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ロマンチックはちっともぜんぜんロマンチックじゃなくなっちゃったのはなぜなんだろうか?世界がひどくなってるから?映画『メッセージ』のメッセージは何か。
ロマンチックは普通「情熱的な」とか「熱狂的な」ということだと思われている。具体的には人びとの心を動かし鼓舞するということのようである。
壮大な偉大なという大きなスケールなものもあれば、人の声の響きのような小さなものもある。険しい山のようなものもひねもす大洋のようなものもある。歌ってるようなものもある。若さに限らないで中年ぐらいでもいいしものによっては老人だってかっこいいこともある。こどものめで
オッペンハイマーはもういいから日本のことはどうだったか。手塚治虫は鉄腕アトムと原子力の関係にうろたえてしまう。戦後の日本の科学は鉄腕アトムがヒーローであった時代の科学であった。アトムのことをちょっと思い出した。
「手塚さん、鉄腕アトムが胸に原子炉を入れて空を飛ぶというのは危なくないんですか」って聞いたら手塚さん顔面蒼白になって黙っちゃったんです。中沢新一の対談集にはそう書いてあった。
手塚治虫にとって、医学や科学やテクノロジーの問題は、よくわからないままだった。彼がどう考えていたのか。
それで「あっ、まずいこと言った」と思って、後で手塚さんに「場所柄もわきまえずすみませんでした」と平謝りしたら、「い
なにごとにも終わりが来る?戦後の終わりは来たんだろうか。むかしの人の講演の文を眺めて思ったこと。九鬼周造『日本的性格について』
不景気や経済的な停滞がずっと続いている。それがほとんど当たり前になってもそれが不満にもならない。統治者がどんなことしててもどうでもいいと感じてる。それは自然のいとなみみたいなんだとだれもが感じているのかもしれない。よくある物語の展開にしても、日本のものでは、登場人物の深い動機は読者にはわからない。物事の定めのなさ、命のはかなさへの感情が重視されている。諦めなのか、すんなりすべてを受け入れてしまう
もっとみるクドカン話題のテレビドラマ『不適切にもほどがある!』「宮藤さんに言ってもしょうがないんですけど!」だけど面白いです。
ちょっと遅れてるけれど『不適切にもほどがある!』を見ていて思ったことを書いてみます。過去の話と現在の話なので、思いっきり過去に飛んでみました。
先史時代の洞窟の壁画はよく知られています。ラスコー洞窟壁画はかなり人気があります。レプリカがつくられてそれの展覧会が科学博物館でみられました。たくさんのファンの皆さんが駆け付けたようです。
それを見て古臭くてつまんないって思う人はまず誰もいない。誰
統治のおはなし。それは力の支配とは違うらしい。投資のおはなし。隠れた秘密の愛があるらしい。サルの社会や猫の社会で遺伝子を調べたら意外だったこと。
人は社会というような大きなまとまりでいる。そのなかにはまた部分的なまとまりがある。これらの集団の関係がどうなるのかということと支配することの関係はどうなっているのか。
人のまとまりを問題なくマネジメントするには政治的な制度をつくって統治する。君主制、貴族政、共和制、民主制、など。制度はその社会が求めていることとほぼイコールなのでそうなってる。まるで芸術作品のように、形式と内容は一致する。王様の
水に流すか、水が流すか。雨が降ること、それの効果があやふやになってきたのか、雨の場面が見れなくなった気がする。
もともとこの世には穢れというものが生じてきてにっちもさっちもいかなくなってきたときに雨が降ってきてそれをどうにかしてくれる。生きることが限界に近づいてきてもう自分の力でぬけだせなくなったときに天のたすけのようにかあるいは場面全体が雨でいっぱいになるようにしてそれが消える、というような終わりがあった。事件であれ戦争であれ物語の主人公の問題になるときには雨の場面があった。再生というか季節の転換という
もっとみる鉄道文化のナゾ。中央線と東横線、総武線と西武線、東武線と京成線、生活の文化と再生産。新たな対立構造?風景のおわり?テレビドラマで知れること。
どこの先進国でも経済的離陸を体験している国でも、成人になる期間が長くずれ込んでいるという。結婚してこどもをつくる時期が遅くなっていて長い青年期を送るようになった。それぞれの地域の文化はそこに生まれたこどもたちの「躾け」を家族内で地域内の人々や学校によって行われることで持続すると考えられている。
地方から東京へやって来るたくさんの人がいた。彼らが自分の故郷へは戻らずに東京に定着して東京の人口は
ノーランの『オッペンハイマー』はちょっと見た限りでは日本ではあまり評判がよくないのはなぜ?
