店じまいになる国民国家にはダークサイドが見えてくる。

 「国民」は、仲間意識でつながっている。これは誰にでも分け隔てなくというような人権意識とはかなり違うものである可能性がある。店じまいになるときにはそれが見えてくる。国民国家が店じまいするとどうなるのかといえばグローバル化ということ、モノヒトカネの移動の自由である。
 歴史を振り返ると、それは帝国ということだ。唐の長安では外国から来た商人やら奇術師や楽師たちがいて活発に様々なことをしていたという。それぞれがそれぞれに勝手なことをしながらうまく集まって生活していた。皇帝はきらびやかに着飾って人々に自分の存在を見せつけて只々スケジュール通りのことを儀式をするだけだった。いまは何もかも、経済的合理性が優先されているから、そういうことはなくなっていくかというとそうでもない。エリザベス女王の国葬は近頃まれにみるページェントだった。帝国とネオリベラルなものとの違いは自己責任を貫徹させるという要求がないことだ。つまり自己責任でしょを忘れて救済を望んでもいい。少なくとも全くそれを否定することはまずなかったことだろう。
 現在の西欧的なネオリベラルな経済最優先が常識であるのと違って、19世紀の大英帝国のビクトリア女王の時代の文化を思えばわかるだろう。弱者に落っこちてしまった人々の救済を試みた人がでてきた社会でもある。弱者の声も尊重する意味があるということが共感できるようになるということである。ディケンズの小説とかあるでしょ。
 
 帝国の成立は暴力の力そのものであるので支配される社会は破壊され崩壊して植民地になってしまう。そういう世界制覇の後にあらわれる帝国は可視化される悲惨さが強大な権力のきらびやかさに魅力されるように変化していってその暗黒面が思いやりのある救済の統治の明るい面にへと次第に寛容さへ近づいていくようである。少なくともイメージではそうだ。
 古い帝国は滅びて新しい帝国へと置き換わって変わっていくというのがそれまでの歴史であったが、そこに今度は資本主義がでてくる。
 帝国は未来に興味を持たない。王朝が続いていくことだけだから過去にしか関心が向かないのだ。資本主義は未来にしか興味を持たない。資本は蓄積され成長しなければならないからだ。ここに矛盾が生じて帝国は変化していく。ビクトリア女王の時代はそういう時代であった。

  資本主義以前の帝国は様々な集団たちに対して、宗教や人種や文化に無関心であった。それは過去にしか興味を持たないからだからだ。帝国にとって過去はもう終わっている、というか解決済みということだ。
 無関心の本質は平静さということにあるのだろう。解決済みならあえて問題にはなりにくい。しかしつねに新たな意味を期待される求められる利益を出さなければならないなら平静ではいられない。解決済みということだけが無関心でいられる条件のようだ。あるいは、終わっていること。
 帝国とはすべてが終わっているのと同じということに尽きる。だから、どの宗教も他の宗教と両立している。どの人種も他の人種と同居している。数種類の貨幣が流通している。さまざまな文化や食習慣がある。
 ところが、西欧に近代が起こって国民国家が始まり帝国をすべて滅ぼしに行く。そして帝国が終わる。帝国は自分たち自身にも無関心なので国防もおざなりで傭兵に任せっきりで攻められるとなすすべを持っていない。もともと終わっているのだから終わったとしても何か新しい物珍しいことが起こったわけではないとみんなが思っていたのだろう。ただ、帝国の終わりの次には帝国ではないものが来た。これにそれ以後、帝国だったところの人間たちはずっと戸惑ってきた。植民地になるのだが統合されるのではない。支配されるのだけれど自分たちが何になればいいのかわからない。これは支配する側でも同じで、帝国を何か別のものにしなければならないと思ってはいるけれど、そういうことまで考えていないのである。
 国民国家はというと、ともあれ、革命と戦争に明け暮れるのであった。未来だけを考えているのだが、現在をどうするつもりなのかは、あまり考えることはない。経済と政治と科学がある。産業と国民軍と国民経済がある。戦争に明け暮れることにも終わりが来て植民地が民族自決と国民国家にかわる。しまいにはソ連が崩壊してイデオロギーが無効になる。そうして一つの世界が実現するように見える。それは帝国のようなものになるはずだった。
 
