「時間」「空間」の言葉、「機会」「場所」の言葉、それとファンタジーの可能性。間接的なコントロールか直接性の圧力か。なんというのかファッションにも実存にも限界が来るとしたら?エンターテイメントのテーマは?

 ひとの存在は誰でも簡単に考えている。こどものころは誰でも自分の知らない他のこどもたちと出会うからだ。こどものいる場所というところがあるからだ。公園みたいなところとか保育園とか幼稚園とか小学校とかがある。当たり前すぎるけれど、そういう場所でこどもとこどもが出会うにはその機会を作る誰かのいることが必要で、それも含めて、他の人が存在することがわかるには、「場所」「機会」が、「場所」だけでも「機会」だけでもだめでその両方が必要のようだ。
 
 この両方が自然にでなくて片方だけに偏るときが起こる。そこに子供の数が少ないとか、場所に適当なところがないとか。そうならばそれを制度的に設計すればいいじゃん。ということになる。場所と機会と子供たちと親たちを「マッチング」できればいいというわけだ。
 こうすればひとはひとの存在に出会うことができるからだ。このときに問題となるのは、ひとはどのようにひとに対してあらわれているのか。ひとには、「個体としての人」と「集団としての人」の二つのあり方がある。
 この二つのあり方が自由に操作できるようになると思うようになった。それは情報の操作でできることになれば、それは情報システム企業のビジネスチャンスを提供する。これがものすごい技術の進歩で、半導体技術の進歩であるとか騒がれているアレであるとかで、すごい勢いで拡張していく。それをわたしたちはGAFAの急速な出現で思い知るのだった。しかしそれがそんなにめでたいことなのか。ビッグテックは世界を吞み込む勢いだがホントにそんな力があるのだろうか。そろそろ限界というか終わりが来るような気もする。というのは、もう今までとは違ってもめごとばかり増えていくようだから。なんだかんだ言っても、さまざまな機会さまざまな場所さまざまな逸脱のもとでのひとびとの判断がテクノロジーの力だけで完結するとは思えないからだ。テクノロジーで完結する世界とまったくそうはならない世界があって、これらがどう関係するのかが次第にわかってくることになりそうだ。
 情報技術のような世界そのものをデータの集積とするやり方を「時間」「空間」の言葉の世界ということにしよう。
 
 その昔、「機会」「場所」を「いま」「ここ」といっていたころ、なんとなくアクチュアルなアバンギャルドなそういう言葉の流行りの勢いがあって、いまではかんがえられないくらいとても若々しかった。
 その時のことを思い出せば、「若々しい」がちゃんとできるのは「機会」「場所」がちゃんとあるときに限るのだった。偶然の出会い。偶然が光り輝いていた、というような青春ものが流行った、ということはそういうのはとてもめったにないという憧れだった。とはいえ、そういう気分であれば物事がそういう風に見えたりもするものだ。
 ところが、「時間」「空間」の見方であるとか、方法であるとかでは、テクノロジーが広くいきわたったので、「若々しい」は直接的なものではなくて映像化されているような、情報に間接的に接続することで可能な経験になってしまうような感じになっている。いつでも、事前に用意されたものの複製を消費することになるわけだ。それゆえ、十分に考え抜かれた圧倒的に美しく刺激的で強力に関心を惹きつけるテクノロジーで製作される「若々しさ」がある。こうなると、ただの人が集団になっていくときどういうことが起こるのかが見えにくくなっている。
 
 ではかつてひとはどういう経験をしてきたのか。そう考えると、こういうことがテーマになっているエンターテイメント作品がいくつかあることに思い当たる。戦争という状況ではそういうことがよく起こるので、戦争ものの映画にそれを見ることができそうだ。クリストファー・ノーランの『ダンケルク』を見ていたらそれが様々なモードで描かれているのを見ることができる。これは、それぞれの人がそれぞれの「機会」「場所」でどういう体験をしていたかがわかるように描いている。戦闘機スピットファイアの飛行士たち、ひろい浜辺で船のつくのをただ待っている兵隊たち、小さなボートで生計を立てている船乗りの家族たち、どこからか生き残るために逃げ出してきた兵士、攻撃されて水中に投げ出された兵隊たち。それぞれの視点でその動向が描かれている。結構きつい場面もあるマジメな映画であった。
 もっと娯楽を意識した楽天的なエンターテイメント作品では、我らがゴジラの出てくる『ゴジラ-1.0』がある。『ダンケルク』では統合をうしなったバラバラな個人が混乱の中で生き残るために集団に向っていく人たちの体験を見てわかるように意識して描いている。当然単なるヒーローものでは済まない映画になった。それは、敵と味方というキレイな対立構造では済まなくなりそれが破れてしまうところを可視化するからだ。
 ところが、『ゴジラ-1.0』では明確な敵であるゴジラさまが出てくるのでヒーローものの構造は維持できたのであった。とはいえ、一人ぼっちになったバラバラの人たちが出てくるところではこれまでのヒーローものとは偉く違ってしまった。ここまで見栄えのようくないお顔もスタイルも声も誰が見ても役者さんには悪いけどヒーローには見えない人を使った。これが自明に見えていた構造を打ち破って人と集団の関係に的を絞っている新しいタイプの人間関係を描いた新たなヒーローものになった。
 
