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エキゾチカ

 それは、天国への梯子ではなかった。
 三月の青空に向かって伸びるクレーンだった。
 吾郎は車を走らせながら空を見上げている。静かだった。距離はあったが、クレーンの軋みがはっきりと聴こえた。自分の耳、もっと言えば鼓膜には自信があった。幼いころから鋭かったし、音は何でも記憶出来た。ある時、病院で自分の鼓膜を見た事がある。ライトを浴び、モニターに映し出された鼓膜は、白と灰色の中間の柔らかい色をしていて、陽を浴びた擦り硝子か障子のようで、その向こう側に行きたいと思った。綺麗な鼓膜だ、と医者が褒めたほどだ。
 六十歳になっても聴力は衰えなかった。天に向かって伸びる何かを見て、天国を連想しその先に死を連想するのは年齢のせいだと思った。若い頃なら天国とは終点ではなく、もっと別のものだと考えていた。天国とは彼にとって楽園と同義だった。楽園にいた時期、自分にも輝いていた時期があるはずだ、と思うのだが、写真を撮ったり日記をつける趣味はないし、当時の知り合いは誰もいないので、それを証明する事は出来ない。記憶だけでは頼りない。人が記録をつける理由が吾郎には理解できた。記憶だけであると、本当にそんな時期があったのか自分を疑うようになる。誰でも人生の後半になって自分を疑いたくはない。
 吾郎の目の前には輝く白線がどこまでも伸びる。 
 空には雲ひとつなく、橙色と白に塗られたクレーンの先端が陽の光で輝いている。
 車は吾郎の茶色いローバーミニを除いて一台も走っていない。道路の脇には橙色のフェンスで区切られた空き地が見える。クレーンはイオンモールの建設資材を持ち上げている。ここを中心にニュータウンを建設するらしい。ふと地上に目線を落とすと、雑草の中に近代的な白い建物が見えた。運賃がやたらと高い沿線の駅舎なのだが、目立つばかりで風景に全く溶け込んでいない。駅舎の前に二十歳ぐらいの女性が立っていた。長い黒髪で地味な容貌だが背筋がぴんと伸びていて、陽光が薄手の白いコートに反射していた。直感的に、あの女に似ている、と吾郎は思ったが、血縁者であるという可能性は考えなかった。あの女と血の繋がった者がいるとは思えない。あらゆる血縁から切り離されており、子供はおろか親すらいないのではないかと思える。闇の中に、ある日ぽつんと現れ、人知れず消えた。そんな人間はいるわけはないのだが、吾郎の中では今でもそういう存在だ。彼女はバスを待っているらしく時計を見ている。吾郎は車を回してローターリーの中に入り彼女の前に止まると、車から降りた。
「もしかして、バイトの人?」
 それだけで通じた。この土地でバイトと言えばあの場所しかない。彼女は頷いたが、少しばつの悪そうな顔をしている。迎えの車が来る段取りを、聞き逃したと思っているのだろう。
「スタッフだよ。地中海ホテルの」
 吾郎が手を差し出すと彼女は吾郎の手を握った。悲鳴を上げたくなるほど冷たい手だった。吾郎は女性の手を握るとき、包み込むように握ってしまう。しまったと思ったが、遅かった。指に対する潜在的な自信が起因の悪癖だ。指の細さと長さだけは年齢を重ねても変化しない。だからこの年齢になってもそれは治らなかったが、幸い彼女は何も感じていないようだった。
「案内係が入ったって聞いて、もしかして、と思って」
 奈美と言うその娘は、特に警戒もせず吾郎の車に乗ってきた。怪しい雰囲気は何もないので無理もないが、少しばかり警戒した方が良いのではないかと思った。奈美のほうが吾郎よりやや体格が大きいので、自信があったのかもしれないし、吾郎の弱々しい雰囲気に安心したのかもしれない。確かに吾郎は暴力が嫌いだ。指は簡単に折れる事を知っていた。大学の頃、ピアノを殴って、折れた小指の骨が外に飛び出た事がある。視覚的には強烈だったが、後遺症は残らず、傷跡も殆ど残らなかった。ピアノも元通り弾けた。
「三月で卒業だって?」
 吾郎が質問する。地中海ホテルまでは荒地が続く。見るべき景色など何もないので、あたり障りのない会話をするしかない。
「ええ、ひと月だけバイトで……。四月からは就職します」
 新社会人。言われてみればそんな印象だった。整えられた黒髪からは何の主張も感じられない。初々しいが、人の気に障る可能性のある刺々しいもの全てを剃り落したような印象も受ける。ホテル専門学校を卒業するらしく、就職先もホテル業界だという。彼女にはきっと適性があるのだろう、と吾郎は思った。張りがある声と穏やかな喋りは人を心地良くさせる。声だけではなく性格も業界向けだろう。生来の性格に負うところもあるだろうが、屈折が感じられない。二十歳か、と吾郎が呟くと、奈美はちらりと吾郎の顔を盗み見た。吾郎は勘が良いほうではないが、何を言いたいのかは察した。
「俺かい?……。六十歳だよ」
「ええ? 全然見えないですよ」
 大げさな反応だったが、悪い気はしなかった。見た目より若いという自覚はあったし、なにより彼女の声は意識とは無関係に人を心地よくする。この年齢まで来るのはあっと言う間であったが、それは言いたくなかった。未来ある新社会人はそれを教訓としてとらないかもしれない。吾郎の中に記憶は無数にある。ピアノ講師として働いた記憶。楽器販売員として働いた記憶。年齢に比例して記憶量は増えるが、ひとつひとつの出来事の重みは確実に軽くなっていく。今までの出来事は、ここ一週間で起こった事と言われても、信じてしまいそうになる。 
