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感情カクテル ~失望した夜に(短編小説)

 そのバーの名は「エモーション」。賑やかな夜の街に建つ、どこにでもありそうな雑居ビルを地下一階に下りたところにある。10席くらいのカウンターと小さなテーブルを並べた、こじんまりしたバーだ。こうした店に多くの人が持つであろう期待を裏切らない、黒いベストに蝶ネクタイを締めたマスターが、若干薄くなった白髪交じりの髪をオールバックに決めて、今夜もカクテルシェイカーを振る。

 見るからに普通のバーである。違うのはカクテルだ。この店では、お酒ではなく、感情をシェイクする。今宵も、お好みの感情にあなたを酔わせます・・・。

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今晩のお客は 、34歳の会社員、小杉。
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 「くそ、なんで俺が昇進できないんだ!」

 「エモーションー」のカウンターで、小杉は一人、心の中で怒りをぶつけていた。
 
 小杉は今の会社に新卒で入社し、これまで順調に昇進してきた。小杉の会社の人事制度は、社員を等級でランク付けしている。大卒は 2級 から始まり、3級、4級と上がっていく。同じ年に入社した大卒同期の中で、小杉は、最速で出世してきた。4年前には5級に昇級し、課長代理の肩書もついた。小杉と同じタイミングで課長代理になれたのは、同期の中では2割しかいない。

 小杉は同期の出世レースで先頭集団を走っているという満足感と、これからも最速で出世の階段を上り続けてやろうという気持ちをエネルギーにして、6級への昇級を目指して仕事に励んできた。6級になれば、いよいよ課長だ。他の社員が(小杉さん、最速で課長に昇進したんだって)とささやきあう。羨望の眼差しを受ける自分の姿を想像しながら、その時を心待ちにしていた。

 しかし、先週の人事発表で、新課長の任命リストに小杉の名前はなかった。 小杉の会社では、昇進の人事ニュースが発表される前に、上司から内示を受けるのが慣例だ。部長に呼ばれるのを心待ちにしながら、表面上は興味なさげな表情を取り繕って一日をすごした。結局、部長から呼び出されることはなく、翌日の人事発表にやはり小杉の名前はなかった。人事発表の後にあった部長との面談では「残念だろうが、引き続き頑張ってほしい。期待しているよ」と言われたが何の慰めにもならない。あるのは、昇進できなかったという事実と、失望だけだ。

 「あんなに頑張ってきたのに昇進できないなんて。くよくよ考えてしまって・・・」

 小杉は、深いため息とともに、マスターに愚痴をこぼした。

 「会社に失望しました」
 
 今回、昇進して先頭集団に残った同期は 1割くらいだろう。仕事に打ち込み、高い成果を出し続けているやつらばかりだ。昇進者の人選には納得感がある。そこに自分が入っていないこと以外は・・・。

 「会社組織にいる以上、昇進できなかった事実を受け入れないといけない。それは分かってる。けど、悔しい気持ちでいっぱいで、何をする気にもなれないんです」 

 そんな小杉の様子を静かに見ていたマスターが言った。

 「それはさぞ残念でしょう。過去は変えられないから前だけを見て進め。そんなことを言われても何の慰めにもならないと思われるでしょう。けど、やはり、人間は前を向かなければいけません」

 マスターは続ける。

 「”自然は真空を嫌う”という格言があります。アリストテレスの言葉です。自然界では、空間が空くと、別の何かがすぐその空間を埋めてしまうということです。人の心も同じです。今まで、小杉さんの心は、仕事で成功しようとする”希望”で満たされていました。しかし、昇進が得られなかったことによって心に空白ができてしまい、”失望”で埋めつくされてしまっているんです」

 「今日は、小杉さんが前向きな気持ちになれるよう、”希望”をブレンドした特製の感情カクテルをおつくりしましょう」
 
 マスターはそう言うと、背後の酒棚に何百と置かれているガラスの小瓶たちの中から、一つを取り出した。

 「この店に置かれたそれぞれの小瓶には、世界中から集めた様々な種類の感情が入っています。こちらの瓶に詰められているのは ”希望” です」

 そう言うと、マスターは、光沢の美しいカクテルシェイカーを取り出し、 ”希望” と書かれた小瓶の空気を、慣れた手つきでシェイカーの中に移す。
 
 ミントリキュール、カカオリキュール、生クリームをシェイカーに加え、細かく砕いた氷とともにシェイクする。シェイカーに入れられた個体、液体、気体。はじめは硬くせめぎあう音を響かせていたが、やがて、一つの波となりなめらかな音を奏ではじめた。

 カクテルの出来上がりだ。木々の新芽のようにあざやかな青緑色の液体を、マスターがグラスにさっと注ぐ。

「さあ、できましたよ」

 小杉はグラスを手に取り、一口含む。
 
 「うまい・・・」
 
 リキュールと生クリームのやわらかい甘さが、こわばった全身をほぐしてくれるようだ。小杉はさらにグラスを口に運ぶ。
 
 しばらくすると、新緑に包まれるような感覚が小杉の心を満たした。
 
 「そういえば、スーツを新調しようと思っていたけど、ずっと行けてなかったな。ついでに新しい鞄も買おうか。今度の休みに買い物に行こう」
 
 「この年末は、家族で温泉にでも行ってゆっくりしたいな。そうだ、旅行サイトで探してみよう」
 
 「そういえば新人の竹山が何か相談したそうにしていたな。今度ランチに誘って悩みを聞いてやろう」

 小杉の心の中に、やりたいこと、やるべきことが次々と浮かぶ。いつの間にか、小杉はその予定を立てるのに夢中になっていた。「自分はやるべきことを持つ、社会にとって意味のある存在である」ということ。同時に、「自分はやりたいことを持つ、意思のある存在である」ということを小杉は感じた。

 マスターが言った。

 「どうですか。”希望”というのは、そんな大それたことではないんです。明日のランチに何を食べるか。そんな目先のことでいいんです。どんな小さなことでもいい。先のことを考え、自分を忙しくしてやるんです。そうやって、失望が入り込む隙間を埋めてしまうんです。まあ、そうは言っても、過去の嫌なことはどうしたって心に舞い戻ってきます。そんな時は、それを消そうとあらがうのではなく、とにかく何でもいいから未来の楽しみについて考えればいいんです」

 小杉は頷き、グラスを置いて大きく伸びをした。そしてスマホのカレンダーアプリを開き、さっき思いついた予定をさっそく入力した。(このカレンダーみたいに、心もびっしり先のことで埋めてやろう。
 
 自分は、自分のやるべきことをなすだけだ。そうだ、明日出社したら、同期で昇進した奴らに「おめでとう」とメールを出してあげよう。そう予定を一つ追加し、小杉はスマホの画面を閉じた。

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本作はシリーズ化予定です。フォローをいただけると大変うれしいです <(_ _)>

#酔えないシェイク #感情カクテル


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