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「約束の地」と「一枚の水墨画」

 二〇二四年 四月下旬。

 その日、わたしは、新幹線で京都駅に降り立ってから、「湖西線」に乗り換え、昨冬とは、また違った場所の「琵琶湖へ」と、向かっていた。

 四月生まれの夫は、その少し前に、無事に、六十九歳の誕生日を迎えていた。

 いくつかの病いを乗り越え、今も、元気で働いてくれている夫に、こころのなかで、こっそりと、感謝しつつも、わたしは、また、ひとりで、自分のための「約束の地を探す旅」に出ているのだった。

 毎年、四月に、夫が誕生日を迎えると、

 ーーあと半年後には、わたしも、またひとつ、歳を取るのだなぁ。

と、自覚させられる。

 あたりまえだけれど、いくつになっても、夫は、わたしの「先輩」なのだ。

 そんな、とりとめもないことを考えながら、ぼんやりと、「車窓の景色」を眺めているうちに、電車は、いつの間にか、京都の街なかを過ぎて、「滋賀県」に、入っていた。

 たくさんの水をたたえた「大きな琵琶湖」が、遠くに、光っているのが、なんとなく感じられる。。

 しばらくすると、卒然と、視界が、開けた。

 小さな家々や田畑の先に、「ひときわ大きな湖水」が、一面に広がっているのが、眼の前に、見えて来たのだ。

 たまたま同じ電車に乗り合わせている「その土地のひとたち」にとっては、「いつもの見慣れた景色」でしかないのか、「見えて来た湖水」に関心を向けるひとは、ほとんどいない。

 窓の外には見向きもせずに、皆それぞれ、携帯を覗いたり、話し込んだり、本を読んだり、しているのだった。

 けれども、「旅人のわたし」は、そうは、いかなかった。

 唐突に現れた「その景色」に、充分過ぎるほどに、「刺激」を受け、完全に、「眼を奪われて」しまったのだ。

 「湖水」を、出来るだけ、身近に感じたいと願ったわたしは、いつの間にか、座っていた席から、自然と、腰を浮かし、少し、前のめりになって、身を乗り出していた。

 雨こそ降っていなかったけれども、わたしの旅にしては珍しく、空は、どんよりと曇っている。

 「湖水の色」と「空の色」とが、まるっきり同じ、「薄い鈍色」なので、「大きな琵琶湖」が、さらに大きく、まるで「空にまでも続いている巨大な湖」のように、見えてしまうことに、気が付いて、わたしは、普通に、驚いていた。

 空を覆い尽くしている雲の、ちょっとしたすき間から射し込む、淡く白い「お日さまのヒカリ」を受けて、「湖水」は、全体的に薄い白っぽい色合いのなか、地味に、キラキラと、輝いている。

 垂れ込めている雲は、かなり分厚くて、ずいぶんと曇っているはずなのに、どうしてか、ぼうっと煙る遠い対岸の山までもが、不思議と、うす黒っぽく、見渡せるのだった。

 あまり見たことがない、「幽玄で幻想的な光景」が、そこには、広がっていた。

 ーーまるで「水墨画」みたい。

 わたしは、思わず、そう、呟いた。

「湖西線」は、湖岸のぎりぎり間際を走るので、「水墨画のような風情の琵琶湖」は、わたしの眼の前に、延々と、広がり続けた。

 ーー「琵琶湖」には、いろんな色が、複雑に、隠されている。

 ーー同じ「ヒカリ」を受けても、塩からい「海」とは、また少し、「違った光りかた」をするからかもしれない。

 「薄い鈍色一色に覆われた大きな湖水」から、わたしは、なぜだか、「たくさんの色」を、受け取ったような、そんな気がしていた。

 延々と、「鈍く光る湖水」を眺め続けているうちに、普段抱えている「現実的な日常」は、わたしのなかから、少しずつ、少しずつ、消えて行くように思われた。

 入れ替わるように現れた「ひとりぼっちの自由」は、「光る湖水」と出逢って、まあるく波紋を描き、大きく大きく広がってゆく。。

 それは、「光る湖水」の上で、旋回しているうちに、図らずも、「新しいかたちの自由」へと、姿を変え、やがて、迷わずに、わたしのほうに、舞い戻って来て、再び、こころのなかに、ぴたりと収まった。

 そんな光景が、一瞬、透けて見えたような、不思議な感覚が、したのだった。

 ーー大丈夫。きっと、今回の旅も、また、わたしを、「無限の想像の世界」へと、連れて行ってくれるはず。。

 もう、すでに、半分くらい、「想像の世界」に入り込んでいたわたしは、そんなことを想いながら、「鈍く光る、水墨画のような湖水」を、飽きることもなく、じっと、見つめていた。

   
    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 
 午後三時過ぎ。

 北上を続ける湖西線は、やがて、「近江高島」という町に、着いた。

 電車のドアが開く。

 駅のホームに降り立ったひとは、たったひとり。

 わたしだけ、だった。

 ホームには、駅員さんさえ、居なかったのだ。

 背後には、さほど高くない、みどりの濃い山が、迫っている。

 出口へ向かうの階段の方向に歩き出すと、山の向こうの、ずっと奥のほうから、ただならぬオーラが、送られて来ていることに、わたしは、気が付いた。

 ーーこのオーラは、わたしを歓迎しているのか、それとも、来るなという信号を発しているのか、どちらなのだろう。。

 ーーちゃんと、見極めないといけない。。

 目的地に着いて安心したのも束の間、正体不明の「不穏な空気」に、遭遇したわたしは、高架のホームから、眼下に広がる町の景色を見渡しながら、ほんの少し、不安を覚えた。

 「近江高島」は、湖西地方の、湖岸に位置している町である。

 見えはしなくとも、山の反対側の、平たい土地の先には、「大きな琵琶湖」が、一面に、広がっているはずなのだ。

 「開けている山里」。

 矛盾しているけれども、わたしは、そんな印象を受けた。

 それに加えて、あくまでも「のどか」なのだけれど、どことなく、「古戦場」を思わせる血なまぐさも、今だに、漂っているような、そんな雰囲気の「町」にも、感じられた。

 京都から乗ったわたしは、料金の精算が必要なのだけれど、どこを探しても、駅員さんが居ない。

 仕方がないので、そのまま改札口を出てみたら、きっぷ売り場に、駅員さんとお話が出来る「コールボタン」が、設置されていた。

 ようやく精算を済ませて、駅前に出ると、今夜宿泊する予定の旅館の「看板」が、遠目に見えた。

 ーー良かった。間違えずに辿り着けた。

 心底、ほっとした。

 方向音痴で、地図を読むことも苦手なわたしにとっては、初めての土地に、無事に辿り着けたことだけで、もう、すでに、「賞賛に値すること」なのである。

 明治初年からその場所にあるという、わたしが選んだ老舗旅館は、駅のすぐ近くに在ったから、さすがのわたしでも、迷わずに、行き着けそうだった。

 結構な重さの旅行カバンを、右手に下げて、わたしは、おそるおそる、駅の出口から、「町なか」に、出てみた。

 道を、歩いているひとも、やっぱり、誰ひとり、いなかった。

 自動車が、一台、すうっと、駅前の、少し広めの道路を、通り過ぎて行った。

 その道路を、横切った先に、良く知った名前のコンビニが見えたので、わたしは、そこで、お菓子を買って、店員さんに、宿までの道順を、一応、確認してみることにした。

 「Google map」で見れば、きっと、すぐに、分かるのだろうけれど、なんだか、その土地のひとと、話してみたくなったからだ。

 店員さんは、普通に、「渋谷」にでも居そうな、ひとつの訛りもない、可愛らしい「若い男の子」だった。

 ーーあ、そうです。そうです。まっすぐ行けば、もう着きます。

 にっこりして、親切に、教えてくれた。

 教えられた通りに、まっすぐ歩いて、旅館に着き、呼び鈴を鳴らすと、口数は少ないけれども、親切そうな、中年のご主人が、出て来て下さった。

 いろいろ説明を受けたあとに、鍵を戴いて、わたしは、案内を受けた二階の部屋に、ようやく、落ち着いた。

 ーーふう。

 これで、今日一日のミッションは、終了だ。

 和室の八畳間は、わたし一人には、少し広すぎる感じもしたけれど、のびのび出来て、気持ちが良い。

 板間の廊下に置かれた椅子に座って、まだ明るい外を眺めると、すぐ前に、琵琶湖に通じているかと思われる、至極古い船着き場が、見えた。

 部屋の窓から、直接に、湖水が見えるわけではないのだけれど、船着き場の向こう側には、もう、すぐに、大きな琵琶湖が広がっているんだろうな、と、容易に、想像出来るような風景だった。

 ーー琵琶湖のすぐ近くに居るのだ。

という感覚が、何故か、わたしを、とても「しあわせな気持ち」にしていた。

 ーー身内なんかひとりもいないし、これまで訪ねたことさえなかった琵琶湖に対して、こんなにも安心感を抱いてしまうのは、ほんとうに、不思議なことだ。。

 ーーはじめて琵琶湖に対面した、前回の旅のときは、湖水から立ち昇る「大きな悲しみ」に、圧倒されそうになったというのに、今回は、こんなにも近づいて、ずうっとそばにいるのに、もう、ちっとも、悲しくない。

 琵琶湖は、「再会」を喜んで、わたしに向かって、微笑んでくれているようにさえ、感じられるのだった。

 ーーもしかしたら、今回は、「祝福」してくれている?

