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異言

 昔々の事。房州に安房の国があり、その浜辺の村に舟木という若い漁師が住んでいた。漁師だというのに、彼はあまり漁が好きではなかった。漁に関しては貝塚という幼馴染の男の方が上手かったし向いていた。彼は力も体格も舟木より上だった。その怪力で子供の鯨を片手で捕えたという噂すらあった。単純な力では及ばないが、舟木の方も貝塚にはない不思議な力を持っていた。人間や魚など生き物の心を読めたのだ。能動的に読めるわけではない、ふいに周囲の人や魚や鯨の考えが入ってきてしまう瞬間があった。漁をする時は魚の気持ちが入り混まないよう何も考えず魚を捕る事が多かった。そんな消極的な姿勢では漁師として目立った仕事ができるわけではなく、貝塚と常に比べられ海の男としては半人前という評価をもらい、日陰に追いやられていた。舟木は子供のころ、お前のような赤子は珍しかったと、聞かされた。どんな赤子だ、と問い返すと、首から下げた人間が溶け固まったような海豚の耳石に触れながら、産婆は昨日の事のように語った。舟木は被膜児という胎盤、半透明の膜をまとったまま生まれた赤子だった。被膜児は幸運の象徴とされ、遠くにいる者と通信できる不思議な力を持つ者もいた。舟木のような人間は伝人と呼ばれていた。漁に行ったまま遭難した漁師の場所がわかるため重宝されていたというが、最近では遭難者が少なかったので、伝人としての出番は今のところ皆無だった。
 舟木が初めて伝人の力が役に立ったと実感したのは、ある夏の日の事だった。天候は快晴で空気は澄み渡り、鏡のように穏やかな海面からは時々、鯨や海豚が顔を出し、貝を細かく砕いたような白い砂には、五角形の海星が打ち上げられていた。浜辺には黄色いハマボウが咲き乱れ陽の光で花弁をうっすらと輝かせている。砂浜を歩いていた舟木は、海に浮かんでいるある物を発見した。それは船だったが、生まれてから一度も見た事もない船だった。漁船とは違う。船はせいぜい三人程度が乗れる小さなもので、小屋とそれを取り囲む朱塗りの小さな鳥居があった。漂流でだいぶ崩れていたが、あらゆる部分が、まるで神輿のように飾り立てられていた。白い旗もついていたようだが、風で吹き飛ばされ、わずかに欠片が柱にまとわりついてるのみだった。一体あれは何なのか、と舟木は呆気にとられ、船が白浜に流れ着くまで眺めていた。舟木はゆっくりとその船に近づき、小屋の中を覗いた。狭くて悪臭で満ちていた。崩れかけた天井から零れる鋭い線状の陽光が、いくつかの縞模様を壁や床に描いている。舟木は奥に釘を打たれた木の箱を見つけた。亀裂が走っていて、薄闇の中に一人の年老いた僧侶が目を閉じたまま横たわっている様が見えた。皺だらけで、ひどく痩せこけていたが死んではいなかった。その僧侶は何か不明瞭な言葉を発していた。舟木には聞き覚えのない言葉だった。海豚や鯨の鳴き声とも違い人間が話す言葉とも違う。波の音ともまた違った。舟木は亀裂の中に手を伸ばし、僧侶の頬を叩いた。まるで魚のように冷たかった。やはり僧侶は死んでいるのだと考え首筋の脈をとってみた。強くはないが指先に血液の流れが感じられた。気が付くと舟木の背後に貝塚が立っていた。これは一体何なのだろう、と舟木が尋ねると、貝塚は少し思案した後、東を指さした。黒潮の流れに乗って、向こうから流れてきたんだろう、と言った。昔からこの砂浜には紀州などから多くの人や物が流れてくる。いくさに敗れたとされる武将も、鎌倉から潮の流れに乗ってここに逃げてきた。貝塚の祖先は、その武将に貝を届けたので貝塚の姓をもらい、舟木の祖先は船の木でたき火をして武将の身体を温めたので舟木の姓をもらったと言われている。東か、と舟木は呟き、陽光で揺らぐ水平線を見た。僧侶にしてみれば、ここは西の果てである。
 それにしても、漁師や武士ならわかるが、いったいどうして、僧侶が流れてこなければならないのか、舟木は疑問に思った。海と僧侶がどうしても結びつかないのだ。貝塚が表情を強張らせ、僧侶の冷たい頬に触れてみる。よくわからないが、きっと粗末に扱ってはならない、と言った。その事は舟木も心得ていたが、いくら声をかけても頬を叩いても、僧侶は目を覚まさない。二人とも神仏に関しての知識は全くない。ここは温暖で極楽のような土地であり、大きな災厄がもたらされた事など一度もないし、不漁に見舞われた事もない。みな、無条件で神仏に祝福されている土地だと思っていたので、真剣に神仏と向き合った事はなかった。僧侶が本当に人間かどうかもわからない。舟木と貝塚は神仏をどう扱ってよいのかわからず、ただ狼狽えるばかりだった。とりあえず、目を覚ますまでここで待っていればよいと考え、二人は砂浜に座って僧侶の目覚めを待ったのだが、小一時間ほど、潮風を頬に受け、穏やかな波の音を聴いたのち、舟木はここで待つ事は、失礼にあたるのではないかと思い、その事を貝塚に告げた。一向に目覚めそうにない僧侶を見て、貝塚も同意した。廃れてはいるが、最寄りの神社仏閣である鯨神社に運ぼうという事になった。
