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【書評】平野啓一郎「本心」
静かに、しかし消えることのない確かな余韻を残す小説である。愛する人を亡くした経験のある人には、この物語があなたの心に寄り添ってくれるだろう。
亡くなった最愛の母親をアバターで再現するという近未来SFの形をとりながら、人の心の奥深さを描き出す。
とにかく、人の心の繊細な動きの描写が見事である。例えば、相手に寄せる淡い想いは「好き」という言葉で描いたとたんに陳腐に感じられてしまう。人の感情というの
【書評】空白を満たしなさい
平野啓一郎の『空白を満たしなさい』を読んだ。
世界各地で、死んだはずの人々が蘇る不思議な現象が起こる。三年前に会社の屋上から転落し自殺したとされる男、徹生もまた蘇る。妻と赤ん坊を持ち、仕事にもやりがいを感じていた徹生は、自分が自殺するはずがないと信じ、自分の死の原因を究明し始める。そして衝撃的な事実に直面する・・・。
この物語は、死者が生き返るというSFミステリー的な設定を持つが、その本質は生
感情カクテル ~失望した夜に(短編小説)
そのバーの名は「エモーション」。賑やかな夜の街に建つ、どこにでもありそうな雑居ビルを地下一階に下りたところにある。10席くらいのカウンターと小さなテーブルを並べた、こじんまりしたバーだ。こうした店に多くの人が持つであろう期待を裏切らない、黒いベストに蝶ネクタイを締めたマスターが、若干薄くなった白髪交じりの髪をオールバックに決めて、今夜もカクテルシェイカーを振る。
見るからに普通のバーである。
【短編小説】感情コレクション
その不思議な男に出会ったのは、仕事帰りにふと立ち寄ったバーだった。その男は先客として、カウンターで一人で飲んでいた。歳は自分と同じくらい。三十半ばだろうか。人懐っこそうな表情に、オーダーメイドであろう高級なストライプスーツを身に着けている。黒い皮張りの大きなアタッシュケースを足元に置き、カクテルのグラスを傾けていた。
バーの客はその男と自分だけ。どちらともなく、会話が始まる。いまどき珍しいそ
必死な男たちの季節(ショートショート)
この季節がやってきた。夏も終わり、涼しく気持ちの良い気候につられて、大勢の若い男たちが街に繰り出し、ナンパに精を出す。
どの男も必死だ。女の子の気を引くために、めいめい工夫を凝らしている。ある者は黒いスーツでビシッと全身を固め、朗々とよく響く声で女の子に男らしさをアピールする。別の者は秋らしいブラウンのロングコートをまとい、艶のある甘い声で自分の優しさを訴える。あちらの男は派手な緑のジャケッ
【短編ホラー小説】左手
ある、郊外の住宅地。なだらかなカーブの道端で、二人の中年女性たちが神妙な面持ちで話している。
「昨日、ここで自動車事故があったらしいね」
「そう、車がガードレールに衝突して、運転していた男の人が亡くなったそうよ。可哀想に」
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その事故の三か月前。
田辺はいつものように、愛車のマセラティを駆って街中をドライブしていた。歩行者たちが羨望のまなざしを向けているのが分かる。4600ccのエン
【短編小説】ドクダミの家
「日本全国に空き家は846万戸あり、その数は増えている。空き家はやがて老朽化し、廃屋となる」
驚いたな。空き家ってそんなにあるのか。スマホの検索画面を閉じる。さて、どうレポートをまとめようか。目をつぶって考える。
「現代社会の住宅課題」という大学のレポート課題に、僕が選んだテーマは「空き家問題」。自宅周辺でも、空き家が増えているような気がしていたからだ。現地を調査することがレポートの条件で、「