富岡多恵子が紹介する土方巽の話。美と想像の話。この続きを考えてみればどうなるか。

 「昔貧乏人の子がサーカスに売られて、両脚を水平に開いて頭を地べたにつけろといわれても頭はつかない。しかし、それをやらないとその日の晩めしがもらえないとわかると股が裂けても頭は地べたにつく。一方、バレエを習っている金持ちの娘は、一日一日と合理的に開脚の訓練をしてきているから頭は地べたにつく。ただし、その日はじめて綱を渡れといわれたらこわくてすぐに綱から落ちる。股を裂いた子ははじめから綱を渡る、というハナシである」。

 自分の感情、恐怖心や嫉妬みたいな、金持ちの娘の抱くであろう「人間的な個人的な」感情を全く問題にできない、また平等性や承認されることなどをも問題にされない「サーカスに売られる子」のなかに素晴らしい芸を達成する芸術家が出てきた。それに対して、「バレエを習っている金持ちの娘」の合理性では、限界があるのかもしれない。なんて思う。

 ロシア嫌いのせいかどうかはわからないが、フィギュアスケートのロシアの選手をドーピング違反で失格にして排除することをしたら、その結果フィギュアスケートは何かをうしなった。つまんなくなったのである。
 公正さであるとか、こうした考え方で競争のプロセスを管理してしまうと、気がついた時には失ったものの大きさを感じたとしてももう取り返しはつかない。ネオリベラルの好んでいる言葉であるモチベーションとかインセンティブとか個人的なものを重要視する競争では達成できないものがあるのかもしれない。イノベーションは破壊のプロセスとともにあることでもあるから。創造的破壊とか言うでしょ。合理的な理由と個人的なものだけの世界から引き返せるところについて考えることは必要になっていくだろうと思う。でもまさか人身売買みたいなのは暴力的なだけで全くダメ。
 でもどうしてサーカスに売られた子はそれが出来るのだろうかというとモチベーションだのインセンティブだのまったく関係なく問答無用にいきなり説明も理由もなく圧倒的な世界の前に立たせられるからだろう。ほとんど命がけだ。

 テクノロジーの開発では徹底した合理性が重要である。考えられるすべての可能性を出来得る限りカバーできたものが開発で勝利する。あとは独占してコストの回収をすればいいだけだ。さて、このときうしなわれるものはあるだろうか。潤沢に資金が用意できたものがすべてを勝ち取るというわけだが、それでも届かないことがある。
 何を言いたいのかというと、それでは綱から落ちてしまうということなのだ。誰にでもできるようにする合理的な方法というものは可能性を拡げるようでいて実は狭めてしまうこともある。それはすべてを見ることができないということ。もともと世界はなんのためにあるのかなんて目的なんかあるわけがない。だからそのような世界の盲目性に向って何をすればいいのかははじめからわからない。偶然性だけがある。だから始めから「偶然性」を避けて落ちることのないところで始める。それの方が合理的で資金の節約にもなるから。

 サーカスに売られる子は論外だから、問題は何かというとそれは、バレエを習うお金持ちの娘にとっての問題だから、問題は、成功して、自分が幸せになるということでしょ。個人的な幸福の問題なのだった。
 
 それは分析的に見れば技術的な問題である。「幸せ」をとらえるために経験的なデータを集める。そうすればあるイメージがつかめる。それを分析してあるパターンが見つかればそれで半分は解決だ。幸せは必然だろうか。計算主義ということ。よりかっこよく言うなら、洗練された経験主義またよくデザインされた抽象論理の構成、ということだろう。お金持ちの娘さんが習うバレエの競争だ。
 しかしあまりに合理的で結局お金を一番かけられるものが勝つことになってしまう。世界はこんなに必然的なの?自分にとって必然的なこと。
 
 こういうことに反論をするとしたら何を引っ張ってくればいいのだろう。いろいろあるだろうけれども、たとえばマルクスは自分の学位論文で哲学の伝統を考えて、古代ギリシアのデモクリトスとエピクロスにルクレティウスについて書いた。on the nature of daylight.

