無関心の本質は、平静さにとどまれること、であると思う。

 無関心は今は普通あまり良いことだと思われてはいない。しかしそういうのが実は大切なことであるという場合もある。
 民主主義の社会では無関心は困ったことだと考えられている。政治に無関心はダメですよ。
 ところが、無関心が美徳でありうることもある。無関心でいられるなら物事を平静に考えることができるからである。
 何か特定のことを信じることがよくわからなくて、そういうのは自分には絶対にないと思っている、精神性みたいなものにはまったく無頓着でおみくじぐらいはたまには買ってみたりしても、宗教はないななひとが、自分とは違う、何か特定のことを信じている、そのようなひとたちに対してとりうる態度は、できればあえて無関心をまもるということで、そしてこの無関心が、世間の関心を惹いてしまうような集団にたいする憎悪や敵対に反転しない―という境界を出来れば自分でみさだめておくこと、平静さにとどまれることを意識出来ることである。
 
 21世紀になって以前とは違って感じられることは、人によっては、何か特定のことを信じていたり、変わった格好で外出したりするひとや、特定の趣味に一番の価値を置く人もいる、というか、そういう個人的な振る舞いを自然にしている別に危ないとも思わないがよく分からないひとが増えているような気がすることだ。
 個人の自由や動機がかつてのような抽象的な概念のようなものとは違って、つまり自意識的なものとは違って、具体的な生活のスタイルになっていくような感じがある。生活をしていることを大切にするということの意味合いがどうも変化しているようなのだろう。気持ちの変化に忠実というか感情の振れ幅が大きくなってきているような気がするのだ。個人的なふるまいなんだけどまるでそこに集団でいるかのようなモードが感じられたりする。

 集団ではないのに感情が集団の効果で増幅されるようないったいどういう仕掛けのフィードバックがあるのだろうか。
 人間の集団が集団であることを維持したいなら外部に自分たちに対抗する集団や存在を意識できることが重要である。無意識に自分がある集団に帰属していると感じていることはよくあることだから何か自分が反発を感じる存在にぶつかったときには注意することも必要かもしれない。
 いつもはまったく個人的に生きていると思っていても自分が怒りの感情にとらわれているのに突然に気がついたりする。
 その時にその存在についてすぐに意識したりせずに、いったん棚上げにしてみることが良いのかもしれない。怒りはいきなり来る。しかしすぐには行動へは直結しない。行動するのは危険が伴うからだ。いったん止まることは出来る。

 こういうことがあった時には、装われた無関心、演技された無関心でいることができればいい。もともと無関心は単なる無関心ー単に知らないだけーとは違う位相にあった。それは他者たちとうまくやっていく知恵であった。
 
 民主主義の社会にそれはたぶん必要なことだろう。議会制民主主義は選挙によって成立する。ひとびとが政治に直接接することのないようにできている。おそらく、情報環境が不安定に変化しているので、民主主義には、さらにもう一段の迂回をすることが必要なのだろう。
 迂回するとはどういうことなのかというと、直接自分の反射的行動の誘引に従わないということである。とくに政治家は、あるいはインターネットのインフルエンサーのような人は、自分自身の信念や信条について、自分自身を迂回してみることはないから、彼らは逆にあえてセンシティブな問題にさわろうとする。考えることなく直接に脊髄反射してしまうのを狙っているようでもある。選挙に強くなくてはお話にならないから。そういうのに乗せられないには、普段はそういう、自分自身の信念、信条、目的や欲求、についてはほとんど気にしていないだろうが、そういうのがあってもなくても、そういうものについていったん無関心になった方がいい。

 商品のコマーシャルにいつもさらされていて、新奇なはずの商品なのにすぐにそれの有用さがわかってそれがほしくなるのに、数秒でわかるように常に日常的にわたしたちは操作されている。いつのまにか自分がある特定のタイプの人間であるかのように、カッコいいそういう人みたいになったかのように心の中で自然に演技してしまって、自己同一化している、それがとても気持ちいい。こどもの頃を思い出せばいつもビビっていたのにいつの間にかあきれるほどに自分を過大評価していい気になっていることを思い出すだろう。うんと過大評価できないと新しいことを素早く学習できないからそういうのはなくてはならない資質だ。ビビってる友だちがいると一緒にくっついて気持ちをアゲアゲにして興奮してサイコーな気分にみんなでもっていく。これが友だちなしにできてしまうとどうなるか。なんかヤバそう。

