水に流すか、水が流すか。雨が降ること、それの効果があやふやになってきたのか、雨の場面が見れなくなった気がする。

 もともとこの世には穢れというものが生じてきてにっちもさっちもいかなくなってきたときに雨が降ってきてそれをどうにかしてくれる。生きることが限界に近づいてきてもう自分の力でぬけだせなくなったときに天のたすけのようにかあるいは場面全体が雨でいっぱいになるようにしてそれが消える、というような終わりがあった。事件であれ戦争であれ物語の主人公の問題になるときには雨の場面があった。再生というか季節の転換というかそういう大きな巡り合わせがあってその中に紛れ込むようにして個人的な小さな問題に終わりが来る。おわりが来ること。
 そういうある意味では虫のいい話だと思う人が増えればそれが受け入れられなくなったのかもしれない。自責であっても他責であってもそういうことはある種の穢れだとしてしまうことがなくなったこと。赦しとか救済とかが周辺的になったこと。イメージにそういう力がなくなったということかもしれない。
 このことは大きなゲームで優勝するとか、そういうゲームの世界にも言えるのかもしれない。日本シリーズとか日本ダービーとかほとんど話題にならない。むしろ超大穴馬券が出た方が話題になったりする。何かそういうイベントにいって感動するようなことがなくなってしまった。イベントはギャンブルになってしまって、イベントの数だけ入口があるので上手に出口に出られるのが難しい。賭けや勝負事というのは自分で終わりを作ることだった。
 生きていくことの必然として穢れがあった。社会が小さく単純なら祝祭でそれが浄化されて意識しなくてもなんとなく終わりになってまた始まりが来た。祝祭がイベントになってしまうとなんとなく終わりになるのがなくなって意識的に個人的な動機によって何とかできなければならなくなるのがなんとなく感じられていく。 
 大きなイベントじゃなくても小さなそれがあれば楽しみ方ややり方がわかるとできることが見えてきて推し活とかが盛んになったようだ。あれは発明みたいなことだったんだな。
 個人化してしまったことで大きなめぐりあわせのようなものに無感覚になっているのかもしれない。また、穢れのような不合理的な感覚が消えたのかもしれない。他人を助けるというようなことについての感覚に大きな変化が起こっているのかもしれない。正月に起きた能登半島地震についてなんかそういうような嫌な感じがある。
 穢れというものは放置することができない。他人を助けるというのはそのような穢れを押し流して正常化するということであった。流れる世界にあっては穢れは必ずやってくるものである。このことは変わらない。しかしそれに無感覚に無関心になっていく。ニアミスしても気がつかないでいる。ちょっとした擦過傷なら気にしない。

 何でこんなことを思うかというと、ちょっと前に『ライ麦畑で捕まえて』のサリンジャーの話がNHKでやっていてこのお話の最後に雨が降ってきて、涙が流れておわり救われるというのであった。ちょっと意外で虚を突かれる思いであった。そういうハナシだったっけ。完全に忘れていた。まぁあれを読んでいた時はそういうことを意識的にならずにすんでいて無意識的になんとなく感動しちゃってちょっとだけ泣いたかもしれない。まぁなんとも古いタイプのお話だったんだな。もっともNHKの番組の意図は全然違っていてそういう流れなんかでは全くなかったのだけどまぁそれは私の誤解だよね。
 
 いまならカウンセラーにかかって分析してもらってちょっとしたクスリかなにかそうでなくとも生活習慣を少し変えて睡眠とか運動とか食習慣とか改善してみましょう的なことになるんだろうなと思う。カウンセリングって結構お金かかんだななんて贅沢なんだとか自分で自分に突っ込み入れられたらよくなったんだねみたいな。
 どっかで聞いた話だからほんとかウソか定かじゃありませんがAIカウンセラーが実現近いそうでタダのスマホアプリになりそうらしい。『her/世界でひとつの彼女』とかそんな映画みたいなことが来る?
 
 雨はあいかわず降るけど結構すごいゲリラ豪雨もあるけどなんかお呼びでなくなってる気がするね。坂元裕二の『それでも、生きていく』の終わりの回でゲリラ豪雨のなか走っていくシーンがあったな。あれは穢れと浄化で救済。とてもよくわかった。あのドラマの後あまりないような気がします。

 いまどき穢れみたいなこというとリベラルさんから執拗に攻撃されるかもしれないから誰も言うことはなくなったのかもしれない。別な言葉にすればエントロピーとかになるんだろうけどエントロピーも忘れられてる感じだね。文系世界から追放されると理系世界になるんだろうけど理系と親和性のある哲学みたいになるしかないか。素朴な理系じゃうんざりするだけだしな。

