人がいた。

それが今の旦那さん、耳男くんだ。

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0歳からの幼なじみでもある旦那さん。
実は、遠距離恋愛の末に
一度は別れた。
しかし、ず~っと離れていても
私のことが好きだった(らしい)。

性格も思考も私とは正反対。
パワフルでエネルギッシュ。
いつも元気で健康体。
掴もうぜ!ドラゴンボール!
みたいな人。

何年も会っていなかったのに、
私の状況を知って
ある日突然、
病院まで会いに来てくれたのだ。

面会者の名前を知らされた時は
…まさか!!!と飛び起きた。

「パンの耳男」と言えば
あいつ一人しかいない。
とりあえず着替えて化粧を…
と思った瞬間、

「おう、久しぶり!」
左手を挙げる耳男。

「え?誰。
なんでここにいるの。」

ビックリし過ぎて覚えてないけど
こんな感じで
私たちは数年ぶりの再会を果たした。

さらに驚いたのは、交通手段。

なんでも、
1000キロの道のりを
車でぶっ飛ばしてきたというのだ。

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ぶーーん。

飛行機で会いに行こうとしたけど、
年末でチケットがとれなかったらしい。
それでも
会いにきてくれたんだと、
胸が熱くなった。

さすがに最初はビックリしたけど
すぐに打ち解け合い、
不思議なくらいに
昨日も一緒にいたような感覚がした。
数秒であの頃の2人に戻った。
なぜだか、心がホッとした。
安心した。

旦那さんは変わっていなかった。

旦那さんの愛は
私が別れを告げた後も
変わることなく生き続けていて、
その愛は
私の心をあたたかく
溶かしていった。

余談だが、私は1度目の入院中に
年下彼氏と音信不通という、
悲痛な別れを経験した。
信頼していた人から裏切り。
絶望だった。
これも病気のせいだ。
病気持ちの女なんて面倒なだけだ。
そう思った。

それでも退院してから
何人かの男性に好意を寄せられた。
でも信じられなかった。
この人たちは私の何を見て
好きと言っているのだろう?
と思った。
本当の私なんて知らないくせに。
病気のことを告げたら、
ネットで検索して
「うわっ、こいつやべぇ」と
手のひらを返して逃げていくだろう。

ネガティブ全開だった私は
「他人なんて結局100%信頼できない。
心から信頼できる人が現れない限り、
もうひとりでいい。
それに
この病気に付き合わされる相手が
可哀想だ。
私だって自分のことで精一杯だし、
ひとりのほうがきっと楽だ。
この病気を抱え、
一生独り身で生きていこう。」
と決め込んだ。

だけど。旦那さんは違った。

「病気になっちゃった」
と苦笑いしたら
「パン子はやさしい人だから」
と言ってくれた。

病気になった私ではなく、
昔と変わらず
私の心を見つめてくれていた。

「遠くからありがとうね」
と伝えたら、
「距離なんか関係ないよ。
俺が会いたいから
会いに来たんだ。」  
と笑ってくれた。

こんな病気になった私でも
会いたいと思ってくれたの?
距離なんて関係ないくらい
会いたいと思ってくれたの?

その時、

この人は
私のヒーローなんじゃないか。


そう思った。

根拠なんてない、
直感だった。

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それから
数年ぶりにドライブデートをした。
(タイミングよく外出許可をとっていた)

飾らず自然体でいれて
言いたいことを何でも言えて、
一緒に過ごす時間が
とっても楽しかった。
久しぶりに心がワクワクした。

付き合ってもないのだけど
一緒に写真を撮ったり、
昔と変わらず旦那さんは
私の写真を撮ってくれた。
照れ臭かったし、
「私の顔、大丈夫かな」と心配だった。

しかし。

旦那さんと一緒に映った写真には、
ぎこちないけど
微笑んでいる私がいた。

とても驚いた。
母もどうしたらいいか困るほどに
表情を失くしていた私が、
旦那さんの横で微笑んでいたから。

この人の側なら
私は笑顔になれるのかもしれない。

そう思った。

そういえば、旦那さんは
私を笑顔にすることが大好きな人だった。
そのためだったら、
心のまま行動できる人だった。
今回も
私を笑顔にするために
心のまま会いにきてくれた。

そして。

旦那さんが撮ってくれてた
私の写真を見せてくれた。

…ビックリした。

笑っていたのだ。

笑顔のつくり方すら
分からなくなっていた私が、
目を細めやさしく笑っていたのだ。

これが答えだと思った。

この人なら信じられる。
やっぱり
この人は私のヒーローだ。


そう確信した。

結婚というものを意識しだしてから
相手を職業や収入、容姿や性格など
どこか「条件」で取捨選択していた。
だけど。
そんなの一切関係なく、
「信頼」がすべてを上回った。

本当に根拠はないけど、
この人と人生を歩めば
きっと笑顔になれる。
この人と人生を歩みたい。

そう思った。

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掴もうぜ!ドラゴンボール!
とはこのことをいうのかもしれない。

見事、旦那さんは
数年の無言の片思いを実らせ、
私の心を掴んだのだ。

想いを告白するのではなく、
心のまま1000キロの道のりを
ぶっ飛ばしたことによって。

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そして旦那さんが帰る前、
私は今の素直な気持ちを話した。

信頼できなくなって別れたけど
今のあなたなら信頼できること、
ずっと待たせたけど
これからはあなたの側にいると
決めたこと。

すると旦那さんは
大粒の涙を流しながら

「俺、ずっとパン子だった。
忘れた日なんか1日もないよ。」


そう言ってくれた。

そして私の手を握り

「もうこの手、離さないから」

一度手放した手を
ギュッと握り直してくれた。

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そこからは急展開。

瀕死だったはずの私は、
旦那さんと再会した五か月後には
遠距離結婚、
人妻になっていた。

スピッツのチェリーで
代弁するなら、
♬きっと想像した以上に
騒がしい未来が僕を待ってた~
だ。


人生、何が起きるか分からない。

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そして、
2回の入院生活は私の価値観や
生き方に対する考えを
180度変えた。

入院した先の主治医が
これまたヒーローみたいな人で
私の命だけでなく、
人生を救ってくれたのだ。

主治医は薬の治療だけに頼るのではなく、
私のチカラを信じてくれる人だった。
私には言葉のチカラがあると、
たくさんの本を貸してくれた。

そして、病院を出てからこそ、
私がちゃんと歩けるように
これからの生き方のヒントや
病気との向き合い方を、
私自身が気づくように
「書くチカラ」を使って
サポートしてくれた。

答えを教えるのではなく、
大事なことを私自身が見つけて、
納得して行動できるように。

そして、気づいた。
完璧主義で頑張り屋。
こだわりが強く、
承認欲求がとっても高かった自分に。
自分を犠牲にしてる自覚はなかったけど、
自分の心を押し殺してでも
人に認められたくて頑張っていた自分に。
頑張るのが当たり前で、
頑張り過ぎて生きてきた自分に。