 穏やかな波の音が規則正しく間断なく続くが、舟木の心中は穏やかではなかった。僧侶が目覚めず息を止めてしまったら、良くない事が起こるのではないかと不安になった。船の中を詳しく調べてみると、水も食料もなかった。どれくらい船の上にいたのだろう、と舟木は洋上の生活に思いを馳せながら、木の箱の蓋を外し、僧侶の身体を持ち上げた。痩せこけている僧侶は、大きめの魚より軽く、運び出すには、舟木一人でも十分だった。鯨神社はその名の通り、鯨を祭る神社だ。本当にここで良いのか、と舟木は鯨の顎骨で造られた門を見上げながら呟いた。仕方ない、と貝塚は答えた。鯨を祭る神社に僧侶を持ってくるのはいかがなものかと思ったが、隙間風が吹く舟木や貝塚の家よりはましだった。あそこは粗末で魚臭くて、砂浜より条件が悪い。家は粗末だが、二人や村人は何不自由のない暮らしをしている。魚は捕れるし鯨も捕れる。温暖な気候なので果実も良く実る。だからこそ、僧侶を丁寧に扱わなければならないと思った。
 昼を過ぎて、夜が近づいても僧侶は目覚めなかった。延々、二人には理解できない奇妙な言葉を口から漏らし続けている。夜になったからといって、ここを離れるわけにはいかなかった。目覚めたら、栄養補給のため水や魚をやらなければならないし、何より状況を説明しなければならない。
「俺たち、一晩中、ここで待ってなきゃいけないんだろうか」
 舟木がつぶやくと、貝塚は当然だと言った。放っておいたら、罰があたるかもしれない。舟木も納得した。この村の平和な暮らしを変えたくはない。この海辺の村に生まれれば、将来の事など思い悩む必要はなかった。ただ、漁師になればよかった。そして、海から海の幸をわけてもらえば良かったのだ。舟木も、なるべく伝人の資質は封印し、ただ海とともに生きたかった。
 潮風が心地よかった。磨き抜かれた鏡のような海を朱色に染めながら、陽が沈んでゆく。熾火となった火が消えるように夕焼けが消え、空が藍色になり、気が付くと三人とも満天の星空に覆われていた。貝塚は砂浜から船の破片である木材を山ほど担いできていた。罰当たりだと思ったが、僧侶の身体を冷やすよりはましだ。貝塚は木材に火をつけ焚火にする。ここらでは見ない木材だった。めらめらと燃え上がり、僧侶の青白い顔が闇の中に映し出された。口だけは微かに動いていて二人が理解できない言葉を吐き続けている。舟木も貝塚も夜空を見上げた。目を閉じているが、僧侶も空を見上げていて、空に向け不明瞭な言葉を吐き続けている。雲に隠れていた月が出てきた。三人に光が降り注ぎ、焚火が必要ないほどになった。舟木は月明かりに照らされた砂浜を見下ろした。何人かの人々が波打ち際に立ち、まるで杭のように、まんじりとも動かない様子が見えた。細長く伸びる影が穏やかな海に映されている。あれも漁だった。影を好む魚が影に入ると、無慈悲に銛で突く。舟木はあおむけになり、星空を見上げる。波の音が聴こえなければ、自分が地上にいるとは思えなかった。この坊さん、あの世からから来たのだろうか、と舟木が呟いた。僧侶の言葉は、二人の頭では全く理解できない言葉で、この世のものとは思えなかった。言っただろう、東から流れてきたんだと、貝塚は答えた。

 舟木は眠りに堕ちていた。瞼を閉じたのがいつなのかわからない。夢を見ているという自覚があったが、それが自分の夢だとは思えなかった。遠くから他人の夢が流れ込んで来る。瞼の裏側に映像を創り出すほど強いものだ。場面は僧侶が船に乗るところだった。船は浜辺に打ち上げられているものと同じものだが、破損はしておらず綺麗に飾り立てられていて、朽ち果てた船しか知らなかった舟木には、まるで死者が蘇ったように見えた。会話も聞こえてきた。極楽とか浄土とか、あの世に関連する言葉が聴こえてくる。僧侶の故郷と思われる景色も、頭の中に入ってきた。見た事もない深い山が多かった。山々は靄で覆われていて、じっとりと湿っている。目で見るのとは全く違う。情報が直に頭の中に混じりこんでくる。僧侶の頭の中に流れているものを誰かが溝を作り誘導し、舟木の頭の中に流し込んでいるようだった。ここが、貝塚が言っていた紀州という場所だと思った。渡海という言葉が聞こえる。海を渡るために僧侶は船に乗るのだ。
 気が付くと、舟木は貝塚に揺り起こされていた。うなされていた、いったいどうしたのか、と貝塚は尋ねた。舟木は真っ先に僧侶の顔を見た。焚火に照らされたその顔は青白く、生気はなかった。口から漏れ出している不明瞭な言葉だけが、唯一生命を感じさせる。