 しかし穢れなんて言葉を使わなくても『ライ麦畑で捕まえて』に書かれていたような経験というのか悩みみたいなのはなくならないだろうから雨のシーンがあればたぶん感動するかもしれない。リベラルさんのことは忘れて直接的な経験のことで探すのがいいのかも。ひとりで結構きつい山登りする人とかいる気がするけどただの趣味なんだろうけどああゆうひとはどうなんだろうね。浄化とか救済とかの感覚ー体験というとキモイ系と思われるので細心の注意は必要になるだろうーはわかるかもしれない。巡礼の旅とかお遍路さんとか資本主義レジャーからはあり得ない!のもいまだになくならないからこっち方面から考えるのもいいかも。人間のやることを範囲を決めずに無条件で眺めてみるという技法はあるかもしれない。人間的な偏りから離脱するのはAIつくるのに任せるのがいいか。穢れとか言い出すAIとか出たらスキャンダルかもね。資金が逃げ出すよね。AIもでも無理か。そうなると、人類学者になるのかもしれない。固定的な世界観と流動的な世界観の対立というか違いのあること。
 まったく知らない人たちからお布施を受けて巡礼の旅を続ける伝統というものがあるという。流動的な世界。カモメは飛びながら歌を覚え、人生は遊びながら年老いていく。偶然性の問題を認めるかどうか。好きかどうかかな。侘び寂び。エントロピーと趣味の世界。穢れは浄化と救済になる。

 啓蒙主義は確かに不合理な習慣や人の存在と他の動物を区別しないような権力を批判したことは素晴らしいことだった。もちろん、穢れというような考え方で人間が苦しめられてきたことは間違っていると思う。レイシズムやジェンダー問題は何とかしなくてはならない。しかし、非合理に見える宗教的習慣や差別的な言葉を人類の言語体系ーもしそういうものがあったとしてーから追い出してみても何にもならない。穢れが水と、浄化が雨と切り離すことのできないつながりを持つのはしょうがない。ならばそれらを回帰させるのにまかせるのがいいのだろう。リベラルは言語的な支配をより合理的なより啓蒙的な観点から再構成しようとして文書的な規範のシステムをルールの体系を構成して行為を可視的な再現性によって同定して管理しようとする。流動的な世界が何時しか固定したものに墜落してしまう。このときに破壊されてしまうものがおびただしくあることにそのうち気がつくだろう。

 啓蒙主義や合理主義は言語システムを編成して行為を管理して結果としては暴力の完全な独占を自明なことにしてしまう。リベラルな社会であることを誇っていた西欧諸国が暴力の行使についてまったく盲目のように見えるのは何故だなのか。考え直していかねばならない時は来る。
 本来、穢れや浄化や救済という思考の習慣的な共通性は、演劇的な演出をともなった可視化された祝祭の場で解消されていた。そのような祝祭の場がなくなってしまった後でも、穢れや浄化や救済はある、というか求められているはずである。場がなくなってしまった後でも残っているのは場から切り離されても一向に気にしないでいるのは音楽でまた視覚的な表現もそうだ。したがって、合理的にロジカルに考えれば、音楽やヴィジュアルな表現に居場所を変えて持続する。
 場所が失われてなくなってしまった後では何が起こるのかというと、先ずは個人が残るから個人向けなテクノロジーが必要になる。一方では表現は相変わらず集団的な仕掛けを大いに必要とする。このとき、個人的なものと集団的なものとの境が曖昧になる。個人であって集団のようで、集団であって個人のようなあり方というのは、個と集団の関係を築くことがそのあいまいさゆえにわからない。結果として、穢れと浄化と救済が適切な演じ方を失い混乱していく。リベラルな社会の限界が見えてこない暴力性にさらされることのもとにはこういうことがあるはずだろう。
 
 場所がその性質を変えた。このことの影響の大きさにつては曖昧にゆっくりとしかわからない。固有名を持った人たちの小さな集団は現在の社会ではうまく機能しない。必要なものはサービスでそれで個人は機能する。ところが、それはとても限定的でいつもつねにある範囲を超えることがないように設計されて発展する。穢れと浄化と救済にふれることのないように。個人にとってそれは、そういう問題を持っていることは、スキャンダルにしか過ぎないから排除の対象になってどこかに入れられる。大抵は医療的な施設が用意されているからガマンができるならそこで諦めよう。そこで穢れと浄化と救済にふれられればいいわけだ。リベラルはケアを主題化しようとしている。個人に対応したところではそうなることが一番いいと思われるのは仕方がない。水も雨も直接にはまったく必要ではないし関係はない。
 個人的には、穢れと浄化と救済であったものとは、集団的にはコスモロジーの存在であった。だから、コスモロジーのサービス業みたいなものがある。しかしそれは長続きしない。ディズニーランドも他のテーマパークもいつでも鮮やかな光を放つというのは難しい。どうして古臭く陳腐になり飽きられてしまうことに怖れるのかホントのところはわからない。お客さんが減ってしまうと資金が逃げ出す?サービスは新鮮でなければダメで、そういうものだ。これが神社仏閣との一番の違いで侘び寂びが強みになるのがコスモロジーの力であった。ひなびた田舎の古いお寺だか神社だかがあるとお参りしたくなるのはなぜ?