私は「自分以上の自分」になって、
自分を良く見せる着ぐるみを着て
生きていた。

わざわざ自分から
険しい道、苦しい生き方を選んで
生きていたのだ。

もう、この着ぐるみを脱ごう。

もう、楽に生きよう。

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まずは漠然と決めつけていた
「定年退職まで仕事をする」と
決めていた自分を一旦、
諦めよう。

そう思った。

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(後ろのボタン全開で歩いていました)

実は仕事復帰してから、
昔はできていた仕事や簡単な作業も
思うようにできなくなっていて、
頭は常にパニックだった。

人一倍頑張り屋な私も
未経験の病気と仕事を両立させることに
限界を感じていた。

そして
またもや自分の健康より、
認められることを優先して
頑張ろうとする私に
旦那さんがこう言ってくれた。

「好きな仕事だからこそ
頑張りたいのは分かるよ。
でも、何より健康が一番だと思う。
パン子が健康になれることを
選んで欲しい。
僕はパン子の笑顔が好きなんだ。
パン子が笑顔になるなら、
仕事辞めていいよ。
僕がどうにかするから。
大丈夫。
どうにかなる。」

本当にその通りだと思った。
健康が何より大事だ。
私も笑顔の自分が好きだ。

そして気づいた。
書くことは大好きだけど、
いつのまにか広告をつくることが
楽しいと思えなくなっていた自分に。
笑顔で働けなくなっていた自分に。

きっとこれからもこの会社で
頑張れるし成果も出せると思うけど、
もうこの会社は
私にとって笑顔になれる場所
じゃなくなったんだ。

それに私…、
もう一人で頑張らなくていいんだ。
仕事辞めてもいいんだ。
自由になっていいんだ。

今まで背負っていた大きな
肩の荷が降りた気持ちになった。
と同時に、
フツフツと熱い気持ちがこみ上げた。

私の未来に責任を持つと
決意してくれる人がいる。
私の明るい未来を
願ってくれている人がいる。
私が笑顔になることを
望んでくれている人がいる。

この人のために
私も変わりたい。
笑顔になりたい。
強く、変わりたい。

そう思った。

まずは、手放そう。
軽くなろう。

仕事を含め、これまでの人生で
「無駄に執着していたこと」を
1つずつ手放していこうと決めた。

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でも、それでも仕事だけは
なかなか手放すことができなかった。
「仕事を辞める」ことは
私にとっては大きな決断だった。

体を壊すほど頑張った仕事を
小さな頃から夢だった仕事を、
辞める。
この約10年で得た成果や地位を
手放す。
私は一体なんのために
働いていたんだろう。
何が残ったんだろう。
こんなにボロボロになって。

悔しくも虚しくもあった。

「よし!辞めよう」
「やっぱりもう少し頑張ってみよう」
「いや、辞めよう!」
「やっぱりもったいないな…」
2つの気持ちが
右に左に綱引きした。

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だけど。
決して諦めるわけではなく、
「もういいかな」
心からそう思える瞬間があった。

それは久しぶりに祖母に会った日。

その日は母が私を元気づけようと、
地元の美容室やマツエク、カフェや
雑貨屋に連れて行ってくれて、
帰りに祖母の家にも寄ってくれた。

その頃の私は
自信をなくして、
人前に出ることも
生きていくことも
何もかもが怖かった。
それでも強がっていた。
だけど、
祖母のやさしい微笑みの前では
素直に自分の気持ちを言えた。

帰り際、車の前で
ぐちゃぐちゃになった感情が溢れ
ぐちゃぐちゃに泣きながら、

「ばあちゃん、私なんで
こうなってしまったとやかね。
みんなに気ば使わせて
迷惑かけて。
なんで私だけ
こんな病気になって
しまったとやろう。
いいとよ、病気になったことは。
仕方なかと思うと。
でもたまにもうすごく嫌になる。
本当は戻れるなら戻りたい。
ばあちゃん、
病気が辛かぁ、切り取りたかぁ。
ずっと頭から離れんとよ。
本当に辛い…。
ただ頑張って生きてきたとにね…。
今はなんにも自信がない。
人も未来も全部怖い。
自分が大嫌い。
私にはもう何もなかとよ。
ばあちゃんごめんね、
こんな孫で…。」

今の不安な気持ちが溢れた。

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そんな私を祖母は
全部受け止めて、

「なーんばいいよるね。
それでいいたい。
それでよかやんね。
ばあちゃん、
パン子ちゃんが好きよ。
パン子ちゃんは
パン子ちゃんのままでいい。」

と笑ってくれた。

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そして帰りの車内で

「なんでみんなこんなにもやさしいと?
ばあちゃんも家族も
耳男くんも友達も。
美容師のお姉ちゃんも、
カフェのお姉さんも雑貨屋のお兄さんも。
先生も看護師さんも。」

そう母に問いかけた時、

「それはね、
パン子がやさしい人だからよ。
与えたものが返ってくるとよ。
パン子はもう充~分、頑張った。」

と言ってくれた。

私のことを一番見てきてくれた母が、
私の頑張りを心から認めてくれた。

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その時だった。

「そうだよね。
私、充分頑張ったよね。
うん、頑張った。
私、次に行こう。」

スッと穏やかに決意ができた。

そして
「お母さん、決めた。
私、仕事辞める。」

そう伝えた。
母はやさしく微笑んで
うなずいてくれた。

「お母さん、
今まで本当にありがとうね。」

全身から感謝の気持ちがこみ上げた。
私がここまで頑張れたのは
母のおかげだ。

ーーーーーーーーーーー

私が病気になってきっと、
私と同じくらい悩んで
私と同じくらい辛かっただろう母。
しかも、母は先生や看護師さんに
たまに怒られることもあった。

一番思い出深いのが
外出許可中に体調を崩し、
泣きながら病院へ戻った時のこと。

看護師さんは私の肩を抱き、
「お母さん、
この子を頑張らせないでください。
普通の子は頑張っても病気になりません。
この子は頑張ったら…病気になるんです。」
と母に厳しく言った。
その時の母の悲しく、
戸惑った顔が今でも忘れられない。

私が初めて病気と向き合っていたように
母も初めて
私の病気に向き合ってくれていたのだ。

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病気になって自暴自棄になった娘。
喜怒哀楽のコントロールができず、
感情的にわめいて物を投げる娘。
30キロ近くの
骨と皮になったボロボロの娘を、
どんな想いで見ていたのだろう。