 こどものころから次第に集団的に友達の輪を広げていって、複雑なフィードバックループを集団で起動させながら、動的ないい感じの状態に持っていくことができるように互いが互いを学習させるダイナミックスが心の発達をサポートする。こどもの発達心理学だ。

 こういう古典的な?人間関係はコミュニティの変化でまるで違ったものに置き換えられていく。人工的なプラットフォームがいくつもつくられて中には数秒でその魅力に惹きつけられるマッチングサイトがあればのっかればいい。人口減少の影響は、自然なコミュニティを維持するのに必要な人数が確保できないから、大きな変化がくるのはしかたがない。
 
 集団の中にはいないのに集団の中にいるかのような効果のあるテクノロジーが開発されるだろう。むかしの若者向けのコマーシャルを見ればなんとなくそれがわかる。それは個人にある特定の消費行動をうながすだけだから、キレイであざやかに季節感を印象付けて楽しいことやりたい気持ちにさせるからとても人気があった。商品を買うだけでそんな気分がいっしょに買える、あとは経済成長するはずだった。ところが、経済成長は止まってしまうのだった。しかしそんなことお構いなしで商品のコマーシャルは素晴らしくなっていく。技術的なある環境が与えられれば、可能になることはでてくる。 

 人間は期待の生き物である。一方で、人間はだれか相手を持つ生き物である。大雑把に見れば集団として現れる生き物である。身振りや表情を読み取り可能なら会話を交わす。いまの社会は自由な期待を各自が持っている気体のようである。フワフワしているように見えるというか見せられている。ソリッドなものには独特のたたずまいがあってその安定的な感覚は長期的な期待につながっている。リキッドなものなら皮膚感覚にとどくので生々しい感じがある。中期的な期待。次に何が来るんだろう。安定的なだけでは退屈なので流動的にリズミカルに変わるのは快い。それが中期的な期待にうまく応答している。固体的なとか流動的なとかいうのは社会にある均衡がゆるい安定性があるというようなことだ。

 何かに期待するというのは新たに、何かを買ったり持ったりした場合に起こることが多い。何かを期待するというのは案外受け身でこういう感じなことがよくある。自然現象に期待するならそれは宗教でさすがにこれはない。
 消費を通して心が動く。それは想像をすぐに超えて身体全体が動くことだ。想像することは間接性、身体が動くのは直接性。消費の構造は複雑になって不安定性が増してきて期待はもう単純なことではなくなって宙に浮く。   

 「期待」は経済的なものに関連してそのありようも変化して複雑さに適応して進化する。もうただ単にモノを買う自分のものにするというようなシンプルなことからはるか遠くまでいってしまう。 
 「期待」は、将来についての自分の条件が自分に有利になるように行動できるのかどうかの選択の基準を探してくる。それが可能であればどこにいけばいいのか。そういう場所には、かなりのリソースを持つ人がいてそれがどのように提供されるのかがそこに入り込めればわかる。
 
 そういう場所にいる彼らは規模の小さい集団をつくり独特の考えや感じ方を共有するようになっていく。彼らはセンシティブな問題があれば敏感に反応する。それがもうけの源泉になっているからかもしれない。こういう人は何かを買ったり何かを持ったりすることが身体全体を動かすような新鮮な感動から飽きてしまって、かけ離れているので本来の?期待は生まれにくくなっているだろう。ところが、期待させるものがあるように見えるので、いろんなものが彼らを目指して近寄っていく。なんというのか、「社会的非共通資本」が蓄積されていく?そこにいる人はそんな感じ。これはもう社会的安定性にはまったく寄与しないということである。むかしながらのノブレスオブリージュではなくてエリートの意識的ではない非自発的反乱?になってしまう。
 
 こうして、新しい思想の可能性であったものが何時の間にか古臭い思想に戻っていく。古臭い思想というよりも伝統的な自己本位の生活スタイルに。選択はいまだ生起しない将来の事象との関連を予期して決定される。
 ある行動が選択されたとき、あとになって選択しなおすことは出来ない。それでもそれにこだわると、想像力が非自発的に働きだしてしまうのでこれと折り合いをつけなければならなくなる。最近やたらと流行っているタイムリープものはそういうことなのだろう。
 何事かが選択されようとしている。そういう予感がある。どういうふうに何かが選択されるのか。興味津々だがそれがどういうしかたでなされるのかがわからない。
 
