経験を問わせない―相手のことばを封じ込めるやり方
相手との知識や経験差を感じて、しり込みすることなく自分の考えを自由に述べる。聞き手の無言の評価に臆病にならずに話し手が意見が言えるよう、聞き手ができることのひとつは、「相手の体験や経験を問う」ことだ。ファシリテーションやカウンセリング、学校の授業から親子の会話。いろんな場面でこのことが求められている。
国際協力の現場で活動するファシリテーターの中田豊一さんは、現場で効果的な聞き取り結果を得るための実践的な質問について紹介している。たとえば、次の2つの質問について考えてみてほしい。
a. 朝ごはんにはいつも何を食べますか?
b. 今朝は何を食べましたか?
この2つの質問はいったいどこかどうちがうだろうか。a.「朝ごはんにはいつも何を食べますか?」という質問によって、質問者は相手の実際の生活について尋ねようとしているつもりでいても、実は実際のことを聞き出すことに失敗してしまう、ということがここで問題となっている。いったいなぜか。それは、「いつも何を食べますか?」は、実際のことを聞き出そうとしつつも、聞かれた相手は「意見や考え」を述べているかもしれないからだ。つまりaは、具体的な事実を聞き出す質問というよりは「一般化された質問」である。実際の生活について聞き出そうとするなら、むしろb.「今朝は何を食べましたか?」といった、特定の事実を尋ねる質問のほうがいいというわけだ。こうした「事実質問」の積み重ねを通して、相手の実際の生活について理解し、(国際協力の現場であれば)課題解決に向けての気づきを当事者自身に促すことが可能になるとしている(中田, 2015: 26-32)。(※この本をわたしは、プロジェクトコーディネーターの川那辺香乃さんに教えてもらった)。
「相手の経験を問う」ことは、知識量や技術、経験値が非対称(つまり、どっちかは豊かな経験があったり、知識が豊富なのだけれども、相手はそうでないという関係)な関係においては、とくに大事なことのように思う。たとえば、大人と子ども、教師と生徒、熟練者と初心者などがそうだろう。
ついこういう関係の中では、発言するのをしり込みしてしまうものだからだ。でも、もし非対称な関係で「上」にいる側が、「下」にいる側に対して、「あなたの経験や体験から語ってみてください」といったらどうだろう。だれしも日々生活している中で、いろんなことを考えているのだから、それを伝えることはできるかもしれない。
ただし、じゃあ経験に問えば、だれしも自由に発言できたり、みずから語り出すことができるようになるかといえば、ことはそう単純ではない。ライターの武田砂鉄さんは『紋切型社会』の中で、ある作家がみずからの戦争体験を引き合いに出すことで、「若い人は、本当の貧しさを知らない」という欺瞞的(ぎまんてき)な意見を述べていると批判している。戦争を経験した者と、そうでない者とのあいだでは、そうでない者は声を持たなくなる。武田さんは次のように批判している。「彼女が戦争期に生まれており、こちらは生まれていないという前提で全ての説法を引っ張ろうとする彼女の論旨は、ご一読の通り、ひたすら下品だ。体を現在に預けていない人は今を語るべきではない。自分と異なる人と対峙しない言論など言論ではない」(武田, 2019: 83)。なるほど、「あなたは経験などないでしょ」と相手を制すことによって、言論を封殺してしまう。「経験など問えるはずがない。問うてみても仕方がない。だってわたしの経験に比べればそれは無価値だもの(だから黙りなさい)」というスタンスだということだ。わたしはこの作家が、どのようなニュアンスで発言されたのかはここでは分からないので、別にこの作家を批判するつもりはない。むしろ、わたし自身が自省するためのエピソードとして受け止めておきたい。
とまあ、こういうふうに書くと、「相手の話をちゃんと聞きましょうね」って感じで、教条主義的(とにかく社会の倫理とか考えたらそうあるべきみたいな、規則順守型の)に聞こえたかもしれない。しかし、こうやるべきというのはきゅうくつだ。そういうことは、わたしは個人の判断に任せたい。そうではなくて、相手の発言を封じ込めるには、他にどんなやり方があるか考えてみたい。ここでは「相手の経験や体験を問わせない」という方法を紹介した。わたしたちが普段何気なくやっていることの中で、相手の発言を封じ込める方法には、ほかにもどんなやり方があるだろうか。