それでも母は
いつも気丈に振る舞ってくれていた。

私が病気の症状で苦しんでると
「代われるもんなら
ぜ~んぶ、代わってあげたいよ」
と何度も言っていた。

自分のことなんて置いて、
常に私を最優先してくれた。

入院中は病院までの
40キロの道のりを
週に何度も往復してくれた。
私が仕事に慣れるまで
泊まり込みで健康管理の
サポートをしてくれた。

どれだけの愛で支えてくれたのだろう。

お母さん、
私のやりたいことを
いつも全力で応援してくれて
本当にありがとう。


今度は
頑張ることを手放すね。


≪君の命が大事だ≫

23歳の時、病院で流した涙と
同じような涙が零れた。

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…………

それから
私は仕事を辞めた。
そして移住した。
生まれ育った故郷、
大好きな家族や友達と離れた。

本気で人生を変えたかった。

どんなことも頑張ってしまう私は
「仕事をしない」という選択で、
「住む場所を変える」という選択で、
「関わる人を変える」という選択で、
これまでの生き方を切り離し、
ないがしろにしてきた
自分の人生を取り戻すと決めた。


まずは、何より健康になると決めた。

もしかすると人は
一度くらい、
死にかけてもいいのかもしれない。
自分にとって大事なものを
知るために。

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…………

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2018年7月。
ある田舎町の古民家で
旦那さんとの2人暮らしが始まった。
最初は新しい生活にワクワクし、
新婚、古民家暮らしに
ほろ酔い気分だった。

しかし。
想像もしてなかった、
「専業主婦」という生き方。
これまで仕事人間だった私は
料理も洗濯も掃除も苦手で
なかなか慣れなかった。

好意で貸してもらった古民家は
2人暮らしには広く、
掃除が面倒くさかった。
毎日くりかえす家事がキツくなって、
ちょっとしたことにイライラした。
今思えば、ガリガリ過ぎて
広い家で暮らすチカラすら
蓄えられてなかったんだと思う。
当時の私はフライパンを
片手で持つこともできなかった。

そして、
どんなに時間をかけて作った料理も
パクッとひと口で食べてしまう旦那さん。
誰からも評価されることのない日々。
何者でもなくなった自分。

SNSを見ては
みんな働いてお金を稼いでいるのに
私は何をしているんだろう…と
落ち込んでいった。
ゆっくりしている自分を許せずにいた。  

そして、働いてもいないのに
相変わらず
睡眠薬を飲んで過ごしている。

とはいっても、
まだまだ病み上がりだった私。
ヨボヨボで働く体力はなかった。

旦那さんは
「パン子が笑顔になれれば
それでいいよ」
「好きなことして生きな」
と言ってくれた。
身内も
「今はゆっくりすることが仕事」
「健康になって
やりたいことが見つかったら
その時考えたらいい」
と言ってくれた。

おかげで少しずつ、
「健康になることが第一優先」
「今はこれでいいんだ」
「周りと比べる必要なんてないんだ
それぞれの夫婦のカタチがあるんだ」
と思うことができた。

心配だった金銭面も
意外と旦那さんの稼ぎだけで
どうにかなった。
無駄遣いはせず、あるものを大切に、
贅沢はたまに。
収入と支出のバランスを考えて
生活すればなんとかなるものだ。

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そして、
ゆっくりするだけじゃなく
新婚の私には楽しみもあった。
一年後に控えていた「結婚式」だ。

感謝したい人たちがたくさん居た。
今生きているのも
笑顔になれたのも
入院中に助けてくれた人たちのおかげ。
旦那さんと結婚できたのも
今まで出会ってくれた人たちのおかげ。
短い時間だけど
どれだけみんなに感謝しているか。
結婚式を通して伝えたかった。
そして、
「自分を生きる」大切さを
メッセージとして伝えたかった。


ここでいったん、休憩を。
(ちなみに、下の写真は
友人たちがガリッガリッだった私に
「栄養をつけて欲しい」といろんなカフェに
連れて行ってくれた時のものです。
美味しそうな写真でも見て、
ひと休憩してくださいね。)

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結婚式の準備は大変。
そういう人もいるけど、私にとって
その時間は面白かった。

自分のしたいように
自由になんでも決めれる、つくれる。
広告を作っていた時の
制限に縛られたモノづくりとは
まったく違う。
結婚式って自分のものにしちゃえば、
とっても楽しいショーだと思った。
それに
仕事で得たクリエイティブ力を
たくさん生かすことができて、
嬉しかった。
ひとつひとつ、
できることが増えていき、
なくした自信も取り戻していった。

「書くこと」「つくること」が
やっぱり大好きなんだと実感した。

家族も結婚式を
心から楽しみにしてくれていた。

新しい生活にも慣れ、
やっと平穏な人生を歩める。
そう思った。

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しかし、結婚式直前。


父が倒れた。


数日後。
私が実家に帰ると
その夜…。


母が脳梗塞で倒れた。


さらに数週間後、
退院した父がまた倒れた。


親族と絶縁状態の兄は
「親戚がくるなら結婚式は行かない」
と言いはじめた。

なんだ、私の人生。

病を乗り越えて
やっと両親に
花嫁姿を見せてあげられる。
恩返しができる。

そう思っていたのに。
結婚式直前で今度は
両親が死にかけるってなんだ。
家族がこない結婚式って
なんなんだ。

誰よりも迷惑をかけたのに、
誰よりも支えてくれたのに。
誰よりも感謝を伝えたい人が
いない結婚式って、
なんなんだ。

一番不健康だった私が
今、誰より健康って。
どうなってんだ。

余裕を持って進んでいた式の準備も
大詰めで止まる。
体の不自由な祖母が
介護付きで参加できるように、と
考えていたプランもなくなる。

これはバツかもしれないと思った。
今まで家族に心配をかけて
無理をさせてきた代償なんだ、
しわ寄せなんだ…と。

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さらに。
追い打ちをかけるように
担当だった結婚式のプランナーさんが
入院した、と連絡が入った。

プランナーさんまでも倒れるなんて。

いや、本当にどうなってんの。

この状況で仕事までしていたら
どうなってたんだろう…。
ちょっと想像してみたけど
可哀想になるからやめた。

「ただ感謝を伝えたいだけなんです」

式の装花の打ち合わせ中、
母も父もプランナーさんも入院して
落ち込んでいた私。
そんな私に
フラワーコーディネーターさんが
こう言ってくれた。
「大丈夫。
きっとね、なるようになりますよ。
大丈夫です。」

なぜだかその言葉が
とっても腑に落ちた。
ネガティブモードに
ハマっていた自分に気づき、
冷静さを取り戻すことができた。

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なるようになる。
どうにかなる。
どうなるかは分からないけど、
私はその日に向かって
やりたいことをやりきろうと思った。
再度、式の準備に取りかかった。

家族のサポートをしながら、
驚異の集中力で
ペーパーアイテム全てと
7本の動画をつくりあげた。
(今の私にはもうできません!笑)

そして。
やっぱり私の人生というのは、
ギリギリでどうにかなる。
どうやら私の人生は、
ギリギリチョップのようだ。
(B’zのギリギリchop)

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「パン子さんの式だけは出たい」
とプランナーさんが特別に
直前で戻ってきてくれたのだ。
プランナーさんには
病気のことを話していた。