 貸し切りのお風呂に、ひとりで入って、ゆっくりと寛ぎ、食堂で、手づくりの、美味しい夕餉を頂いたあと、部屋の窓の向こう側に、広がっているはずの琵琶湖を感じながら、布団だけは、自分で敷いて、書き物をしているうちに、わたしは、いつの間にか、眠りについた。

 
    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 
 翌朝。五時十分。

 わたしは、近江最古の大社として知られる「白髭神社」の「展望台」に居た。

 ちょうど「日の出」の時刻である。

「やっぱり、見えませんねぇ。結構明るいのに。。あの雲が、どうしても、邪魔してますね。残念。。」  

 わたしの隣で、カメラまでセッティングして、待機していた女性は、そう言って、悲しそうに笑った。

 わたしが、「近江高島」に宿泊したのは、その駅からごく近くの湖岸に、鎮座ましている「白髭神社」で、「日の出」を観てみたいと思ったから、だったのに、今回の旅は、どうにも、お天気が良くない。

 だんだん明るくなって来た空は、全体的に鉛色で、湖水は、鈍く、「真珠色」に光っていた。

 「日の出」の方向を、ちょうど、ぴったりと、分厚く伸びた雲が覆っていて、明るい感じはしているのに、「お日さま」の姿だけは、少しも、見えて来ない。

 薄日は、射しているから、対岸までも、ちゃんと見渡せるし、湖水に立つ、観光スポットとして有名な「大鳥居」は、くっきりと、赤く、光って、見えている。

 さらには、大鳥居の後ろ側にある、琵琶湖内で最大の島である「沖の島」までも、充分きれいに、見えているというのに、「お日さま」だけが、どうしても、見えないのだった。

 頑張って、早起きして、出向いて来た人びとは、みんな、一様に、がっかりして、いろいろに、呟きながら、三々五々、「展望台」を、降りて行った。

 きのう見たみたいな、「まるで水墨画のような琵琶湖」が、またまた、わたしの眼の前いっぱいに、広がっている。

 ーー今回の琵琶湖は、ずうっと、「水墨画」なのかな。

 「湖水」を照らす、薄墨のような空は、晴天とはまた別の「風情」があって、それなりの美しさを演出してくれていたから、たとえ「日の出」が観れなくとも、わたしは、そんなにも、がっかりしては、いなかった。

   
    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 
 琵琶湖の「白髭神社」は、全国にある「白髭神社」の「総本社」として、名高い。

 「御由緒」には、今から二千年以上前の、第十一代崇神天皇の御代二十五年に、倭姫命により、創建されたと書かれている。

 社殿自体は、一六〇三年に、大公秀吉の遺命を受けた豊臣秀頼と淀君の寄進によって、再建されたものである。

 御祭神は、「猿田彦命(サルタヒコノミコト)」。

 「猿田彦命(サルタヒコノミコト)」とは、「古事記」や「日本書紀」の、「天孫降臨の段」に登場する「国つ神」で、天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた「邇邇芸命(ニニギノミコト)」を、道案内したとされている「神さま」である。

 一般的には、鼻が長くて、赤い顔つきの、天狗のような風貌の神さまとして、知られている。

 「猿田彦命」は、その登場のしかたから、「道開きの神さま」とされていて、何か新しいことをはじめるときに「お参り」をすると、「良いお導き」を示して下さると謂われている。

 「白髭神社」の御由緒には、御祭神は「猿田彦命」と書かれているのだけれども、同時に、別社名として、「白鬚明神」と「比良明神」とが挙げられているので、そのことから、もともとは、「猿田彦命」の神社ではなかったのではないか、ということが、暗々裡に、推察される。

 「白髭神社」は、御由緒をそのままには受け取れない、謎の多い「神社」なのである。

 
    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 
 「日の出」を見ることができなかったわたしは、迎えに来て下さった、親切なご主人の車に乗せてもらって、また、旅館へと、戻った。

 そうして、温かい朝ごはんを頂き、チェックアウトを済ませ、今度は、タクシーに乗って、もう一度、「白髭神社」へと、向かったのだった。

 「まぁ。埼玉からいらしたんですか。ずいぶんと、遠いところから、来て下さったんですねー。」

 タクシーの運転手さんに、妙に感心されながら、わたしは、国道161号線の左手に、ずうっと広がっている「琵琶湖の湖水」を、また、熱心に、見つめていた。

 朝よりは、大分、お天気は、良くなって来ていたけれど、空は、まだ、青空とは、ほど遠い。

 したがって、湖水も、相変わらず、白っぽい「真珠色」のまま、鈍く、地味に、光っていた。

 早朝に、お訪ねしたとき、拝殿で、お賽銭を上げ、一応、お参りはしたのだけれど、わたしには、まだ、白髭神社の敷地内で、行かなけれはならない場所が、残されていた。

 山の斜面を登った先の、奥まったところに位置している「岩戸社」である。

 「白髭神社」の、拝殿の後ろ側は、背後に控える山に通じていて、その山には、「白髭神社古墳群」と呼ばれている「古墳」が、いくつか、点在している。

 そのうちの一号が、「岩戸社」として、祀られているのだ。

 「岩戸社」のなかには、横穴式石室の開口部が見えていて、「天の岩戸」として祀られているらしい。

 開けて調べることが出来ないために、特定することが出来ないのだけれど、それらの古墳は、かつてこの土地を統べていた有力豪族の「お墓」なのではないか、とも言われているのだった。

 そのことから、「白髭神社」は、ヤマト政権が、その勢力を拡大する以前から、「土地神さま」として、この土地に鎮座ましていた可能性があって、「祭神」として祀られている「猿田彦命」は、この地に、ヤマト政権の勢力が及ぶようになってから祀られた、後付けの「神さま」なのではないかと推察されるのである。

 「猿田彦命」=「白髭明神」なのかどうかについては、よくわからない、としか言いようがない。

 「国つ神」として、「古事記」や「日本書紀」に、突然現れる「猿田彦命」という神さまが、果たして何物なのかということ自体が、「謎」過ぎて、諸説が、入り乱れているからである。

 それでも、「白髭明神」については、その神さまは、もとは、「新羅明神」であって、神社の名前も、もともとは、「新羅神社」だったのではないかと、推察している研究者たちが、結構いる。

 「新羅明神」だったものが、時間の経過のなかで、語彙変化を起こして、「白髭明神」になったのではないか、というのである。

 そもそも、「近江」は、縄文時代の昔から、「濃密な渡来人の里」と言われていて、いくつかの、いわゆる「海の道」を通って、時代ごとに、幾度も、たくさんの朝鮮のひとたちが、流れて来た土地柄である。 

 特に、「新羅」のひとたちの「活動」の痕跡は、かなり昔から、「遺跡」となって、そこここに、見られている。

 なぜなら、「新羅」から渡来したひとたちは、その当時の、最先端の「技術者集団」であって、「活動すること」が、そのまま、結果として、さまざまな、技術や文化の伝播を担うこと、に繋がっていたからである。

 歴史家の「金達寿氏」は、その著書のなかで、「神社」とは、もともとは、「新羅」における「祖神廟」から発祥していて、それは、朝鮮の「三国史記」に詳しく書かれていると、述べている。

 要するに、日本に、「神社という文化」をもたらしたのは、「新羅からの渡来人」である、と語っているのである。

 また、「金達寿氏」は、「水野祐氏」の著作である「古代の出雲」から引用して、「古代出雲」において、「新羅」からの帰化人が、その「祖神」である「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」を斎き祭ったのが、日本における「神社のはじまり」である、とも指摘している。

 それは、「水野氏」によれば、西暦紀元「一世紀ごろ」のことであるという。

 多くの渡来人たちが、弥生時代になってからも、「倭」を訪れ、「製鉄」や「農耕」などの「技術」を伝えながら、住み着き、そのうちに帰化し、やがて、混血し合った人びとが、少しずつ、「日本人」となって行ったのだとすれば、日本の文化は、「渡来人からはじまっている。」ということに、なるのかもしれない。

 そもそもが、日本の文化には、朝鮮や中国を中心とした、さまざまな外来文化を取り入れながら、それらを、絶妙に、「日本式」に「変容」させつつ、形造られて来たという特色がある。

