鉄道文化のナゾ。中央線と東横線、総武線と西武線、東武線と京成線、生活の文化と再生産。新たな対立構造?風景のおわり?テレビドラマで知れること。

 どこの先進国でも経済的離陸を体験している国でも、成人になる期間が長くずれ込んでいるという。結婚してこどもをつくる時期が遅くなっていて長い青年期を送るようになった。それぞれの地域の文化はそこに生まれたこどもたちの「躾け」を家族内で地域内の人々や学校によって行われることで持続すると考えられている。

 地方から東京へやって来るたくさんの人がいた。彼らが自分の故郷へは戻らずに東京に定着して東京の人口は増加して新しい街が様々なところにできた。そうして、東京には鉄道路線図に重なるような独特な文化ができた。地方から東京へやってきた青年たちは当然ながら彼らが育った土地の規範を内面化しているはずなのに東京で生活するうちにそういうものをなくしてしまう。ローカルな人間関係の相互作用の中で無意識的な模倣によって新たな価値観を身につけてしまうようだった。地方からやってきた若い人たちは特別な強い価値観を身につける目的がないなら、ふわふわした気持ちのままでたまたまそこにある生活スタイルに自由に同化していく。いつのまにかそこの風景に同化しているのだった。場所の記憶がその人のものになるのだろう。
 
 しかし都市はしょっちゅう再開発されて変わっていく。インターネット中心に生活するようになれば提供される商品はどこでも同じになるから当然街も同じになる。デパートの文化はデパートが持続できなくなっていくつかのお馴染みの量販店の集まりになるからどこも同じだ。ところが依然として町の文化みたいなものは不思議となくならないようだ。なくなるとしたら街も文化も一緒にだろうね。
 
 サブカルや趣味の好みが文化になっていてそれにとどまる人とそこから離脱する人がそれぞれの街の再開発の性質によって分岐していくので実際には街の風景は曖昧になっていく。
 そういう変化では風景は自意識の中にしか存在しないからインターネットとはとても親和的なのかもしれない。ひょっとするとどんなにもビッグテックがパワーを持っていてもそういう自意識に寄り添っていなければあっという間に衰退してしまうのかもしれない。
 
 鉄道文化の話は結構盛り上がる。自分たちのローカルカルチャーをあれ何でだろうとか問うことをしながらたまた別の街に住んでる友達とたがいにそれを面白がれる。おたがい、相手の住むカルチャーを知ってるわけだ。だから架空のものに過ぎない何とか線に住んでる人にありがちとされるキャラクターがフィクションの想像力で生き生きして持続して街になっている。
 
 こういう都市の想像力が経済的機能に特化して設計される実際のインフラストラクチャーのうえに新たなフィクションの想像力を起動させるとそこには都市を創りだす力が立ち上がりそれが強烈な対立関係をもたらせれば、潜在的にはそれが都市の活力になるかダメにしてしまうかはすぐにはわからないだろう。
 
 今のところ都市再開発は人口構造の持続可能性に困難さをつくりだしてもいる。この困難さに意識的になると新たな物語が必要になるだろう。新たに造りだされるキレイで効率的で合理的な考えで作られる風景に望まれる物語はデベロッパーの設定されるシナリオでは始まることができない。スムーズに始まれるならそれはただの観光地で、ちゃんとそこで始まるにはなにか困難さが重要なのだろう。
 人口減少は物語を支えることができない。よそから物語に入ってくることがなければそういうキャラクターがいないなら物語は壊れていく。物語は終わるのでなく、なくなるのである。個人の物語があったところには主人公の個人が来ないので主役の来ない集団の物語が、集団の物語があったところには集団の物語が解散なのでバラバラの個人がいればそんな個人の物語が。同じようなテーマは違う形になって入れ替わる。世代交代のような同じものから同じものへの交代の繰り返しにならないときに何が来るんだか。解像度が揺れて不確かになり曖昧になって姿かたちが自由に変化するようになっても規範的圧力はかかってこないので物語は進んでいくことは出来る。
 
 太古の昔に陸に上がった魚はメジャーのメインストリームのビッグフィッシュさんじゃない。周辺的な仲間外れの「人口減少」な少し変わってしまってるおさかなさんだったかもしれない。だから、人口減少の圧力はひょっとして面白いことが起こせるものかもしれない。人口増加の時には集団はどんどん力をつけてのし上がっていったかもしれないが古臭い因習もまたそれなりに力をつけていた。発展していくトレンドの時に新しくてだれにとっても、とってもいいものが生まれたとは限らなかったのかもしれない。むしろそういうのは下降していくときにあらわれるのかもしれない。上に上がっていくときは、山の頂上とか高いところの高原とか美しくて魅力的なところに魅かれるのかもしれない。しかしそこはのぼっていく誰にとってもそこは同じところだ。誰にでもその価値が分配されるわけでもないが抽象的にはテレビや週刊誌や漫画雑誌でその価値は内面化されたのだった。

 人口増加の坂の上の雲の方へのぼっていく比喩があるなら、人口減少は山や坂の上やきれいな光源から下っていく比喩になるだろう。
 
 降りていくときには、そこが、ひろい平原なのかあるいは川の流れているところへ向かうのか、降りていく自分たちでひとりひとりで決めていくのだろう。その中には、だれにとっても、とってもいいところもあるかもしれない。