 テレビのようなところにいる、くだらない馬鹿にされている製作者たちの考えは、正しいときでも誤っているときでも、一般に信じられているよりもはるかに強い影響力を持っている。じじつこれらの製作者たちの考え以外に社会を支配するものはないのかもしれない。

 音と意味とがうまく連関していることが期待にも選択にも重要なのだと思う。こっちの方の連関はソリッドであったりリキッドであったりするのとは関係がなくて間接的なものだ。
 集団の性質は次第に気体化していて、ソリッドであるとかリキッドであるとかはもうどうでもいいのかもしれない。ひらたく言えば、ソリッドなものとは建築物のことで、その外見や内部構造の固くて自由にならない複雑さだ。リキッドなものは交通機関で、地下鉄や路線バスタクシーや自家用車の自由さだ。あまり積極的にそんなものに期待されることはなくなった。「期待」というのはよく考えてみれば誰かさんのことで、「期待」が迷ってしまっているというのは結局は結果としての人口減少のことになる。そんなこと選択してないよ聞いてないよといってもなぁ。
 
 想像力の非自発的活性化がくる。何せ非自発的なのではっきりしたわかりやすさはない。ただ、ときどき、音と意味とに一意的ではないがつながりが生じて風が吹くような感じがあればいい。身振りをしながら、楽しく歌う音楽はいい。
 また、音と言葉が時折一瞬だけつながれば、三行か四行の詩が出てくればいい。たまには詩だ。

 いかりのにがさまた青さ
 四月の気層のひかりの底を
 唾し はぎしりゆききする
 おれはひとりの修羅なのだ

 
 このからだそらのみぢんにちらばれ

 テクノロジーが人間に介入してそのありようをかえていく。集団性や多数性が必要ではなくなることも来るだろう。このときにも詩のような連なりは存在する。命題やロジックはもう読まれるものではなくなり記号の連なりとして存在するだろうが回路図でさえあればいい。しかし人間は文章でできているようなものなので、動画をいくら重ねても自意識にすら届かない。回路のような記号の連鎖が引きおこす感情の活性化をうまくかわすことを覚えよう。無関心の練習は面白い。達磨大師みたいになって座禅する。無関心は言葉を繋ぐことができる。回路のロジックは自由を奪ってしまう。平静ではいられないのはそういうことだ。

 無関心は限界も範囲も知らない。だからそれを語るには比喩が必要だ。鉱物のように無関心である、植物のように無関心である、とか。
 ベケットのプルースト論では、プルーストは人間にかかわるものを、植物にかかわるものに譬えている、と分析している。
 
 「道徳上の価値や人間的正義に完全に無関心であること。花や植物には意識的意志はない。それらは生殖器をさらけ出しても恥としない。そしてある意味で、プルーストの男女もそうなのだ。彼らの意志は盲目でかたくなだ。そして、主体が意志から自由なら客体は因果関係(時間と空間を一緒に取り上げたもの)から自由である。」
 
 これがどうやら植物のように無関心ということらしい。これと関係あるのかないのか、最近のハリウッドセレブがシースルーの裸丸見えというのか生殖器丸見えなドレスであらわれるのがニュースで見られる。植物っぽいというのが少しわかる気もする。
 かれらに「道徳上の価値や人間的正義に」ついての関心がないわけじゃないだろう。しかしそれを通すことでしかそれに近づかないということなんだろう。だからそれらには無関心。無関心なスタイルをとる。

 固体になる液体になる気体になる、抽象的な何かみたいになる、それは無理だ。自己同一化するにもそういうのじゃなすすべもない。鉱物や植物たちなら何とかなりそうだ。演じることで同一化すること。

