卒論も、だれかのために書いてください

いま、卒業論文の書き方についての指導内容をまとめている。哲学者で小説家のウンベルト・エコが『論文作法』の中でこんなことを言っているのを見つけた。

「ある術語(筆者注:専門的な学術用語)を初めて導入するときには、いつもそれを定義したまえ。その術語の定義ができない場合には、その術語の使用を避けたまえ。もしそれが君の論文の主要術語の一つであって、しかも君がそれをうまく定義できないのであれば、すべて破棄したまえ。君は論文(または仕事)を間違えたのだ」(エコ, 2006: 184)。

ある言葉が術語であるかどうかは意識していないといけない。それが日常語か非日常語かを区別する意識をもって研究者は言葉を選んでいるが、ある言葉について、「これ説明しなくても分かるでしょ」とか、「これは難しくて分からないだろう」、はたまた「これはここでは特別な使い方をしている」という意識をつねに働かせている。

ある術語には説明が必要であることは、これは論文を書いているとなんとなくわかってくることではあるが、よく考えてみると、そんなことをどうやってわたしたちはできているのかと不思議に思う。AIならできるのだろか。この術語について説明が必要かどうかを考えるにあたって、まず頭の中に思い浮かぶのは、その文章を読む「他者」である。術語に説明が必要か、だけでなく、どんな言葉を選んで文章を書くかという問いと、だれにむかってそれを書いているのか、という問いは深く結びついている。 

もし、研究者がべつの研究者(たち)に宛ててそれを書いているとしたら、「まあこんなこといちいち説明しなくてよいですよね」となることもある。しかし、ではどこか大きなホールで数百人に向かって話をすると想像してみたらどうだろうか。その場合は反対に、「この言葉は説明しなくちゃ」と思うのではないか。当然だ。わたしたちのたいていの発話が、だれかに宛てられて放たれるように、やはり書き物にも宛先がある。卒業論文であろうと、小説であろうと、このnoteであろうと(この文章はしいていえば、ゼミのみなさんに向けて書いているが)、同じである。「術語をいつも定義せよ」とエコは言うが、それはたった数人、数百人に向けて論文は書かれているのではなく、人類に向けて書いているからだという(これはわたしも反省するところだ)。

「論文指導教員がその作家(筆者注:論文である作家のことを取り上げる際、何の説明もなく、その作家の名前だけを書いても、読む人は何のことだか誰も分からないだろう?という指摘を、この前文でエコがしている)が何者かを先刻承知しているものと当てにしてはいけない。君は指導教員に私信を書いたのではない。潜在的には君は人類宛てに1冊の本を書いたのだ」(エコ, 2006: 174)。

「人類」とまで行くと、わたしとしては想像が難しい。いつも文章を書くときは、「自分がどういうスタンスでもって語るか」とか、「どんな事例なら分かってもらえそうか」とか、といった選択を頭のなかでしている。それは話すときも同じだ。ただ「人類に宛てて書いているのだ」と言われると、自分のスタンスや事例の選択域があいまいになってしまうため、わたしとしは実感がわかない。これはきっと、エコのような成熟した書き手の感覚なのだろうと思う。
 いずれにしても、「術語に説明が必要か不要かの判断」や、そもそも「術語とそうでないものの区別」をはじめ、言葉がその文脈(文の流れ)の中でもつニュアンスを読み取ったり、適切な言葉を選択したりするのは、これはもう「勘のようなもの」であって、論理立てて説明できることではないかもしれない。これは説明されて分かるというよりも、日常的なコミュニケーションによって培われている能力であるという気がしている。
 では、卒論の執筆を通して、そうした能力を身に付けるにはどうしたらよいかといえば、結局自分が書いたものを、他の人に読んでもらうしかない。ただし、この「他の人」というのは、教師だけではない。