 生きることをエントロピーとのつながりで初めて考えたのがシュレディンガーだった。シュレディンガーの猫という思考実験で有名なひと。
 彼は性道徳に縛られないで自由奔放に生きた。彼の生き方でもうまく着地できればいいのだと思う。しかし生きものにとっても、とくに人間にとっては関係性は、「コスモロジーのひろさ」、彼は家庭教師にいった金持ちの家の娘と関係を持ち別の女性と結婚しても生涯それを続ける。また先端的な数学者の友人と夫婦交換をするなんてこともやってのける。独創的なアイデアで人を驚かして興味を引き付けることの好きな人。こういうことなら固定化されている関係性は動き出すので生きたものになる。半分冗談のようだね。量子物理の先頭を切っていた彼がある日突然生命の物理について講演をする。『生命とは何か』は岩波新書で読むことができます。精神と物資とサービスでエントロピーに対抗するのが生命とは何か。
 
 20世紀前半は科学や技術や芸術や哲学や文学や政治思想やら、権力闘争に戦争に革命に、それまでの限界を良くも悪くもはるかに突破していくところまでいってしまう、そういう時代でそういう社会だった。限界が取っ払われてしまうと、この時代社会人間たちのすることは、やりたい放題イケイケなら起こることは実にわかりやすい。むしろはじめからわかりやすすぎたもので、それが音楽や新発明されたラジオ放送に宣伝のメディアに乗ってひろがっていけば言っている内容とそれをのせるフシがそのわかりすぎるはなしが多少ともわからなくなりそこが、涙と嫌悪と興奮の分岐点になった。一気に増大する穢れが来る。それが戦争の終わりで流されるはずであった。ところが戦争はいつまでたっても今でもすべては終わっていないというか終わらないのであった。

 放送や宣伝のメディアは止まることなく発展していってソフィスティケートされて人工的に装飾的になる一方でまた何時しかそれらが合流点に近づくのかなんとも恐ろしい。それは人形の演じる洗練された芝居のようなものに近づくと思う。言葉の意味は音声になって人間の演技は人形の動きになる。その音声と人形の動きがもう一度よく聴きよく見るために人々にわかるために改めて意味化がされる。
 単なるファクトから情のこもった情を込めることばのかたりの演出に変わるのである。しかしそれは世界中の人々に通じるものではありえず、何せ文化も生活習慣も歴史も風土もぜんぜん違うのはどうにもならない。それで奇妙な具合に世界はそれに飽きてしまってそのコンテンツの完成は不発で予定される終わりとはまるで違った何処かへ行くのだか発散するのだかわからない。メディアのコンテンツの完成とは文学性、戯曲性、音楽性が改めて問い直され、しかもそれをナマミの人間でなく人形がする動きに合わせるところで超現実的な工夫ができた結果しだいによるのだろう。もうそれは科学の一部になった。
 ミュージカルのはなやかさ明るさと人形劇の陰翳礼讃のきまった領域を超えて自由に行き来する声の芸というのが今は主流になる。声優さんの人気はすごい。
 社会的なコトバと個人的なコトバを同時に流暢に語りだす声とは一体何なんだ。大人の声で語り次にはコドモの声になり女の声になり男の声になり聴こえぬぐらいの低い声になり老人の声になり動物の声になり植物の鉱物の機械の声になり赤ん坊になる。これがある意味では経験の標準になるのだろうか。それが世界にとってのコンテンツの完成ということなのか。そうなんだとしか言いようがないところに追い詰められちゃったな。

 春の雨のような優しい声が降ってくる。その雨の中にひとりでいて涙が流れてくるのを待っている。
 たまに聞くお話に飛行機が飛べることが説明できる理論的説明はまだできていないという。数学的な形式の証明というやつだ。それでも空気より重たい飛行機が飛べるのが信じられる。だって飛んでるぞ。
 簡単なものから、効率の低いものから効率の高いものへ、複雑なものへと宇宙の事物は進化する。もちろん、そういうことの理論的な説明はまだないという。はじめの質問に戻ると、生きることは必然的に穢れをため込んでいく。それは浄化され人は救済されるだろうかであった。それを含めての進歩がある。春の雨が降っているから。 
 ようやくサリンジャーに追いつけたかな。ここはどこだ。

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