 情報のテクノロジーの進歩には計算システムの高度化が必要だ。環境と自己の組み合わせは何とかなりそうだが、さらに他者が入ってくると関係性はループになって、計算量は莫大になる。フィードバックが悪循環化して安定的なリズムから逸脱して振動が激しくなって壊れてしまう。ネットの炎上みたいなものが起こすようなことはこんな具合になってるのかもしれない。すべてがこうした破局になるのじゃないから何かやり方があるのかもしれない。たぶんそれは、単なる他者ではなくて二人称という存在ということかもしれない。言葉が通じるみたいなことが計算量を劇的に減らすことができるのかもしれない。あるいはやはり無関心であること。それで悪循環のフィードバックが収まるみたいなこと。そういう技法があるのかもしれない。

 簡単に言ってみたができるのかな。情報のテクノロジーは計算量の限界を超えてしまうだろうから、というか、何か新たな情報のテクノロジーが出てくると計算量は劇的に増えるだろう。テクノロジーにお任せなら悪循環のフィードバックが止まらないかもしれない。人間の役割が、仕事や労働、訓練というようなトップダウンの教育みたいなやり方で教え込まれることを大真面目に信じ込まれることはもうあまりない、それはインチキ臭いと思われるからといえるけど、しかし社会的に優位なきらびやかな身分に身内になれるなら、それはより一層重要視されてしまう。学歴とか職歴とか、人がうらやむ可視的なもの。それを単なる計算量増加につなげないテクノロジーがあのセレブ達の裸丸見え生殖器丸見えのドレスを着て見せることかもしれない。
 
 発想が転換しないとダメかもしれない。まぁとりあえずは想像力を活性化しないと。平民的な身分であってもへこたれないには、無関心の技法に長けていなければならないのかもね。でも、目立ちタイはダメ。承認欲求に距離を自在に取れること?自意識過剰を忘れる技法?何回も何回も迂回して迂回する。羨ましい気持ちを一概に否定しない、あこがれることは否定しない。贅沢さに微笑むことが楽しいこと。ガツガツする人も見苦しくはない。誰もは一度は中学生、悪くはないでしょ。

 トランプさんもリベラルさんも、プーチンさんもゼレンスキーさんも、あるものはあるしいるものはいる。習近平さんも金正恩さんも。いなくなってほしいなと思うのはどうでもいい。
 いてほしいなっていう人はいない感じだよね。でも、無感覚、無感動、はユーモアが失われてしまいそうなのでそれはダメ。俗っぽくないと元気でない。騒ぐのも結構いいよ。

 抽象的な言い方になるが、ロジックは、つまり情報テクノロジー的なものはどんどん進む。ユーモアなんて贅沢過ぎてテクノロジーでは無理なので脳科学や創薬で置き換えてしまうことになっていく。経済成長しないとダメだから。これはほっておいても勝手に進む。国民意識とかはあまり問題にはならない方向へテクノロジーは向かっているから。しかし確実にテクノロジーは限界は近づいていて半導体も物理的なナノスケールのゴールはまじかだ。素粒子物理学のテクノロジーは宇宙論的な彼方だ。ひらたく言うとスマホは限界がきてる。もうスマートな進歩はない、スマートどころじゃない感じがしてきてる。
 ロジックでなくて、言葉だ。リズムやサウンド、メロディがかっこよくなっても言葉がないのはどうにもならない。ダンスやスケボーもロジックのフィジカルなパフォーマンスで要は見せ方の問題に過ぎないのでそれだけじゃぜんぜんダメ。リズムやサウンド、メロディみたいには言葉は操作的にはいじくることもできるがフェイクなだけでそれでは進歩できない。

 あこがれがカッコよさを超えられない、というかカッコよさの進歩が終わらない。あこがれが良きものにまでいくにはどうしても言葉がないとダメなようで、カリスマではだめで、ソクラテスも仏陀もキリストも要は言葉じゃん。こうしてうだうだと書いてみてやはり無関心だ。

 世界は戦争モードでこれは当分続くのだろう。にやにやと薄笑いを浮かべて楽しそうにテレビに映ってるひとを見てる。どういうものか怒りはわかない。どっちにつくのかが答えじゃないし。無関心を続けていこうか。

 裸丸見え生殖器丸見えのドレスはニュースで聞いた印象とはなんだかとても違って可笑しくてあまりじろじろ見るのもなんだかなだけど、ユーモアなんて贅沢という気分は確実に無化できるし、ユーモアあるよ。日本のセレブ女子のだれかユーモア大好きな人やってみては。きっと面白いよ。

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