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小雨
2023年3月19日 15:26
「じゃあ、そろそろ行くね」そう言って洗面所から出てきた彼女の唇には薄いピンクのリップが塗り直されていた。「おう」案外あっさりと訪れた別れの瞬間に拍子抜けした僕は思わずそっけない返事をした。「荷物、これだけ?」彼女の足元にまとめられている2.5周分の四季の洋服が詰め込まれた大きめのキャリーケース1つとよく分からないタイトルの本がびっちり詰まった2つの大きな紙袋は28歳女性
2022年8月15日 21:17
掌に収まったメダルの中心には、太陽に照らされた金色のダイヤモンド旗が輝いている。確かな重みを首に感じた時、僕は日本の頂の景色を見た。割れんばかりの拍手と歓声に包まれた球場の真ん中、僕は右の拳を空に向かって突き上げた。「徹也、日本一おめでとう!乾杯!」社会人野球日本選手権大会を制した年の瀬、地元では恩師を始めとする三十四期平野高校野球部の懐かしい面々が揃っていた。僕の隣
2022年7月10日 17:52
<ピー、ピーピー、ピー、ピーピー>一定のリズムでドラム缶を掻き回す重低音がピタリと止んで甲高い電子音が目覚ましの合図になった。前のめりな日差しが梅雨前線を強引に押しのけて急足でやってきた今年の夏はとにかく長く、日差しはやけに、強く街を照らしていた。そんな夏をやり過ごすためコインランドリー室内のクーラーの効きは抜群だった。しかしそんな冷風に当てられた固く冷たいプラスチッ
2022年8月5日 19:00
「あちらのお客様からです」清潔感溢れる真っ白いシャツに黒のベストを着たバーテンダーがカウンターにウイスキーグラスを差し出した。頬杖を外して目の前のグラスを見やると、そこにはウイスキーの海に浮かぶオレンジにチェリー、レモンピールが短いステンレスで串刺しにされている。はぁ、今日くらいは勘弁してよ。今から初対面の気取ったナンパ男に失恋話をしおらしく話す気にはなれない。第一、あの
2022年6月21日 18:59
1999年12月24日、昭久は東京の夜空を飛んだ。サンタクロースがトナカイの引くソリに乗ってふわふわと上へ登っていくように、昭久はふわふわと地上へ降りて行った。目の前に広がっていた街のネオン達は、戦後日本が20世紀に作り上げてきたもの、まさしく文明の賜物であった。10歳の類もまた、凍てつくイブの夜空を一人、祈るように見つめていた。少年のまだ細く小さな指は、結露した窓にあるプ
2022年5月13日 20:49
見知らぬ街から小包が一つ届いた。宛名の欄には懐かしい文字が並んでいる。すらすらと迷いなく封筒の上に寝かせられたその線たちは丁寧なとめ・はね・はらいが施されていて横一列にお行儀よく並んでている。小包を開けると1冊の文庫本と、そこに手紙が添えられていた。手紙の書き出しはこうだ。『さっそくだけど今から少し、僕の見ていた世界の話をするね』頭語も時候の挨拶もすっ飛ばしたそれはいつも
2022年5月3日 18:59
土曜の23:12、飲み屋からの帰り道、彩と繁は駅までの数百メートルの道のりを二人並んで、ゆっくりと歩いていた。 「なんか喉乾かない?逆に」コンクリートブロックの上を両手でバランスを取りながら歩く彩は少し繁の顔を覗き込むように問いかけた。 「分かる。あんなに飲んだくせにな」繁は左手をポケットに突っ込みながら歩いていた。少しふらつく彩を時々見やり気遣って右手はいつでも差し出せる
2022年4月13日 22:06
「主任。もうこんなオフィス抜け出して僕と水星にでも旅に出ちゃいません?」水星はいたずらに笑いかけ私を夜空へ連れ出そうとしているようだ。彼はキーボードの上にある私の右手を握った。彼は、翼の生えたサンダルを履いていた。オフィスも慌ただしい午後2時、パソコンと険しい顔でにらめっこしていると私に呼びかける声が耳に入たので慌てて姿勢を正し、椅子を右方に回転させた。「あら水星くん。どうし
2022年4月2日 15:52
ボクの覗く世界一面には幾何学模様が広がっている。コバルトブルーにターコイズブルー、その隙間を絶え間なく埋めるように眩いシルバーが輝いていて時折顔を出す群青色の深い青がボクの心を静かに癒してくれる。一度角度を変えると世界はがらりと様変わりしてもう二度と同じ景色を見せてはくれない。直径1㎝にも満たない小さな覗き穴の先に広がるその世界には幼いボクの心を虜にするには十分な眩す
2022年3月16日 17:45
「ホットコーヒー1つと、あとカフェオレお願いします」「私、今日はブラックでいい」「あ、すいませんじゃあコーヒー2つで」席に着いた恭子はいつになく不機嫌で、和樹と目も合わせようとしない。別れ話にはこういう表情がお似合いだろうと玄関の鏡の前で不機嫌のマスクを着けて待ち合わせの喫茶店まで歩いてきたのだ。和樹はいつも通りの眼鏡が張り付いた穏やかな表情で先に席に着いて恭子を迎えた。
2022年3月6日 18:41
「30歳になった時、お互い相手がいなかったら結婚しようよ」愛の告白にしてはなんとも打算的な不気味さを醸し出す根本的な熱情に欠けるこんなプロポーズは巷で割と耳にするセリフかもしれない。『君のことは嫌いじゃないしむしろ全然アリなんだけど今の自分の状況を投げやってまでも側に居たいと思う存在ではないよ』缶ビールを4本空けた後、煙草の煙と共に吐き出されたその奇妙なプロポーズには
2022年2月18日 18:09
今日は朝からスマホの通知が鳴り止まない。部屋の片付けの手を止めて懐かしい人たちから寄せられたお祝いのコメントをついつい読み込んでしまう。Instagramのフォロワー数高々数百人程度の一般人の私でもひとたび結婚報告の投稿をすればこうして、どっとお祝いの通知が溢れる。社会人生活にもなれば日頃こまめに連絡を取っている人なんてごくごく数人に限られるというのにこの手のSNS投稿に
2022年2月6日 19:06
西暦2000年。この年に生まれた僕達は『ミレニアムベビー』と呼ばれた。世界は僕達の誕生を新しい世紀の始まりだと言ってお祭り騒ぎで歓迎してくれた。同時に、西暦2000年は400年に1度の特殊な閏(うるう)年ということで、その年の2月29日の閏日を迎えると多数のコンピューターが誤作動を起こし世界各国で様々な問題が発生すると各マスコミが騒いでもいたらしい。結果としては、直前
2022年2月4日 18:10
僕の彼女は、ズボラな人だった。目覚ましのスヌーズを毎朝最低5回は鳴らし、ガス料金の請求書も溜め込んでギリギリに振込み、スマホのメールフォルダには5206件の未読表示、僕の一世一代の愛の告白だってなかなか返事をくれやしない。「もう7時半だよ、起きないの?」「う~ん、そのうち起きるよ」「ほら、ガスの請求来てる。今週中だってさ?」「うんうん、そのうち振り込むから」「こんなにメ