なにごとにも終わりが来る?戦後の終わりは来たんだろうか。むかしの人の講演の文を眺めて思ったこと。九鬼周造『日本的性格について』

 不景気や経済的な停滞がずっと続いている。それがほとんど当たり前になってもそれが不満にもならない。統治者がどんなことしててもどうでもいいと感じてる。それは自然のいとなみみたいなんだとだれもが感じているのかもしれない。よくある物語の展開にしても、日本のものでは、登場人物の深い動機は読者にはわからない。物事の定めのなさ、命のはかなさへの感情が重視されている。諦めなのか、すんなりすべてを受け入れてしまう。美学なのかそれが日本の人の性格なのか。ちょっと他の先進国では見られないような日本人の捻じれた従順さがある。これがある意味では最終局面にきているのだろうか。
 伝統的な、というときにふつう何を思い浮かべるかというとよくあるイメージみたいなものしか思いつかない。ところがそういうものはほんのわずかで実際はないのかもしれない。伝統的ということは、すなわち生活ということだ。日本人の生活?古い伝統的な職人芸?機械がするのではないので当然生きている人間たちがしていることがある。そのイメージの上では、どこかまだ伝統的なしっぽのある職業があってそれがのってる舞台のセットみたいなものはよく知っている。いまは、そういうのがまったくない職業へと生活も含めてすべて転換している。
 つまり、伝統的な文化や職業は伝承されていくときに生活の様式もかなりそのままに伝承されないとうまくいかないことは知っているけれど、それがなくなってもまだ場所的なものはイメージとして好まれていてることもある。ところがついにこういうことがいらなくなったというのである。
 それは人間がある種の万能工作機械に近づいたというのである。これを受け入れたのである。すると同時にコスモロジーをうしなってしまう。
 生活様式が万能工作機械の活動ーこの言葉でスマホ✙何とかをあらわすーによってどのようにでもセットされる。コンビニエンスストアでは、食べ物はその文化的なシッポをなくして提供できるようになった。非常にリベラルである。清潔でいつでも新しくてキレイにディスプレイされていて全く問題ない。これほど多様な商品が並んでいる商店が普通にあるというかそれしかないというのは想像もできなかった。だれもが万能工作機械的な食べ物をこのんで食べるようである。インスタント焼きそばとか焼きそばパンとか。無造作な食べ物がまるで優雅な食べ物でもあるかのように思うのはなぜかというテーマを際限もなく繰り返して飽きることがない。なぜそういうことをするのかというとおそらく何かを忘れないためであるのかもしれない。自らのもとにあたりまえにあるものが何であるのか、自分が自分であることの根源が何であるか。わたしたちは万能工作機械的にはどうでもいいことにこだわるのが好きなんだろう。終わってるのに終わらせないつもりなのかもしれない。これは、「先進国」というような考え方が、実はただの勘違いなことなのかもしれないということに気がついたことなだろうか。
 それが世界の実態に合った考え方なのか。それなら日本は「先進国」のその先に最初に抜け出した国なのだろうか。新聞やテレビやメディアはいろいろなことを毎日毎日伝えているが、大変なことがいろいろと起こっているというのだがほとんどすべての不特定多数匿名性なひとは、別に関係ないし、そんなのどうでもいいことで、実は自分もそれらといっしょのただのどうでもいいことに過ぎないのを知ってるのだった。
 
 世界の人が日本にやってきてなんかいいことがあるんだろうか。スマホで自撮りばかりしてるだけみたいだけど観光客はそういうものだけれど、少しはシアワセな思い出になってるのかな。だったらそれはとてもいいことだと思う。そうなのかな。わかんないよね。

 そのむかし日本の美的センスを表しているという藤原定家の有名な和歌があった。
 
 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ。

 藤原定家はプロの歌人で芸術家で自分の信条やら経験やらなんかどうでもよくて、ひたすら人工的な美の極みを求めて作って見せる大変な才能を持ってる人だという。いくところまでいったひと。この先はないので実際は終わったひとということ。
 ところが形を変えれば、部分的にディスプレイを変えれば、また新しい遊びが続けれれる。この人工的で作為がすべてなプロの世界では凄いと尊敬されている。
 
