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山際響:短編集

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山際響の短編まとめです。
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#純文学

水たまり

水たまり

 まず光があり、次に雷の音が響き、そして、我々の住むこの山間の町は、重苦しい雨雲に覆われ、しつこいほどの雨が、降り続けている。強い雨というわけではないが、ずっと止まないので、降雨量は膨大なものになっている。この町の何処かに貯めこまれた水は、我々の全て流してしまうほどの力だろう。私は、最近再就職した工場の近くで、実家に残っている姉と会った。一帯は、鉄条網に囲まれた空き地と、いくつかの工場しか見えない

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サラザールの一日

サラザールの一日

 アントニオ・サラザールは独裁者である。

 いや、「であった」と言うべきか。

 彼がハンモックで昼寝の途中、落下して頭を打ち、意識不明の間に、世界は、ポルトガルは変わってしまったのである。
 腹心のカエターノに政権が移り、サラザールは目覚めるまでの二か月間の記憶とともに、権力を喪失した。
 一九六八年の事であった。サラザールこの時、七九歳。

 側近は、その事実がこの元独裁者には衝撃的すぎると

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イリュージョニスト

イリュージョニスト

「イルカなど、消さない」と彼は静かに、断言した。
 ベッド脇の電気スタンドのような駅前のパブで、彼はベルギービールを飲んでいる。ピンク色の象が描かれているデリリウムという名の奇妙なビールの瓶だった。
 彼はもう一度言った。
「イルカなど、消さない」
 彼は満足げに、ビール瓶を傾け、ゆっくりと、ビール瓶の象ではなく、その不思議な文字をなぞる。
「デリリウム、というのは、せん妄状態の事だよ」
 彼は言

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ドライブ

ドライブ

 海に来るつもりは無かったが、ふいに胸の内にこみ上げてくる懐かしさに引き寄せられ、妻を説得して車を浜辺へと向かわせた。
 この辺りはだいぶ変わってしまった。昔はもっと錆びついたトタン屋根の平屋で埋め尽くされた町だったのだが、今では茶色と白の南欧風の家が立ち並び、すっきりと整理されたリゾート地のようである。たった今通り過ぎた場所はバス停だった。今でもそうであるが、私の知っているバス停とは違った。昔は

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湾岸タクシー

湾岸タクシー

「就活生ですか?」
 そのタクシー運転手は言ったが、私は眼を向けることすらせず、この自動車は無人で動いているかのように、その声を無視した。
 女性だから馴れ馴れしいのかと、私は警戒していた。外に眼を向けると一日の終わりの風景が、私の意思とは無関係に眼に入ってきた。空の夕日から遠い部分は、藍色に染まり星を待っていて、空と海の交わる境界には、溶鉱炉のような橙色が、荒くて太い筆で描かれたように水平線と平

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真夜中の落書き

真夜中の落書き

 あらすじ
  孤独な落書きアートのライター由美はリコと出会う。
  二人はともに真夜中に落書きを始めるが……

 誰にでも、人生で時間、空間を真っ白にに塗りつぶしたい時がある。由美にとって、今がその時だった。 
 由美は無心で線を引く。真っ黒なパソコンモニターに白い線が現れる。無心だったが、楽しいからではない。そうしなければ心が痛むからしている。
 いま由美が向き合っているものはCADというもの

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ハウス

ハウス

 そのマンションは、人通りのまばらな、ニュータウンの大通りから離れた、この世の果てのような、静かな場所にあった。二階建てで象牙色の壁を持ち、白い扉がそれぞれの階に三つほどあった。扉は見えないが、一階の左端には小さな部屋が一つ付いていて、マンションの綺麗な長方形のシルエットを少し乱している。鉄筋コンクリート造で造りはしっかりしており、柱や壁は厚そうだった。周囲には空き地が広がり、ぽつぽつと一戸建てが