 合理的に訓練すること。分析的に考えて実行すること。あたり前のことのように思えるかもしれない。しかし、そうして得られる解はたいていひとつで、それに従うことが最良なのだとされてしまう。これを世界戦略にまで持ち込んでしまうと啓蒙主義的な自由民主主義社会¥の自由市場経済の最良な世界を、力ずくで暴力的に帝国主義で実現するみたいなとんでもないところまでいきかねない。
 アメリカのネオコンはある意味ではそう考えていて、それをとても理性的で合理主義的な手段で実現したいと思っているのではあるのだそうだという。ほんとかな。そういうのを美しいと思っているのかもしれない。
 
 ナチスの収容所では夜になるとモーツァルトの音楽を演奏したそうだ。モーツァルトの音楽の美を分析的に理解してみてもナチスのようなことがそういうことが排除される必然性はない。
 美を感じる能力は人間に遺伝的に備わっていると考えることも可能だからだけれどもちろんそれが暴力の快楽と同居していても。
 このことのどこが変なのかというと、こういうことが起こってしまうのは、音楽の美が抽象的過ぎて、だれにとっても同じように感じられると考えるからだ。  
 ガス室で死んでいく人もそうでないナチスの官僚もモーツァルトの音楽が好きかもしれない。ところがそういうことがまったく思い浮かばないということがナチスを実現させているということ。
 自分でモーツァルトの音楽を聴いて楽しむということの前にモーツァルトの音楽を聴いている人や演奏している人がいる場面が思い浮かんで抽象的ではない楽しさが感じられること記憶の中で活性化することがいつも少しは思い浮かぶようになっていたらよかったのかもしれない。

 サーカスに売られた子は生きることに食べることに必死で芸ができるようになる。そのうちにそのような子の誰かが大人になって何とか生き延びて誰もが尊敬する芸術家になったときも、その芸にまといついた経験を忘れることはないだろう。生きのびられて何とかなったのは自分の力によるのではなくまったくの偶然だと一生涯を通しておもい続けるかもしれない。
 かれらの苛烈な経験は忘れられるものではない。そのくらいの濃密な経験が芸をつくってきたのだろう。具体的な体験で身体は生きられて成長してきたのだろう。とうてい現在では許されるものではないが具体的な体験が自分自身の身体も心もつくるということは、そのことの意味は考えられてしかるべきであるだろう。
 密接な関係が創り出していく世界がある。そこは多くの人間たちの労働によってつくられる社会がある。濃密な社会というようなもの。過酷な労働があり、人身売買で何とか生き延びられた人もいただろう、そういう世界。子供がたくさん生まれ、たくさん死んでいった世界だ。仕事を身につけることも、芸を身につけることも、大変なことだったかもしれない。
 ある時それが驚異的な経済成長によって克服された。人口が急に成長して大都市が可能になり巨大産業もおこる。医療の進歩があり寿命も延びた。こどもがほとんど死ななくなったのでこどももたくさん産まなくてもいいようになった。そうして、濃密な生活は都市的な合理的で経済的な不特定多数の匿名性の生活へ変わった。
 経験の質も変わり、具体的な体験が合理的な無理のないような訓練で置き換わる。「バレエを習っている金持ちの娘」に近づいていく。この、体験の質が変わるということが人びとの性質を大きく変えた。つまり、計算主義になった。

 相変わらずの言い方。全体的と分析的。話を変えて比喩的に単純に言うと、世界を全体的に集約するのと、分析的に調べて部分的に実現していくことの違いと考えることができると思う。
 貧しく貧弱であっても世界そのものを集約できていればオーラがそこにある。分析的に探究して構成して部分的に積み重ねていくとそれなりに自分でわかるものはある。そうして実現したときに新しいものがあるのかというとなかなか難しい。ちょっとした例で考える。どういうのがカッコいいみたいな話。圧倒的みたいなこと。
 
