なぜ会話なのか

素朴に言って人類学や民族誌を書く目的は、異なる文化・社会・環境に暮らす人びとが、世界をどのように感じているのかを理解するための学問だ。そのために人類学者や民族誌家は、みずからの直接的な経験を通して重要と思われるトピックを取り上げ、現地調査での聞き取りやインタビューを欠かさない。

ところが、調査者であるわたしは、いったいどこまで彼らが語る内容を本当に理解しているといえるのだろうか。何を根拠にことばの意味を選んだり、定めたりしているのだろうか。人びとが暮らしている日々のリアリティにどこまで入り込むことができているのだろうか。そうしたなかで、「会話」は人びとの実践を忠実にたどっていくための重要な道具のひとつだと思った。もちろん会話だけではない。ガーフィンケルが構想したエスノメソドロジー学派は、こうした問題に正面から取り組んできた。

しかし人類学では、こうした問題を会話から立ち入ろうという人はあまり多くない。わたしも、なにがなんでも会話だけ見るべきという会話至上主義者では決してない。ただ、会話(とかジェスチャーやさまざまな振舞い)が面白いなと思うのは、いままさに目の前で人びとが現実(世界の捉え方、見方)を作りあげていっている、その運動を捉えられるからだと思う。蓮實重彦さんがスポーツ選手の身体を見ないわたしたちを指して、「人類は運動が嫌いだ」と言っていたが、まさにそうした運動を記憶と記録にとどめることができる道具のひとつが会話の分析じゃないかと思うのだ。

もうひとつ、会話データがデータとして容易に認められない背景には、会話形式がもつ(と調査者が想定する)普遍性と、また行為や出来事としての一回性というこの両義性があるのではないかと思われる。言語学者の小山亘さんが、「一回性と類型化可能性」(小山, 2008)ということばで説明しているのはこういうことだとさしあたり理解している。会話はまったく同じものは二つとない偶発的な出来事であるにも関わらず、他方で,「規則性・タイプのトークンとして了解され、社会文化的に意味づけされることもできる」(小山, 2008)というもの。
この二つの意味のどちらが正しいとか、より重きが置かれるべきだということではなく、自分の関心にしたがって関心の程度を調整するしかないのかもしれない。

会話は微細に見れば見るほど、そのやり方はどこも同じというわけではなくなる。どのような文化に属する会話にも、同じ構造が見いだされることももちろんある。たとえばターンの順番交替だとか、会話の開始や終了があるということだ。相手や自分の発話を訂正するそのやり方にも共通点はあるだろう。これらの基礎構造は、英語圏の会話分析研究によって発見されたものだ。


しかし,たとえ同じ構造をもっていたとしても、そのやり方や作用の仕方が文化や社会によって異なることも考えないといけない。"Would you like a beer?"は英語で「ビールはいかがですか?」といったように相手への申し出と受け取られるが、ポーランド語ではむしろ「ビールは好きですか?」という本当の質問として受け取られる(Wierzbicka, 1985)。このように、英語的な言語感覚を基礎としながら言語行為システムを考えていきつつも、実は文化によってそのやり方や作用の仕方がちがうことを考えていかないといけない。




小山亘. 2008.『記号の系譜——社会記号論系言語人類学の射程』三元社.

Wierzbicka, A. 1985. Different cultures, different languages, different speech acts: Polish vs. English. Journal of pragmatics, 9(2-3), 145-178.

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