 大昔から、渡来し続けて来た人びとの、どこからを、「日本人」とするのか、という「線引き」は、かなり、曖昧で、難しい。

 そのうえ、「歴史の記録は、常に、その時代の勝者が形造って来たもの」であるから、「真実」は、限りなく、隠蔽されている可能性が高い。

 「国譲り神話」という名目で語られる「ヤマト政権」による支配の拡大が、「新羅系」であった「古代出雲」を滅ぼし、その「歴史」を「封印すること」からはじまったとするならば、「新羅明神」=「白髭明神」が、ヤマト政権の協力者であったかのような「猿田彦命」に、取って代わられたとしても、それはそれで、「頷けるおはなし」では、あるのだ。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 
 タクシーから降りたわたしは、改めて、鳥居をくぐり、拝殿に、もう一度、お賽銭を納めた。

 二礼二拍手。一拝。

 ーーどうか、わたしに、更なる「気づき」を、お授け下さい。

 手を合わせて、そう、祈った。

 すると、薄日が差している空から、とても細かな雨が、ふんわりと、降って来たのだ。

 それは、霧雨のような類いの細かさで、不思議と、柔らかな温かさを感じる雨だった。

 ーーあの時と同じだ。。

 二〇〇七年に、訪ねた、大和(奈良)の「大神神社」で、「山の辺の道」を、「元伊勢」まで歩いていたわたしに、同じような「温かな霧雨」が、降りかかって来たことを、わたしは、懐かしさと共に、思い出した。

 ーーもしかして、わたし、この場所に、「祝福」されている?

 そんなことを思いながら、わたしは、拝殿を後にして、奥の「岩戸社」を目指して、山の斜面を、登りはじめた。

 結構、急な坂である。足場も悪い。

 多くの人たちが、参拝に訪れているけれども、「岩戸社」まで登って来るひとは、ほとんど居ない。

 わたしは、ひとりで登りたかったので、少し前に登って行った、四十代と七十代くらいの、神職ふうの母子連れが、戻って来るのを待ってから、ゆっくりと、登りはじめた。

 「岩戸社」のとなりには、結界の綱が張られた「大きな磐座」があり、大昔には、きっと、その磐座で、何ごとかの「神事」が執り行われていただろうことを、容易に、想像させた。

 わたしは、「岩戸社」の後ろ側にも、廻ってみた。

 そうして、木の柵で囲まれたなかにある、いくつかの「磐座らしき岩」に向かって、目を瞑り、丁寧に、手を、合わせてみた。

 それでも、意外なことに、その「岩戸社」からも、「大きな磐座」からも、わたしは、何ひとつ、変わったことは、感じなかったのである。

 ーー石棺のなかに眠っているどなたかは、かつてのわたしが、知っていたひとではなかった、ということかな。

 そう、思った。

 ーー頑張って、急な斜面を登ったのにな。

 期待していただけに、わたしは、少し、がっかりしていた。

  正面に戻り、もう一度、お参りだけは、丁寧にして、わたしは、また、ゆっくりと、斜面を降りて、拝殿まで、戻った。

 すると、拝殿前に立つわたしの上に、また、待っていたかのように、「細かな温かい霧雨」が、降り出したのだ。

 今度は、さっきよりも、空が、ずっと、晴れて来ていたので、完全に、「お天気雨」である。

 時間を見ると、午前十時半だった。

 その日のわたしは、「白髭神社」を訪ねたあと、「近江高島駅」まで戻り、また、湖西線に乗って、今度は南下して、「大津京駅」まで行き、そこから、京阪電車に乗り換え、「近江神宮前」で下車して、「大津京跡」や「近江神宮」を観てまわるという計画を立てていた。  

 近江高島駅に戻るまでには、まだ、二時間近くも、時間がある。

 そこで、わたしは、「拝殿」のとなりにある「社務所」に向かった。

 ーーせっかくだから、御神籤を買おう。

 そう、思ったからだ。

 すると、今度は、「社務所」の後ろ側の山のほうから、「ドーン」という、かなり大きい、地響きのような「音」が、聞こえて来た。

 驚いたわたしは、思わず、あたりを見回した。

 けれども、それは、たぶん、「音」ではなかったのだ。

 なぜなら、まわりに居るひとたちは、誰ひとり、驚いていなくて、何も聞こえてなんかいないように、普通に、振る舞っていたからだ。

 ーーあの山の奥のほうから、わたしに向かって、なにか、「信号」が送られて来ている。。

 温かい「霧雨」と「ドーン」という「地響き」。。

 ーーあのときの、大神神社と、全く同じだ。。

 ーーわたしは、きっと、この土地に「祝福」されているのだ。大神神社の時のように、また、「おかえり、おかえり。」って。。

 もう、そのように、思わざるを得なかった。

 わたしは、「祝福」と共に、「新たな気づき」が、もたらされたことを、静かに、「体感」していたのだ。

 それは、

 「適応障害」を起こして、苦しんでいた二十五歳のときに、夢に現われ、わたしに向かって、

 「あなたの病気は、かいなんの地に行けば治ります。」

と告げた、あのボロボロの、茶色の着物を着たおじいさんは、実は、「白髭明神」=「新羅明神」だったのだろうということ、だった。

 「夢のお告げの謎解き」については、これまで、「『表現』を見つめた日々からの離陸〜わたしは書く〜」や「巡り廻るたましいの記憶・琵琶湖へ」などにも、いろいろに、書いて来たけれども、今回、「白髭神社」を訪ねたことで、また、一歩進んで、「その意味」が、より鮮明になったのだ。

 わたしにとっての「かいなんの地」であると思えた、大和の「大神神社」の御祭神は、「オオクニヌシノミコト」で、「出雲の神さま」である。

 「古代出雲」が、「新羅」の「祖神」である「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」を、斎き祀った人びとが創り上げた国だった、ということを「真実とする」ならば、わたしのたましいは、「新羅に縁がある」ということになり、「白髭明神」=「新羅明神」が、わたしを護っていて下さっていることは、至極当然なこと、になるはずなのだった。

 まだ、三歳くらいのころから、

 ーーわたしは、オオクニヌシノミコトさまと結婚する!

と、思い込んでいた自分の感覚も、ある意味、「筋が通っていたこと」になる。

 ーー「白髭神社」は、新たなる「気づき」を授けるために、ずうっと、わたしを呼んでいたのかもしれない。。

 わたしは、改めて、そう、感じた。

 ーー終わりではありませんよ。

 「かいなんの地」を告げるおじいさんの夢について、「大切なお告げだから、憶えておきなさい。」と言ってくれた祈祷師さんの「言葉」が、また、聞こえたような気がした。

「社務所」で引いた御神籤は、「大吉」だった。

 ーー願いは必ず叶う。ゆっくり叶うので、急がないように。

 ーー待ち人は必ず来る。それも、ゆっくりと。

 ーーなんでも、ゆっくりなんだな。でも、必ず叶う。焦ってはいけないのだ。

 「白髭明神」=「新羅明神」からの「お告げ」と思って、肝に銘じることにした。

 霧雨は、すでに、止んで、空は「薄曇り」になっていた。ところどころから、「ヒカリ」が差して、「湖水」は、いつの間にか、きれいな「水色」に変わり、キラキラと、光っている。

 ーーやっと、「水墨画」じゃなくなったみたい。

 拝殿のある場所から、少し登った山の斜面の、「満開の藤棚」の下に置いてある、木製のベンチに座って、わたしは、買っておいたおにぎりとお菓子を食べた。

 そうして、そのまま、ペットボトルの緑茶を飲みながら、「水色」に変わって、キラキラと輝き続ける「大きな湖水」と、海の中にすっくと立つ「赤い鳥居」とを、一時間近くも、見降ろしていた。

 ときおり、湖のなかほどを、船やボートが、お日さまの「ヒカリ」を受けながら、滑るように、進んでゆく。

 すべてが、輝いていた。

 すべてが、美しかった。

 光輝く美しさのなかに、閉じ込められてしまったわたしは、時間が過ぎることさえ、忘れてしまいそうだった。

 多くのひとは、自動車でやって来て、慌ただしく参拝し、また、すぐに、自動車に乗って、どこかに去ってゆく。

 拝殿の前を行き交う、そんなひとたちを、眼下に見ながら、

 ーーこんなにもゆったりと、ひとりで、いつまでも「琵琶湖」を眺めていられるなんて、ほんとうに、「贅沢な時間」だ。この時間のことは、「思い出の箱」に入れて、決して、忘れないようにしよう。