 AIみたいなテクノロジーはすべて基本はパターン認識で間接的なものである。だから間接的なシステムならすべてこのテクノロジーで完結させられるだろう。近代民主性の社会はこいつとやたらと相性がいい。議会制民主主義、司法システム、行政組織、グローバル企業、まぁコンピュータなしではどうにもならないという以上にコンピュータテクノロジー向きなのである。いずれこのままじゃコンピュータシステムで完結するだろうと思うのが自然だ。人間を相手にしていると思っていても間接的にしか関係しないならAIの生成した画像とコミュニケーションしているのに何かとても個人的な体験と思い込んでいてもしょうがない。ちょうどいいファッションがそうであるように。
 そういう時には、人間の仕事はブルシットな文書を作成してるだけで、実際はシステムが図式的な感じの回路図にしたがって様々な行為を自動生成しているだけ。要求されている様々な条件をクリアーできるならこれが人間社会のゴールになってもいい。技術的な可能性だけですべてが満たされるなら、なっていくならそれがいいと思い込む人が出てくるだろう。

 これで一番困るのは、このシステムの間接性で、「機会」「場所」が無効になることだろう。この時この場所でなければならないということが価値の中心にあることを、このシステムは理解しない。ネットワーク構造とは無関係でそれと直交する出来事は排除されることになる。
 つまりこういうのは、ある特定の機会に、ある特定の場所に、深く関係する特殊個人的なことを、一般的なまるで宇宙のどこにいても通用する物理法則のような価値基準で扱い操作してしまうことになってしまうのではないのかということである。なにか大げさなことを言ってるようだが、何かどうしょもないことのように思われるかもしれないが、ちょっと考えてみればこういうことは意外と、どの人間にも必ずあることなのがわかるだろう。ある集団とそのなかの個人の関係は特殊個人的な問題はスルーしてよいものだという共通前提のようなものがいつのまにか成長してしまっていたのだった。だから集団と個人はどこもみな同じようなものに見える。しかし実際はそうはいかないものだ。もちろんそれは個人的な感想ということになるが。
 こういう問題を戦争の混乱する大きな状況にまで広がったもののなかで表現したのが『ダンケルク』であったとみることもできる。

 戦争以外のこういうものとは反対方向で、戦争に比べれば極小の人間関係に注視すれば、それは家族関係ということになるだろう。
 はて、そういう作品ってあるかな。というので周辺を見回してみるとかなり変わった設定になっているがあった。
 NHKでやってる夜ドラの『VRおじさんの初恋』というのがそれらしい感じがある。人間関係にはいくつかのモードがあってそれを読み違えると関係が崩壊してしまうことがあるということで、どうやるとそれが回復できるのだろうかというお話のようである。これは、へぇーって感じでびっくりして楽しい気分になりました。
 
 今の先進国のいわゆるところの成功した社会では可能な限りで人間が嫌な目に合うようなことを最小化するような方法が取られています。もちろん問題は山積みでそれで充分というにはほど遠いから市民社会の市民たちは政治的にも経済的にも制度的にも社会に参加するのだという啓蒙された意識を持っていたいものですということになるのだけど、どうもそういうことじゃないことがあるようだ、というのがこの一見奇妙なテレビドラマのテーマであるようです。
 
 戦争が終わってそれまでの締め付けから解放されて自由で平等で優しいそして美しいたのしいおいしい生活ができるように消費社会が成立したのでした。とくにその中でポップカルチャーやファッションは人間を鼓舞し支えるものを目指しました。それはひろく一般大衆にいきわたるようになりました。それはビジネスとして大成功して大きな資本になって無視できない力を持つこともできたのですが、結局はおなじもののコピーがひろくいきわたり拡散しただけでした。それは人間の実存から出発したにせよいずれ技術的に経済的に制度的にビジネス的にもともとの意図がどうであれそれらは越えられてしまう。人間は複製品とは違って部品の集まりではないけれど、そうであるためには、どこかで図式的に造られたのではない自分という存在であるには、複製品の見掛けだけでは済まない何かを求めなければならないのだけれど、部分品をどうにかすることだけに圧倒されてしまった。こういうことを「戦後的ポッププロセス」ということにします。
 