「やはり、遠くから流されてきたようだ」と舟木は貝塚に言った。
 どういう事なのか、と貝塚は言った。
 この僧侶があの船に乗り込む姿を見た、と舟木は答え、眼下の砂浜に目を向ける。波打ち際にはあの船が残されている。長い間、波に揺られて、鳥居などが欠けていた。月明りで照らされていて、輪郭だけはよく見える。破損部分は日中よりも目立たない。夢でも見たのか、と貝塚はまた尋ねた。確かに夢には違いないのだが、頭の中に映し出されたものは、全てを真実だと舟木は確信していた。夢ではない本当だ、と舟木が貝塚に告げた。伝人の特質だ。見たから見たとしか言いようがない不思議な感覚は、今までに何度も経験した事があった。
 貝塚は、信じられん、と言った後、舟木が伝人である事を思い出し、それ以上何も言わなかった。貝塚が忘れてしまうほど、舟木は普段、伝人としての資質は封印していた。興奮のあまり、封印した資質を曝け出してしまった舟木も、気まずそうに下を向く。子供のころは、全員そういった事が出来るのだ、伝人としての資質は特別なものではない、と思い込んでいたが、そうではないと気づいたとき、深い孤独を味わった。追い打ちをかけるように、周囲の子供たちは羨望交じりの嫌悪感を示し始めた。舟木のほうからも上手く取り繕う事はせず、さらに孤立を深めた。高まった緊張感は些細な言い争いで爆発するが、そのたびに貝塚に助けられた。
 貝塚はなぜ僧侶はこの船に乗っていたのか、と尋ねた。坊さん一人で、いったいどこに行こうとしていたのか、それは舟木にもわからない。実際に僧侶を起こして聞いてみないとわからない事だった。
 鮮明な夢は舟木の神経を昂ぶらせ、眠りに陥らせなかった。貝塚も舟木の言葉を聞き、変に頭が働いてしまい眠れなくなってしまったようで、憮然として腕を組んだまま燃え上がる焚火を見ている。坊主は、死ぬつもりだったのか、と貝塚は舟木に問いかけた。舟木は夢の中で感じた僧侶の感情を思い起こし、僧侶は死ぬつもりだったと結論付けた。僧侶の中にある感情は、激しいものではなく、穏やかなものだった。あの世に向けて旅立つ者が持つ感情なのだろう。己の命、人生には全く執着していないようだった。
「そうだな、死ぬつもりだった」
 と舟木は僧侶の寝顔を見つめながら呟いた。貝塚は腕組みを解いて、舟木を呆然と見つめる。舟木は僧侶の考えをまるで自分のものように呟いたので、貝塚は友人と話しているのではなく、僧侶と話している心持になり、口調は普段の親しげなものではなく、神聖な神仏に向かい合うような厳かなものとなった。
「どうして、死ぬつもりだったのか」
 貝塚は舟木は問いかけた。舟木にもわからなかった。修行であり、決まり事だから、としか言えなかった。僧侶は、いま自分が生きている事にすら気づいていないのだろう、と貝塚は呟いた。舟木は僧侶の表情を盗み見た。焚火に照らされ、顔は橙色と深い闇でまだらに彩られている。夢を見ているとしたら、今頃、極楽の夢を見ているのだろう、と舟木は想像する。
 舟木は僧侶の発している言葉が気になり始めた。念仏なのだろう、と貝塚は言っていたが、舟木はそれが極楽の言葉なのだろうと思った。僧侶はいま、自分が極楽にいると思っている。何の苦悩もない極楽にいて既に死んだ誰かと何かを話しているのだろう。舟木は夜空を見上げた。極楽にいるとは羨ましい限りだが、いずれ目覚めなければならないのかと考えれば不憫だった。どうするべきなのか、と舟木は貝塚に問いかけた。
「死を決意して、旅に出たのだから、目覚めさせるのは、どうなんだろう」
「このまま目を開けないほうが幸せだというのか」
 貝塚は瓢箪を取り出し栓を抜き、僧侶の口元に垂らしてやると、僧侶は言葉のようなものを発するのを止め、水を吸収した。顔色も少し良くなったように見える。
「水は飲めるらしい。このままの状態でもしばらくは持つだろう」

 翌日は大風が吹いた。毎年、一年に一度はある大風なので、舟木が恐れる大災害というわけではなかった。その翌日は大漁を祝う祭りだったので、貝塚は祭りに支障が出る事を心配していた。祭りは明日からだというのに、貝塚は上機嫌で酒を煽りながら、荒れ狂う海を見ている。普段は人を畏怖させる大風は、村人たちのお祭り気分を刺激し高揚させた。彼らは次々と砂浜にくりだし、肌に食い込むような雨を天からの恵みであるかのように、歓喜の表情で全身に浴びていた。
 
