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認知的な側面から見た人と自然の相互作用ーー狩猟採集社会の子どもたち
人と人との関係(社会関係)が、自然環境によって影響を受けるとすれば、どのようにして受けるのか。『教示の不在』本では、アフリカの熱帯雨林で狩猟採集をする人びとはどうかを考えた。一人の人間ではなく、その人とその人の周りにいる人、そしてさらに彼らを取り巻く外界環境へと、カメラのレンズをグーっと俯瞰させる。この俯瞰した位置から、外界環境を含めて相互行為を捉え直す。
相互行為というのは、ある行為とある行為
身体感覚から出発するグローバリゼーション
歴史学者リン・ハント(2016)は、従来グローバリズムはとりわけこの30年間に起こるモノ、ヒト、サーヴィス、価値観の、西欧から非西欧社会への流入だと捉えられてきたという。つまり、言い換えれば「西欧的価値の流通や強制(近代化といってもいい)を通じて世界が同質化していくこと」(マクドナルドやグーグルを思い浮かべると分かりやすい。これらはどこでもある!)とよく考えられている。だが実際のところ、さまざまな
もっとみる学習者を評価しない教育をめざして
その人がもっている能力など、本来は「度量衡」(内田樹さんの言葉を借りれば)によって量れる/測れるものではない。しかし、日本の教育はいつも、「いかに学習者のパフォーマンスを評価するか」を前提としているように見受けられ、教育学に足を踏みいれながらも、わたしは戸惑っている。
「それが学校の制度だからだ」といわれるかもしれないが、「ルール」だからというのは理由になっていない。そうした制度をなぜ無批判に内
「文化がちがう」と言っても仕方がない
わたしがワークショップ(マナラボ 環境と平和の学びデザインによる『世界を旅しよう!』)をする理由は、ごく簡単なことだ。「開放性」を身に付けること。自分の生活や人生が安定していればいるほど(あるいはまったく逆に不安定であると)、人は変化を嫌う。変化を嫌うと、他者が邪魔で面倒なものになる。少なくともわたしにはそのように見えることがある。でも、まったくちがう価値観を持ち、まったくちがう生活をしている人た
もっとみる会話の笑いと文脈の脱臼
あるバラエティ番組で。明石家さんまさんとディーン・フジオカさんとのやりとり(以下、敬称は割愛させてもらう)。
さんま「自分が変わっていくのって、いやじゃない?」
フジオカ「自分が変わっていくのって、楽しいじゃないですか?」
さんま「かっこいい~!」
フジオカ (笑)
司会のさんまが、ゲスト席にいるフジオカに質問する。どういう文脈だったか、職業や自分の趣味嗜好がどんどんと変わっていくというトピッ
自由に学ぶ/自由を学ぶ
学校だけが教育や学びの場所ではない。よく授業をしていると、「学ぶというのは学校でしかできないことだと思っていた」、という学生と出会う。学習とは「学校での学習内容を学ぶこと」、という意識があまりに強すぎるように感じる。
もしそうだとしたら、大学に来ても自由を謳歌して、自分が勉強したいことができて毎日が楽しくて仕方ない、というふうにはならないことはよく分かる。
実際、大学がなにをするところかよく分か
経験を問わせない―相手のことばを封じ込めるやり方
相手との知識や経験差を感じて、しり込みすることなく自分の考えを自由に述べる。聞き手の無言の評価に臆病にならずに話し手が意見が言えるよう、聞き手ができることのひとつは、「相手の体験や経験を問う」ことだ。ファシリテーションやカウンセリング、学校の授業から親子の会話。いろんな場面でこのことが求められている。
国際協力の現場で活動するファシリテーターの中田豊一さんは、現場で効果的な聞き取り結果を得るため
りんごではないかもしれない
カウンセラーは相手の認識を肯定するでも否定するでもなく、「そういうものもあるんだな」「そういう考えもあるんだな」って程度に、判断を保留するのがうまい。日常会話についても、わたしがここから学ぶことは多い。
河合隼雄さんが、「括弧にいれること」の重要性を語っている。
「括弧に入れるというのはよく言われることですが、よい言い方です。忘れてしまうわけでもないし、否定するわけでもない。自分の倫理観という
狩猟採集の学びと徒弟制の学びのちがい
徒弟制の学びとアフリカ狩猟採集社会の学びはどうちがうのでしょうか。ここでは学習環境の側面から考えてみます(『教示の不在』本より)。アフリカ狩猟採集社会といっても、社会によってその環境はさまざまですが、ここではカメルーンの熱帯雨林(以下、森)に暮らす狩猟採集民バカBaka(バカ・ピグミーとも呼ばれる人びとです)に焦点を当てます。
まず、わたしたちの暮らしのなかにある徒弟制の現場を考えてみましょう(