 そんなことを、思っていた。

 ーーわたしは、これまで、ずうっと、「白髭明神=新羅明神」に、「護られて」生きていたのだ。。

 さっき受けた「祝福の感覚」が、まだ、からだ全体を、優しく、包んでくれているように感じられて、わたしは、なんだか、懐かしいような、「安心した気持ち」になっていた。

 そうして、古代から綿々と続く、永い永いときの流れに、おもいを馳せつつ、飽きることもなく、時間の許す限り、「水色に輝く湖水」を見つめ続けていた。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 
 午後二時少し前。

 京阪石山坂本線「近江神宮前」で、わたしは、電車を降りた。

 いつかは訪ねてみたいと憧れていた「大津京跡」に、ついに、わたしは、「立っている」のだった。

 思いのほか、荷物が重いことに気がついたわたしは、コインロッカーを探してみたのだけれど、駅は無人だし、そんなものは、どこにも、見当たらない。

 電車を降りたのは、また、わたしひとりだけ、だったし、道を歩いているひとも、やっぱり、誰も、いなかったのだ。

 困ったわたしは、すぐ近くに見える、こぢんまりとした「町の電気屋さん」の中で、椅子に座って、テレビに見入っている、店主かと思われるおじさんに、遠慮がちに、声をかけてみた。

 「あのう。すみません。ここら辺に、コインロッカーって無いでしょうか? 荷物が重くて、預けたいんです。」

 すると、そのおじさんは、

 「そんなもんは、ここらには、ありませんよ。あなたさえ良かったら、荷物は、店に、置いて行って下さい。預かりますよ。」

と、言ってくれたのだ。

 なんと、ありがたい。

 わたしは、ご好意に、甘えることにした。

 「わたし、大津京跡を、見に来たんですけれど、地図を見ても、よくわからなくて。。」

 「それなら、あなた、ここら一帯、全部、大津京跡です。歩いていたら、そこらじゅうに、ありますよ。」

 おじさんは、笑いながら、そう、教えてくれた。

 おじさんのお店から、隣の二軒目あたりに、一番最初に見つかった「跡地」があった。

 そこには、看板のように、史跡の説明書きが、置かれていたけれども、それ以外は、特に変わったところも見受けられない、全く普通の「空き地」だった。

 ところが、また、少し歩いて、バス通りに出ると、今度は、道に沿って、「柱跡」や「階段跡」などが認められる「跡地」が、次々と、現われて来たのだ。

 ーーここで、「天智天皇」や「額田王」が暮らしていて、そうして、「歌会」なども、開かれていたんだ。。

 わたしは、自分が、まさに、その場所に居ることが、とても、嬉しく思えて来た。

 はたから見たら、全く普通の、ただの「空き地」だって、おもいを巡らせて想像したら、なんでも、見えてくるような、そんな気がしたのだ。

    
    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」。

 わたしが、この名前を知ったのは、小学校五年生の春で、まだ十歳だったころ、である。

 普通に、社会科の、日本史の授業で、習ったのだ。

 ーーこの漢字、こんなふうに読むんだ。なんて変わった名前なんだろう。

 と、そう、思った瞬間に、おそらく、わたしは、この「名前」に、「一目惚れ」をしてしまっていたのだと思う。

 「漢字の並びかた」と「読みかたの意外性」、さらに、声に出して読んだときの「音の響きかた」が、

 ーーかっこいい。

と、感じたのだ。

 たった一瞬で、わたしは、視覚的にも聴覚的にも、その「名前」が、「大好き」になっていた。

 おまけに、小学校の教科書レベルで説明される「中大兄皇子」は、「大化の改新」(今は「乙巳の変」と呼ばれている)における「正義のヒーロー」だったので、わたしは、「仮面ライダー」にハマる子供のように、「中大兄皇子」に、ハマってしまったのだ。

 さすがに、成長するごとに、もう少し、「理性的に」なって、その時代の「歴史」も、結構、勉強した。

 ーーどんなひとだったのだろう。。

 子どものころの、「名前への一目惚れ」からはじまった、わたしの「中大兄皇子に対するおもい」は、やがて、「歴史への興味」も加わって、知れば知るほど、さらに、深くなっていったのだった。

 簡単にまとめると、

 「中大兄皇子」は、弟の「大海人皇子(おおあまのおうじ)」とともに、皇太子として、母親である斉明天皇に仕え、「唐・新羅連合軍」に滅ぼされそうになっている「百済」を応援するために、海外出兵し、「白村江の戦い」(六六三年)に挑む。

 戦いに向かう途上で亡くなってしまった斉明天皇に代わり、事実上の陣頭指揮を取ることになる。

 けれども、「白村江の戦い」の結果は、「大敗」だった。。

 たくさんの戦死者を出したあげく、這々の体で、兵を引き上げた彼は、「唐・新羅連合軍」が、攻めて来ることを恐れるあまり、「国防」に徹することになる。

 そこで現れるのが、今回訪ねた「大津京」である。

 「中大兄皇子」は、それまで「大和(奈良)」に在った「都(みやこ)」を、「琵琶湖」湖岸の「大津(滋賀)」に「遷都」したのだ。

 「大津京」を造ったのは、天智六年(六六七年)のことで、彼は、その翌年に、ようやく即位して「天智天皇」となる。

 けれども、天智天皇は、志し半ばの六七一年に、病いのために、亡くなってしまうのだ。(暗殺されたという説もある。)

 遺された「大津京」は、後継争いの「壬申の乱」によって、全てが、焼け落ちてしまう。。

 「大津京」とは、この世に、存在していたのが、「たった五年間だけ」という「悲劇の都(みやこ)」なのである。

 けれども、そのとき、そこで、起こっていたことは、後の世の「宮廷文化」の純粋なる「はじまり」であった。

 わたしは、たった五年間の、「額田王」と共に在った「天智天皇」の、そのときの、「文化的で、優雅だったはずの、大津京のこと」が、とてもとても、気になってしかたがないのだ。

 「その時代の最先端の、広い教養と感性と古代らしいシャーマン的な祈り」とが、渾然一体となったような「表現」が、「文化」の中心にあったであろう「大津京」に、どうしても、心が惹かれてしまうのである。

 「大津京」は、ずいぶんと昔から、どこに位置していたのかさえも、わからない、「幻の都」だった。「その形跡」が、どこからも、何ひとつ、発見されなかったからだ。たしかに在ったはずの「大津京」の場所は、さまざまな資料から、ただただ、推察されるばかりだったのだ。

 けれども、昭和四十九年(一九七四年)に、大津市の錦織地区の住宅街で、偶然に、「柱跡」が発見されたことによって、「跡地」として、「特定」されることになる。

 「大津京」は、ようやく、「幻の都」ではなくなったのだ。それでも、未だ、全貌は、解明されていない。研究は、途上なのである。

 わたしは、いろいろなことを想像しながら、楽しく歩き廻り、「聖地」の「写メ」を、撮りまくった。

 ーーわたし、今、とてつもなく、生き生きしているような気がする。

 不思議に若返って、自分が、「十歳の少女」にでもなっているかのような、気がしてしまっていた。

 スキップさえ、出来そうなくらい、わたしは、「時めいて」いたのだ。

    
    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 
 そのうち、左手に、うっそうと繁る「森」のようなところが、見えた。

 「近江神宮」への「入口」だった。

 入ってみると、だらだら坂が、ずうっと、続いている。少し歩くと、左手に、「近江時計眼鏡宝飾専門学院」が、見えた。

 日本ではじめて、「とき」を告げたと謂われている「天智天皇」に因んで、昭和四十四年に開設された学校らしい。「宝飾系の職人さん」を養成する専門学校のようである。

 登り切って、道なりに行くと、今度は、右手に、かなり大きな白木の鳥居が見えた。

 ーーなぜ、 あんなところに鳥居が?