 そういうものから離れること。自分に返ること。こういうことにある意味で追い詰められてしまう人たちがいて、彼らにはそういう問題が切実なこととして迫ってくる。ある意味ではマイノリティーと呼ばれている「普通の人」とは異なっている特殊な事情を抱えた人たちにそういう問題が析出するようになります。これは「戦後的ポッププロセス」のある意味では皮肉な最終局面であるのかもしれないようです。
 
 たとえばそういうことがどう表現されているかというと、「戦後ポッププロセス」から逸脱したのだから、新しいきらびやかなのではなくて、打ち捨てられた場所や捨てられた機械や廃車のなかに、あるいは、あまりに目新しくてまだ誰もどういうふうにしたらよいかのわからないところに、隠れる様にしてひとがいるということになるのか、あるいはもっとまったく新しいテクノロジーの場所になるのどちらかだ。
 見えるものを少しずらして水平線より少し斜めにするようなことから、時間をその先にずらす、新しいものが廃れていく未来を過去に投影してみたり新しいテクノロジーのシステムの魅力に身をゆだねてみようとするようなことだ。それはもうファッションではないだろう。あまりにそれは個人的な特殊的なものになっているからだ。
 アンディウォーホールのあとにアンディウォーホールが出てこなかったから。複製複製複製反復反復反復で埋められた都市には都市の若々しさは戻らない。交通事故も原発事故も等価になってしまう世界が来てしまった。別の言い方別の言葉でいうならあらゆる情報は二進法の列の集まりだ。サウンドもヴィジュアルも空白を埋めているドットの集積になってしまった。そういう前提のなかにいて、あることが自分のことだというためには、非自明なファンタジーの可能性を追ってみましょうになるのかな。
 もともとデジタルは価値とは無関係だから、これはテクノロジー一般にも言えることで、可能性と不可能性は不可分である。それは道具だから使う人が自分でそれらしいなにかを見つけるということになるだろう。
 しかし資本は資本自身の安定的な無理をしない成長のために、科学的な技術的な可能性を狭めていくことになりそうだ。安定的で誰にでもできる使い勝手の良いことを目指すので、ビッグテックの「時間」「空間」の支配の行く先はそういうことを肯定的にとらえるある種の考え方というか古臭い言い方ならイデオロギー的なものによって発展して大きな統治になりそうだ。
 イデオロギーの統治ならヨーロッパの中世みたいな?統治に、経済では統治コストのような税金みたいなものさえ払えばいいから自由さがある帝国みたいになる?なりそうだ。

 では、「機会」「場所」は、それとは違って小さな統治?の可能性になるのだろうか。大きな都市とは別に小さな町やローカルなところで回る経済を「機会」「場所」は、作ることになりそうだ。これを商品ということで考えるとどうなるのか。「時間」「空間」の経済ではいいものは競争で決まるからその点で劣るものは排除してよいということになるが、「機会」「場所」では、そこに生きている人間たちのローカルな好みが優先してよいということになる。「時間」「空間」の基準からは外れるよくない不完全なものでも、それをつくるプロセスが人びとの心に響くのであれば、それで充分だと考えるだろう。経済合理性には統合できない価値というものがあるという立場になる。これはイデオロギー的な考えとは微妙なところでしかし根本的な違いである。

 ではどういうことがあればいいのかというと、このままでは「時間」「空間」の経済に吞み込まれるだけなので、そうならないためには、それと「機会」「場所」をつなぐために大きな都市が仲介機能を持たねばならないだろう。だから大きな都市は全く別な可能性を求めていかねばならないことになりそうだ。
 それをどういうイメージで想像するのかな。大きな都市と小さな町がある。この関係は臨機応変に変われることは必要だ。
 大人と子供とうよりも、親とこどもという関係の方が適切かもしれない。大きい都市と小さい町をいくつかを囲んでいる家庭のような領域があると考える。大きい都市は合理性や効率のイデオロギー的なものから独立なそれとは違うことを許容する想像力を、他のいろいろな夢を理解できる大きさと気前の良さを持ちたいと思うようでなければうまくいかないだろう。
 頑固で家父長的な権力暴力自分勝手くそおやじじゃぁ駄目よだね。
またこどもたちの世界は他の家庭のこどもたちと交流して遊ぶことで何かを学ばなければならないだろう。保育園や幼稚園や小学校であるとか、学校のような場所が必要だけど、そこではイデオロギー的なものが支配するのは避けたい。理想的な大学のようなひらかれているさまざまな人間たちの場所があればいいだろう。そこは専門分化の方向よりも別の場所もなければつまんない退屈なところになってしまうから、たのしいおいしいゆかいな仲間たちもいてくれるといいなという場所が望ましい。抽象的な概念に傾くのはよくないから具体的な言葉があればいい。