 凄まじい臭いだった。鼻が曲がりそうだ、と舟木は悪臭の元から目をそらし、唾を吐き捨てるように呟いた。祭り当日。昨日からの風は止み、雲はどこかに流され、空は青々と晴れ渡ってた。異変といえば、白い砂と黄色いハマボウが輝く海岸に、一点の染みのような、鯨の死体が打ち上げられていた事だけだった。腐乱した肉からは黄色い骨が見え、酸っぱいような苦いような奇妙な臭いを死骸の全体から放っていた。死んだ鯨が流れ着く事はあったが、腐乱した状態で流れ着く事は滅多になかった。村で行われている祭りの会場にはすえた臭いが届く程度だったが、砂浜に来ると気絶するほど強烈だった。興味本位でやってきた村人はその酸鼻きわまる光景と臭いに顔をしかめた。
「まだ食えるんじゃないか?」 
 誰かが言った。確かに奇妙なほど新鮮な部分はあった。極めて腐敗が進んでいる部分と、生き生きと黒光りした部分がまだら状に混じり合っている。こんな腐敗、腐乱を村人は誰も見た事がなく、誰もが興味深そうに死骸を観察している。
「もらっていこう」
 祝祭特有の高揚感が、村人たちの蛮勇に火を付けはじめていた。遠巻きに見ていた村人たちは、白い砂浜に足をつけながら、激臭の元へと迫ってゆく。離れた位置にいた舟木と貝塚は、村人たちが吐き気や眩暈に困惑し、砂浜に足跡を刻む間隔を少しづつ短くする様子を眺めた。
「俺たちも、少しもらっていくか?」
 と貝塚は言ったが、舟木は首を振った。腐乱して浜に上がられた鯨は何頭か見た事があるし、その臭いを嗅いだ事があるが、今回はどうも臭いがおかしい。
「やめたほうがいいだろう」
「いや、食ってみよう。腐りかけが一番うまいんだ」
 酒を煽りながら、貝塚が言った。そこには嗜虐的な色もあり、舟木を身震いさせた。貝塚の様子が少しおかしい。酒、そしてお祭り気分が、いつもの落ち着きを失わせているようだ。
「ここは極楽かな」 
 そう言って、貝塚は空を指さした。踊るようにゆっくりとまわりながら、砂浜に足跡をつけ、腐敗に近づいてゆく。
「海にはあふれるほど魚がいるし、こうして、向こうから食い物がやってくる」
 真っ白な浜に横たわる腐乱した鯨の死体を見て、舟木は神社に住まわせている僧侶の事を考えた。いつまでもあの状態にしておくのだろう、と思った。立ち尽くす舟木を見て、貝塚は鯨への接近を止め、舟木の元へ近づき、おどけながら肩を叩く。こんな時に深刻な顔をして考え事をしている者は、お祭り気分に水を差し、興醒めさせるか、辛気臭い愚か者と笑い者になり、みなを喜ばせるかのどちらかだ。大げさに絡んでもちっとも笑いものになる気配を見せない舟木に貝塚は苛立ち、憮然とした表情で再び鯨の元へと歩みだした。鯨のすぐ傍まで近づくと、知り合いの村人を見つけたらしく、機嫌を直して、足早になる。一人で突っ立っているのもばつが悪いので、しばらくしてから舟木も鯨の元へと歩み寄った。猛烈な臭気で吐き気がした。とても鯨に触れられる位置まではいけなかった。舟木は酒が飲めない。鯨の近くまで行ける者は、酒が嗅覚を麻痺させているからだと思った。舟木が顔を上げると、ちょうど一人の村人が鯨の眼球を持って帰るところだった。その男は変わり者で有名だった。何人かが検討していた新鮮な部分を持って帰らず、腐敗の進んだ部分を真っ先に持って帰った。腐りかけどころではないのだが、腐りかけが一番うまいのだと、その村人は言った。その村人は、三十年も前の漁で負傷して、村のはずれに住んでいた。元は勇敢な漁師だった。巨大な鯨にも臆する事もなかったという。ある日、大風が訪れた。昨日この村を襲ったものと同じ程度の大風で、陸にいるぶんには大した事はないが、海には出れず、ましてや漁など出来るはずがない。だが、男は何を思ったか周囲が止めるのも聞かず海鳴りの中、漁に出た。当時は舟木が生まれる前で、伝人もいなかったので、男を見つける事は出来なかった。一か月後、男は帰ってきた。髪は全て白髪になり、白い砂浜の上に座って、茫然と水平線を見ている姿を村人が発見した。男は何処で何をしていたのかは語らなかった。怪我をしたのか、男は身体を引きずり、時々、不明瞭な言葉を話すようになっていた。それから、漁に出る事もなく、村はずれでひっそりと暮らしていた。それでも、食べるには困らなかった。幸運の象徴であるとして、村人は男に毎日魚を届けた。
 不思議なものでその男が眼球を持って帰ると、持ち帰る事をためらっていた新鮮な部分を皆が競うように持って帰った。

 三日もすると、疫病が村に蔓延し始めた。
 平和だった漁村は一変した。その様を見て村人たちは、あの鯨は病んでいた、という事実を今更のように思い知った。新鮮な部分であろうと、病の元はその身にたっぷりと残っていたのだ。まず発症したのは、鯨の肉を食べた者たちだった。全身がだるくなり歩けなくなる。次に高熱が出て、吐き下しが激しくなる。最後に身体のあちこちに発疹が出て火がついたように痛みだす。空気感染をする病であるという事もすぐに判明した。肉を持って帰った者の家は、村の四方に散らばっていたため、村中に病が広がるのは早かった。原因となった鯨は焼き払われ灰となったが、それで病がおさまるわけではなかった。