 どうやら、わたしは、正規の参道ではないところから、入って来てしまったらしかった。。

 ーーちゃんと、参道から鳥居に入らなきゃ。

 そう思ったわたしは、鳥居をくぐって、一旦階段の下まで降りて、参道まで戻り、そこから、また登って、

 ーー失礼いたしました。

と、言いながら、改めて、鳥居をくぐった。

 「伊勢神宮」を思わせる、立派な鳥居だった。

 「近江神宮」自体は、昭和十五年(一九四〇年)に創建された、比較的に、新しい神社である。 

 それでも、戦前に建てられたわけだから、もう、優に八十年以上も、経っているのだった。

 鳥居を入り直して、右折し、歩き出すと、左手に、龍神の手水舎があり、「近江神宮の御祭神は天智天皇」と書かれた大きな案内板があった。   

 案内板を過ぎると、左手に、長い階段が見える。いったい、何段あるのだろうか、と思ってしまうほどに、長く長く続いている。。

 登り切ったところに、際立った朱色に塗られた「楼門」が、小さくなって見えていた。

 ーーこの長い長い階段を登らないと、お参りが出来ないのだ。。

 ーーまるで、山登りみたい。

 そう、思わせるほどに、長い長い階段だった。

 早朝の白髭神社からはじまり、結構歩いて、ここまで来たわたしは、近江神宮前の駅に降り立ってからも、もう、すでに、一時間以上も、歩き続けていた。

 かなり疲れていたけれど、十歳のころから憧れていた「天智天皇」のお宮に、ついに、参っているのだという「おもい」を奮い立たせて、わたしは、一歩一歩、階段を登って行った。

 ーーふう。やっと着いた。 

 ところが、「楼門」をくぐって、ほっとしたのもつかの間、「外拝殿」に参るためには、また、さらに、登ってゆく階段が、眼の前に、立ちはだかっていた。。

 ーー近江神宮恐るべし。

 降参したくない、負けず嫌いなわたしは、また、登って、登り続けて、「外拝殿」まで辿り着き、そこで、ようやく、お賽銭を納めて、丁寧に、お参りをした。

 「昭和造り」と呼ばれる「近江神宮」は、「外拝殿」の奥に「内拝殿」があり、さらに、その奥に「本殿」が鎮座ましているという、幾重にも、囲まれた造られかたが、されている。

 そうして、その全ての建造物が、とにかく、「大きい」のだった。

 ーーこれは、半端ない。

 爽やかな達成感はあったけれども、さすがに、わたしは、もう、へとへとだった。

 ーー少し休んでから、「時計館」に行こう。

 お休み処のようなベンチに座って、わたしは、自販機で買ったばかりの、冷たい緑茶を飲んだ。

 ーーふう。生き返った。

 見廻す広い敷地に、ひと影は、やっぱり、まばらだった。

 繁った木々を背景に、朱色ではない造りの外拝殿は、荘厳さが、際立って見えた。

 引いた御神籤は、また「大吉」で、白髭神社で引いた御神籤と、なぜか、内容が、ほぼ同じだったので、わたし驚いて、思わず、二度見した。

 ーー願いは、必ず叶う。ただし、最晩年に叶うので、焦らないように。

 ーー待ち人は必ず来る。が、ゆっくり待つように。

 ーー違う神社から、同じことが告げられるなんて。。これは、ほんとうに、急いではいけないのだ。

 わたしは、また、しっかりと、肝に銘じた。

 ーーさて。「時計館」が、わたしを待っている。。

 休み終えて、少し英気を養ったわたしは、ゆっくりと、立ち上がった。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 時計館に向かうと、その手前に、「天智天皇」の「漏刻」を、近代的にアレンジしたオブジェのような「水時計」が見えた。

 「天智天皇の漏刻」とは、「水時計」のことで、流れる水の速さが一定であることを利用して、高さの違う四段の水槽から、水を流し続け、最下段の水槽に流れて来た水の量を、「矢」の浮き沈みの長さによって測り、「時の経過を知る」仕組みである。

 「天智天皇」が、実際に作った「漏刻」の記録は、遺されていないために、実物の再現は出来ないのだけれど、それでも、「天智天皇のおもい」を、「古代」から「今」に伝えているという「象徴的な意味」で、「オブジェのような漏刻」が、「近江神宮内」に飾られていることには、大きな意味があるように思われて、わたしは、自然と、手を合わせていた。

 ーー「とき」を知らせることで、「民」を合理的に「支配」しようとした「天智天皇」の感覚は、「古代」においては、どんなにか、新しかったことだろう。。

 わたしのこころは、完全に、「天智天皇の時代」を旅していた。

 そんな、ふわふわとした「想像の世界の住人」のまま、わたしは、「時計館」に、入館したのだった。

 ーー「お参り」も出来たし、「漏刻」も観たし、あとは、この「時計館」に陳列されている、珍しいレトロな時計と、「中大兄皇子」が「試作した」と伝えられている「飛鳥水落遺跡の写真」や「漏刻の模型」などを見れば、今日のミッションは完了だ。

 ぼんやりと、そんなことを考えながら、わたしは、一階から、ゆっくりと、展示されたものたちを、観てまわっていた。  

 一般の人びとから寄贈されたという、わたしが子供のころに、良く見たような、懐かしい、古いデザインの時計たちが、そこには、たくさん飾られていた。

 皇室から御下賜(ごかし)されたという「歴史的に珍しい時計」も、真ん中のケースに、飾られてあった。

 ここでも、客は、わたしひとりだけだった。しーんとした室内に、わたしの足音だけが、響いてゆく。。

 階段を昇り、二階に着くと、入ってすぐに、天智天皇が「漏刻」を試作したと推察されている、大和の「飛鳥水落遺跡」の写真が、飾ってあった。

 「漏刻」の「模型」も観ることが出来た。

 事前に調べておいた予定の通りに、並んでいる展示物を前に、わたしは、すっかり、満足していた。

 ーーここまで来れて、ほんとうに、良かった。

 ーー近江神宮で、観たかったものは、もう、全部観れたし。

 そんなことを思いながら、わたしは、一歩進んで、次の展示物に、目をかけたのだった。

 ーー? 。。

 一瞬、わたしは、目を疑った。

 ーーえ。どうして?

 ーーどうして、「あなた」が、ここに居るの?

 わたしは、思わず、その展示物に向かって、話しかけていた。

 「天智天皇」の「漏刻関連の展示物」のすぐとなりに、ひっそりと、けれども、威風堂々と、一枚の「掛け軸」が、飾られていることに、意表を突かれてしまったからである。

 それは、

 桃山時代の孤高の絵師「海北友松」が描いた一枚の「水墨画」で、「黄初平図(こうしょへいず)」という、古代中国の、神仙思想に纏わる故事に出てくる「仙人」の「画」だったのだ。

 ーーここで、海北友松の「仙人の画」を見せられるなんて。。

 わたしは、全く、予想だに、していなかった。。

 「時計館」に、「海北友松の作品」が、常設展示されているという情報は、事前に調べたホームページ内でも、紹介されていなかったからだ。

 それまで、ふんわりとしたおもいで、「古代の世界」を浮遊していたわたしのこころは、あっという間に「古代」から、引き剥がされ、そうして、ものすごい速さで、「自分が若かったころの思い出の世界」へと、連れ去られて行った。。

     
    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 
 一九八〇年 四月。東京。

 西荻窪の某珈琲専門店。

 「えー。そんなこと、本気で、思ってるの? きみは、ほんとうに、変わった子だねぇ。」

 向かい側のソファに座って、ミルクと砂糖をたっぷり入れた、甘いコーヒーを飲んでいる「山口さん」は、そう言いながら、わたしの顔を見て、笑った。

 「ほんとだよ。」

 わたしは、大真面目に、答えた。

 そのちょっと前、彼に向かって、

「わたしが、一番なりたいのは、仙人なの。」

と、「告白」したところだったのだ。

 「わたしはね、山奥に籠もって、晴耕雨読の日々を過ごした、古代中国の、『竹林の七賢』の生きかたに、ほんとうに、憧れているのよ。あんな生きかたが、理想だなぁって、本気で、思ってる。」

 そう言って、わたしは、苦いブラックコーヒーをひと口、口に含んだ。

 「ふーん。」

 ーーこれは、手が付けられないや。

とでも言い出しそうな顔つきで、「山口さん」は、笑いながら、わたしの顔をみつめたまま、黙りこんでしまった。

 それでも、わたしは、「山口さん」が、相当な「変わり者好き」であることを、もう、とっくに、知っていたので、全然、平気だった。

 「竹林の七賢」とは、激動の中国古代に、その当時、支配的だった「儒教道徳」に逆らって、山の中に籠もり、酒を呑んでは、音楽を奏で、「清論」をかわし合いながら、「道教的に暮らした」という思想家たちのことを、指している。

 実際には、「七人」が一同に介したことは無く、かなり「象徴的」な意味合いで語られることが多いのだけれど、それでも、彼らは、自分の考えを、それぞれに、きちんと持っていて、「隠者風」に、「筋の通った生きかた」を貫いた人びとなのだった。

 世間一般の価値観に、迎合しづらくて、日常的に、ひとと交わることが、あまり好きでないわたしは、もしも叶うなら、高い山に住んで、修行を積み、神仙思想の「仙人」のように生きるのが、完全な理想形だ、などと考えていたのだけれど、それは、さすがに「奇想天外」過ぎるので、それなら、「七賢の隠者」のように、人里離れたところに住んで、「晴耕雨読の日々」の人生を送れたら、どんなにか幸せだろうにと、かなり本気で、考えていたのだった。

 正直に言えば、わたしが、「大学院」を目指して勉強していたのも、大学の先生になれたら、少しは、「隠者」っぽく暮らせるかな、という「よこしまな」考えも、手伝ってのことだったのである。

 わたしが、「仙人」や「隠者」に憧れてしまったきっかけは、大学一年生の美術の時間に、「竹林七賢図」という「水墨画」についての講義を受けたことから、だった。

 桃山時代から江戸時代にかけての美術を学んでいたときに、講師の先生が、大教室の大きなスライドで、「長谷川等伯」と「海北友松」と「円山応挙」の「竹林七賢人図」とを、並べて見せてくれたことがあったのだ。