 話はいきなり飛んでしまうけど、ゴジラ映画がアメリカで受けてハリウッドで褒められてなんか凄い賞ををもらっちゃったという。戦争でめちゃくちゃになり焼け野原になったと思っていたはずの東京が実はゴジラが来た話に変わってしまった、こういうことを考える才能は実は凄くて、ある意味で定家のように現実をはるかに超えた歴史的現実なんかぶっ飛ばしてそんなことどうでもよくて普遍的な感動を人工的にテクニカルに作り出した映像美は素晴らしいものである。終わってるところにトンデモなのが来ちゃってさぁどうするというので、終わったとかいってんじゃねぇと意気に感じた若者たちが頑張るというあらたに寿司屋を開店するぞ!した!みたいな展開になるのであった。宣伝しかみてないけどそんな感じだよね。
 
 あの和歌のことに戻ると、ちょっと考えると、その仕掛けは、「花も紅葉も」、といったときに耳に入ってきて展開するのは「花や紅葉の映像美」で華やかなイメージが一瞬だけ広がって記憶が一斉に活性化する効果があるが、すぐにそれを否定してみせたところで、現実が悲惨だといったところで、もうそんなのどうでもいいのわかってんの、秋の夕暮れなの、これ最高なのです。という捻じれた仕掛けに感動する技法みたいなものだ。
 この大芸術家の生きてた社会はめちゃくちゃで出鱈目で乱世モードが当たり前の戦争ばっかしで、こいつは若いときに「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」ー戦争などおれの知ったことかーと書いていた。このプロの歌人の生きた社会は性風俗の乱れきっていた出鱈目な時代だった。もう終わってるけど次が始まらないといった感じだった。経済ももちろんダメで一部を除いてほとんど貧乏人ばかりだった。ロクでもないもの安っぽいもの地味で貧乏くさいものそういうものしかない。そういうのが普通になったら、皮肉でもなんでもなくて、そういうような、花もない木もない緑もない水もない池もない石ころだらけの、華やいだ気分になれるなんてはずがない、と思ってるだろうが、ところが素人はともかくプロたるものは、そういう庭がいいなんてことをいうようになる。
 
 ボロボロの汚い小屋にもぐりこんで地味な茶碗でお茶をすする。はじめはカラフルで華やいだ色彩に満ちていたお寺や神社がいつのまにかほったらかされて気がついたら地味で古臭いわびしいものになっていた。それが深くていいんだと言い出した。
 自然の営みだけが創りだすことのできる人知の及ばないものに深く感じるのがすごい。カネなんかいくらあってもこの美は作れないよね無理だよね。こういう鄙びたものいいでしょ。侘び寂びとかいうんだよ。渋い!
 とはいえ、お金持ちもいるし権力者もいる。だからそういう感じな人向けにはちゃんといいとこが用意されてて、宮廷の人たちは遊び惚けていて、競馬、双六、賭け事、隠れん坊、白拍子、踊り、流行歌、観光旅行、下世話な下層階級の遊びが社会の上層部の雅な文化に侵入して社会の上層部の人間たちは精神的な文化創造力がなくなっても一向にかまわない、面白いことたくさんあるから、なのだった。後白河法皇というエライ人がこういう芸能民たちを集めて遊んでいたのだった。なんか今のどこかの国みたいだね。下層にいる人間たちが上層部の文化を読み替えていくと次第に別のなにかへと変わっていく。これがゆっくりとした次の始まりになる。

 侘び寂びはまったく生産的にはならないから文化的にはいいのかもしれない。環境問題に最短なところにあるのが侘び寂びだからいずれはこうなるかもしれないがまだまだ先だ。とはいえ気になるのは、おわりのつぎはどうなるんだろう?