 サブカルチャーの賞味期限はとっくに過ぎ去ってしまった。もはやその風景は観光客しか喜ばない。都市再開発は風景の設計をすることで不動産価値を創出するのが目的になった。それ自身は成功しているようである。いまだにむかしに高田渡が歌った歌詞そのままに東京は豊かに発展している。
 
 とうきょうはいいところさぁーながめるにはもうしぶんなぁしぃすむならあおやまにぃきまってるぅさぜにがあーればね

 銭はいくらでもあるという御仁たちはいつもお元気でめでたいことである?まあ冗談はさておき対立構造は明確になっていく。中心が虚であるニッポンでいられる余裕はないのか。外苑銀杏並木が現金化される。虚が充実して手づかみに動かせるようになるのは歓迎されているようだ。皇居はともかく外苑は充実した再開発ができた。ヒロシマでもG7のおもてなしができてしまえるような充実した世界の観光都市になった。パワーゲームに先頭を切って参加する。でもいったい何を持っていって参加するのだろうこの国は。

 そういうのとは無関係かもしれない、充実した都市環境のパッとしない周辺的な場所で、地位が少しは上にいけるとかとはとても言えない思うことも出来ない、ちょっと抑圧されてる気味な女性のことが思い浮かぶ。
 こういう女性がいるとして、このことのエンターテイメント的な表現はどういう物語が採用されるかでわかるだろうか。女性の主人公は人並みにあるいはそれ以上に自分のうちにはそれなりの期待を持ってはいたがそれが率直に伝えられないことで物語が複雑な道筋を取ることになるだろう。
 持っているそのポテンシャルが期待されているどおりに素早く圧倒的なプレゼンスで突出できることがもし可能だとしてそうならないときには、社会の方が戸惑っているだけなのかもしれず、それは実はそのことは無意識的には祝福されていたことだったのかもしれない。実現しなかったその期待の行き先の出口がどこにあるのかということがドラマの斬新なテーマになれるだろうか。

 今年のフジテレビの月9ドラマの設定にびっくりしまくりですが、古臭い言葉でいうと、贈与のテーマというか、贈与の出口のようでした。
 今回のは献身のテーマですかね。贈与の出口はそれなりに面白かったです。献身の出口は果たしてどういうようなことになるのでしょう。どういう風景が見えるのかな。

 鉄道文化の後には、ある種の出口が来るだろうか。鉄道文化というのはいろんなところにできた入り口だったですよね。
 ローカルな鉄道文化は人口増加の集団が活性化して力をつけて新しく家族が生まれて町をつくったときに同時に生まれた文化だった。ならば人口減少の影響力が周辺的な人たちが面白い物語を発見するのかが知りたい。なくなっていく文化もまるで様変わりする文化も出てくるでしょう。

  日本は中心が空虚だ。1970年に出版されたある本のなかに書かれているのを思い出す。
 東京の中心は樹木の緑で隠され、お堀で守られている広大な空虚な空間がる。皇居がある。
 このロラン・バルトの『表徴の帝国』はとても鮮やかな印象をわたしたちに与えた影響はとても大きかった。たぶんあれ以来そう思っている人がたくさんいただろう。それは、つまり、皇居に限ったことではなく、それは鉄道の駅についてもいえることだとバルトは言う。駅も地域の中心の空虚をさしめしている。しかしこっちは感覚的にはまったく正反対の異なった職種の異なった身体の雑多な人々が集まっている賑やかな「空虚」だ。
 その地域で働く人と遊びに来る人で混み合う空虚な地点である駅につきものの大きな穴のような場所のことを語っていた。
 「労働者と田舎者の街で、大きな雑種犬のように無骨だが人なつこい街」、さてクイズです。この街はどこの街でしょう。答え、「池袋である」。
 この、日本の逆説であった空虚な中心は、コロナ下のオリンピック以後になって空虚な空間は充実したものによって埋められて来ている。みなぎる力を持つ高層建築や最上位の富裕層が住むタワマンや東京のターミナル駅が再開発されて変わっていく充実した商業施設のあつまる広がる場所が出現しつつある。東京は、東京に限ったことでもないが、そこに集まる人は誰もみなどういうバックグラウンドを持ってる人なのかは見かけからはまるで分らなくなった。同時にそこは、「ロマネスクな本質を具現している」とバルトが書いたものは見つからない。

 日本に来た1960年代の旅行者のバルトは「こうして、それぞれの土地の名が響きをたてて、未開原住民ー彼らにとっては熱帯樹林が巨大都市なのだろうーとおなじくらい独自性をもった住民たちの暮らす村、という概念がうかんでくる。この土地の響きとは、歴史の響きである。というのは、意味を生みだしていく名前とは、ここでは思い出ではなく、記憶想起[アナムネーズ]となるからである。あたかも、つぎの古い俳句(17世紀の芭蕉による)から、上野の全体が、浅草の全体がわたしに伝わってくるかのように。」と書いた。「花の雲鐘は上野か浅草か」、フランス語からの日本語訳ではこうなる。
 
 桜の花の雲、
 鐘の音ー上野だろうか。
 浅草だろうか。

 最近の俳句はこのような問題をどう解決しようとしているんだろうか。知りたい気もしますね。

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