 「長谷川等伯」も「円山応挙」も知っていたけれども、わたしは、「海北友松」のことは、全く、知らなかった。

 それでも、わたしは、そのとき、「海北友松」の「竹林七賢図」から、大いに「刺激」を受けたのだった。

 なぜなら、「海北友松」の「竹林七賢図」は、並べて紹介された「円山応挙」や「長谷川等伯」の「竹林七賢図」とは、「筆使い」が、全く違っていたからだった。

 彼の描く「七賢」は、どうしてか、人物が丸まっちく、柔らかく、たおやかな曲線で、描かれていた。

 そうして、表情が、どことなく、とぼけていて、ひょうきんなのだ。

 それでも、筆の筆致は、かなり鋭く、思い切りが良くて、勢いがあるのだった。

 ーー昔の「水墨画」なのに、なんて個性的。。

 わたしは、「海北友松」の描く「竹林七賢図」が、すっかり、好きになっていた。

 「柔らかいのに鋭い」という、一見矛盾したふたつの要素が、決して矛盾せずに、同時に存在出来ているところが、おそらく、生来の「矛盾好き」のわたしのこころを、しっかりと、捉えてしまっていたのだろうと思う。

 先生が、

 「この絵師はね、ちょっと、変わってるでしよう? 「近江」の武家の生まれで、ほんとうは、武士になりたかったひとなんだよ。」

 と、説明してくれたことだけを、なぜか、はっきりと、憶えている。

 ーーこのひとは、こころは、「武士」だったんだ。

 「こころは武士」だから、絵筆を、刀のように振って、鋭い筆致で描けるんだな、と、わたしは、そこで、妙に、納得した。そうして、

 ーーこのひとは、面白い。こころは武士だとしても、厳しさだけでない、ゆるい柔らかさも、同時に持ち合わせているもの。。

 そんなふうにも、思ったのだ。

 「竹林七賢図」と出会ってからのわたしは、「道教」や、「神仙思想」などに、より「興味」を持つようになり、さらには、「隠者」や「仙人」の生きかたに、「憧れ」を抱く方向に、少しずつ、「意識」が、変わっていったのだった。

 そんな「海北友松」が、わたしの長年の憧れの「近江神宮」の「時計館」で、「仙人の画」を携え、「古代に浸りきった」わたしを、待っていたのだ。

 ーーこれは、きっと、わたしに向かって放たれた「ひとつの刺激」なのだ。わたしは、また、「何か」に、気付かなければいけないのだ。。

 期せずして、「黄初平図」という「仙人の画」を見せられ、驚いたままのわたしは、「海北友松」から、そんなイメージを、受け取ったような気がしていた。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 
 「海北友松」は、その前半生が、「謎」に包まれている「絵師」である。

 彼が、「水墨画」の名手として、鮮やかに、歴史に登場して来るのは、一五九九年に行われた「安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)」による京都「建仁寺」の再興からで、そのとき、一五三三年生まれの彼は、もう、すでに、六十六歳になっていたからだ。

 若いころからの知己であったと思われる「安国寺恵瓊」に推薦され、彼は、六十六歳から六十七歳にかけて、「建仁寺」で、思う存分に、五十面もの大襖絵を描く。

 「建仁寺」は、別名「友松寺」とも言われるほどに「海北友松」の「襖絵」の宝庫となっているのだ。(現在は天災を避けるために、原本は、京都国立博物館に所蔵されている。)

 広く知られている彼の代表作の「雲龍図」も、そのときに描かれているし、わたしが、彼を知るきっかけとなった「竹林七賢図」も、そのとき描かれた建仁寺の襖絵なのである。

 けれども、そこに至るまでの、彼の人生の流れは、ほとんど、断片的にしか、わかっていない。

 五十年も前に、「影響」を受けた「海北友松」について、「画」は鮮明に憶えていても、わたしは、その「人物像」については、ほとんど考えてみたことがなかったことに、今さらながら、気がついたのだった。

 ーー「海北友松」は、いったい、どんなひとだったのだろうか。

 遺された作品や、画集や、図録、さらには、その生涯を扱った小説や、先行研究論文などにもあたって、わたしは、「彼の生きざま」に触れてみたいと、考えはじめていた。

 そうすることで、わたしが、「時計館」で、彼の「仙人の画」を「見せられた意味」も、自然と、わかって来るような気が、したのだった。

   
   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 
「海北友松」の生地は、長浜市瓜生町辺りであろうと言われている。かれの生家は、もともとは農民であったようだけれども、彼が生まれたころには、「浅井家」の「重臣」の家となっていた。

 彼の父親は、「海北善右衛門綱親」といい、「小谷三人衆」と呼ばれたなかのひとりで、大変に、戦術に優れ、敵から怖れられた武将だったそうである。のちに、「友松」が、茶の湯の席で、「秀吉公」に「謁見」を許されたときに、「秀吉公」にして、「綱親は、わが戦法の師であった。」と言わしめたというエピソードも残されている。

 ところが、その父親は、「浅井亮政」が、近江犬上郡の「多賀貞隆」を攻略したときに、討死を遂げてしまうのだ。このとき、「友松」は、まだ、三歳であった。

 戦国の世のこと、いつ命が奪われてもおかしくないなかで、男子をひとり、「仏門」に入れておくことは、「家」を護るという観点から、よく、なされていたことのようで、「友松」は、おそらくは、長男の「善右衛門」の判断で、京都の「東福寺」に、「喝食(かつじき)」として、送り出されてしまう。

 「友松」が、はたして、何歳から、「東福寺」に住まわされたのか、ということの記録は、どこにも残っていないので、はっきりとは、わからない。

 が、「喝食」とは、禅寺において、食事の「とき」を、大きな声で、知らせる「稚児」の役回りとされているから、三歳は無理としても、八歳くらいには、もう、送り出されていたのではないだろうか、と思われるが、それも、推測の域を出ない。

 仮に、そうだったとするならば、彼は、まだ幼顔だったうちに、郷里を離れ、京都の、広い禅寺で、たったひとり、暮らすことになった、ということになる。

 ただし、これには、諸説あって、彼が交流していた僧の年齢などを考慮すると、むしろ、幼少期ではなく、十代になってから、入寺したのではないかという説を主張している研究者もいる。

 本当のところは、結局、わからないのだ。

 そのころの禅寺は、読み、書き、武術、なども習えるような場所だったから、「友松」も、ある程度の「教養」と「武術」は、身につけていったのかもしれない。

 もちろん、「僧」としての「修養」もしていたと思われる。

 一方、長男の「海北善右衛門」は、「海北家」の家督として、「浅井長政」に仕えていた。

 一五七三年、「織田信長」は、「浅井長政」の「小谷城」に、総攻撃を開始する。

 「姉川」が「血の川」となったという「伝説」が残っているように、そこで、「小谷城」は、落城し、「浅井長政」は、息子と共に自刃を遂げ、「浅井家」は、滅亡する。そのときに、「海北善右衛門」も、主君と運命を共にした、とされている。

 「海北家」は、「東福寺」に残った「友松」以外は、皆討ち死にして、「友松」のみが、生き残り、そのために、「友松」は、「海北家」を武家として「再興」したいという「希望」を、生涯持ち続けたのだ、と、長らく、歴史的には、言い伝えられて来た。

 ところが、実際は、それは、「事実」では無かったようである。

 家督の「善右衛門」は、たしかに「小谷城」で、討ち死にしたのだけれど、次男と四男は、生き残っており、次男は、のちに、「小谷三人衆」のひとり、雨森弥兵衛の孫女と結婚して、四人の男子を儲けているし、四男は、武士を辞めて、瓜生に帰農しているから、「海北家」としては、「滅亡はしていない」のだった。

 結局、「海北友松」は、何歳のときに、どんな経緯で「京都」に出て、なぜ、「東福寺」に居たのかも、さっぱり、わからないのである。

 さらに言えば、「海北友松」が、「東福寺」にたしかに居していたという「記載」さえも、実は、どこにもない。

 なぜ、このようなことが、「言い伝え」られて来たのか。

 それは、明治四十年代になってから、「友松」の血を引く「京都海北家」から公表された、『海北友松夫婦画像・賛』と『海北友松由緒記』及び『海北家家系図』などに、記載されていたからであった。

 長らく「作品だけが語る絵師」として、何の資料も無かった「海北友松」の経歴に対して、はじめて、「身内」から、「資料」が公表されたため、おおかたの研究者は、まず、それを信じて、「海北友松の経歴」としてしまったのだった。

 「海北友松」没後三百年の、大正四年(一九一五年)に、研究者たちは、「京都海北家」から公表された「資料」をもとに、さまざまな、「研究発表」をし、それが、「定説」となったのだった。