 舟木に病気の兆候は出なかった。だるくはないし、体調はすこぶる良かった。舟木は他の村人同様、村から逃げる事はしなかった。ここから出たところで、行くあてもなかったし、この村や海岸に愛着があったので、この土地にとどまり何とかして疫病をおさめたかった。みな、病を治す方法を必死で探した。どこからか、白浜の砂を全身につけると病に良い、という話が広がり、村人はこぞって白浜に行き、全身に白い砂をつけた。感染していない者も、病が進行し死を待つばかりの者も、こぞってこの根拠のない噂話にすがった。こんな状態なので、月夜の晩に魚をとる者はいなくなった。浅瀬に立つ者は誰もおらず、かわりに全身に白い砂を浴びるために来る者ばかりとなった。深く病んだ者の中には、その赤く爛れた身を海水に浸し、白砂を全身に巻き付けている最中に死ぬ者もいた。それでも白砂には病を払う効果なしと考えるものは少なかった。ただ病が進みすぎていただけだ、と考えようとしていた。力尽きた者は、その場で火をつけられ、黒い消炭のようになると、白い砂浜の深くに葬られた。以前は、潮の香りと波音しかしなかった白浜には、人の焼ける臭いや炎で木材が弾ける音が満ちるようになった。やがて、病人たちは一つの場所に集められた。集められた人々は、この一帯にそのまま火をつけられるのではないか、とひどく怯え、それが現実になった悪夢を毎晩見ると訴えた。

 ある日の正午、舟木は病んだ者たちが集められている一角へと向かっていた。病が発症したわけではない。貝塚が病を患ったのだ。病人が集められている場所に近づくにつれ、舟木は異臭を感じ、眩暈を覚えた。病人に何度か接した事はあるが、そのとき感じた臭いを何倍、何十倍にもしたもので、歩いているだけで倒れそうになった。通りには何人か倒れていて、息を引き取っている。みな、全身に白い砂をつけおり、陽の光で輝いていたので、とても死体には見えなかった。看病する者たちも全身に白い砂をつけて歩いている。生きている者が白い砂をつけていると、逆に生きている者には見えなかった。舟木には生きている者と死んでいる者の差がわからなかった。ここを訪れる者たちは、全員、感染の覚悟を決めていた。そこまでして看病や見舞いをする村人は少数であり、みなここには近づかなかった。村人同士の間にあった強固な連帯感は既に失われていた。
 舟木は病人が押し込められている小屋の一つを開けると、反射的に目を反らした。薄闇の中、ゴザの上に病人が魚のように乗せられている。壁板は反り返り穴が開いていて、陽の光が射し、浜辺が見えた。壁や天井からの光を顔に受けても瞬きすらしない者たちは、みな死んでいた。舟木は貝塚がどこに寝ているのかわからなかったので、病人の合間をゆっくりと歩きながら、一人一人の顔を確認した。みな発疹まみれで髭も伸ばし放題なので判別が難しかった。舟木はやがて、貝塚そっくりの男を見つけた。天井の亀裂から注ぐ強烈な線状の陽光が髭だらけの口や眼球にかかり、白目が透明になるほどだったが、男は瞬きひとつせず天井を見据えていて、赤黒いイモリが男の開け放たれた口の周囲をうろうろと這い回り、薄闇と陽光の間を行き来している。貝塚が死んだのかと息を飲んだとき、二つ隣の病人が弱々しく手を挙げた。それが貝塚だった。髭は伸び放題になり全身はやせ細っていた。発疹だらけのその顔を見ても一瞬誰だかわからなかった。死んでいた男の方が、元気なころの貝塚に似ていたほどだ。舟木は悪臭のせいで上手く呼吸できなかったので、喋るのもしんどかった。さらにしんどかったのは、彼らの痛みを感じてしまう事だった。僧侶の時と同様に、彼らの思考や痛みが身体の中に入り込んでくる。天井を見上げると、隙間から青空が見えた。埃が陽光の中で輝きながら舞っている。彼らは、一日中こんなところで天井ばかり見上げているのか、と舟木は嘆息した。感染すれば、ここに仲間入りするしかないが舟木はそんな事は気にならず、ただ心が痛んだ。貝塚は舟木に気づくと、枯れ枝のような手を伸ばしてきた。舟木はどうする事も出来ずに手を握る。握りごたえがなさ過ぎて、腕の中には肉も骨も何も入っていないと思えた。これが人間の手かと戸惑い、確かめるように貝塚の目を見た。生気がまるでなかった。淀んだ泥水をそのまま眼底に流し込み、並々と満たしたようである。何故こんな事になってしまったのかとただ悔しくて、舟木は涙を流した。ほんの少し前までは、生命にあふれていた。こんな状態の貝塚に対して、きっとよくなる、などとは言えなかった。
「坊さんは、どうしている?」
