人権ってどんな感じ。近いとか遠い、とか?そういうのじゃなさそうだ。ちょっと考えたら自閉症スペクトラム障害の話になっていた?

 人権問題みたいなのはいきなり突然やってくる。もちろんそんな極端なことにロックインされるなんてめったにはない。しかしそこまではいかなくともとんでもないひどい目に合うことはあるかもしれない。人権が守られているというような領域があってそこでは人権なんてことは全く考えることもなかった。そういうことだったのならそういう領域の境界に、危ないところには近づかなければいい。ところがどうもそういう単純なことではなさそうだ。自分が安全なところにいればそのすぐ近くでもやはり安全だとは言えないようなところもある。綱渡り状態というほどではないにしても踏み外すと落下してしまう。そういうような社会の幾何学になっている。単純な地理ではなく複雑なわかりやすい地図もない見通しのつきにくいそんなところがある。比喩的にいうと、ナヴィゲーションが必要な時もある。これはひょっとして人間関係について言えるかもしれない。そんなナヴィゲーションしてくれる人がいつでもいるとは限らない。つまり、こういうことが社会が複雑だということらしい。スマホにそういうナヴィゲーションアプリが入っていればいいけれどそういうのは今のところ想像もできない。すごく頼りになる自分向けにオーダーメイドのAIがあればいいわけだけれど当分は出来そうもない。
 しかしどういうAIならばいいのかは想像は出来る。たよりになる友だちみたいな。
 ならば、自分が、そういう友達みたいになれるかどうかを考えてみると面白いかもしれない。たぶん、複雑な人間で表現力も想像力もある、もちろん他人に対する理解力もある。そして魅力的なひと。そんな無茶な、無理に決まってる。
 ならばそのうちのいくつか、ひとつは持っているというような人間ならどうだろう。魅力的とまではいかなくともいい感じの人ならどうかな。さてどんな人だろうか。
 エンターテイメント作品で考えてみるとどうだろう。最近のテレビドラマとか映画でヒットしたもの。自閉症スペクトラム障害の主人公というのは最近よくある。なんかAIっぽい?むかしはよいロボットとかよい宇宙人とかだったかもしれない。ナヴィゲーションしてくれるようには到底思えないが結果としてナヴィゲーションしてるみたいなことになるみたいな話。それぞれ違った性格の人たちがその主人公に集まって何かできるようになるみたいな。耳が聞こえないとか目が不自由なひとが出るのもあったな。
 
 これはネオリベラルとは真逆な話になりそうだ。もしネオリベラルを入れてしまうととんでもないことの話になってしまう。人権問題に近づいてきたな。こわいこと感じが悪いこと。まさにネオリベ。単にぶっきらぼうはどうかな。

 自閉症スペクトラム障害(ASDという)とかウィリアムズ症候群(WSという)の性質に思いもよらない可能性があるのかもしれないというのがエンターテイメント作品になった。たとえば、自閉症スペクトラム障害のこどもは、気に入ったものに執着したり、気に入ったことを、そうした行動を延々と飽きもせずにずっと繰り返す。その結果として脳の配線が強化されて、やたらと手先が器用になったりして楽器をとてもうまく演奏できるようになったり、図鑑や図式的知識や文書にこだわり何回も繰り返して読んだりするのでリテラシー能力が向上して深いところにまで頭が働くようになったりする。これは才能があるとかあたまがいいとかいうのとは違っていて、何回も何回も繰り返すのが好きなので配線が強力になっただけで基本的には普通の人の能力なので、人はあまり脅威や恐ろしさ的なことは感じない。むしろ魅力を感じて愛されるキャラクターのようなのだ。こういうところがエンターテイメント作品に向いているのかもしれない。
 
