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統治のおはなし。それは力の支配とは違うらしい。投資のおはなし。隠れた秘密の愛があるらしい。サルの社会や猫の社会で遺伝子を調べたら意外だったこと。
人は社会というような大きなまとまりでいる。そのなかにはまた部分的なまとまりがある。これらの集団の関係がどうなるのかということと支配することの関係はどうなっているのか。 人のまとまりを問題なくマネジメントするには政治的な制度をつくって統治する。君主制、貴族政、共和制、民主制、など。制度はその社会が求めていることとほぼイコールなのでそうなってる。まるで芸術作品のように、形式と内容は一致する。王様のいる社会は王様がいるみたいな物語のように生活習慣が形作られている。内容が形式を創
鉄道文化のナゾ。中央線と東横線、総武線と西武線、東武線と京成線、生活の文化と再生産。新たな対立構造?風景のおわり?テレビドラマで知れること。
どこの先進国でも経済的離陸を体験している国でも、成人になる期間が長くずれ込んでいるという。結婚してこどもをつくる時期が遅くなっていて長い青年期を送るようになった。それぞれの地域の文化はそこに生まれたこどもたちの「躾け」を家族内で地域内の人々や学校によって行われることで持続すると考えられている。 地方から東京へやって来るたくさんの人がいた。彼らが自分の故郷へは戻らずに東京に定着して東京の人口は増加して新しい街が様々なところにできた。そうして、東京には鉄道路線図に重なるよう
未来を可能にする技術を想像してみる。社会が自分自身の問題をまったく何も気にしないようになっていくことがあってもぜんぜん何も問題ないように、技術はかまわず進むことの凄さに人間たちは驚いてしまうだろう。さらにその先を行くこと。たぶんこれがAIのもつ根本的な優位さだと思う。より良き未来とはこんな感じか。
人間は見かけにとてもこだわる。見かけの良さは他の性質においても優位な可能性を持っているのだろうか。見かけの良さを保ち続けるにはそれなりのコストがかかる。それを支払ってさらに見かけの良さにまで到達できるのは優れた性質を持っている証拠になるのだろうか。キレイさ見かけのすばらしさかわいさ強く見えることなど。こういうことにとてもこだわるのに自分自身の見掛けや小綺麗な身だしなみにはまったくどうでもいいような人たちもいる。オタクな人たちである。オタクな人はこだわる人である。 ところが
アップデートすることは過去と決別することなのだが言葉の感じはだいぶ違う。過去を未来に置き換えるということになるのかな。恨みがましいことはもう誰も言わないのかな。テレビドラマ感想文。『不適切にもほどがある』。
国民全体がしあわせという雰囲気満載の昭和40年代は同時にすさまじい同調圧力の社会だった。それがしあわせということなのだった。そのまま昭和の終盤になだれ込んでほころんだしあわせを何と呼んでよいのかいい言葉が思いつかないままに現在に流れ込んだままだ。 最近よくできた言葉だと思ったのがアップデートという言葉だった。言葉というよりテクニカルタームの方が適切かもしれない。アップデートは自分でしなければならない。もちろんしない方が都合がいいならしないでもいい。それはその人の選択にまか
テレビドラマの主要な登場人物たちの男女比率や年齢比率や家族構成のバラエティーさに驚く。つまり、かなり自由になった印象がある。自由って何だろうと思う。『ケの日のケケケ』は面白かった。
個人の自由が最優先だと今時の人ならたいていそう考えている。移動の自由に職業選択の自由に婚姻の自由に生活スタイルの自由、いくらでもあるでしょう。誰もが平等というのも同時にある。Aという人の自由な活動のためにXという人が義務を負うようなことも受け入れる。この逆もある。自由は平等、平等は自由。A=Xであればだれも文句は言わない。もともとはこういうことは適当に気分次第で関係性次第で行なわれていた。人を助ける、人の言うことを聞く、無関心でいる、おせっかいをする、ひとにたのむ。傷つくこ
『ゴドーを待ちながら』を演じたとき最後になって感動したみたいなことを柄本明がテレビで言っていた。「俳優 柄本明」-最後の講義をみておもうこと。
テレビ番組の内容は演じるってどういうこと?何?みたいなことを番組にやってきた様々な人とともに演じさせながら考えているところをやってきた人たちみんなと考える感じるそのようすを番組にしたものだった。 それはそれで興味深いのだけど、番組の最後で『ゴドーを待ちながら』を演じたことをはなして、その時のさいごのところで涙が出てきたことを話していた。なんでいきなり感動みたいなことを言うんだろうか。それまでの流れとは全く違ってというか、不思議な感じがあった。 演じているとそこにホントの
距離の問題は変化していく。メディアは知識中心からひとりひとりに向けた没入感を用意するようになった。判断は幻想のように変わっていくようだ。『オッペンハイマー』の評判を見て思ったこと。
移動の手段の選択によって、「距離感」は随分と違うものになった。経験的な意味の世界はテクノロジーの発達で拡がる。移動の手段のようなものは、ある種のメディアのようになる。メディアのはたらきはなにを伝えるかという「通信」から、何を移動させるか何を運んでいけるかということへかわる。世界経済も軍事戦略もかわってしまう。インターネットは単なる通信ではなくなった。 拡がるメディアの世界はモノや知識や情報や体験や時間の間隔や距離感というものを変えた。ひとりひとりがみなすべて違っている世界
人権ってどんな感じ。近いとか遠い、とか?そういうのじゃなさそうだ。ちょっと考えたら自閉症スペクトラム障害の話になっていた?
人権問題みたいなのはいきなり突然やってくる。もちろんそんな極端なことにロックインされるなんてめったにはない。しかしそこまではいかなくともとんでもないひどい目に合うことはあるかもしれない。人権が守られているというような領域があってそこでは人権なんてことは全く考えることもなかった。そういうことだったのならそういう領域の境界に、危ないところには近づかなければいい。ところがどうもそういう単純なことではなさそうだ。自分が安全なところにいればそのすぐ近くでもやはり安全だとは言えないよう