 貝塚が訪ねたので、舟木は少し驚いた。水は欠かさず与えているが、村がこんな状態なのでそれほど構っていられるわけではない。舟木は僧侶の事は頭の片隅にとどめておく程度になっていた。貝塚も同じなのかと思っていたが、開口一番にこの話題を持ち出すところをみると、常に僧侶の件が頭にあったようだ。
「まだ目を覚まさない」
 僧侶は相変わらずだった。ずっと念仏のようなものを唱えている。夢の中では極楽にいると信じているのだろう。舟木には不憫だった。もし、目を覚ましたならば、極楽ではなく疫病が蔓延する地獄にいる事を自覚するだろう。極楽から地獄である。単に地獄に落とされるよりも数段こたえるだろう。
「覚ましそうか?」
 質問する貝塚の目に、にぶい光らしきものが宿った気がした。舟木は貝塚の考えを理解した。
「いいや。深い眠りについている」
 貝塚はあの僧侶が心の支えになってくれると信じているようだった。
「なんとか、あの坊さんを起こしてくれ」
「起こしたところでどうするんだ?」
「俺たちの、心の支えになってもらいたい」
 この海岸一帯は平和すぎた。だから神仏は完全に廃れていた。過酷な現実に立ち向かうための心の支えは何もなかった。何にすがってよいのか、誰もがわからなかった。
「あの坊さんは、あのままいかせてやろう」
 舟木の言葉を聞いて貝塚の目の色が変わった。貝塚がこと切れたのではないかと舟木は驚き、頬を軽く叩く。死んだ魚のように冷たかった。
「なんだって?」
「もう、老いて先も短い」
 僧侶は衰弱し、もはや呼吸と嚥下、そして誰も聞いていない読経をするだけの存在だ。無理に目を覚まさせたところで、苦痛の生が待っているだけだと舟木は考えていた。
「目覚めさせたところで、何も出来ないだろう」
「お前は、病にかかってないから、そんな事が言えるんだ」
 病に侵された者とは思えないほど、貝塚は力強く首を振る。
「お前に俺たちの気持ちがわかるか? 藁にもすがりたくなる気持ちが」
 小屋の中に沈黙が訪れた。貝塚は必死になるあまり、目の前の人物が伝人である舟木という事すら忘れているようだ。貝塚の中では、衰弱して死を待つ者を無下に扱う者。最後の提案にすら反対する冷血な男なのだろう。淀んだ空気を撹拌するように舟木は首を振る。
「……ここ最近はよくない。あの坊さんはどうやっても目は覚まさないだろうし、もう長くはない」
 舟木は顔を伏せたまま貝塚の目を見なかった。見抜かれる事を危惧した。あらゆる部分が衰弱しているが、舟木の嘘を見抜く程度の認識力は、まだ十分備わっていると考えていた。発見した当初よりもやや衰弱しているが、僧侶にはまだ生命は十分に残っていた。蘇生の方法も見つけ出していた。僧侶の心に目覚めるよう訴えかけると、僧侶は読経を止め、大きく息を吐いた。より強い訴えかけを何度も繰り返せば、きっと僧侶は目を覚ますだろう。
「それならば……」
 舟木の絶望的な報告にしばらく呆気にとられたが、急き立てられるように貝塚は懐から何かを取り出した。銛の先端だった。漁では使わない。お守りとして貝塚が肌身は出さず持っていたものだ。こんな様になっても持っていたのかと舟木は驚いた。お守りであるので、刃を摩耗させ、刃物としては使い物にならないようにしていたはずだが、差し出されたそれは、貝塚の生命を吸い取ったかのように、鋭く研ぎ澄まされ、にぶい光を放っている。舟木は貝塚の傍らに置いてある不自然に削れた石を見て、ほぼ最後の力を振り絞って研いでいたのだと理解した。
「手を開け……」
 貝塚は細い手を伸ばし、矢じりを開かれた舟木の掌に落とす。冷たかった。まるで大きな水滴が掌に落ちたようだった。舟木は慎重に先端に触れた。病身の貝塚による雑な研磨なので、滑らかな切っ先とは言いがたかったが殺傷力は十分である。舟木は手を震わせながら矢じりを握りこんだ。これで、自分を殺してくれ、お前の手で全てを終わらせてくれ、という意味かと思っていたが、貝塚の目を見て考えを改めた。まだ生への執着が漲っていた。
「あの坊さんを殺せっていうのか?」
「ああ、あいつがいると、俺たちまでつらくなる」
 貝塚が発した言葉が合図であるかのように、周囲の病人たちの何人かが身を捻り、顔を舟木に向けた。淀んだ目で舟木を見つめながらゆっくりと頷く。気圧され舟木は息を飲む。つまり、彼らも貝塚と同意見という事だ。貝塚が話したのだろう。僧侶の存在をみな知っているらしい。もう長くないと知ってなお、舟木が行動する事を望んでいる。下手な希望は苦痛のもとであり、いますぐにでも消してほしいと思っているのだろう。
「一日も早く、頼む」
 舟木はただ哀しかった。快活で生命力の塊のようであった貝塚の最後の行動が、人を殺めるための行動なのかと。
 
