ロマンチックはちっともぜんぜんロマンチックじゃなくなっちゃったのはなぜなんだろうか?世界がひどくなってるから?映画『メッセージ』のメッセージは何か。

 ロマンチックは普通「情熱的な」とか「熱狂的な」ということだと思われている。具体的には人びとの心を動かし鼓舞するということのようである。
 壮大な偉大なという大きなスケールなものもあれば、人の声の響きのような小さなものもある。険しい山のようなものもひねもす大洋のようなものもある。歌ってるようなものもある。若さに限らないで中年ぐらいでもいいしものによっては老人だってかっこいいこともある。こどものめでたさでももちろんいい。なんとなくわかるようで結局なんだかわからない。でもロマンチックだなぁとすぐにわかったのだった。ところが、最近はそう単純じゃなくなってる気がして?どうなったんだろう。
 
 過激で暴力的なものはなんだかとってもいやだから、社会の中心から排除される。過激派学生とかオウムとかあったから、危ない集団は目立たなくなった。でも刺激的で面白いものはどうなったんだろう。過激なアングラ演劇やとんがっているロックスターとかもいなくなっちゃった。もう時代錯誤感が半端なくなって受けなくなったのも事実だった。人畜無害のロマンチックの好きな人たちが人畜有害感一杯の危ない面白さに嫌気がさして来たのかもしれない。どうしてそうなったんだろう。
 この質問に答えがあるならこういうことになるということ.かもしれない。ロマンチックに対立するというのでもないがかつてはアバンギャルドというのがあった。ロマンチックと言ったらキレイとか喜ばしいとかあまいとかやさしいとか、そういう感じなものを想像しがちである。ところが、アバンギャルドなものが入ってくると、ちょっと想像もつかないような奇妙なものやわけわかんないものも入ってくる。そういうのに疲れちゃったんだろうな。
 
 ロマンチックというと、現実とはまったく無関係の純粋な想像世界みたいなののことを言うと思ってるようだけれど、まったくそうならどうやって体験できるのか、面白そうな場所とかポスターやドラマで見たところへ旅行に行くとかもありだ。でもそこは現実の場所とはリアルには関係がないからホントはたいして面白くもない。ただたんにいってみたいだけ。だから写真撮ってそれで終わり。これってロマンチックなの?
 
 ところがこれが度を超すと、ただ日常の場所に突然旅行者たちが大挙して押し寄せてくるのでわけのわかんないことが起きていきなり混乱するのは彼ら旅行者たちにとっては案外面白い体験でよかったことなのかもしれない。日常生活サイドははた迷惑でうんざりだろうけど非日常サイドの旅行者たちはちょっとうきうきしたかもしれない。むかしのアバンギャルドアングラ演劇みたいなものを思い出してしまった。
 アバンギャルドは大まじめで、何としても現実生活に入り込んで怠惰な日常を変えてやる変えてやりたいんだという意志みたいなものが誇大妄想的にまで存在していたのだった。
 もともとそういう運動の起源にあったシュールレアリスム運動では街角に出てピストルをめちゃくちゃにぶっ放せ!(アメリカじゃん!なんて言わない。むかしのこと)なんて言い放つ。なんだか時代の根底に巨大なエネルギーの解放される雰囲気があって世の中は騒然としてるのが好まれた。株式の物凄いバブルが起こっていて浮遊感いっぱいで多幸感のユーフォリアのめちゃくちゃなことが普通に起こるそういう雰囲気だったそうだ。そこにバブルが崩壊して大不況がやってきて、なんてことだ・・・なんてことだ・・・、危ない感じのファシズムかコミュニズムといった恐ろしげなところまで広がって。
 この巨大なエネルギーが解放されるという感覚はものの見方を一新させてイタリアのアバンギャルドの未来派にとっては、自動車は単なる機械ではなく人間社会をトータルに一新するプロメテウス的な高揚感と興奮であった。革命や戦争があって混乱があってまたそれを何とか克服して戦後はそれなりにまた始まった。経済復興が起こって子供がたくさん生まれて若者の時代が来て人類は月にまでいってしまう。今から思うと何しに行ったんでしょうだけどみんな興奮していました。それがピークであとは崩壊していく。疲れて飽きてしまった。
 どんな感じの気分だったかというといまそれに拮抗しうるものは無理して探せば宇宙ロケットくらいだろう。それさえたいして人気があるとは言えない。それをやろうとするのは、イーロン・マスクとか小物過ぎてわらってしまうがホリエモンとかくらいだろう。
 
 何が言いたいのかというと、ロマンチックとテクノロジーにはもう何のつながりもなくなってきたということである。テクノロジーの夢と大衆の夢ーいまでもそういうのがあるとしてだがーは離れてしまったということだ。
 
 かつては、物凄くクリエイティブな奇人変人たち、エキセントリックな風変わりなひとたちが尊敬を受けていた時代があった。結果的には、アバンギャルドが飽きられて残っていた疲れて若さを何処かに亡くしたロマンチックがそういう存在を排除してしまったような気がする。
 もちろんフィクションの想像力の世界にはまだ居場所はあるようだが中心ではなく周辺的なところに追いやられているような感じがする。