 「時間」「空間」の観点から見れば、あらゆる人間の社会的な行為をサービスという観点から再構築しようとするのがそれで、そうした、近代的な社会では技術的な進歩が起こるので、それで解像度が上がるのでそのゴールにとなる社会がしだいに見えてくるので、そこに向けて技術開発や経済システムや新しいタイプの企業をつくるようになっていくだろう。そのときによい商品良いサービスだけを求めてそうでないのは却下する捨てちゃうのではそれと一緒に大切なものもなくしてしまうだろう。
 親とこどもの関係に見立てるとそのあたりがわかるのかもしれない。NHKの夜ドラの『VRおじさんの初恋』に、シュークリームをめぐる重要なエピソードが出てくる。バリバリの超優秀な坂東弥十郎のビジネスお父さんは田中麗奈の演じる娘のこどものときに、お父さんのために作ったのだけど、うまくできていないシュークリームをお父さんにわたすと、いとも簡単にお父さんは捨ててしまう。それは、贈り物で商品ではないのにそれを受け入れてくれなかったことに失望してしまう。そういう想像力のなさ、気持ちの理解に欠けていることがないようにならないとうまくいかないということ、であった。
 
 サービスとは、情報のような複製のシステムの提供するサービスと、そうではないマッサージしてもらうような特別な人にしてもらうサービスの二つに分かれていると昭和の工学者のロボットを提唱した吉川弘之はそう考えられるといっていた。
 とくに後者のマッサージ型サービスは、これは複製可能とは言えない。ロボットができればいいじゃんと思いがちだがいまのところ無理してまでそんなものはどこの企業も作る気はないようだ。いま現在のテクノロジーの範囲には入りにくいようである。
 もしそれが可能なら、あなたにとってのかけがえのない人がいなくなってもいくらでも代わりになってくれるひとが来てくれる?ということだろう。 
 しかしこれはなにかどこかおかしい、そう直感的に感じる。あなたにとって一番かけがえのない人はあなた自身だ。われおもうゆえにわれありだ。ということは、あなたにとってあなたはほかにいくらでもたくさんいる?ということになってこれって変じゃないの。パラドックスでしょう。もちろんそういうのが楽しいと好きだという人もいたっていいけどどうかな。
 だから情報みたいに無制限に複製できるものとは違うそういうサービスは難しいのだ。
 サービスは商品だからその価格は一意的に決まるものである。ところが、マッサージ型では人間が介在するのでそういう単純な基準が意味をなさないことが往々にしてある。マッサージ下手でもマッサージしてくれるその子が好きなんてことはいくらでもあり単純じゃない。単なる経済―もしそんなものがあるとしてーではないものがある。「時間」「空間」の全面化が何をもたらすのか、それは「機会」「場所」が周辺化されていくことなのであった。それは「機会」「場所」が、それを可能にするあらたな世界を求めることでもある。
 それは今までにはないファンタジーの世界が立ち上がることである。そのときその場所で「機会」「場所」のテクノロジーとはどういうものになるのだろう。

 資本は外部的な基準で自分自身を動かせるので自分自身を安定化させることができるように学習できるようになる。それはある意味では停滞を目指す?ということになってしまう。ちょうど「時間」「空間」に生物を囲い込んで理想的な環境を提供できる実験施設で飼育して観察してみてもそれらがどう進化するかは全くわからないようなことである。
 ところが、実際には生物はそれとは無関係に動いて生きていく。当然のこととして人間たちもおなじだ。関係性が連動して動き出していく人間たちの集団を人民というなら、人民が資本のコントロールを越えてしまう。歴史によればそれらは必ず間違うということを繰り返してきた。革命もおおきな革新も間違うというのだった。
 というので、人民を合理的にコントロールしていくと、資本は単なる合理性なので商品はより洗練されて素晴らしいものになるけれども、進歩はジミになっていく。人民の方は根本的な新しい経済に入ることがないと奇妙な感じの生産性の長期的低下にさらされてしまうかもしれないから、かなりひどいことに突っ込まれてしまうけれど、進歩に圧力をかけるのはこっちである。
 人間たちのあいだの葛藤が圧力になるのだ。その結果がどうあれ、ひどいことになったとしてもその責任?を全面的に誰かに負わせても意味がない。言葉がいくら断罪したところで誰が正しかった間違っていたというくらいなものだから、新たなるひとが、「機会」「場所」が、新たなる希望を探すのを待つのだろう。

 例外的にうまくいくことだってあるかもしれない。そう思うならそこが新たなるファンタジーの場所と機会になるのだろう。資本は可能性に制限をかけーおかしな集団で盛り上がったりしないようにー個人を個人主義にとどめおいておくことで安定化しようとする。ごく小さな集まりでも何にも盛り上がることができなくなるところまで行ってしまえば、それがやがて「可能性」を絞め殺すまでに限界に近づくとき、かの世界が目ざめるだろう。早くそれを見てみたいものだ。
 

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