ハイゼンベルグの部厚い伝記によると原子爆弾の問題は彼自身の個人的な動機の問題にかなり左右されていたように書かれている。ナチスの中での自分の位置をどうやって有利に出来るかということ。戦争モードが近づいていると愛国心のようなものが目立ってくる。しかし、このようなものは半分くらいはまわりが気になる偽善みたいなものだ。ナチスの中での科学者の問題は戦争でナチスにとどめが刺された跡では失われた記録などが多く
もっとみる未来を可能にする技術を想像してみる。社会が自分自身の問題をまったく何も気にしないようになっていくことがあってもぜんぜん何も問題ないように、技術はかまわず進むことの凄さに人間たちは驚いてしまうだろう。さらにその先を行くこと。たぶんこれがAIのもつ根本的な優位さだと思う。より良き未来とはこんな感じか。
人間は見かけにとてもこだわる。見かけの良さは他の性質においても優位な可能性を持っているのだろうか。見かけの良さを保ち続けるにはそれなりのコストがかかる。それを支払ってさらに見かけの良さにまで到達できるのは優れた性質を持っている証拠になるのだろうか。キレイさ見かけのすばらしさかわいさ強く見えることなど。こういうことにとてもこだわるのに自分自身の見掛けや小綺麗な身だしなみにはまったくどうでもいいよう
もっとみる富岡多恵子が紹介する土方巽の話。美と想像の話。この続きを考えてみればどうなるか。
「昔貧乏人の子がサーカスに売られて、両脚を水平に開いて頭を地べたにつけろといわれても頭はつかない。しかし、それをやらないとその日の晩めしがもらえないとわかると股が裂けても頭は地べたにつく。一方、バレエを習っている金持ちの娘は、一日一日と合理的に開脚の訓練をしてきているから頭は地べたにつく。ただし、その日はじめて綱を渡れといわれたらこわくてすぐに綱から落ちる。股を裂いた子ははじめから綱を渡る、とい
もっとみるアップデートすることは過去と決別することなのだが言葉の感じはだいぶ違う。過去を未来に置き換えるということになるのかな。恨みがましいことはもう誰も言わないのかな。テレビドラマ感想文。『不適切にもほどがある』。
国民全体がしあわせという雰囲気満載の昭和40年代は同時にすさまじい同調圧力の社会だった。それがしあわせということなのだった。そのまま昭和の終盤になだれ込んでほころんだしあわせを何と呼んでよいのかいい言葉が思いつかないままに現在に流れ込んだままだ。
最近よくできた言葉だと思ったのがアップデートという言葉だった。言葉というよりテクニカルタームの方が適切かもしれない。アップデートは自分でしなければな
いまどきの自由って何だろうと思う。『ケの日のケケケ』は面白かった。
個人の自由が最優先だと今時の人ならたいていそう考えている。移動の自由に職業選択の自由に婚姻の自由に生活スタイルの自由、いくらでもあるでしょう。誰もが平等というのも同時にある。Aという人の自由な活動のためにXという人が義務とまではいかないけれどなにかを負うようなことも受け入れる。この逆もある。
自由は平等、平等は自由。A=Xであればだれも文句は言わない。もともとはこういうことは適当に気分次第で関
『ゴドーを待ちながら』を演じたとき最後になって感動したみたいなことを柄本明がテレビで言っていた。「俳優 柄本明」-最後の講義をみておもうこと。
テレビ番組の内容は演じるってどういうこと?何?みたいなことを番組にやってきた様々な人とともに演じさせながら考えているところをやってきた人たちみんなと考える感じるそのようすを番組にしたものだった。
それはそれで興味深いのだけど、番組の最後で『ゴドーを待ちながら』を演じたことをはなして、その時のさいごのところで涙が出てきたことを話していた。なんでいきなり感動みたいなことを言うんだろうか。それまでの