 舟木は銛の切っ先を手に神社へと向かった。空気はからりと乾いていた。冷や汗が止まらない。石段を昇る途中、浜辺を見た。ハマボウが輝き、白い浜に松の木の影が焼き付くようだった。空色の浅瀬は透き通っていて、二匹の海豚が海底に鰭まで写るくっきりとした影をつけながら、水面に波紋を起こさず飛ぶように泳いでいる。海豚の近くにある取り残された筏はまるで空に浮いているようだった。海岸と逆方向に目を向けると、村が見え、舟木を陰鬱な気分にさせる。行きかう人々の姿は見えず、すっかりと静まり返っていた。疫病はいつか去るのだろうが、それまでの苦難、そして崩壊した村人同士の絆を繕う途方もない時間を考えると、やり切れない気持ちになった。神社に近づくにつれ石段を登る動作が緩慢になる。舟木の頭に流れ込んできた僧侶の意識、その記憶が鮮明になった。僧侶が船に乗った土地は今のこの村と同じぐらいの酷いありさまだった。飢えや疫病。いくさ。そのたびに舟木はここが奇跡のような土地だったのだと知るのだ。過酷な世界を見てきた僧侶だが、自身の最期は幸福なものだと考えているようだ。あらゆる業を背負い、自分は極楽に行くのだ。僧侶はそう思ってあの船に乗ったのだ。本人の意思を聞くまでもなかった。このままあの世に送ってやるのが一番だと舟木は考えていた。もし、疫病がなかったら、ここを極楽と偽り、住んでもらう事も考えたいたが、今やその考えは捨てていた。
 階段を昇りきり、鯨の大顎の骨をくぐると、社の中に入った。小便の臭いがしたが、読経のような言葉を聴くと、それを忘れた。言葉と物音の間にある何かだ。僧侶の口から発せられる音を聴いていると心が安らいだ。死ぬのが幸福という事がありうる。舟木は自分自身に言い聞かせながら、僧侶を凝視したまま、ゆっくりと壁を背に歩く。粗末な社だった。天井に穴が開いていて、外の光が差し込んでいる。顔に線状の陽光が注がれているが僧侶の口はゆっくりと動いている。貝塚達のもとに行っていたので鼻が麻痺していた。ここも酷い悪臭がするはずだったが、全く何も感じなかった。舟木は今にも崩れそうな壁を背に座った。壁の隙間から波の音が漏れ聴こえ潮の香りが侵入する。頭を抱えた。どうすれば良いのか考えても何も頭に浮かばなかった。ここで死んでもらう事が、はたして良い事なのか、わからなかったが、舟木としては、僧侶を目覚めさせたくなかった。このまま逝きたいでしょう、と心の中で僧侶に語りかけてみた。僧侶がここに流されてきた時に感じた想念。それがくっきりと思い出された。僧侶が以前いた土地。そこは荒々しい海と、深い山がそびえる土地で、雨が降ると土砂が山からなだれ落ちてきた。じっとりとした肌まで染み入るような湿り気が伝わってる。山でほとんど空が見えない。舟木の生まれた房州には高い山はほとんどないので真逆だった。僧侶が生まれた村では疫病が流行っていた。今、舟木の村で流行っている疫病とそっくりだった。僧侶は仏の道へと入り、山の中、深い森の中へと入っていった。村を何度も救おうと思ったが、その願いは果たされなかった。僧侶は疲れを感じていた。年月だけが過ぎていった。やがて船に乗り極楽へ流される時が来ると、心の底から安らぎを感じた。この儀式から逃げ出した僧侶もいたと聞いたとき、なぜそんな事をするのか僧侶には信じられなかった。この世から逃れられる。もう全てが終わる。そして仏になって、この世を見守る。それの何が辛いのだろうか、と不思議に思った。僧侶の心を知ってしまったので、舟木はどうしても僧侶を目覚めさせる事が出来なかった。
 迷っていると、そのまま夜となった。社の壁の間から、月明かりに照らされた砂浜が見える。今日は珍しく誰も焼かれていない。そのとき、舟木は声を聞いた。構わない。舟木は顔を上げた。お前が望むのならば、私はもう一度、極楽から現世に戻ってきてもよい。それが僧侶の心の言葉だと思ったが、自身の妄想かもしれなかった。あんたは、もう楽になってくれ。舟木は懐から矢じりを取り出し、じりじりと僧侶に歩み寄った。海岸からは波の音だけが聴こえる。近くによればよるほど、僧侶の発する音はくっきりと耳に刻み込まれる。僧侶の顔は安らぎに満ちていた。舟木には、どうしても出来なかった。矢じりを放り出し、神社から走り出した。舟木はそのまま貝塚の元へと向かった。混乱していたが、夜風の心地よさがはっきりと認識できた。混乱が少しおさまると、良い考えが浮かんだ。殺した事にしようと思った。実際は、僧侶に旅の続きをしてもらおうとした。また別の土地で誰かに拾われるかもしれないが、舟木には関係のない事だ。貝塚が安らぐ顔が頭に浮かんだ。
