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紛争と日常: 我々ができること

ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとハマスの戦争。これらの連日の報道に、多くの人々は無力さを感じていることだろう。国家の存亡や自分たちの生存をかけて戦う人々の大きなうねり。その中で起こる人道的な悲劇に対して、我々は圧倒的に無力であると感じるかもしれない。

こんなとき、我々はどのような態度をとるべきなのか。

こんな話がある。

嵐が過ぎ去った後の砂浜を歩くある老人。浜には無数のヒトデが打ち上げられていた。そして、その浜には一人の少年がヒトデを拾っては、海に返していた。老人は少年に問いかけた。「こんなことをしても、全てのヒトデを救うわけにはいかない。何の意味があるの?」少年は、ヒトデを再び海に投げ返し、笑顔で答えた。「でも、このヒトデにとっては命が救われたんだよ。」老人はうなずき、少年と一緒にヒトデを海に返し始めた。

我々が戦争の報道に心を痛めるのは、ミサイルで死んだ少年がもし自分の子供だったら、と想像するからだ。自分や愛する人たちをその状況に置き換えて考えると、戦争の悲劇はただの数字や映像ではなく、現地で苦しむ一人ひとりの存在として感じられる。

感情は個人的であり、客観的な悲しみは存在しない。だから、我々の感情の原点は、日常で直接接する人々との関係にあるのだ。

ウクライナやガザでの悲劇を止める力は我々にはないかもしれない。しかし、身近にいる人を助けることはできる。大きな世界を変えるのは難しくても、誰か一人の日常を変えることはできる。その一人の世界が変われば、それは十分な意味がある。

多くの人は「私には何もできない」と感じるかもしれない。だが、小さな行動が積み重なれば、大きな影響をもたらすこともある。私たちが今、とるべき行動は、身の回りの人々への思いやりとその続きの行動だ。それが、やがて多くの人々の心に届くかもしれない。大きな変化を生み出すには、まず身近な場所から始め、それが大きな力に変わることを信じることだ。

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