 作家の高橋源一郎さんが、きのくに国際高等専修学校でおこなった文章教室でのひとコマだ。生徒自身の自己決定や体験学習を重視したこの学校でおこなわれた特別授業である。ある生徒が書いた作文を、自分が添削することに違和感を覚えた高橋さんは、教師である自身が添削するよりも、むしろ生徒たちが互いに他人の視線を意識することで、書く内容も質も変わっていくことに注目している。

「ただ書くのではなく、その上で、自分が書いたものを立って朗読する。朗読が始まった瞬間、周りで聞いているみんなの声やつぶやきや息をのむ音や体を動かす音が耳に入ってきます。みんなが笑ったり、「えっ?」と驚いたり、「へええ」と感心したり、すっかり聞き入って静まり返ったり、逆に、つまらなくて集中力が切れてぼんやりした空気が伝わってきたり。書いたことばが音になり、空中に流れると、まるで、それが音楽のように教室全体に広がっていくのです。ぼくがやらなきゃならないのは、そんな場所や空間を作ることで、確かに、その後で、その文章について説明はするのですが、それよりも遥かに大切なのは、最初にみんなで作り出す、みんなが耳になって、そのことばに聞き入る空間なのでした」(高橋, 2019: 106)。

自分が書いたものを朗読することで、聞き手の反応をその場で体感するというのが、ここでおこなわれている方法である。一人ひとりに発表者が書いたものを配って、それぞれが読んでいたのでは、だれが何に反応したのかが分からない。そして多くのゼミのケースがそうであるように、「では質疑応答を」と言ったところで、あらためて意見や感想を朗読の聞き手が言葉にして書き手に伝えようとしたら、どうしても遠慮したり、慎重になってしまったりするものだ。しかしこの朗読の方法だと、聞き手は朗読の読み手に直接身体反応を見せることになる。そうすることで、彼らは同じ時間を共有する。読み手が朗読しながら言葉を放っていく。その一瞬一瞬の聞き手の反応/応答が、読み手自身だけでなく、他の聞き手にも共有されていく。もちろん、これがうまくいくためには、朗読の聞き手たちが、変に構えないことが重要だ。結局のところ、この朗読の方法でもって文章力を高めるには、クラスの場の雰囲気も重要になってくるだろうが、さらにいえば、そうしたクラスの場の雰囲気の醸成そのものも、互いの文章力を向上するために必要なことかもしれない。打ち解けた雰囲気でない中で、だれも自分の言葉を紡ごうなんて思わない。いずれにしても、この方法は、一見なんでもないように見えるが、言葉とは何かについての核心をついた授業の方法であるように感じられた。というのも、高橋さんは、正しい文章とは何か、そんなものがあるのかといった違和感と、さらに教師が本当に正しい文章を知っているのかという疑念を抱いているからである。

どの術語には説明が必要なのかとか、どんな言葉を選んで文章を書けばよいのかは、その都度、朗読の聞き手の反応を見ながら学ぶというのは、一つのやり方だと思う。「ああ、こういう言葉遣いは分かりにくいんだな」とか、「こういう話を最初に持ってきたら共感を誘うのだな」、ということが分かるし、またその感覚を日々の暮らしの中でも持っておくことだ。言葉は、別にある権威が管理しておくものではないので、とりあえず使ってみて、それが「自分が伝えたいことをうまく伝えてくれている」とか、「わたしはその言葉を使ってみたけれども、ただカッコつけたかっただけなんじゃないかな」とか考えてみればよい。とにかく自動機械のように言葉を使うのではなく、自分が主体的に選んだという意識を持つべきだ。わたしが学生だった頃、あるゼミで「日本語を外国語と思え」と教師に言われたことがとてもショックだった。相当に印象的な言葉だったのだが、いまでも心に留めている。日本語だからといって相手に伝わると簡単に思ってはいけない。あなたが伝えたい人に伝えようと思ったら、一生懸命に言葉を選びなさいということだ。さて、あなたはその卒論をだれに読んでもらいたいですか?


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