 グローバル化して国民経済がただの企業の集まりになる。富国強兵は誰のため?国民は戦争に明け暮れるようなことはまったくなくなり外国に戦争に行くことを嫌うようになる。こうして、どの国も戦争に弱い国になる。まるでかつての帝国のようだ。
 帝国は戦争をやらない。しかしいまだに戦争があるから帝国の体制にはまだ移行できていない。まだ国民も国家もある。しかし実質的には戦争マシン経済マシンであった栄光の国民国家ではもうない。
 イメージだけが先行している。新たな兵器でする戦争がすぐそばにやってくるのだと騒ぐ。ゲームデザイナーが作ったゲームのような戦争が始まるのだろうか。でもそんなのを一体全体だれがやるんだか。
 戦争はダメな国が、失敗してばかりでぜんぜん発展しない国で起こす。大国や先進国は戦争なんて全くする気はない。ところがいつでも戦争ができるのだと誇示しなければならない。気分は帝国なので自分たちは戦争に弱いことを知っている。歴史のダークサイドだけが参照される。イデオロギーなんてどうでもいいと思ってはいるが国是というようなものがあるので善悪と敵味方の対立が煽られるばかりだ。

 過去のではなく未来の帝国はあまりに無関心であることは出来ないだろう。人々が平静に暮らせることが帝国のたぶん唯一の政治的目標になるだろう。過去の帝国では私的なトラブルはそれぞれ私的な方法で暴力で解消されていた。もうそういうことでは困る。しかし、公的な権力が仕切るというのも嫌なことだ。
 さまざまな逸脱やトラブルをダークサイドに入り込むことなく解決できるには何が必要なのかを課題にすることができるのだろうか。
 「正しさ」というものに、あるいは他の価値観からくる合理性とか公平性や民主制とか、に基づいた議論では解決しないときにどうすればいいのか。たとえば、原発問題であるとか。

 無関心の本質は平静さであること。私的なトラブルを誰が解決できるのかという問題が重要である。問題を完全に分割して引き離して別々にそれぞれに解決する。ところがそういうことをしようとするプロセスで暴力が発動してそれをこわしてしまう。それが実質的には解決だったりすること。むしろ、解決しないことが確認できることが解決であること。まるで終わらないお芝居のように続いていくことでもよいと思えるかどうか。

 帝国と国民国家はどこが違うのか。官僚制で動いているのは同じだともいえるが、緩くて曖昧さに無関心なのかきつくて理性的なのか、ということかもしれない。国民国家は法的な自動機械のように作動するのでとても効率的で迅速に物事に対処できるのが好まれるのだろう。うまくいってればね。民主主義が機能しているとか。国民国家は資本主義にとても親和的なところが啓蒙的な理想と融合できるのだった。民主主義は社会のだれもを巻き込んでいくから発展性のスピードがつねに加速して組織化して体系的に作動できるので社会をどんどん変えてしまうのがすごい。よく、リベラルと保守とかいうけれど、単に方向性の違いでしか無くて、変えること変えないことの違いに見えるけど、実質的には民主主義的な決定を争っているだけだ。つまりともに「変えること」に、方向性は違うけど、執着しているだけだ。経済的な利害については両者ともに敏感だ。無関心は許されないことだと思っている。
 つまり、無関心と平静さのリンクを切り離してしまう。だから、選挙が活性化すると分断をあおることになっていく。
 
