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質的調査とは、その人を生きてみるための道具である

「自己変容」は人類学でよく用いられる言葉で、フィールドワークをする目的や、そもそも人類学の存在意義として理解されている。自然科学は客体と主体とを切り離し、「他者を対象化する」。人類学は、そうしたまなざしをもちろん保ちつつも、客体と主体とをそこまで切り離さず「他者と一体化する(してみる)」。現場の人びとがやっていることを自分もやってみたり、その人たちとともにいち生活者となってみる。だからこそ、「研究者」としてだけでなく、ある「村の一員」として、またある「家族の一員」として他者と関係を持つようになる。他者と一体化してみることで、自分が当たり前と考えていたことが、そうではないことに気付く。

では、当たり前ではないことに気が付くと何がよいのか。「現実は常に変わり続ける」という感覚を取り戻すことが出来る点にある。わたしたちは当たり前のことは、当たり前すぎてふだんは考えもしないし、またある「常識」にとらわれて、その「常識」についていけないと苦しんだりもする。しかしその当たり前や常識は突然、形を変えたり、姿を消したりする。戦争をすることが当たり前だった時代と、一夜にしてそうでなくなった時代をどちらも生きた人々は、きっとそのことをありありと体験しただろう。人類学でいう「自己変容」は、自己否定のことではなく、単に現実との向き合い方の問題である。「他者だけを客体として見る」のではなく、「自己もまた客体として見よ」の意味として理解するべきだとわたしは思う。

社会調査には、量的調査と質的調査のふたつがある。量的調査とは、ものごとを数量化し、計測し、序列化したり、統計分析をしたりする方法である。他方、質的調査とは、数量によってものごとを把握するのではなく、たとえば語りや、やりとりのデータをくりかえし見ていきながら、人びとの生活や文化の文脈全体が浮かび上がるよう情報を集めることである。語りややりとりを扱ったから質的調査になるのではない。それらの意味が文脈によって変わる、ということに調査者が敏感になることで、その実践が質的調査となっていく。

量的調査と質的調査では、人間に対するまなざしが異なっているともいえる。量的調査では、人間を物質的世界のいち要素として捉える自然科学的アプローチを取るが、質的調査では、意味や文脈を作り、またそれに作用される主体として人間を捉える解釈科学的アプローチを取る(富沢, 2009参照)。他者の対象化/一体化の観点から言うと、量的調査は「他者の対象化」を、質的調査は「他者との一体化」を志向しているといってもいい。

   量的調査      質的調査
  他者の対象化    他者との一体化
 数量調査による把握  記述による把握
   全体的理解    意味的・文脈的理解

もちろんどちらが正しいというのではない。両者は異なるアプローチであり、調査者は人びとが文脈の中で生きている経験をどうすれば描き出せるのかを、まさにその現場の中で考えながら、二つの調査法を組み合わせたり、どちらにより力点を置くかを考えたりする。

ただしここでは、質的調査についてもう少し踏み込んで考えてみたい。社会学者の岸政彦さんは、「(質的調査でおこなわれる)ディティールを重ねることが翻訳装置になる」と言っている。

「他者というのがあって、それを自己が理解しようとしていく。あるいは自己が理解した他者を、第三者に伝えていくときに、その間の媒介になるのはディティールなんですよね。これが量的調査の確率やモデルの、機能的な等価物なのかもしれない。ディティールというのは、一種の翻訳装置になっているんですよ。ディティールを重ねていくとすごく抽象的な合理性みたいなのが伝わってくる。ものすごく抽象的な合理性というのは、直接には伝えられないわけです。直接伝えることはできないですけれども、間接的にディティールをすごく重ねていってやりとりをしていって、長いテクストを連ねて書いたり読んだりしていくと、なんとなく相手の合理性みたいなのがわかってくる。」(岸, 2018: 286)

「なぜディティールだと翻訳装置になるのか」は、たとえば体をつかったワークショップなどでロールプレイを体験していると、感覚として理解できる。ロールプレイを通してその人になってみると、その人の生きた体験のディティールをみずからたどることになるからである。たとえば実践研究グループ「マナラボ」のワークショップでは、カメルーン狩猟採集民バカの象狩りをロールプレイしてみたことがある。かつて人々は、森の奥地へと象狩りに出かける際には、象の血をしみこませた木片を入れた首飾りを欠かさず持っていた。その「おまじない」という抽象感覚は、ロールプレイで象の大きさを想像し、その仮想の現場で身に危険を感じてみれば納得できるところがある。

こう考えると、質的調査とはロールプレイにも似たところがある。質的調査は、その人を生きてみる体験に、書き手/読み手をいざなう道具となっているのではないか。『教示の不在』でわたしが相互行為分析という質的調査にこだわったのは、バカの子どもの学びについて、読み手がそれ自体を体験してみる、言い換えれば、「登場人物の世界を少し生きてみる」手段を提供したいからであった。

発話や身ぶりのやりとりを読み進めていくと、狩猟採集活動中の出来事を追体験できる。俯瞰的な眺望から統計データを引き出して、「これがピグミーの人達だよ」とか、「人びとの学習のあり方だよ」「これは、彼らみんなが共有していることだよ」という語り方ではない、別の語り方をしてみたい。俯瞰的な統計データは、子ども達がどんな作業に関わり、だれと共に過ごし、彼らがどれだけの栄養分を共同体にもたらすか、といった全体像を提示できる。しかし、バカの子ども達の学びの経験や、子どもたちの編み出す意味世界は、こうした統計的データでは取りこぼされてしまうように思った。そこで相互行為を記述することで、「その人の世界を生きてみる」という方法を選んだ。

富沢寿男. 2009.「フィールドワークーー作法を学ぶ(1)」日本文化人類学会(編)『文化人類学事典』丸善, pp. 706-711.


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