母は結婚式だけでも
外出できるように医者に頼み込み、
リハビリを頑張ってくれた。
(幸いにも、私が側にいた時に
脳梗塞になったので手遅れに至らなかった。
むしろその前に父が倒れたのは、
神さまからの「帰ってきなさい」のサイン
だったんじゃないかと思っている。)

父もヨボヨボだったけど、
一緒にバージンロードを歩くんだと
歩く練習を頑張ってくれた。
(幸いにも、怠け者の父の
最高のモチベーションは私だ。)

兄ともケンカしながら
家族という存在について話し合った。

そして、結婚式当日。

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誰よりも早く会場に現れたのは
兄だった。

信じられなかった。
兄は絶縁状態だった親戚や
旦那さん家族と楽しそうに話していた。
私たち家族にとって
それは奇跡のような光景だった。

「ね、お兄ちゃんがみんなと
しゃべりよらす!信じられない」
母は驚きながらも
とっても嬉しそうな笑顔で
私に報告してくれた。
お兄ちゃん、家族のために
壁を乗り越えてくれてありがとう。

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父はブカブカの正装。
ベルトも自分で締められない。
支えながらやっとゆっくり歩ける。
まだ言葉も上手くでない、そんな状態だった。

いいんだ。なんでもいい。
どんな父でもいいんだ。
私にとっては全部愛おしい。
私が支えるから。
居てくれたらそれで良いよ。

そして、お母さん。
生きててくれて、
ありがとう。
一緒に病気を乗り越えてくれて
本当にありがとう。

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バージンロードは父と母三人で
手を繋いで支え合って歩いた。

私を守ってくれたのは、その手だ。

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私を守ってくれた手と
これから
私を守ってくれる手が重なり、
バトンが渡される。

お父さん、お母さん、
もうこれからは心配しなくて大丈夫だよ。
この大きな手だけは何があっても
信じられるんだ。

「もうこの手、離さないから」
そう言って
病気の波の中で溺れていた私を
救ってくれた手だから。

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旦那さん、
たくさんの人がいる中で
星屑みたいに小さく
消えてしまいそうだった私を
見つけてくれて、
本当にありがとう。


そして。もう一つ。
私を抱きしめてくれた手があった。

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兄の手だ。

実は、兄は私の病気のことを
私が思う以上に
とても心配してくれていた。
結婚式までに
病気が少しでも回復するように、 
体重が少しでも戻るように、
両親のサポートで帰郷していた
私の食事管理を毎日してくれた。

兄の家で食べる兄の手料理。
たわいもない会話。
本当の兄弟になれた、
幸せな時間。

兄も、その手で
私を守ってくれていた。

そして、そんな兄に
披露宴でお礼のサプライズを
用意していたのだ。
不器用で誤解されやすい兄。
「私のお兄ちゃんは
本当は心やさしい人なんだよ」
そうみんなに伝えたかった。

兄は私を見ては
笑顔で抱きしめてくれた。
そして目に涙を浮かべ、
「これからは耳男くんと頑張れよ。」
と耳元で言ってくれた。

まさか、
あの兄が号泣するとは思わなかった。
周りをみたら、
たくさんの人が笑顔で泣いていた。

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「家族の心をひとつにしたいんです」


そんな夢のようなことを、
初めての打ち合わせで
プランナーさんに語っていたけど。

自然と、そうなった。

一つひとつの出来ごとが
そうなるよう、導かれていた。

もしかすると、
私が病気をしたことも
父が倒れたことも
母が脳梗塞になったことも
兄の家で暮らしたことも。

「家族の心をひとつする」ために
神さまが与えてくれた
試練だったのかもしれない。

家族全滅かと思った結婚式は、
バラバラだった家族の心が
ひとつにまとまるという、
感動のフィナーレで幕を閉じた。

結婚式は私に
「本当の家族」をプレゼントしてくれた。

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………………


睡眠の話に戻る。

幸せな結婚式を終えた私たちは
引っ越しをした。
古民家も悪くはなかったが、
広さよりも
使い勝手のよい小さなアパートに
引っ越した。
お風呂はボタンひとつ、
家事の導線もコンパクトで
快適だった。
キレイな部屋は気持ちが良かった。
穏やかな日々だった。

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だけど。
私は相変わらず
睡眠薬を手放せないでいた。

眠れないというより、
「寝れなかったらどうしよう」
という不安から
服用をやめられなかった。
やめようと試みた夜もあるが
やっぱり寝れなかった。

そんな私を白い目で見ていたのが
旦那さんだった。

「まだ睡眠薬飲んでんの?
なんで?
寝れんでもいいやん。
睡眠薬、もうやめな?
なんのために仕事してないの?
健康になるためでしょ?
睡眠薬飲んでるって
健康ではないでしょ?
別に明日予定があるわけでもないんだから
どれだけ寝不足になってもいいやん。」

ある日、
言い訳できないほどの正論を
ぶつけられた。
旦那さんは私の病気の話になると
だんだんヒートアップする。

私のことが大好きが故に
心から健康を願っているからこそ
熱がこもるようだ。

ヒートアップと言えば、
忘れられないエピソードがある。

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それは2回目の入院中のこと。

「パン子さんの場合、
病気を治すのは難しいかもなぁ」

病院の医院長がポロッと
禁断のひとことを言った。

旦那さんとの再会を果たし、
前向きになっていた私は
朝の回診の時、
意気込んで病気はだいたいどの位で
治るのか聞いてみたのだった。
すると、
「中学生くらいまでなら治る人もいるけど
私のようなタイプ・年齢になってしまうと
治すのは難しい」と言われた。

”治る”
そう信じて治療を頑張っていた私は、
あまりの衝撃とショックで
涙ながら旦那さんに電話した。

すると旦那さんは
鬼のような表情が伝わる声で

「は?なんだよ。
病気は治らないって。
ふざけるなよ!
おい、誰だよそいつ。
電話代われ!
俺が話してやるから!
(必死になだめる)

ってかさパン子、
お前全然大事にされてねぇよ。
今すぐその病院出ろ。
そんなとこいても意味ねぇよ!
そりゃあ、
治らないって
言ってるやつのところで
治療しても
治らないだろうね。
第一な、例え末期癌でも
自分の大切な人に
「病気は治らない」なんて
言わねぇよ!
いいか、パン子、
病気は治る。
治らねぇ病気なんかない!」

なぜか終盤は
私が怒られていた。

「パン子、大丈夫だ。
病気は気持ちで治る!
俺が治すから。大丈夫だ!」

怒っているけど、やさしかった。
入院している私にとって
病気は治ると信じてくれる人がいることが
嬉しかった。

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旦那さんは本気で「病は気から」
だと信じている。

病気をしたことがないらしい。
鼻水を流しながら
「風邪じゃない。ただの鼻水だ」という。
いつもスーパー元気だ。
そして、むちゃくちゃ意志が強い。

だから
なにかにつけて言い訳をし、
病気のことからも
睡眠薬のことからも
逃げている私に呆れていた。

分かっている。
薬をやめた方がいいことは。
たしかに
明日も明後日も予定はない。
でも。
また寝れなくなるのが怖かった。
寝れないことで
「厄介な病気」の症状が
悪化しないかも不安だった。