 ところが、長浜市瓜生の「珀清寺」の住職をなさっていた、海北家十五代「海北顕英氏」は、「身内」から出された「資料」にあった、さまざまな「誤り」を、自らの足で歩いて調べ、ひとつひとつ、正して行かれたのである。

 それによって、「言い伝え」は訂正されたけれども、「真実」はわからないということに、結果、戻ってしまったままになっている。

 やはり、「海北友松」については、「作品」から、「彼の生きざま」を探ってゆくことが、一番のようでは、ある。

 それでも、「人となり」を語るエピソードは、いくつか、残されている。

 彼は、「絵師」であったけれども、交流していたひとたちは、「絵師仲間」よりも、「禅林」や「武士」が多く、かつ、「茶の湯」や、「和歌」もたしなむ「文化人」であったことは、交流のあった「文化人」たちの「日記」などから、明らかになっている。

 事実らしいエピソードは、いろいろあって、面白い。

 「小谷城」落城のあと、「友松」は、ついに還俗して、「東福寺」を去り、尼子氏や秀吉の重臣を務めた、友だちの亀井 茲矩(かめい これのり)に、「駿馬」を選んでくれるよう、求めたらしいのだけれど、選んでもらった「駿馬」が気に入らず、その「駿馬」は亀井に返して、結局、自分で、新たに、選び直したという。

 案外と「頑固」で、「こだわりが強そう」なひとのように、思われる。

 また、友だちとして交流していた「明智光秀」の重臣の「斎藤利三」が、「本能寺の変」のあとに、「六条河原」で処刑され、その「首」が「粟田口」に晒された折に、その遺骸を、真如堂塔頭の東陽坊長盛と共に引き取って、真如堂に埋葬したというエピソードもある。

 このおはなしには、たくさんの尾ひれが付いていて、真偽のほどが、今イチわからないのではあるけれど、それでも、友だちのために、ひと肌脱いで、自分の身の危険を顧みず、謀反人の遺骸を引き取って、手厚く埋葬するという行為には、「男気」を感じる。

 「友松」は、生涯を通じて、「友だちを大切にしたひと」のように、思われる。

 また、このおはなしには、後日談がある。

 斎藤利三には、三人の娘が遺されたのだけれど、「友松」は、遺された妻と娘たちに、「米」を送ったり、「京都」に呼び寄せて、「住居」を世話したり、しているのだ。

 斎藤利三の娘のひとりは、のちの、「春日局」であり、そのときの「恩」に報いるかたちで、「友松」亡き後、遺されたひとり息子「友雪」が、身を立てられるように、「世話」をしている。

 彼の「友だちを大切にした生きざま」が彼亡き後の、家族を救った、ということになる。

 さて、もうひとつ、「友松」について、語るべきエピソードがある。 

 それは、「彼の結婚」である。

 「友松」は、六十三歳で結婚し、六十五歳で「父親」になったのである。

 一説には、両親を亡くした身内の女性を引き取って、面倒をみているうちに、「仲良く」なり、「結婚」に至ったと言われている。

 なるほど「京都海北家」から公表された「海北友松夫婦画像・賛」には、仲良く夫婦が、描かれている。

 ひとり息子の「友雪」は、「春日局」の世話で、「狩野派」の「絵師」となり、それによって、「京都海北家」は、「絵師」の家系として、「八代」あとまで続いてゆくのだから、六十五歳で子供を儲けた「友松」は、「海北家存続に尽くした」と言えるだろう。

 六十三歳で結婚した「友松」は、六十六歳で、「建仁寺」の大襖絵を、五十枚も描き、さらに、さまざまなひとたちと交流しながら、八十三歳まで、長寿を全うするのである。

 戦乱の世からも生き延びて、六十五歳で子供を儲けて、「絵師」としての仕事も続け、八十三歳まで生きたなんて、どんなにか、からだが丈夫なひとだったのか、驚くばかりである。

 わたしには、「海北友松」の「姿」が、おぼろげながら、少しずつ、見えて来たような、気がした。

 ちなみに、「友松」は、身長が、百八十二センチもある大きなひとで、馬を乗りこなし、武術も出来る、筋骨隆々なひとだったようである。

   
    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 
 「海北友松」の、生きた「足跡」は、いくら調べても、やはり、はっきりはしなかった。

 それでも、わたしは、「海北友松」の「姿」が、「表情」が、なんだか、ちゃんと、眼の前に、見えて来たような、気がしている。

 わたしから見える「海北友松」は、ただ 毎日、黙々と、ただ、ひたすらに、時間の許す限り、「描いて」いる。

 長かった「彼」の人生のなかで、いくつかの、特筆すべきエピソードは、たしかに、あったのだけれど、それは、きっと、ほんの一瞬の出来事だったはずだ。

 それに、友だちとの関係も、たしかに濃いものだったけれども、そんなに多くは、なかったのだ。

 彼が、ほんとうに「愛した」のは、やはり、「描くこと」だったのではないだろうか。

 若かったころは、「武士で在りたかった」と思っていたかもしれない。

 そうして、我が身の「不遇」を、恨んだことも、あったかもしれない。

 それでも、「彼」は、毎日、毎日、「描き続けた」のだ。

 「戦乱の世」に生まれ、「武士」は皆、明日をも知れぬ「いのち」を生きているのを、目の当たりにしながら、「彼」は、あくまでも「傍観者」であることを、「強いられて」いたように思われる。

 「感じること」も、「考えること」も、おそらく、たくさんあっただろうけれど、「彼」は、常に、「見ていただけ」だったのだ。

 そうして、「彼」は、かなり若いころから、生まれた土地の「共同体」を離れ、ずうっと「京都」で暮らし、いつだって「ひとりぼっち」だったはずである。

 晩年に、妻を娶り、子供を儲けるまで、「彼」は、どれだけ「孤独」だったことだろうか。。

 それでも、「彼」は、「描いて」、「描いて」、「描き続けた」のだと思う。

「自身が納得すること」だけを「唯一」の「目標」にして。。

 わたしには、「狭い部屋」で、来る日も来る日も、一心に、「描き続けるだけの彼」が、はっきりと、見えるような気がするのだ。

 「友松」は、中国から渡って来た「水墨画」を「日本化」した「絵師」である、と言われている。

 南宋画の「梁楷(りょうかい)」の影響を受け、「減筆体」という、書で言えば「草書」にあたる、筆数を少なくする表現を、「日本化」したのだ。 

 わたしが、五十年前に観て感心した、丸まっちくて、柔らかく、たおやかな曲線で描かれた「竹林七賢」の「隠者」は、「袋人物」という「表現方法」で、「友松様」と言われている「友松独特の表現」なのである。

 わたしは、思うのだ。

 「海北友松」は、「愚直なひと」だったのだろうと。

 「狩野永徳」のように、「野心家」でもなく、「長谷川等伯」のような「天才肌」でもない。

 「彼」は、「努力」などという「言葉」とも、「無縁」なくらい、一途に「愚直」だったのではないだろうか。

 あれだけ活躍したけれども、「彼」が、精力的に「海北派」なるものを、作り、たくさん弟子をとったというような、「痕跡」も、どこにも無い。

 「彼」は、だから、日々、自分の「表現」を、「追求し続けていただけ」、だったのではないだろうか。

 「描いて」「描いて」「描きまくった」のちに、現れたのは、「彼」にしか「表わし得ないもの」だった。

 「唯一無二」の「表現」である。

 たくさんの「代表作」があるなかで、わたしが、一番好きな、「彼」の「作品」は、おそらく最晩年に描かれたであろう「猿図」(山荘コレクション)である。

 これには、「後陽成天皇」による「賛」が付けられている。

 同じような「猿」を、「長谷川等伯」が描いているのだけれど、観比べてみると、その「違い」が、はっきりとわかる。

「等伯」の「画」は、「枯木猿猴図」と名付けられている作品で、これは、「等伯の最高傑作」として、良く紹介されるものである。

 それでも、わたしは、大作ではなくとも、最晩年の「友松」の、「猿図」のほうに、「軍配」をあげるのだ。

 なぜなら、「友松」は、この「猿」だけでなく、そのころに描いた全ての「動物画」において、「その存在のこころが見えるような表現」が、「出来ている」とわたしには思えるから、である。

 「等伯」の「猿」は、良く描けているけれど、どこにでもいる、替わりの効く「猿」であるのに対して、「友松」の「猿」は、「その、猿」なのである。だから、つまり、「等伯」とは、「視点」が全く違っているのだ。

 「友松の画」は、「個というもの」が、描けている。

 まだまだ「中世」だった時代に、「友松」は、「それぞれが、唯一無二の存在であること」を「理解」した上で、その「こころ映え」を、「画」のなかに「閉じ込めること」に、成功しているように、わたしには、見える。