 『ベイビーわるきゅーれ』という少女二人の殺し屋の映画がある。それとは別に、ムーンライダーズのカヴァーで知ったのだけど、長谷川きよしが歌っていた『卒業』という歌に少女の殺し屋が出てくるのがある。
 この違いというと分かりやすいかもしれない。
 映画は単純には作れない。人を集めたりお金を集めたり説得したり話を聞いたりとにかく分析的に積み上げていかねばならない。なので次第に「バレエを習っているお金持ちの娘」みたいになっていく。もちろん世界をそのままに集約して見せるものがないわけじゃないけれど。
 一方で、ほんの一瞬歌の中に出てきただけですぐに消えてしまう歌詞の中の女の子は単純な分だけ世界そのものが集約された感じがある。ならその子が出てくる映画を「ベイビーわるきゅーれ」で作ってみればいい。

  世界は、流動的なのか、それとも固定的なのか、はどうでもいい。社会を見る目が、技術的に客観化することができて統計科学が計算システムの進化で実用化できると、対象として可視化されていく。後は野となれ山となれ、というのではないが、何をするのが効果的なのかがわかり、戦略的に身動きできるパワーを持ったエージェントが成立できる。そうして経済とテクノロジーが共進化するルートが見つかれば何かが起こることを期待できるところへのその夢のようなちからがわかってくるだろうか。
 
 たとえば再現的テクノロジーは三次元的に空間を演出するところまですぐに行くだろう。データさえ復元できればまるでジュラシックパークのようにビートルズのコンサートもデヴィッド・ボウイのパフォーマンスを美空ひばりの歌唱を再現する以上のことが可能になるだろう。
 テクノロジーによって支えられる経済は個人的な発想を具体的に実現できるようになるだろう。というのか、ちゃんと支えられることができれば個人の才能は爆発的に開花するだろう。経済が偶然のあるところにまで行ければということだ。
 分析的に明らかにされる知識だけではちっとも十分じゃない。それがどうすれば十分じゃないのがわかるのか皆目見当もつかない。
 というか、分析的に分析的に明らかにさせて再現しながら進んでいくだけだとそのうちにいつか終わってしまう。世界をその細部に注目していくのはいいのだけれどいつしか部分的なものが全体的なものと区別ができなくなって世界そのものを別なものに変えてしまうと荘子の混沌のように世界は死んでしまう。
 テクノロジーは世界そのものに近づいていけるように見えるのだけれどそれはただの陥穽に過ぎない。テクノロジーはどこまで行ってもなにをしてもどんなに発展していっても道具でしかない。テクノロジーは、それによって何かをすることを越えて、テクノロジーそのものと同一化して自分自身と区別がつかないようになるところまでいかないと墜落してしまうだろう。
 
 これじゃ抽象的過ぎてわからないな。何か例になりそうなものが欲しいな。最新のテクノロジーにはどういうのがるか。
 どういうことを考えてみればいいのかというと、テクノロジーとしてはいまはAIを使ってみよう。たとえばAIにモーツアルトみたいな曲を作らせてみる。いまどきモーツアルト風の曲なんてつくるようなやつはいない。馬鹿にされるからやらない。
 ところが機械ならいまさらモーツアルトだなんて意味などないななんて小さいこと気にしないからちっとも思わないから自由に楽しく作るかもしれない=そこで一緒に機械とデュエットで即興演奏してみると意外と新しい発見がないとは言えない。世界が世界であるのは人間がそう思うからで極端なことを言ってしまうと自分がいるからなのだ。ある意味機械によってそこに世界があらわれる。そこに自分がいる。こうして世界を集約することができる。
 こう思ってもう一度元に戻ると、こどもがモーツアルトを演奏することがそのまま世界がそこに集約されることにもなるときもある。
 
 テクノロジーは使う主体によってなんにでもなり得る、必然にでも偶然にでもなる。テクノロジーは計算してるだけ。パルメニデスのそばにはゼノンさんがいて謎をかける。君はピタゴラス主義者。
 君は一緒に演奏している。君はヘラクレイトスに背中を押されて美しい川に入っていく。パンタレイ。万物流転。