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気づけば仕事を辞めて
2年が経っていた。
体力や体重は順調に戻ってきた。
だけど「ある厄介な病気」は
思うように回復せず、
症状が悪化することもあった。

旦那さんから
「睡眠薬を飲んでいることは
少なからず
病気の回復を妨げている」
と言われた。

「病気を治すのに大事なことって
何だと思う?
俺が何か言えばいつも
反発して言い訳するやん。
そんな弱い意志じゃ
治る病気も治らないよ」
と言われた。

何も言えなかった。
悔しかった。
病気を治すために自分なりに
頑張っているつもりだったけど、
結局私は
大事なことから逃げていた。
意志が弱かった。
しまいには意志が弱いのも
病気のせいにしていた。

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周りの人たちは
たくさん協力してくれているのに、
なかなか変われない自分が
健康になれていない自分が
悔しかった。
自分に負けてる自分が
恥ずかしくなった。

私は変わりたい。
今度こそ変わりたい。

治らないと言われた病気だとしても、
私の一部である病気に勝ちたい。
私は私自身に勝ちたい。


強くそう思った。

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結婚式が教えてくれたじゃないか。
どんな最悪の事態も
コロッと変わることがあると。
全ては繋がっていると。

バラバラだった家族が
結婚式の準備を通して
心が通い合ったように、
何がきっかけで事態が
好転するか分からない。

ひとつ、変わろう。

10年服用している
睡眠薬をやめよう!

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…………

(やっと睡眠の本題に入りました。
お待たせしました。) 

そして
「睡眠薬をやめる!」
と決意したのが
ちょうど一年前のことです。 

22歳から飲み出した睡眠薬。
気づけば10年以上飲んでいました。
ある意味、脳を操作する薬を
365日10年も飲んできたと思うと
ゾッとします。
自分を守っていたつもりが
自分を誤魔化して、少しずつ
破壊していたのかもしれません。

…………


「耳男くん!
もう言い訳しない!
私、今日から睡眠薬をやめる。」

旦那さんへ決意を伝えた。

「ただ、10年も
睡眠薬を飲んできた人にとって
睡眠薬を手放すというのは
結構、怖いことなんだ。
多分、最初は寝れないと思う。
いろいろと迷惑をかけるかもしれない。
だけど睡眠薬を本気でやめたいから、
協力してほしい。
怖いけど、頑張りたい。」
と伝えた。

旦那さんは
「もちろん」と応援してくれた。

それから私は
「睡眠薬を飲まない」と心に決めた。

はじめて睡眠と本気で向き合った。

画像47


最初の一ヵ月は
「眠れない日々」との闘いだった。
本当に寝れなかった。
丸二日寝れないこともあったし、
一週間連続
2時間睡眠の時もあった。

頭がイカれそうだった。
心底寝たいのに、
身体か心のなにかが
寝るのを許してくれなかった。

旦那さんは
「大丈夫。
人間、いつかは寝る。
だから頑張れ。
何もしなくていいから」
と励ましてくれた。

ゆるみそうな決意を、
しっかり結び直してくれた。

画像85

ぎゅっ。

家事がままならない時は
サポートしてくれた。
申し訳なくて
ご飯を作ろうとしたら
「本当に何もしなくていいから!寝ろ!」
と怒られた。

頭はぐるんぐるん。
視界はぼ~。
耳鳴はキーン!
頻繁に攣(つ)る足。
「寝たい!」と号泣。
72時間くらい寝れなかった時は
モノを投げて発狂した。
澄ました顔をする旦那さん。
鬼だと思った。
本当に辛かった。

夜は寝ることに集中するために
暗い部屋でボーッとし続けた。
しかし、手口が寂しくて
お菓子を食べることが習慣になり、
案の定太った。

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それでも睡眠薬には手を出さなかった。
飲んだほうがよかったのかもしれないが、
手を出したら負けだと思った。

「人間いつか寝る」
その言葉をお守りに一ヵ月頑張った。

そして、それは正しかった。

どんなに眠れなくても
二週間に1回は
極度の睡眠が襲ってきて、
その日は死んだように寝ることができた。

人間、いつか寝るものだ。

寝ることに全集中。
睡魔の呼吸!
(ちなみに鬼滅の刃は7話目くらいで
離脱しました…。耳男君は
ひとり寂しく映画に行っていました。)

そして、
睡眠薬をやめて1ヶ月を過ぎた頃。
少しずつだけど、
不規則だった睡眠生活に
変化が訪れはじめた。

(さすがに文章長くて疲れましたよね。
切りどころが分からず…。
休憩してくださいね。)

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…………

夜になると
自然と眠くなるようになったのだ。

同じ時間帯に
自然と眠気がくるようになったのだ。

頭がさえてる夜もあるけど、
寝れない日より
眠れる日のほうが増えていった。

もちろん波はあって、
一週間上手に眠れたかと思ったら
次の週は急に寝れなくなって、
振り出しに戻されたりもした。

だけど、
「睡眠薬を飲みたい」という
欲はなくなっていた。


そして。


ーそれから、約半年後-

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夜8時。

「ふぁ~。
眠くなってきちゃった。
耳男く~ん、もう寝るね。
おやすみ~」

「おう。おやすみパン子ちゃん」

気づけは睡眠薬なしで
自然に安定した睡眠導入が
できるようになっていた。

すごいことだ。

寝れなかった日々を思うと、
「眠くなる」という
当たり前の現象ですら
感謝というか、ハッピーで。
夫婦にとって嬉しいことだった。

上手く寝るためのコツは
「眠気」のタイミングを逃さないこと。
だから私は
旦那さんが夜ご飯を食べている途中でも
食器洗いは任せ、
就寝の準備にはいる。

(洗い物をせず先に寝てしまうことを
申し訳なく思う時もあります。
だけど、私たちにとっては
「寝れる」ことも有難いことで、
旦那さんも
「僕が洗うからいいよ」と
私の睡眠を大事にしてくれるので、
それでいいのかなと思っています。

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夫婦それぞれのカタチがありますよね。
旦那さんには毎日、感謝しています。)

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しかし。問題が。


半年をかけて
自然と寝れるようにはなったけど、
どうしても途中で目が覚めるのだ。
1日最低3回は目が覚めた。
(中途覚醒というらしい)

頻繁に起きては
その度トイレに行きたくなるから、
隣で寝ている旦那さんに申し訳なくなった。
なので一度覚醒したら
あとはリビングのソファで寝るようにした。

たぶん睡眠時間は平均4~5時間。
7~8時間の睡眠が必要な私には
少なかった。
代わりに日中眠気が襲ってくるけど
昼寝も上手くできなかった。
一日中眠気を引きずり、
やりたいことができずに終わった。
毎晩ソファで寝ていたので
いつも身体のどこかが痛かった。

そして次第に、
蓄積した睡眠不足は
体に不調を及ぼすようになった。

思考能力が低下し、
記憶力が悪くなった。
さっきまで何をしていたか、
さっきまであった物がどこにいったか
分からない。
よく物を失くしては、
忘れ物も増えた。
手に持ったものも
よく落とすようになった。
視界は白っぽく薄くなり、
耳鳴りが悪化した。
覚醒の間にお菓子を食べるクセがつき、
日に日に太っていった。

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このままではいろいろとやばい。
どうにか改善しないと!