 小屋に飛び込み、貝塚に声をかけると、貝塚はもう死んでいた。ゆすっても何の反応も返さない。絶望にかられ、もう一度大声で呼びかけた。周囲で目を覚まし、身じろぎした病人はほとんどいない。昼に来た時、生きていた者の多くも息を引き取ったのだろう。舟木は弾かれるように小屋の外へと飛び出すと、泣き叫びながら神社へと向かった。僧侶に目を覚ましてほしかった。他の誰かではない、自分を救ってほしかった。自分のために、他人にまた苦しみを与えるのか、と舟木は自分に反問した。きっと、僧侶は苦しみを引き受け、吸い込む存在だと自分に言い聞かせた。僧侶に心から呼びかけた。自分を救ってほしいと呼びかけた。すると、僧侶はゆっくりと目を開けた。
 僧侶は取り乱す事なく、落ち着いており、首を左右に動かし暗闇に目を這わせている。舟木は涙で言葉が出ずに、ただひれ伏した。そんな舟木を見ても、僧侶は何も言わず、舟木が泣き止み顔を上げるまで待った。

 舟木は心が落ち着くと、経緯を話し始めた。ここが何処で、自分が何者か。ここはあの世ではなく、あなたはまだこの世にいると。僧侶には、舟木が心配していた落胆はなかった。ただ現実を受け止め一つ一つを理解していった。僧侶は自分の身の上を話し始めた。やはり、紀州から流され、この房州にたどり着いたという。それは渡海という行で、西の極楽へ生きたまま流される捨身行である。この村の状況を話すと、僧侶は村人のために働きたいと言った。本当は自分を救ってほしかったのだが、舟木はその考えを恥じ、本心は胸の奥底に封じ込めた。僧侶が八十だというので舟木は驚いた。僧侶はすぐに立ち上がる事が出来なかった。高齢である。しかも船に揺られ、この神社に連れてこられてからも、ずっと眠っていたので、無理はなかった。長い時間をかけて、何とか立ち上がる事ができても、今度は歩くまで時間がかかった。その姿が舟木には不憫だった。人生の終わりで、また赤子の時に行った事をしなければならない。だが、杖を使いよろめきながらも自分の足で歩く僧侶を見ると、舟木は人間の生命の力に感じ入り、言葉にならない衝撃を受けた。神社から降りられるようになると、僧侶は村の各所にあるすっかり廃れた祠などを見て回った。それは僧侶の生まれた紀州で見られた祠と同じものらしく、多くの者たちが、漁の途中で流され、ここに来たのだろう、と僧侶は語った。それを証拠立てるものの一つに地名があった。この村と同じ名前の村が紀州にもあるという事だった。僧侶は廃れた祠を再生させ、舟木とともに病人の元を訪れて回った。その際、舟木は本物の読経を知り、僧侶が眠っていた時に発していた言葉は読経ではなかったと知った。坊主に何が出来ると悪態をつく者もいたが、たいていの病人の顔には僅かだが穏やかな表情が戻った。疫病は去りつつあった。徹底的な隔離を行った段階で疫病の脅威は去っていた。村人が安堵の表情で口にする解決という言葉を聞くたびに、舟木は唇を噛んだ。解決とは疫病が感染したものが全て死に絶える事だった。結局、誰も病を治療する事は出来なかった。疫病の流行末期において、新たな感染者は二、三人程度で、その中には僧侶も含まれていた。僧侶は繕っていたが、伝人である舟木には、僧侶の苦痛は十分に伝わった。舟木は罪悪感を感じるとともに気丈に振る舞う精神力に驚かされた。自分を恨んでいるか、と舟木は聞いた。舟木が目覚めさせていなければ、味わう事はなかった苦痛である。舟木がもたらした苦痛といっても過言ではなかった。恨んでいない、と僧侶は答えた。そして、死んでなければ生きるだけだと言った。
 僧侶はやがて力尽き、浜辺で焼かれた。死の間際、舟木は村人を救うために目覚めさせたのではなく、自分を救ってほしかったと告白した。病状の進んだ僧侶はもはや反応出来なかった。僧侶から受けた言葉にならない衝撃、感情を受け継がなければならない、伝えなければならないと思い、舟木はそのまま僧侶となった。何をしてよいのかわからず。僧侶の行っていた事をそっくりそのまま行った。僧侶のとなえた経を読み、僧侶の考えを説いた。まるで僧侶の生き写し。死んで生まれ変わり、自分というものが消えて無くなった気がしたが、それが自分の生きる道だと思った。
 それから多くの年月が流れ、大漁祭の前日に、舟木は死んで、浜辺で焼かれた。村人は総出で舟木を弔った。過去の惨事を知らぬ者たちも多かった。翌日は大漁祭を控えていたので、酒を飲み浮かれる者もいて、当時を知る老人にたしなめられる一幕もあった。僧侶と同じ八十歳だった。僧侶と舟木の名は村の外にも伝わっていた。舟木の仕草、喋り方など、何から何まで僧侶と同じだったので、この浜辺の村には恐ろしく長寿の僧侶がいる、と村の外には、勘違いするものもいた。
 その日は、僧侶が流れて来たあの夏の日と同じように、浜辺にはハマボウが咲き乱れていた。

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