 世界を集約するというのはひとつの表現のことだ。具体的な風景を具体的なままに見るならただの風景だ。それが表現になるのはどういうときだろう。それが別のものに見える時だろう。映画の例で考える。是枝裕和の『誰も知らない』という映画のお終いの方で朝日に輝くモノレールが動いているシーンがある。なぜだかそれがとても美しく見える。別にモノレールは単に都市のインフラであって合理的に効率的に安全に設計され実現したものである。それがまるで朝の空に飛び立っていく竜のように見えるのだ。機能を中心考えらる都市の景色が何か別の意味を持つ世界に見える。それはある大きな世界を宇宙的なコスモロジーをそこに集約していると見ることができる。それはこの映画の主人公たちが経験している世界のあり方を表現していると見ることができる。見捨てられたこどもたちはどういうわけかこの都市の住民たちが思いもよらない豊かな世界を知ることができた。それは奇妙なかたちではあるがある肯定的なものを垣間見させてくれる。

 もともと生物の自分の生きている世界の認識にはそれぞれの種に特有な性質があると考えるのは自然なことだ。20世紀前半の生物学者のユスキュルはそれを環世界とか環境世界とか言っている。また社会性を提唱したウイルソンはバイオフォリアということをいう。たとえば、私たち人間が視界のひらけた広いサバンナの高原を好むのはそれが直立歩行をする人間にとって安心できる良い環境だからだというのである。つまり生物の環境を認識する様式は遺伝子でつくられていてゲノムに書き込まれている。さらにそれ以上にそれをどう感じるかまで、好きか嫌いかまで書き込まれているという。
 認識はメカニカルなメカニズムである以上に好みというある種の価値観まで含んでいるというわけだ。是枝裕和の『誰も知らない』の朝日のなかを走るモノレールはコスモロジーを単なる機能的な都市の風景の中に好ましい存在のあることを表現している。世界を縮約することとはそういうことだと思うこともできるだろう。世界の全体性という言葉で言い表そうとすることには美的なことだけでなく好ましいこと嫌いなこと嬉しいこと怖いことなどなどがわかちがたくいったいになっていることも意味している。
 
 分析的な方法はメカニカルなメカニズムに引き寄せられる傾向がある。実際そういう認識は具体的な方法を提示することもできる。またそれは共有することもできる。それは進歩を加速する。スポーツ競技の素晴らしい進歩は、例えば日本のサッカーのワールドカップのでの活躍を見れば本当に誰にでも実感できるだろう。
 バレエを習うお金持ちの娘の進歩は著しい。洗練されてダイナミックに常に新たな美しさを実現できるように世界的な競争で技術的な進歩がつねに切磋琢磨されている。

 さて問題は初めに戻ってくる。サーカスに売られる子問題だ。技術的な進歩や効率的な合理的な方法で競争では実現できないものがあるのだろうかという問題。個人的な発想では届かないことがあるのかということ。世界は広くて偶然に満ちて驚異に満ちているというようなこと。それは技術的に追い抜くことができないことなどあるのだろうかということ。ギリシア人はヒュブリスということを言っていたが、傲慢とか野心とか常軌を逸するところまでいくこと、それが逆説的に世界と本当に対峙することになる。そして世界に負ける。ここまでいけば「サーカスに売られる子」問題に近づいたことになるのかもしれない。
 技術や方法を独特な仕方で突き詰めていくことで有名なのは、映画作家ならクリストファー・ノーランがいる。世界とじかに対峙することを表現で観客に経験させること。なんとなくどこか無茶なところのある方法でやり遂げようとするから「サーカスに売られる子」に近づいているのかもしれない。
 あるいはもっと素朴にそういうことをやってのける天才がいるのかもしれない。例えばいまだに古臭く自分で一人で小説を書いている人とか。誰か教えてちょうだい。AIに聞いてみようかなんてね。

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