それにしても
なぜ中途覚醒してしまうのか。
そこが問題だ。
自分なりに原因を洗い出しては、
(ここは割愛します)
半年をかけて
1つずつ改善策を試していった。

そして…。

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仕事を辞めて3年、
睡眠薬をやめて1年。

やっと…!

やっとやっとやっと!

やっと近頃、睡眠状態が整って
まとめて眠れるようになったのだ。

夜になると自然と眠たくなり、
起床時間に自然と目が覚める…!
(時々、アラーム)

すごい!!
私にとってはすごいことだ!

ストレスフルな環境から抜け出し
健康になることに全集中したおかげで、
10年以上ぶりに、
3650日以上ぶりに!
私は正常な睡眠を取り戻したのだ!

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シャキーーーーーーンッ!
嬉し~~~~~~~~ぃ!

もちろん、
考え事をしたり体の調子が悪い時は
覚醒してしまうけど、
それは誰にだってあること。

でも、もう私に睡眠薬は必要ない。
薬なしで寝れる。
予備で持っておきたいとも思わない。

私は睡眠薬の依存に勝ったのだ!

「睡眠薬を飲まないと寝れない」
と信じていた自分に勝ったのだ!

スッと寝れて、一度も起きることなく
スッキリ目覚められた朝は
毎回とっても嬉しい!

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わーーーーーいっ。
ポピーーー。

この一年、
寝れない日々もたくさんあったけど、
勇気を出して
「睡眠薬をやめる!」と決めて
本当によかったと思っている。

それは
「眠れるようになったこと」
以外にも
思いもよらなかった
いろんな「いいこと」が
身体に起き始めたからだ。

よく頑張った!
ありがとう、自分。
ありがとう、耳男くん!

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(すみません、まだ終わりません)


===========


そう。
睡眠薬断ちをしてから、
実は私の体に
嬉しい変化があらわれ始めたのです。

そして。
その嬉しい変化とともに
私は、睡眠薬をやめて
「人生において大事な3つのこと」
に気づきました。

めちゃくちゃ長くなりましたが、
今からお話することが
今、頑張っている「あなた」に
伝えたかった
ことです。

『やめる勇気がくれた、
たったひとつの宝物』

続きをどうぞ。

………………………

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頑張り過ぎて生きていることに
気づかず、
がむしゃらに頑張って生きてきた私。
何者かになりたくて
たくさんの着ぐるみを着て生きていた私。
その過程で自分を守るために
ある意味自分を騙すために、
身につけた睡眠薬。

そんな私が10年服用していた
睡眠薬をやめたことで気づいた、
人生において大事な3つのこと。

まず1つめは、
「本来の自分の状態」
取り戻すことができたということだ。

薬をやめて一番最初に感じたのは、
今までの自分は
本当の自分じゃなかったってこと。

多分、
睡眠薬を服用していた頃の私は
一日の半分は
薬の魔法にかかっていたんだと思う。

アブラカタブラ~
テクマクマヤコン!

強制的にグッとくる眠気、
夢遊病のような症状、
起きてるか起きていないか
分からない状態、
フッと飛びそうになる意識、
無自覚な行動や発言、
コントロールできない感情、
どこか操作されているような感覚、
ぼぉっとする頭、
変な違和感。

10年の年月は
これらの感覚や状態を
私のデフォルトにしていた。
「仕方ない。
だって眠れないんだから」と。

だけど、薬を辞めて
これは本当の自分じゃないんだと
気づかされた。
私は知らず知らず、
睡眠薬に支配されていたのだ。  

この10年、
”本来の自分の状態で生きてなかった”
ということに気づき、衝撃だった。

身体から脳から睡眠薬が抜けると、
今まで感じていた
コントロールされている感覚、
体の違和感がなくなったのだ。

私の身体に
本来の自分が戻り始めたのだ。

素の状態がどんな感覚なのか
だんだん分かっていった。

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朝起きると
シャキッとしていたり
ゆったりとしていたり、
活動的だったり
穏やかだったり。
日によって調子は違うけど
でもそれは、
何にも操作されていない
本当の自分。
睡眠薬を飲んでいた時と
あきらかに違う。

「これが私の素の感覚なんだ!」
と跳ねたいほど
嬉しかった。

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気分が本当に変わる。
全身の空気が入れ替わったようだった。
身体が軽い。
「本来の自分の状態」って
こんなに楽なんだ!

と人生が楽しくなった。

だからこそ。
私のように長年、
睡眠薬を手放せなくなってる方や
何かの薬漬けになっている方に
この感覚を
ぜひ体感してほしいなと思うのです。
「やめる勇気」を持って。

ネガティブになったり体が重い原因は
今飲んでる、その薬にあるかもしれない。

しかも「本来の自分の状態」を
取り戻してからは、具合が悪くても
安易に薬に頼ろうという気持ちが
なくなった。
薬を飲む前に、
自分で対処できることはないかを
考えるようになった。
冷静な判断ができるようになった。

もちろん
薬は対処療法として優れているし、
日常生活のサポートになる。
だけど決して「依存」になっては
いけない
んだなと学んだ。

というか、
「薬に依存してはいけない」というのは
きっと誰でも分かっている。
私も頭ではずっと分かっていた。
分かっていたけどやめれなかった。
やめる勇気を持って、
実際やめてみて、
なぜ依存してはいけないかが
身に染みて分かった。
本当の自分じゃなくなるからだ。

大事なのは根本から
見直すこと。 

睡眠薬に関わらず
「本来の自分の状態」で
生きていける範囲で
日々の選択をしたい
と思う。

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2つめ。
正常な睡眠をとれるようになった今、
当たり前すぎるけど
めちゃくちゃ大事なことに気づいた。

それは
「睡眠ってとんでもなく大事」
ということだ。

なぜなら、
1年という時間はかかったけど
安定した睡眠を機に、
私の健康状態はゴロッと
プラスに回りはじめた
から。

今までのあらゆる不調は
なんだったのかと思うほど、
睡眠1つで
体の調子が良くなり始めた
からだ。

不眠だった頃は
夕方には疲れ果てて
夜ご飯も作れない時があったのに、
今では夜まで元気だ。
朝から寝るまで一日中
ポテンシャル高く過ごせるようになった。
ネガティブな感情が減り、
自然にポジティブ思考になった。

さらに悩みだった
思考の低下、記憶力の悪化、忘れ物。
視野の不明瞭さ、耳鳴りも改善した。

マジで睡眠って、とんでもなくすごいよ!