 帝国は自然な地理的な気候区分的な環境に適応する形で、ゆっくりと発展し衰退していくのに対して、国民国家は、強力になった動力革命のテクノロジーの利用によって、環境を人工的に変えていく。地理も人間の共同体の集団もかえてしまう。医療の質の向上で死亡率が減少して人工的な人間の集団的な管理が教育によって可能になり巨大な規模の土木工事で都市を開発して人口が急速に増加していく。やがて教育が行き届いて社会が洗練してしまうと、自分の生活を自分で設計するようになり効率的に子供を育てるようになるから人口は少なくなっていく。社会が洗練されて娯楽が個人向けにつくられるので、愛が他の楽しみに置き換えられていく。いずれ孤独の問題も解消されるのかもしれない。二人で子供を作ることから、しだいに社会がこどもをつくるようになっていくのだろう。生産の目的は楽しさを作ることになっていくだろう。いずれにしても生産の目的は消費にあるのだから。
 巡り巡って、また、無関心と平静さへと回帰していくのかもしれない。社会は技術的な発展によって人間たちをその人間にシアワセが感じられる時間と場所を提供できるようになっていく。社会は人間の五感に精密に入力をとどけることで人間を何処かへと連れていく。自分が何を望むかではなく誰かほかの人が何を望むかに意識的になっていくのだろう。人の幸福はある特定の時とある特定の場所から生まれてくるからだ。そこがどこか知りたいでしょうというわけ。
 逆にいうと、社会は、そういう、時と場所を提供することしかできないというか、それ以上のことをするとおかしなことになってしまうからだろう。それ故に社会は複雑化することをやめない。それゆえ人間は複雑化していくことをたがいに認め合うようになるしかない。これが次の理想社会ということになるのだろう。
 それは、人間の暗黒面に直接にふれることをも意味してもいる。人の性格のダークサイドにふれて理解することが始まるのだろう。それが、無関心と平静さということになるのかもしれない。
 
 むかしのイギリスのテレビドラマで人間の管理を任されたコンピューターに主人公が「なぜ?」という質問を打ち込む場面があった。コンピューターはもだえ苦しみガタガタと震えて壊れてしまう。このことの教訓は何ですかと問われたらどう答えたらいいだろうか。「なぜ?」には答えようがないということなのだとしたら、どうだろう、「どのようにして?」ならこたえられるかもしれない。これなら会話は続けられるから。

 はたして、ついにAIはこのようになってきた。
生きることの意味は生きることの技法に置き換えればいいのだ。ああそうすればいいのかその方がいいのかなら学ぶことができる。映画やテレビドラマ、エンターテイメント作品は考えてみるとこういう方向へ向かっているのか知れない。
 なんのためになにをもとめて、なんて言われたら、どうしよう、あのコンピューターみたいにもだえ苦しみガタガタと震えて壊れてしまうんじゃないだろうか。言ったらだめだよね。おぼえておきましょうね。
 恐らく人間のダークサイドにふれるというのは、そういうことをひとに突きつけるということなのかもしれない。マキャヴェリアンなひともサイコパシーなひともスパイト(自分が損になるのにあえて意地悪や嫌がらせをしてくる人のことをいうそうです)なひともいる。自己愛的なひともそうでないひともいる。うかつに「なぜ?」といってはまずいひと。こういうひとには近づかなければいい。でも誰がそういう人かはわからないようでないとまずい。国民であることがどうでもいいことになると、つまり仲間意識を前提にできなくなるとこういう人が自分のリミッターを自然に解除するかもしれない。差別したり排除したりするのはダメだから専門的に研究してみるのがいいのだろう。いろんな人がそういうときにはどうしたのか、自伝とかを読み込んだAIを開発することになるのかもしれない。半導体と電力と資金が問題?巨大な技術力を独占するビッグテックみたいなのが問題?ダークサイドがいっぱいいそうだよね。いつまでたっても、無関心と平静さにはならないかもしれない。たとえば、トランプのいる世界といない世界とではどっちがいいと思いますか?といわれたとしましょう。難しいな。ちょっと答えに窮するな。じゃぁプーチンならどう?習近平ならどう?では、安倍さんで考えましょう。これは言いちゃあお終いよだね。忘れてくださいお願いですから。あまりひとのことをそういうように思うのはいけませんね。いるんだから。今年はトランプか。

 「この世にあらわれながら、なんの混乱もひきおこさないものは、尊敬にも忍耐にも値しない。」ルネ・シャールという詩人の『蛇の健康を祝して』という詩のフレーズ。昔は結構気に入ってたけど、いまはなんかもやもやしますねぇ。

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