見出し画像

【短編ホラー小説】左手

ある、郊外の住宅地。なだらかなカーブの道端で、二人の中年女性たちが神妙な面持ちで話している。
「昨日、ここで自動車事故があったらしいね」
「そう、車がガードレールに衝突して、運転していた男の人が亡くなったそうよ。可哀想に」

*****
その事故の三か月前。

田辺はいつものように、愛車のマセラティを駆って街中をドライブしていた。歩行者たちが羨望のまなざしを向けているのが分かる。4600ccのエンジンをふかしてやれば、大体の車はビビッて道を譲る。この優越感が田辺の何よりの楽しみだった。

自分は選ばれた人間である。田辺が初めてそう意識し始めたのは小学生に上がったころだ。老舗旅館の跡取り息子として生まれ、なに不自由なく暮らしてきた。親からは「お前は将来社長になるんだ」と言い聞かされてきた。旅館の従業員も、ことあるごとに田辺を誉めそやした。「未来の社長である自分へのおべっか」に過ぎないと子供ながらに分かっていたが、他人が自分にへつらう優越感が田辺には心地よかった。五代目の社長として会社を継いだのが3年前。現在、40歳と、この業界にあっては比較的若い年齢のおかげもあり、「新世代経営者の旗手」としてテレビ番組で紹介されたこともある。

「よし、今日はもう少ドライブしてみるか」

繁華街を抜けて、郊外の住宅地に入った辺りでスピードを上げた。時速100kmに5秒足らずで加速可能なエンジンが、艶めかしく狂暴な音をたてる。全身に鳥肌が立つ。なだらかなカーブを抜け、さらにアクセルを踏んだそのとき。

「バンッ」と何かに衝突した音がした。続けざまに車の後ろの方で何かが地面に叩きつけられたようなにぶい音がする。

慌てて車から降り、ぶつかった”物”に近づこうとするが、はたと足を止めた。薄暗い中ではっきりとは見えないが、明らかに人間らしき姿と、ひしゃげた自転車が横たわっている。

田辺は逃げた。車も人通りも少ない時間帯だったのが幸運だった。対向車にあうこともなかった。やはり自分は特別な存在なんだ。自転車に乗った庶民を一人轢いたからってなんだ。自分は許される存在だ。いや、そもそも許される必要すらない。自分とあいつらでは住む世界が違う。下々の世界の人間が一人いなくなったからって、それが自分に何の関係がある。

隠せばいい。車の傷とへこみは、相場の10倍の金を握らせてある自動車修理業者に修復させた。ネットのニュースによると、轢かれたのは自転車で帰宅途中だった75歳の老女。通りかかったトラックに意識不明の状態で発見され、病院で治療を受けたものの出血多量で死亡した。警察が轢き逃げ事件として捜査を開始したが、目撃情報はなく捜査は難航しているらしい。田辺は安堵した。その後、事故については何も新しいニュースは出てこない。逃げ切れた。

そのうち事故のこともすっかり忘れ、田辺はいつも通りの生活に戻った。会社では周囲のおべっかに満足しながら、特に意味のない社長指示を、勿体つけて従業員たちに伝える。創業家一族の社長に逆らう者などいない。田辺にとって、仕事は自分の自尊心を満たすための退屈しのぎに過ぎなかった。夕方になれば、高級ブランドに身を包んで経営者仲間たちと飲みに出かけるか、マセラティのエンジンを吹かせる。これこそが自分にふさわしい居場所だ。

そんなある日、田辺はちょっとした異変を感じた。ふと自分の両手を見ると、右手に比べて、左手の甲の血管が少し浮き出ているように見えた。「昨日飲みすぎたせいか」。そのときはあまり気にとめずにいたが、日に日に左手の異常が目立つようになっていた。肌がしぼみ、骨と血管が浮き出てきた。日照りでひからびた大地をミミズが這っているようだ。「これじゃ年寄りの手みたいじゃないか」。体の他の部分には何の異常もない。ただ左手だけが、急に老化してしまったかのようだ。

病院で診てもらったが、担当医師も首を傾げるだけだった。左手の機能は正常で、痛みもない。見た目だけが、老人の手になってしまった。日常生活を送るには何の問題もないため、しばらく様子を見守ることにした。左手を隠すため、人に会うときには手袋をはめ、アレルギー性の皮膚炎と言ってごまかした。

「くそっ、なんで自分がこんな目に合わないといけないんだ。特別な存在である自分の人生は完璧でないといけない」

田辺は苛立ち、些細なことをあげつらい、従業員たちに当たり散らした。

病院に行った週の土曜日、田辺はストレスを発散するためドライブに出かけた。いつも以上にアクセルを踏み込む。体全体を覆う高揚感にしびれる。猛スピードで走るマセラティの迫力に、前を走る車たちは次々と道を譲る。

「そうだよ、俺は特別。一般人はどきやがれ」

田辺は、左手のことを忘れ、運転に熱中した。

ふと気が付くと、轢き逃げ事故を起こした場所にさしかかっていた。あのなだらかにカーブした道。「くそ、むかつく。こんな場所はさっさと抜けててやる」、とカーブに合わせてハンドルを切ろうとする。

突然、左手がぐっとハンドルを押し戻した。必死にハンドルを回そうとするが、左手は全く動かない。干からびて老人のような手になった見た目からは想像もできない強い力で、まるで自らの意思をもったように、ハンドルを固定して動かない。慌ててブレーキを踏んだが遅かった。加速し過ぎた重い車体は、ガードレールを突き破り、そのまま横転して大破した。

*****
その翌日。再び、二人の年配の女性たちの会話。

「高級外車で、もの凄いスピードを出していたんだって。カーブを曲がろうとした形跡がなかったらしいよ」

「亡くなったのは可哀想だけど、スピード違反だったのなら、自業自得かもね」

「そういえば、このすぐ近くでお婆さんが轢き逃げされた事件を覚えてる?三か月くらい前だったかしら。その事故のことで、ちょっと不思議な話を聞いたの。何でも、発見されたとき、お婆さんの左手がなかったんだって。車に跳ね飛ばされたときに、ガードレールにぶつかって切断されたんじゃないかって話なんだけど。奇妙なことに、その左手はまだ見つかってないらしいの」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?