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一番嬉しいことは、
好きなことが好きなだけ
できるようになった
こと。

ほんの数カ月前まで、
私は大好きだった「文章を書くこと」が
上手くできなくなっていた。
昔のようなバイタリティーや
執筆意欲もなくなっていて、
年齢には勝てない…
いつの間にか夢を叶える体力すら
なくなってしまったんだな…
と落ち込んでいた。

それが、睡眠が改善してから
スラスラ書けるようになったのだ。

まさか、
睡眠がこんなに関係していたなんて。
今では立派に頭が回転する。
まさに今、29000字の文章を
スラスラ書いている。

おかげで、
私は夢に向かって
再び歩き出すことができた。

他にも日常生活の
行動がスピーディーになったり
意欲的に活動できるようになった。

何度も言う。
ホントにホントにほんとーにっ、
睡眠ってすごい!

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もちろん、
睡眠だけが好転の理由じゃない。

「睡眠が改善したから
身体の調子が良くなった」のは
事実だけど、
悩みだった中途覚醒を防ぐために
日常生活全体を見直したからこそ、
今がある。


他の誰でもない
自分にとってどんな生活が合うか、
どうすれば心身リラックスして
心地よく寝れるのか、
いろいろ試して改善した結果でもある。

つまり、
総合的なプラスの作用で
睡眠状態が改善し、
身体が健康に向かったのだ。
(もちろん、旦那さんの
ドラゴンボール級の
明るいサポートも力になった)

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(ちなみに手には何も持っていない)

声を大にして言う。

何度も言う。

『睡眠は健康のバロメーターだ。』

自分にとって
ちょうど良い睡眠がとれている時は
本当に身体の調子が良い。
気持ちも明るくポジティブでいられる。
失敗してもまた頑張ろう!
と前を向けるし、
心配ごとや悩みごとも減る。
身体が軽くなるし、よく動く。

また、逆も然り。
ストレスなく平穏に過ごせていると、
ぐっすり寝れて、
充分な睡眠がとれる。
寝つきはいいし、中途覚醒もほぼない。
睡眠の質があがる。

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反対に。

睡眠時間が少ないと
著明に不調が起きる。
一日中頭がボーッとして働かない。
元気がでないし、ネガティブ思考になる。
思考や意欲も低下し、
動く気力もなくなる。 
特に私の場合は、
耳鳴りがひどくなる。
なので「耳鳴り」を健康の指標としている。

また逆も然り。
ストレスや我慢が続く生活をしていると、
睡眠に支障がでてくる。
寝つきも悪くなり、中途覚醒が起きる。

身体は本当によくできている。

最後に、もう一度言う。

睡眠ってめちゃくちゃ、めちゃくちゃ大事!!

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寝れる人にとっては
今話したことなんか
「当たり前のことだよ」と
思うかもしれないけど。
寝れるって尊いことなんだ。

私みたいな人生を送ってきた方、
睡眠不足かつ
謎の不調が続いている方は
ぜひ、
まず睡眠を本気で見直してみて!


人生変わるよ。

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そして3つめ。

睡眠薬をやめて気づいたことは、
「長い目で見ること」

仕事を辞めて3年。
睡眠薬を辞めて1年。

やっと今、
私は正常な睡眠を取り戻しはじめた。
「本来の自分の状態」を取り戻しはじめた。
健康な身体に一歩近づいた。

10年続いた睡眠障害を改善するのに
3年かかった。
仕事をしない状態で、だ。 

何を言いたいかというと、
失った健康を取り戻すには
想像以上に時間がかかる
ということ。
そして、
環境が大事だということ。

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もし今も仕事をしていたら、
まだ睡眠薬を飲んでいたかもしれない。
私のことだから
やっぱり頑張り過ぎてたかもしれない。
「本来の自分の状態」を
忙しさと薬でかき消し、
心身を疲労させながら
過ごしていたかもしれない。
もう少し頑張れば楽になれるかな…
とさらに
自分を見失っていたかもしれない。

仕事を辞める時は
いろんな感情になったけど
私は辞めてよかった。
仕事を手放して
本当によかったと思っている。

たしかに、今は
特別な肩書も地位もないし
お金を稼ぐわけでもない。

だけど、
何にも変えられない、
かけがえのない健康
手に入れることができた。

一度人生をリセットして
よかった。

本当に今、心も身体も
とっても楽です。

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死を身近に感じて
私が心底痛感したのは、
健康じゃなければ
どんなことも意味がない

ということ。

だけど、
誰だって「健康第一」と分かっている。
分かっていながらも、
人は健康を害してまでも
自分の心を無視してまでも
何者かになろうとする。
一番大事なことを忘れて。

だからこそ、忘れないで欲しい。

透明な水が入ったコップに
黒い絵の具を一滴たらすだけで
黒い海に染まってしまうように、
健康を害すのは簡単なこと。

だけど透明に戻すには…。

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戻し方も分からないし、
試行錯誤しても
100%透明にするのは難しい。

健康を取り戻すって
簡単じゃない。


そのことを忘れないで。

あなたは今、
引き戻すチャンスがあります。
決して健康を粗末にしないで。

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そして、もしも
私のように不健康の海のどん底に
溺れてしまった方。

本当に健康になりたいのなら
大きな覚悟が必要です。

「健康を第一優先にして、
あとは手放す」


まず、そう自分に決めること。

そう自分に決めて、
悪循環になっている
根本原因から抜け出すこと。

このはじめの一歩が
すっごく大事です。

いつの間にか
執着してしまった「原因」を認めて、
手放す勇気を持たなければなりません。

あなたは
やめる勇気、ありますか?

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もしかしたら周りから
何か言われるかもしれない。

でも「私はそうと決めた」という
強い意志があれば大丈夫だから。

自分をどう定義つけるかで、
いろんなことが決まる。  


私はそう思います。

ちなみに
人の評価を気にしていた
生きてきた私は今、
「働かないで何をしてるの?
少しでも働いたら?」
と言われても平気です。

だって、私の人生だから。

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強い覚悟が持てたら、
健康になるまでの道のりを
「長い目」で見届けてほしい。

決して焦らなくていい。
焦っていいことはない。
(うん、なかった!)
何で上手くいかないんだろう?
大丈夫。それでいい。
それでも
変わろうと行動しているあなたに
流れはやってくるから。
波がやってきた時は
その流れにのろう。

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上手くいかない日があっても
落ち込まなくていいよ。
いや、どうしても
前向きになれない日は
落ち込んでもいいんだ。
無理にアガらなくていい。

