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今日も、夢の中へ

こんな経験はないだろうか。

目的地に向かって歩こうとしているのに、足が思うように動かない。約束の時間に間に合おうと焦って足を必死に動かそうとするのに、それでも動かない。自分の足なのに、自分の足ではない感覚。目的の場所は目の前に見えているのに、たどり着けない焦燥感。

そこで目が覚める。夢だったのか。よかった、と安心する。

きっとこんな夢も見たことがあるだろう。

どこか懐かしい景色が広がっている。何か切ないその場所に自分は立っている。あてもなく歩く。普段から気になっていたあの丘の上の向こう側、そこに初めて行ってみる。そこには広々とした美しい野原が広がっていて、自分はただそこに佇む。ただ、懐かしく、「ああ、ずっと探していた自分の場所に帰ってきた」。そんな感覚に包まれる。

しかし、目が覚めるとその場所はもうない。こちらが現実なのか。夢の中の懐かしい場所に自分はもういないことを悲しむ。

人は様々な夢を見る。しかし、夢と現実の境界は曖昧だ。夢で見た内容は、目が覚めるとすぐに忘れされてしまう。手のひらからこぼれる落ちる砂のように。残るのは確かに夢はあったということだけを伝える数粒の記憶だけだ。

けれども、夢を見ているとき、景色と音は鮮明に立ち現われ、意識も存在する。脳にとって夢の世界は紛れもなく現実である。夢の中に、身体の実物はなくても、心はそこにある。自分は確かにそこにいる。

さらに言えば、私たちが「現実」と考えているこの瞬間の体験が、果たして「夢」でないと言えるのだろうか。夢は覚めるが、果たして私たちはいつかこの「現実」から覚めないのだろうか。この現実は、まだ覚めていないだけの夢なのかもしれない。

「夢」も「現実」も、脳が心の中に作り出した風景という点では変わりはない。外部刺激のソースが、脳自身が作りだして心に投影したものなのか、眼、耳など身体の感覚器官から入ってきたものなのか、の違いがあるだけだ。どこから情報が入ってきたとしても、それは私たちに認知されて「意識」として現れる。その意味では「夢」も、意識のレベルでは「現実」と呼べるのではないだろうか。

夢の中にもう一つの「現実」がある。そう考えれば、世界が少し広がるような気がしないだろうか?

そんなことを考えながら、今日も、いい夢が見られますようにと願い、眠りにつく。

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