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身体感覚から出発するグローバリゼーション

歴史学者リン・ハント(2016)は、従来グローバリズムはとりわけこの30年間に起こるモノ、ヒト、サーヴィス、価値観の、西欧から非西欧社会への流入だと捉えられてきたという。つまり、言い換えれば「西欧的価値の流通や強制(近代化といってもいい)を通じて世界が同質化していくこと」(マクドナルドやグーグルを思い浮かべると分かりやすい。これらはどこでもある!)とよく考えられている。だが実際のところ、さまざまな文化的所産には「(西欧独自の創作物ではなく)多元的な起源やプロセスがある」と指摘している。なんでもかんでも西欧独自のものではないのだ、わたしたちが西欧独自のものだと思っていたもので実は違っていたりする。 

たとえば、数学の正弦(サイン、コサインのサインsin)の概念は、「イギリスからインドに入った」と一般には考えられているが、5世紀のインドの数学者アーリヤバタがjyaという概念でもってすでに論じていて、それをアラビア人がjibaと呼び、12世紀になって、イタリアの学者ゲラルドがラテン語sinusに直したものが、現代のsineになったという(Eves,H, 1990 in セン, 2017)。こう考えると、海外につながりがあることやルーツを持つことは、人間社会を長い時間軸を据えて見直すとなにもめずらしいことではなく、むしろ相互交流は人間社会を人間社会たらしめてきた大前提ではないかとさえ思えてくる。

産業革命を後押しし、いまだにわたしたちの暮らしを下支えしている蒸気機関(石炭火力発電や原子力発電はこの蒸気機関だ)はイギリスで生まれたと言われている。トーマス・ニューコメンやジェームズ・ワットらイギリス人が発明したとされている。ところが、蒸気機関のような機構は、イギリスだけでなくすでに多くの社会で生まれていて、中国もそのひとつであった。したがって、蒸気機関も西洋の技術だけでなく、中国の技術からも学んでいたと考えられ、「蒸気機関がヨーロッパで最初に発達した」という言い方は適切ではない(ポメランツ, 2018)。

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学生の頃、フォークギターでいろんな曲のコードを練習していたときに、喜納昌吉の「ハイサイおじさん」とボブ・マーリー「No woman no cry」と美空ひばりの「東京キッド」が、同じコードの組み合わせで弾けることに気づき(たしか)、いったい洋楽と邦楽は何がちがうのかと不思議に思った瞬間があった。コード進行という構造に行き着くと、洋楽/邦楽などというカテゴリーが、曲それ自体の性質を言い当てているものとはとても思えず、どうも違和感を覚えて、以来この言葉が使いづらくなってしまった。

「上」からのグローバリゼーションの話は、どこかきな臭いが、自分の身体感覚から出発する「下」からのグローバリゼーションは、ちょっとわくわくする。



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