人生のたった1日。
明日があるから。

今、頑張れないことを
頑張ろうとするより
今、できることをやろう。

もし明日も
上手くいかなかったら?
大丈夫。
焦らなくていいよ。
それでも
これから変えていける。

どうしても気持ちがキツい時は
寝てしまおう。
起きたらほんのちょっと
元気になってるかもしれない。

1日のことを取り戻すために
1ヵ月かかることも
あるかもしれないけど、
それでも、
これから変えていける。

「長い目で見ること」が大切。

長い目で見れば、
今日という1日より
今からの可能性のほうが
何千倍も大きい
んだから。

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大丈夫。

あなたのチカラは想像以上だから。

あなたのチカラは
あなたが思う以上に
とっても大きいから。

……………

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私の場合は
「ある厄介な病気」をきっかけに、
病気になった自分全体を治したい
と自分を奮い立たせることができた。

生き方を見直したい、
人生を変えたい、と。
やめる勇気を持てた。

そして、
10年の社会人生活で積み上げた
不健康な体や不健全な心、
間違った価値観を治すために
仕事を辞めた。

私全体を「健康」にしたかったから、
今までの環境をリセットして
リラックスできる場所へ移住した。

「健康になる」ことを
何より優先にして
旦那さんと暮らした。

あえて
大好きな友達や家族とは離れた。 
それは「甘え」という
不健康な心からも卒業したかったから。

仕事も場所も環境も
人も物も立場も
いろんなものを手放してみた。

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手放すことは不安だ。
でも、手放すということは
決して
なくなるということではない。

仕方なく手放したものでも、
自分にとって大事なものは
必要なタイミングで
戻ってくると思う。

私の場合、
旦那さんもそうだった。
(今は仕事をしていないけど、
もしかしたら来年は
ひょいっとまた広告の仕事を
しているかもしれない。
今は想像できないけど。)

だから、今あなたが
手放したほうがいいなと
思っているモノ、コト、気持ちに
素直になっていいと思う。

大丈夫。
あなたに必要なものは
必ず戻ってくるから。

だからまず、あなた自身が
健康になって。

健康な身体と心に
健康な環境も人も物も戻ってくるから。

入院していた時、
看護師さんに言われて
とても大事にしている言葉があります。

「心が不健康な時は
心が不健康な人が寄ってきます。
心が健康な時は
心が健康な人が寄ってきます。
まずは、パン子さんが
健康になりましょう。」


当時は半信半疑でしたが、
この言葉は本当でした。

だからあなたも信じて
まず、健康になって欲しい。

あなたはたった一人だから。
あなたはあなたしかいないから。

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暗い海のどん底に落ちた私も
そこで大事なことに気づいて、
あらゆることを手放したおかげで
今、キレイな水の中から
健康というカケラを
拾い上げています。

とっても遠回りしたけど、
健康とは
私の人生、私自身そのものだ

ということを知りました。

こたえはとっても
シンプルでした。

やめる勇気で手にしたのは、
何にもかえられない、
「本当の私」という
たったひとつの宝物でした。

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とはいっても、
私の健康の旅は始まったばかりです。

相変わらず
「ある厄介な病気」とは
共に生きています。

どんなことも頑張れると思い込んで、
体や心に無理をさせてしまった
自分自身を治すには、
同じくらいの月日が
かかるのかもしれません。

でも、もう焦らない。
自分の身体と心に耳を傾けて、
自分に素直に正直に生きていく。
身体と心は繋がっている。

自分らしく生きること、
ストレスをつくらない生き方が
病気の改善につながると
信じている。
ちゃんと回復している。

人によってペースは違う。
遅い早いはない。
頑張ろう!と
エンジンをかけるより、
今できることを
今やりたいことを
楽しくやろう。

自分らしく生きることが
人生だ。

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これからも想像していないことが
起きるかもしれない。
だけど、
「長い目で見ること」ができれば
どんなことが起きても
冷静になれる。

大丈夫。
ゆっくりでも大丈夫。
ちゃんと変わっているから。

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一年の8割、体調が悪かった私は
一年の8割、体調が良くなった。
気づけば
「体調が良い私」がデフォルトになった。

たしかに
この3年で体重は増えたし、
OL時代のようにスレンダーでも
美肌でもおしゃれでもない。
腰回りに脂肪はついたし
足もたくましくなって、
顔もずいぶん丸くなった。
オシャレなカフェやランチ、
キラキラしたものに
縁遠くなった。

でも、
体調がとても良い。
坂道も力強く歩けるし、
自転車だって
びゅんびゅん立ちこぎできる。
真冬だって毎日、
散歩にでかけている。
大好きな文章がスラスラ書けている。
毎日、自然とふれ合って
地域の人たちと笑い合っている。

体調がいいって
とっても幸せだ。

私、今の私が好きだ。

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心も身体も自由になった。
生きているのが楽になった。

最高じゃないか。
幸せじゃないか。


まずは
睡眠の壁、クリアで~~~~す!
(有吉の壁風)

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(出逢った中で一番美しくて透明な海です。
このくらい体と心を透明したいです。笑)


そして最後に、今日は。

睡眠薬をやめるために
この一年、
とってもとっても頑張った
自分自身に
盛大な拍手を送りたいと思います。
(あ、旦那さんにも!)

「私、頑張ってくれてありがとう!」
「旦那さん、毎日ありがとう!」



パチパチパチパチ~!

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~Main Dish Sky~
あなたと見る、空が好き。


end


………………………………


P.S.
もしこの記事を
読んでくださっている方で
正常な睡眠を取り戻したい、
健康になりたいと思っている方。

私のように過労や長年の何かで
睡眠障害を抱えてしまった方、
治らないと言われる
病気を抱えてしまった方。

もしかして今、
とっても辛い状況にいっらっしゃる方も
いるかもしれません。

でも、諦めないでほしいのです。
どんな病気になったとしても
目の前が真っ暗でも、
自分次第で
自分に勝つことはできる。

私はそう思っています。
実は病気になって
何度も命を諦めようとしました。
どん底に居た頃の私は
こんなに生きるのが辛いなら
早く終わらせたいと
本気で覚悟しました。

だけど、諦めなくてよかったと
今心から思っています。
こんなに楽しい人生が
待っていました。

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健康を取り戻すには
睡眠障害や不調になった環境、
根本原因から自分を断つこと。
長い目で見ること。
自分を信じること。

時に思いもよらない試練があると
思いますが、
その先に
本当の自分が待っています。

諦めない人だけが見れる
景色が待っています。

応援しています。

私も「厄介な病気」を治すために
これからも自分に勝ちます。

本当は
勝ち負けの世界は好きじゃないのですが、
人生に
勝ちも負けもないと思っているのですが、
一度きりの人生
いっぱい笑っていたから。

私は私に勝って、
病気になった自分自身を治します。

ゆっくり、のんびり。

一緒に頑張りましょう。

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そして私の想いを読んでいただき、
本当にありがとうございます。

感謝。

泣き虫パン子




夫婦で描く漫画はこちらです
(冒頭のクッキーの漫画です)
https://www.instagram.com/nakimushi_panco/



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