 凄い「先見性」だと、思う。

 もしかしたら、「友松」は、そんなことを、「意識」しては、いなかったのかもしれない。

 それでも、きっと、「ひとりぼっち」で居た時間が長かった「彼」は、あの時代にして、すでに、「個人として生きていた」はずだから、「その、猿」が、描けたのではないだろうか。

 そう思って観ると、「友松」の「画」は、「木」でも、「花」でも、全て、「その、木」、「その、花」であることに、気が付く。

 さらに言えば、「その、木」も、「その、花」も、写実のようでいて、写実ではなく、「友松」のこころのなかに「在る」、「想像の木」、「想像の花」のように、わたしには、感じられるのだ。

「友松」は、「自分のこころの世界」を「写実」しているのである。

 もう、五十年も前、わたしが、「海北友松」の「竹林七賢」を観た瞬間に、こころを奪われたのは、おそらく、「彼の視点や表現が、新しかったから」だったのだと思う。

 「彼」の「表現」は、「彼」の「生きた時代」を、「飛び越えたもの」を、伝えて来ていたから、わたしは、きっと、観ていて、嬉しくなったのだ。

 最晩年、「友松」は、皇室との関わりを、持つようになり、乞われて、馳せ参じ、頼まれた「画」を描くようになる。

 一見、煌びやかな交流のように思われるけれども、実は、そうではないのかもしれない。

 「友松」は、ただ、たまたま、自分のまわりにいてくれて、自分の「画」を、喜んでくれるひとたちのために、描き続けただけなのだと、わたしには、思われるのだ。

 「彼」には、もう、何の「野心」も無かったはずだ。

 「武士で在りたかった自分」なんて、もう、きっと、どうでも良くなっていたかもしれない。

 「なりたかったものには、なれなかった」のかもしれないけれど、「彼」は、「唯一無二」の「表現」を手に入れ、そうして、今度は、「彼」を好いてくれるひとたちのために、乞われるままに、「描き続けた」のだ。

 きっと、その延長線上に、今も、「彼」の「画」は、「在る」のだと思う。

 たまたま、「彼」の「画」を観に来て、「彼」の「画」を、「喜んでくれるひと」のために、「彼」の「画」は、「在る」のである。

 「海北友松」の「画」から、受け取れる「優しさ」や「柔らかさ」は、「個」に対する「寄り添い」なのである。

 「海北友松」没後四百年も、とっくに過ぎた。それでも、まだ、「彼」の「画」は、「生き生きと」していて、唯一無二の「個」の「存在」を、観るものたちに、訴えかけて来る。。

    
   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 
「近江神宮」の「時計館」で見せられた「海北友松」の「黄初平図」(仙人の画)から「刺激」をもらったわたしは、「友松」の人生を探り、「友松」の「表現」について、考察しているうちに、「友松」の「姿」が、透けて見えて来るところまで、ようやく、辿り着くことが出来たように思った。

 思えば、「水墨画のような琵琶湖」を、見せられ続けたのは、「海北友松」に「再会」するための「前説」だったのかもしれない。

 わたしは、「海北友松」から、いったい、何を、受け取るべきなのだろうか。。

 あの日、あの「一枚の水墨画」を見せられたわたしは、若かったころ、「仙人になりたかったわたし」のことを、思い出したのだった。

 そう、わたしも、結局のところ、「なりたいものにはなれなかったひと」だったのだ。

「女優」にもなれなかったし、「学者」にも、なれなかったし、ましてや、「仙人」にだって、やっぱり、なれなかったのだった。

 それでも。。

わたしは、今、日々、「ことば」を「紡いで」いる。

「表現」をしているのだ。

 ーーそうか。。

 わたしには、「海北友松」が、あの「画」のなかから、語りかける「ことば」が、聞こえて来たような、気がした。

 ーーなりたいものに、なれなくたって、大丈夫なんだよ。

 ーーあなたも、「あなただけの表現」が、出来るようになると、いいね。

 ーーそうして、あなたのまわりに居てくれるひとたちが、あなたの表現を、喜んでくれたら、もっと、いいね。

 あの「画」は、そう、語っていたのだ。

 「黄初平図(こうしょへいず)」には、小さな羊の背に、無理矢理に乗っている「黄初平(こうしょへい)」と思われる、結構体格の良い、少しおどけたような顔つきの「仙人」が、描かれている。

 「黄初平の故事」が、さまざまに伝えるところによると、

 中国の古代に、「黄初平」という羊飼いが居たが、ある道士に気に入られて、「金華山」の石室に連れ去られてしまう。そこで、やがて、「仙人」になった「黄初平」は、白い石ころを、「一万頭の羊」に換える「術」を身に付けたという。

 あるとき、あるひとが、「黄初平」に会ったところ、石ころを羊に換えたと言うので、見ると、あったのは、ただの「白い石ころ」だったそうで、「石ころ」じゃないか、と責めたところ、「黄初平」は、そのひとに向かって、

「白い石ころも、白い羊も、同じものだ。」

と、言い放ったという。

 そんな、「禅問答」のような、「逸話」も残されている。

「白い石ころも、白い羊も同じものだ。」

という「悟り」は面白いと、わたしは、思う。

 「海北友松」が描いたと言われる「黄初平図」は、実は、「大阪」の「正木美術館」にも、常設展示はされていないけれども、所蔵されている。

 「時計館」にも、「正木美術館」にも、確認してみたところ、どちらも、「海北友松」が描いたと伝えられているだけで、「本物」かどうかの判定は、はっきりとは、わからないようである。

 それでも、きっと、そんなことは、「美術史家」でもないわたしにとっては、どちらでも良かったような、気がしている。

 「時計館」の「海北友松」が、わたしに、「新たな気づき」をもたらしてくれたことが、なによりも、嬉しいし、大切なことだったからだ。

 ーー願いは、必ず叶う。ただし、最晩年に叶うので、焦らないように。

 ーー待ち人は必ず来る。が、ゆっくり待つように。

 あの日、御神籤も、わたしに、「同じこと」を、伝えようとしていたのだ。

 「白髭明神」も「天智天皇」も、わたしを、励ましてくれていることだし、わたしは、これからも、毎日、毎日、
「愚直」に、

 ーー「ことば」を紡いで、
「書いて」、「書いて」、「書き続け」よう。。

 ーー「自分の納得」と、わたしにしか出来ない「唯一無二の表現」を手に入れるために。。

 ーー「海北友松」を見習って、最晩年まで、書き続けよう。

 わたしは、改めて、そう、決意した。

   
    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 
 ところで、わたしの「最晩年」て、いつなんだろうか。。

 まだ、だいぶん、先だと良いんだけど。。

 わたしも、「海北友松」みたいに、長生き出来たら、嬉しいな。。

 

※参考文献

※「司馬遼太郎 街道をゆく 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか 1」朝日文庫 二〇〇八年八月三〇日 新装版第一刷

※「古代朝鮮の日本文化 神々のふるさと」金達寿 講談社学術文庫 二〇〇一年十二月二十日 第二十三刷発行

※「朝鮮からみた古代日本」古代朝・日関係史 全浩天著 未来社 一九九七年 四月三〇日第四刷

※「猿田彦の怨霊」高田崇史 
 新潮社電子書籍

※「幻の都 大津京を掘る」林博通 
 学生社 
 二〇〇五年九月十五日第一刷発行

※ 古代の宮都 「よみがえる大津京」
 大津市制九五周年記念特別展 
 大津市歴史博物館 
 一九九三年 九月二十八日発行

※「墨龍賦」葉室麟 PHP文芸文庫 
二〇一九年十一月二十二日第一版第一刷

※「海北友松を歩く」
  今井ふじ子 編集工房ノア 
 一九九七年 一〇月二〇日

※「海北友松ー伝記と研究ー」
河合正朝 慶応大学学術情報リポジトリより

※「日本の美術 5」第三二四号
 海北友松   
 武田恒夫 至文堂 
 一九九三年 五月一五日発行

※ 英西禅師開創八〇〇年記念 
 特別展覧会 京都最古の禅寺 建仁寺      京都国立博物館 平成十四年 四月二十三日

※「近江の巨匠 海北友松」
 大津歴史博物館 
 一九九七年 三月四日発行

※「水墨画の巨匠」第四巻 友松 
 杉本苑子 河合正朝 講談社 
 一九九四年 七月十五日第一刷発行

※ 新編名宝日本の美術21
 「友松・山楽」川本桂子 小学館 
一九九一年 七月一〇日初版第一刷発行

※ 新編名宝日本の美術20
 「永徳・等伯」鈴木廣之 小学館 
一九九一年 七月一〇日初版第一刷発行

※ 別冊太陽日本のこころ23
 「水墨画」 松下隆章監修 平凡社 
 一九七八年 六月二十四日発行







































































































































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