 こういう時には自分たちのことを知るのはいいかもしれない。日本的性格とはどういう感じなのだろう。
 『粋の構造』という本で知られている九鬼周造というひとの「日本的性格について」講演の記録がある。それを眺めてみた。わりと単純でちっとも難解ではなくあっさりしていてーそういうのも日本的だとこの人はおっしゃるー結構面白かった。
 日本的性格は三つからなる。自然なこと、意気に感じること、あっさりと諦めること。
 季節がゆっくりと変わるように自然に変化していくことというこころが大切なわけで、冬が春に春が夏にという感じで活性化していって、そこに元気で何かしようとしているひとがあらわれると、そういう人に出会うとすぐに意気に感じて一緒に走り出す。ところがもちろん限界が来てあっさりとあきらめる。こんな感じで説明する。
 はじめの、自然なというのは芸術のことで美意識のことだ。身の回りの小さな美しさに敏感でそれが好きでそこに喜びを見いだすというそういう生活信条があるということだ。
 つぎの、意気に感じるというのは、武士の心意気のことで、理由やその信条や内容がどこからくるとかには関心がなくて、気分の問題で力が湧いてくるのが一番でそれがすべてでいいという感じのことだ。もちろん単なる無内容ではなくて、意気とは理想を高くかかげてその理想の実現のためには一身を賭すという気概である気魄であるということだ。こう書いてしまうとなんか危ないやつみたいだけれど、そう感じさせないくらいに気宇壮大であり理想的であり普遍的であり、とか大きくて受け入れる力のあること。まぁ何と言ったところで危ういことには変わりはなさそうだ。
 文学にあっては軍記物語から浄瑠璃に至るまで、貴族文学から平民文学まで意気な心の精神を反映していない物語はない。
 九鬼周造先生によると、これはなにも武士に限ったことではなくて、農民にも職人にも商人にも芸能人にもあって、さらに男たちだけに限らず女でも子供にもそれがあるというのだ。いまの日本なら男はとことんダメでも女に元気があって意気に感じる女性たちが騒ぎだしているー声を上げるといったりするーようで、そういうのが来たのかな。子供だって元気が出てかがやくスターがやってくるかもしれない。終わってることが同時に始まってることと並走しているわけだ。
 エンターテイメントを見回してみるとNHKの今期の朝ドラ『虎に翼』はそういう感じかな。意気に感じてください日本の女性の皆様たち。
 日本は家父長制とかいいますがおんなこどもに爆発的なパワーがみなぎるときもあると九鬼先生は強調します。芸者さんと結婚しちゃった貴族の生まれの哲学者さんでした。『粋の構造』だけでなく、『意気の構造』も書いたら面白かったかもしれないですね。
 そのつぎの諦めることは宗教的なことで他力本願のことのようです。日本人は諦めがいい。諦めとは自己の無力を自覚することである。これは意気地がない、意気地なしというのじゃぁありません。一般に諦念、諦め、あっさり、さっぱりしたところが日本的性格として日本文化のひとつの特性をなしている。物にこだわらない、思い切りがいいことが尊ばれる。その一つのあらわれとして日本人ほど金ばなれのいい国民は少ない。したがって商業が比較的不得意である。アマゾンとかグーグルとかアップルとかあとなんとかにどんどん持っていかれる。
 あっさりした趣味、執着の有るごてごてした趣味に反対という淡白な趣味なのである。中華料理や西洋料理との違い。日本食はあっさりしてて見た目にすっきりシンプルできれいで衛生的で子供でも安心だ。これがどうも諦念と関係するらしい。
 諦念とは自己の無力をあっさり認めてしまうこと。ところがそれはまったくの無力とは思っていないようなのである。個人の力量に還元できるだけのものでもないと思っているらしい。
 自然をそのまま明らかにすること明らめることが諦めである。これはある種のタイプの哲学で、アリストテレス的な言い方であれば、自然という質料の中に意気とか諦念とかいう形相が内的におのづから含まれていて、それが次第にあらわに大きく成長して来る可能性のあることが重要であるということだ。
 意気と諦念のあいだの弁証法的な議論をしているのだけれどこういうのはいまどきまったく流行りじゃないのでスキップしてもいいだろう。わかんないだろうし。興味がおありならば、九鬼周造全集第三巻を読んでみましょう。図書館で借りられるでしょう。わたしは古本屋の店先のセールで百円で買いました。
 こうして彼は日本的性格についていろいろと論じるのだが、最後に彼はこんなことを言う。
 「ついでに諸君に私のお願いがある。………、それ故に何でもいいから純日本的なものへの愛を吹き消さないで大事に育てて行っていただきたい」という、「日常的なことでもいい。例えば日本の着物の曲線を愛するとか、又は何か純日本的な食物でもかまわない。うどんが好きだとか豆腐が好きだいうことでもいい。純日本的なものでありさえすれば何でもかまはぬ。その愛を吹き消さないで、それを培養していただきたい」というのであった。
 この講演は昭和十二年五月二十六日に第三高等学校で行われたから、それはもっぱら「精神的」なものであったかもしれないが、うどんや豆腐に言及しているところを見るとそれだけに限らないということはわかる。
 彼は、個人的性格と国民的性格と世界的性格とが三つの円をなしているという。いまはもうこういう静的な捉え方ではすまなくなっている。それでも日本的性格ということをかつてどう考えてきたのかは興味深いことだ。