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四月の雪

四月の雪

 おそらく、生身の人間に会うのは大学を卒業してから初めてだった。
 しかし、あまり人間に会ったという気がしなかった。
 彼女はもちろん幽霊ではなく、実体がある。薄い皮膚を通して、青い血管が見えるし、彼女には血も涙もあるに違いないが、残念ながら、私には信じられなかった。
 こんな失礼な考えを私は不意に思いつく。いつもの事だ。そして、それを悟られてしまうのではないかと緊張するのだが、彼女に関しては、そ

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雨のち晴れ

 一年のうち、七割は雨の日なんだって!
 この地域の話さ。信じられない。雨が降るからここら辺は森だらけで林業が盛んなんだよね。
 僕は奴の車に乗って、港町へと向かっているんだけど、今も雨が降っている。
 道路の両側には、大きなモミの木がいっぱい生えている。曇り空だから薄暗いし寂しい道さ。ものすごい大きな木を乗せたトラックが一分ぐらい前に、僕らの車を追い越してから、車なんて見てないね。
 僕らの住ん

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飛行機雲

飛行機雲

 雨上がり特有の土の匂いが、開いた窓から流れ込んできた。
 秀樹が顔を上げると、プラスチック制の水のない水槽が、白いレースのカーテンに撫でられている様が見えた。カーテンと水槽が擦れる音を聞きながら秀樹は窓を見た。カーテンの合間から見える空は、まるで溶鉱炉のように赤かった。次に水槽の中で佇んでいる黄色と黒の肌を持つカエルを秀樹はしばらく眺めていたが、空からの飛行機の音で、集中が途切れた。秀樹は立ち上

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雷鳥と呼ばれた女性

雷鳥と呼ばれた女性

 雨が来る、と言語学者は空を見上げ、思った。
 前方にはじっとりとした熱帯雨林に覆われた島、雨島が見える。緑の中からは高層ビルのような、雲まで届く大きな樹が突き出している。樹の幹には人工的な正方形の穴がいくつも空いていて、人が住む事も出来そうだった。
 帽子のような灰色の雨雲に、島はすっぽりと覆われていて、樹の上方は雲に隠れて掠れて見える。
 彼女が想像した南の島とは程遠く、陰鬱でじめじめとした印

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オーロラ

オーロラ

 オーロラは見えなかった。雪を被った白樺の合間に、揺らめく星が見えるだけでも、スオミには満足だった。夜空を見上げ、そこに星が見えれば、北欧の小さな村に住んでいる事を忘れ、ほんの少しだけ日々の疲れもとれた。
 スオミは倉庫から、大き目のマキを二つほど取り出した。十歳の力では両脇に二つ抱えるのが限界だった。足元で白い犬が尻尾を振っている。犬の役割は、家の裏口のドアを引っ掻いて、スオミの母にドアを開けて

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エキゾチカ

エキゾチカ

 それは、天国への梯子ではなかった。
 三月の青空に向かって伸びるクレーンだった。
 吾郎は車を走らせながら空を見上げている。静かだった。距離はあったが、クレーンの軋みがはっきりと聴こえた。自分の耳、もっと言えば鼓膜には自信があった。幼いころから鋭かったし、音は何でも記憶出来た。ある時、病院で自分の鼓膜を見た事がある。ライトを浴び、モニターに映し出された鼓膜は、白と灰色の中間の柔らかい色をしていて

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異言

異言

 昔々の事。房州に安房の国があり、その浜辺の村に舟木という若い漁師が住んでいた。漁師だというのに、彼はあまり漁が好きではなかった。漁に関しては貝塚という幼馴染の男の方が上手かったし向いていた。彼は力も体格も舟木より上だった。その怪力で子供の鯨を片手で捕えたという噂すらあった。単純な力では及ばないが、舟木の方も貝塚にはない不思議な力を持っていた。人間や魚など生き物の心を読めたのだ。能動的に読めるわけ

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