 特に何も考えてはいないときにも、ヒトの脳は活動しているという。デフォルトモードネットワークとかマインドワンダリングといわれている。ぼんやりしているときほど脳は活発に動いていたのだ。わたしたちの心は日中のほぼ半分はどこかをさまよっているという証拠があるという。「放心状態にあるとき、わたしたちは「メンタルタイムトラベル」をしている。時間をさかのぼったり進めたりして、過去の経験から未来の計画を立てるとともに、連続した自己意識を得てもいるのだ。マインドワンダリングによって他者の気持ちになることができ、共感や社会的理解が促される。発明し、物語を紡ぎ、視野を広げられる」のだという。『意識と無意識のあいだ』ブルーバックスという本の序文にある。こういう時に自閉症スペクトラム障害の人のイメージは脳のマインドワンダリングのなかで結構活性化しているのではないかと思う。

 自閉症スペクトラム障害に関した啓蒙書とかの本には、たいていこういう説明がある。コミュニケーションの回路に切れてしまったようなところがあるので、能動的とか受動的とかいう、人を動かすとか動かされるとかといった、操作的なコミュニケーションがないので、無関係に勝手に何かやっているので、こういうのは全く競争的な向上心とかではないのでほめるということが、その気にさせるとか、喜ばせるとかにはつながらない。自発的なのである。
 一方でウィリアムズ症候群(WS)のこどもは自閉症スペクトラム障害のこどもとは違って、他者に対して過度な社会性を持っている。見知らぬ人にも臆することなく話しかけたり接近したりすることが地報告されている。
 WS者が見知らぬ他者へも接近する原因の一つとして、他者への恐れが極端に低い可能性が考えられている。ところが、WSに見られる他者への強い関心とは裏腹に、他者の心的状態や他者の視点の推測にはASD者と同じように困難が伴ることも報告されている。「心の理論」といわれる他者の視点に立って考えることのテスト(誤信念課題という)が苦手ということ。
 どういうことかというと、「人形Aが現れて、箱に玩具を入れた後、場面から消え、その後、別の人形Bが現れて玩具をカゴに移動させ、場面から消え、先に去った人形Aが戻ってきた際にどちらに玩具を探しにいくかを問う課題である。つまり、もし人形Aが誤った信念(玩具が別の人形Bによって移動されたことを知らず、人形Aが玩具を入れた箱に玩具があるという、現実の状況とは異なる信念)を持つことを理解していれば、現在の玩具のありかであるカゴではなく、その人形Aが玩具を入れた箱と回答するはずである。」定型発達児では五歳までに9割程度通過するが、ASD児では約9割通過するのは12歳半頃といわれている。

 さて、ドラマなどフィクションの想像力がなぜこういうことに興味を持つのかを考えて見よう。
 ASD児では、気に入ったこと気に入ったものに他人の関心とは全く無関係に延々と同じことを繰り返すことをする。他人の評価や他人との競争を全く意に介していないこと、よく言う、モチベーションとかインセンティブをまったくもっていないことがある。繰り返し繰り返し練習をした結果素晴らしいスキルを持つことになる。競争や他者の承認なしにそれができるということ。ここがいいのかもしれない。また、WS児では見知らぬ人に臆することなく話しかけたり近づいたりできること、他者への恐れを克服していることに魅力を感じるのかもしれない。また、他人が自分のことをどう考えるのかにも無頓着なことも、ひょっとして、自由でいいなと感じられるのかもしれない。
 ネオリベラルな空気に悩まされるいまの人たちにとっては、それは、とても楽しい美しいファンタジーに見えるからなのかもしれない。
 発達障害をもったひとたちには余計なお世話かもしれないし誤解を招くことかもしれないけれど、わたしたちネオリベラルな空気に悩まされるものたちには魅力的なことなのだろう。率直には動くことの苦手なわたしたちには興味深いことなのだろう。とかく人権意識など排除しがちである(自己責任とか自己決定とか)ときには、真っ直ぐにそういう意識に近づいていけることは勇気をくれるように感じられるのかもしれない。しかもそれはそれはとても魅力的に見えるのだ。だから、映画やテレビドラマになるのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?