 おのれを知るということ、この場合は無力であること、諦念ということ、無力を自覚すること、これがそれだけにとどまらないで、それらがあるおなじものに向いているということ。それは自分だけのことには限らないことで、変化とか進歩とかになかなか向かっていかない日本人の社会が固くなってしまって動かないということにも向かっているのだが、それのある種の自然さに気付くこと。その固さが窮屈になってやがてちょっと少し季節が進めば、あっという間に動き出す。
 ゆっくりと季節が巡るのを待ちましょう。変わらないと思ってるんじゃなくて変わると思ってはいる。わかりにくいですよね。
 春が来たり夏が近づいてきたりすると突然元気が出ちゃって、元気な人に会うと、なんか意気に感じたりしちゃって興奮してイケイケになったりするでしょうか。
 意気に感じるというのは理由とか内容とかはあんまりというかひょっとしたら、そういうのとはほとんど関係なくって気がついたらそういう気になってるみたいなことだった。それと同時並行的に諦めも進行している。
 
 あのゴジラ映画の新作をつくったひとのフィルモグラフィーを眺めていると、もはや戦後が終わっていて戦後真摯にかたられたテーマはすでに消えていてそれを呼び戻したところでそれって何❔ということだから、完全にエンタテイメントにしないとおおくのひとには通じない。

 こういう時にはあのあっさりとした日本的性格についてのまとめみたいなものを眺めるのはとても参考になった。そこで彼が言うこと、いまふうにいいかえれば、なんというのだろうか。「培養」して欲しいということであった。どんな小さいことでもかまわぬって言ってたでしょう。
 「培養」という言葉で思うのはオタクっていうことかもしれない。いまは「推し」とかいうんだろうか。九鬼周造先生とどこかかなり近い気もしますね。彼は終わりが近いことを感じていたのかもしれない。彼の場合は、明治維新以後の敗戦までの時代、いまでいう戦前が終わるということだったかもしれない。
 その彼のように、もし今、「私のお願ひ」が言えるとしたら何を言うだろう。小さなものたちを忘れないでほしいということになるんだろうな。それに意気に感じるというのはかなり難しいけど。
 新しい可能性は、日本であるならば、こういう小さいことから始まるビジネスを考えること、小さなものたちを忘れないでいるには、小さなものたちが好きで幸せを感じていたものを、つまりそれは商品です、を見つけて作って、その商品たちを「培養」して、ビジネスにしてみましょうということでいいかもしれません。
 
 グローバルに世界に出てどこにでもいってどこにでも通用するビジネスを目指すのもいいけど、カネになるだけでホントにそれっておもしろいですかといいたい。すごく野暮なことなんじゃないの。カッコ悪いんじゃないの。  
 とはいえ、でもおカネは素晴らしいのは否定できない。問題はあきらかにそれがまわってこないってこと。
 どこに行っても、その場所その場所的な純その場所的なものを、純日本的なものへの愛を吹き消さないようにと九鬼周造さんが言っていたように、それを大事に育てていくことが、いちばんいいのだといえるようになりたいです。
 ということならば、「わたしのお願いは、小さなものたちを忘れないでほしいということ」、つまりは小さいビジネスを見つけてきて育てて「培養」してみることになりそうですねです。九鬼周造先生いいこと言ってましたね。十分参考になればいいですね。粋になりたいですね、意気に感じたいですね。おわりはゆっくりと始まりは小さなところから。
 今年の大河ドラマに出てきて異彩を放っている清少納言は「小さきものはみなうつくし」と書いていましたね。このドラマはかたくるしくなくていいですね。

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