 アバンギャルドは迷惑なだけだといいたいのだろう。最近ではオリンピック騒動のザハ・ハディドの超巨大すぎて大迷惑な国立競技場案がある。
 もちろん、アバンギャルドが排除されたからといってテクノロジーまでいらないというのではない。今も好まれているテクノロジーはある。労働者の規律や社会的な統制を促進させる監視テクノロジーのような技術である。あるいはただの個人の現実をウソのように飾ってくれる情報機器のテクノロジーがある。誰かいい人とあるいはいい感じな仕事とマッチングさせてくれるアプリとか。ロマンチックな期待はあるがまぁ期待はずれ。またやればいい。ホントのところは本人が世界に期待できなくて世界が巨大な可能性の解放の感覚がなくて頑張る気持ちが鼓舞されなくて自己選択できても自己責任なのでロマンチックはぜんぜんロマンチックじゃないです。何かいいことないかこねこちゃん、ラヴミ―トゥナイト、はむかしのおはなし。
 
 アバンギャルドとは未来の可能性と結びついたテクノロジーへの期待であった。科学だのテクノロジーだのむずかしくてちっともわかんない。ところがなぜ期待が起こったのかというとそこには特別なキャラクターたちがいた。なんだかわけのわからない奇人変人たちがいたのである。彼らに大衆はとても興味を持った。科学にテクノロジーに新しい芸術や演劇やバレエとか新しい学問とか、未来の可能性に結び付いた感じの、一風変わった奇人変人たちが出てきたのだった。ところがしだいにそういう人たちはいらなくなるのかめんどくさいのか排除されていった。
 そうした挙句に「未来の可能性」がカットされると便利な道具であるにすぎないような見かけはいいようなでもなんか嫌なものがあらわれてくる始末になった。
 奇人変人がいなくなると未来もしぼんでしまう?世界というものはとかく俗な欲望に傾いてしまうものなのでその意味を見つけられなくなる。このとき、世界の意味を見つけるのが奇人なのであるという。
 
 荘子がいうところによると、奇人とは世俗の人間とくらべればピント外れでしょうもないが、天すなわち自然の理法とは見事にバランスのとれている人間のことだそうだ。
 有名な奇人変人というと、アインシュタインとかがいる。古すぎてわからない。今ならだれだろうか、ちょっと違うかも、かなり違うかもしれないが、大谷翔平くんはどうだろう。日本にいる時は奇人変人扱いだったように記憶している。彼は漫画じゃあるまいし何考えているのかといわれてもいました。変わったひとだよね。ロマンチックじゃないのはたしかだ。アメリカの野球を変えることはないだろうけれど、高揚感と興奮は充分与えられたとは思う。

  アバンギャルドは途方もない夢を考えることができるということを主張する。それが周辺化されて世俗化された社会には途方もないものはただの娯楽のなかにしかなくなって、人のあこがれるものは、つまるところヒーローのような存在でそういう人はお金持ちのアスリートやミュージシャンやアーティスト、企業経営者とか投資家のような世俗的な人物たちになる。
 そのせいなのか、あこがれる存在が俗っぽいせいなのか、単なる労働者のくせに経営者かなにかのような考えを口にするようになる人が結構多く出てきた。彼らはそのようなものに自己同一化しているわけである。その気になってる。
 人間の心にはなにか途方もないものがあって、こどものころそういう想像してたでしょう。いつの間にかそういう存在が消えてしまうと宇宙にも大自然にも興味も関心もなくなる。代わりにイベントやレジャーがやってくる。 
 レジャーは別に悪いことでもないがそれが望みうる最上の楽しみになるというのはやはり考えさせられることだ。健康的ではあるけれどーもちろんそれはそのようにイメージが充分に考えられた設計されているからーリアルな現実との接点がないから健康的というのとはどこか微妙に違う。結局飽きて退屈になる。それゆえいつも宣伝によって煽られ続けられることになる。お金持ち気分になってどこか流行りの観光地へ出かけるのだ。記念写真を撮って自撮りして楽しい気分を味わう。もちろんそれで充分で近代以前の社会ではありえないほど贅沢なことだ。でもたくさんの人がいくから薄汚れているのは仕方がないけれども、まっさらなものが想像できなくなってしまう気がするのはなぜだろう。たいして金も持ってもいないしょぼい労働者のくせに経営者みたいなこと言ってしまう。自分じゃロマンチックな気分になっているのかもしれない。結局のところ奇人に魅かれるのだが違い過ぎて自己同一化できない。
 奇人は人に奇にして天にひとし。天にあこがれることがわからなくなったので奇人を見ると感動するのかな。想像することの体験というものがあるとして、今はそれが著しく狭く貧しくなったということかもしれない。想像のことだから現実には別に何の問題でもないのだけれど。ロマンチックがロマンチックであるためには何かが足りない。貧乏人が金持ちにしかあこがれられないというのはやっぱり困ったことだ。あまりに貧相だ。

