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認知的な側面から見た人と自然の相互作用ーー狩猟採集社会の子どもたち

人と人との関係(社会関係)が、自然環境によって影響を受けるとすれば、どのようにして受けるのか。『教示の不在』本では、アフリカの熱帯雨林で狩猟採集をする人びとはどうかを考えた。一人の人間ではなく、その人とその人の周りにいる人、そしてさらに彼らを取り巻く外界環境へと、カメラのレンズをグーっと俯瞰させる。この俯瞰した位置から、外界環境を含めて相互行為を捉え直す。


相互行為というのは、ある行為とある行為の連なりのことだ。ある行為に対してだれかが応答(または反応)する。またその応答に対して、まただれかが応答する。ある文脈の中で行為はこうして連なっていき、同時に、また新たな文脈を作りあげていく(高田, 2019, p.19を参照)。

わたしが知りたかったのは、ある人と人とのやりとりである相互行為に、「自然環境」がどのようにして作用するのかということだった。なぜそんなことを考えたのかといえば、野山(または海)に分け入って動物を獲り、木の実を探す狩猟採集をする社会では、みんなが平等で、またそれぞれが「自律している」と言われてきたからだ。

とはいえ、「人と人のやりとりに自然環境がどう作用するか」という問いは、あまりに問いとしては大きすぎるので、『教示の不在』では、焦点をしぼった。「子ども」と「大人」の関係に焦点を当てたのである。「ピグミー」という愛称で知られている人びとの研究ではこんなことが言われてきた。アフリカ中部のピグミー系狩猟採集社会アカの子どもを長年調査してきたバリー・ヒューレットは、大人の振舞いを観察しこう述べている。

「狩猟採集者は、自律や平等主義に価値を置くために、年長の子ども
や大人たちは、子どもたちにとって何が最良かを考えたり、感じようとしたりはしない。また、子どもの社会学習に直接関わったり、介入したがったりもしない」(Hewlett et al., 2011: 1173)。

大人のわたしたちが、いつも子どもたちにとって最良の判断ができるわけではない、とどうも大人たちは考えているらしい。どういうことなのだろうか。「人と人のやりとりに自然環境がどう作用するか」について考えるために、まずこの大人と子どもの関係を解きほぐしてみることが良いのではないかとわたしは考えた。わたしは、子どもそのものに関心を持っていたというよりも、知識や技術差がある両者が対等な関係をおりなすとき、それがどうやって可能になっているのか、また当事者たちはどんなことを経験しているのか(感じているのか)ということに興味を持った。

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また、大人と子どもの関係を描き出しながら、子どもたちが森の生活を通して経験する世界も浮き彫りになってくる。

カメルーンの狩猟採集民研究(「ピグミー族」という表現が、テレビなどではなじみがある)では、「自然と人との相互作用」を論じる生態人類学的な研究が盛んにおこなわれてきた。
たとえば、狩猟採集民バカ(Baka)の人びとが、森の中で遊動生活をおこなうとき、彼らの生活が森にどのように作用しているのか、また彼らの移動が、森からどのように影響を受けているのか。これはいわば、「自然と人との相互作用」である。「相互行為」というと、まるで自然を主体と捉えるようなニュアンスになってしまうので、ここでは相互作用と言ったほうがよい(もちろん、近年の人類学議論のような、自然を主体と捉える議論、また狩猟採集民当事者が、そのように自然を見ているかどうか、といった議論はまた別のトピックとして有効であるが、ここでは触れない)。

バカの人びとが、キャンプを移動するさい、彼らが食したヤマノイモの残滓(ざんし)をキャンプの周りに捨てたり、あるいはヤマノイモを半分に切って意図的に植え、あとは放っておく(遊動生活では、動物の獲物や木の実などの採集物がキャンプ周辺で獲れなくなれば、キャンプをたたんで移動する)。このことによって、再びもとのキャンプに戻ってくると、ヤマノイモが<自生>しているということになる。このように、バカの人びとの生活が、意図的かそうでないかむずかしいところだが、生態循環に一役買っているということが分かっている(Yasuoka, 2012を参照)。

こうした研究は、「人の生活はつねに自然を破壊するもの」という近代的な生活感覚を根本的にくつがえす気付きをわたしたちにもたらす。こうした研究は「生態学的な側面から見た自然と人との相互作用」といえる。

カメルーン狩猟採集民研究のこうした流れの中で、他方でわたしが試みているのは、「認知的な側面から見た自然と人との相互作用」である。わたしの場合、中心的な関心は、「人と自然」というよりは「人と人」、とくに「子どもと大人」の関係のあり方にある。そこで彼らの「相互行為」に注目した。そこに森という自然環境がどのように作用しているのか。これが『教示の不在』の根本的なテーマだった。

狩猟採集の経験が豊かな大人とそうでない子ども。両者のあいだには知識・
技能をめぐる(圧倒的な)非対称性があるはずだ。この非対称性を前提にすると、大人は常にこれらの知識・技能を教える側に立ち、子どもは教えられる側であるかのようについ考えてしまう。それがふつうである。だけど、実際に、大人たちに混じって子どもたちが狩猟採集をしている様子を見ていると、なるほどたしかに「対等な関係」であるかに見えた。しかしいったいなにがどう対等なのか。それを言葉にするために、わたしは狩猟採集活動を動画で撮らせてもらい、そしておこでのやりとりを書き起こした。

そうした取り組みの中で分かってきたことのひとつは、「教え-教えられる」限定的な関係に互いをつなぎとめているわけではなく、「そうではない」その他の関係も築いていることだった。なにがそう対等に見えるのかといえば、大人も子どもも、いち実践者としてその活動に参加しているからであった。

「いち実践者」として活動しながら、当事者の子どもたちはそのことをどのように経験しているのだろうか。つまり、もしもこうした「教育」のあり方が、子どもたちの自律を育てているとしたら、子どもたちには、その「自律」をどのように捉えているのだろう。狩猟採集という実生活の活動を通した子どもたちの経験を、できるだけ忠実に描き出すこと。そしてその方法を考えること。それを使命として自分に課した。

Hewlett, B. S., Fouts, H. N., Boyette, A. H. and Hewlett, B. L. 2011. “Social Learning among Congo Basin Hunter-Gatherers,” Philosophical Transactions of the Royal Society, 366: 1168-1178.

Yasuoka, H.(2012).Fledging agriculturalists Rethinking the adoption of cultivation by the Baka hunter-gatherers. African Study Monographs. Supplementary issue. 43: 85-114.


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