 しかし問題はむしろ独りぼっちなことなのかもしれない。ひとりじゃなくても独りぼっちな気分。こういうところで、同じ大きなものをいっしょに夢見ること、志向を共有することをうかつにやればアバンギャルド以後ならカルトっぽくなる。
 クリストファー・ノーランのダークナイト三部作みたいになってやたらと暴力で結局全部死ねになる。バットマンよりジョーカーの方が人気あるんだから。中途半端に出来ることならやんない方がいい。ネオリベラルなお金持ちの経営者に自己同一化するくらいがいいのかもしれない。
 非富裕層としてはそれを思想だと思わないで、サブカルだと考えるべきなのだろう。興奮だとか高揚感だとかが危ないというのが共通前提だからこういうことらしいのかもしれない。アバンギャルドがダメでロマンチックも危ういとなるとやはりネオリベなのか。それはサブカルのネオリベ。
 しかしネオリベは支配ということだし非人間性くらい我慢しろって経営者に支配者に自己同一化することで自己欺瞞続けられるだけ続けてみろということだからノーランのダークナイトか。ホントにバットマンとはね。だれもバットマンに自己同一化する気はないでしょ。ナイーブになんかしたけりゃ美味しそうなラーメンのグルメでも追いかけるのがいいのでしょう。人気あるアイドルだってラーメンだから民主的なのかな変な奇妙な感じだな。そういうことが自由と付き合う技法ということかもしれない。思いつきそうなのはコスプレかな。コスプレは奇人?奇人のコスプレ。

 歴史を考えると西欧が世界制覇をなしたもとには産業革命があった。動力革命といった方がいいのかもしれない。製造業が成立して機械工学が発達して機械の文明が起こる。その一気に解放されたパワーで世界を席巻していく。要するに帝国主義だ。西欧自身の自意識では文明化であると思っているのかもしれない。植民地をつくって野蛮な人間たちを文明化する。アメリカ合衆国やオーストラリアとか大成功だ。
 そういう国では建国記念日を盛大に祝う。先住民を征服して彼らに文明の恩恵を与えることができたというわけである。西欧中心主義や植民地主義が帝国主義が征服して支配することが許されないことであるということになって人種や性別で差別してはいけない、どんな人間にも普遍的な人権がある。ということを言うから帝国主義は否定されることになった。と思っていたのだが、そうでもないようだ。 
 アバンギャルドが周辺化されて社会主義とか終ったのだけど帝国主義いつ終わったの?と尋ねるとイメージを変えただけでいまだに健在である。
 この事実にうろたえる。イスラエルはこれを実行するのを堂々とするようになった。いまだに文明化のプロセスは終わっていないと思っているらしいのだ。つまり、文明化が最上の価値であると本気で思っているらしいのだ。どうすればいいのか。産業化して文明化してつくられる西欧的な世界が最良なのだ。ホントにそうか殺戮は目的についたらチャラでいいのか。

 さてどうしましょう。西欧の価値観より素晴らしいものがあるのか。どんな価値より素晴らしい価値が想像できるのか。イデオロギー?見当たらない。とにかく帝国主義はダメよ、もっと素晴らしいものがきっとあるですよ。ジェノサイド続けるのはなんだかなぁでしょ。西欧のエリートさんたち。
 
 産業社会の始まりの頃にいまでいうSF的な想像力がうまれた。SF的な想像力ならどんな価値よりも素晴らしい価値を想像することができる。別に現実性やそういうのは考えなくていいんだから。アバンギャルドもロマンチックもついて来なさいだ。
 でも宇宙人呼んできてもあとが続かないスピルバーグじゃなくてダークナイトやオッペンハイマーのノーランもどうなのかな。ゴジラやウルトラマンもあとが続かないようだし。中国やインドはどうかな。アフリカや南米は?イデオロギー的には西欧の価値観をもう一度見直してみるのかな。今は文明化を堂々と主張しかねない帝国主義はいまだに健在なのがわかったからこれ何とかできないのかな。これのSF的な応答はあるのかな。
 
 ヴォネガットのあとで似たような宇宙観のとても奇妙な宇宙人たちが地球にやってくる映画があった。『メッセージ』というタイトルだったと思う。 
 そこに出てくる宇宙人がスピルバーグの宇宙人と一番違うのはコミュニケーションとるのが難しいということでそれができたときにまたスピルバーグの宇宙人と違うのは組織とのコミュニケーションじゃなくてとても個人的なコミュニケーションであるということだった。音じゃなくて文字というのが粋でしゃれた感じがする。
 組織的な議論というより個人的な対話である。ひとりとひとりで個人的な経験も含めて自分の未来も過去も深く互いに理解するという形のコミュニケーションはハッとするほど新鮮であった。こういうのは結果が良ければいいじゃんという帝国主義とは一線を画するコミュニケーションなのでとても良いと感心したのでした。SF的な想像力意外とやるじゃんとおもいます。
 静かなちょっと悲しい映画でしたが、これとは違ってもっと集団的な危ないとこにはいかないような楽しいものもみたい気がします。悲しいと楽しいが対立するようなじゃないような。ちょっと思いつかないけどSF的な想像力ならなんとかできるでしょう。

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