「卒業旅行とかはいいのかい?」
「ああ、もう行きましたよ」
「どこ?」
「クロアチア」
「へえ、クロアチアね」
「地中海を見てきました」
「アドリア海も地中海だったっけな?」
「どうでしたかね……」
 吾郎は海外に行った事がない。それどころか関東の狭い範囲を行ったり来たりだ。だからと言って自分の見識が狭いとは思わない。色々なものを見すぎるほど見てきたと思う。それを誇りとも思わないが余計な体験だったとも思わない。
「本物の地中海を見た後だと、がっかりするだろ」
「え、何がですか?」
「地中海ホテルがさ」
「ふふ……」
 奈美は曖昧な笑みを浮かべ答えを濁した。本音はわからないが吾郎が感じた実物と名前の落差を彼女も感じたと考えて間違いないだろう。地中海ホテルは、地中海を思わせるホテルという意味だ。吾郎は一年間ピアノ弾きとして仕事している。安いホテルだった。鉄筋コンクリート造りの近代建築だが、表面にレンガや石垣を思わせるパネルを張り付けている。ホテルと言われているが宿泊施設としてよりも、主に結婚式場として使われている。薄い橙色のペンキで塗られた尖塔には大きな鐘がついているが、実際には機能していない。ここぞという場面では、備え付きのスピーカーから録音した鐘の音が鳴る。ただ、ホテル正面には東京湾が開けていて、地中海には劣るがなかなかの眺めである。吾郎はそこで結婚式の定番曲を電子ピアノで弾く。参加者の気分を高めるためか、パイプオルガンのようなセットの脇で弾かせられている。正直、この仕事は音大卒である必要はないと吾郎は思う。どれも簡単な曲だ。三週間時間をくれれば経験のないスタッフでも弾けるように出来る自信はある。もちろん、そんな事をするつもりはない。ホテル側がこの仕事に価値があると信じているなら問題ない。吾郎はただ給料をもらうだけだ。
「……エキゾチカ」
 奈美の言葉に吾郎は息を飲んだ。吾郎は彼女の話に意識を向けていなかったので、どうしてその言葉が現れたのかわからなかった。吾郎は奈美の微笑みを見た。奈美の表情はあの女とそっくりだった。感覚が昂ぶり、少し気分が悪くなり窓を開けた。窓の外から青臭い雑草と土の匂いがした。奈美は自分を取り巻く全ての記憶を知っているのではないかと思った。過去そのものが話しかけてきたような感覚は、吾郎から現在のあらゆる感情を奪った。
「どうしたんですか?」
 顔色の変化を気遣う彼女の表情は、もうあの女の表情ではない。何の屈折も感じさせない二十歳の女子大生のものだった。
「なに? エキゾチカって」
「地中海ホテルって、昔はそういう名前だったらしいです。五年前に出来て、二年前までそういう名前だったらしいです」
 初めて聞く事実だった。とにかく、三十年ぶりにあの言葉を聴いた。彼女の言葉に引きずり込まれ、過去の記憶に引き合わされる。それは苦くも甘くもない。ただ強烈な記憶として、吾郎の神経の奥に眠っていた。

 三十年前。一九八八年。東京某所。
 八月の熱は夕時の今でも残る。空は藍色に染まり、ビルの紅い航空灯は息遣いのような点滅を繰り返す。吾郎は煙草をアスファルトに捨てた。目の前には東京湾が見える。海に浮かぶブイが海を部分的に照らす。南から迫る雨雲が湿気を運んでくる。建設途中の高層ビルの屋上にあるクレーンは低い雲に隠れていて、先端が見えなくなっている。吾郎は海に背を向けると、少しの間離れていた職場に戻ろうとした。店の看板には青いネオンでexocica(エキゾチカ)と書かれている。異国情緒という意味だ。看板に偽りはない。中に入ればそれを味わう事が出来る。薄暗い店内には赤や青のネオンが蔓のように張り巡らされ、笑い声、叫び声が聞こえる。店内にはポワゾンと呼ばれる香水の匂いが満ちていたが、その芳香の中に得体のしれない生臭い匂いが混じっている。恐らく小便や嘔吐物の匂いであり、酒の匂いである。この店は金持ちしか来ないが、時々、彼らの行儀が悪くなる。二階建ての店内は吹き抜けになっていて、天井には天窓がついている。店の中央には、水底が紫色にライトアップされた噴水があり、周囲には熱帯雨林を連想させる植物がある。どれもがプラスチックで作られたこの世には存在しない熱帯植物である。だが皆それで納得している。皆の頭の中にある抽象的な熱帯植物を忠実に表現している。植物の合間を縫って、テーブルが無秩序を装って配置されている。店の端にはピアノとカウンター付きのバーが見える。午後の七時でこの騒ぎだ。時間が過ぎるにつれ、もっと煩くなる。吾郎はピアノの前に座った。見栄えするように外見はグラウンドピアノだが、中身は電子ピアノで、音量音色を自在に変更できるし調弦の必要もない。便利な楽器だが、いかにも紛い物という感じで、本物に慣れていると、どうにも弾きにくかった。吾郎は背筋を伸ばしてボサノバを演奏し始めた。別に誰も見ていないし、期待もしていない。客はお喋りをやめない。南国を連想させる曲なら何でも良かった。吾郎が演奏をしている間、人々の動きは何も変わらない。
「吾郎君、吾郎君」
 演奏を終えると吾郎は店長に呼ばれた。吾郎と同じくタキシードを着こんでいて、スキンヘッドで両耳にピアスをしている。店長は噴水の近くのテーブルを指さした。どうしたのか、と聞くと、ピアノが気に入ったらしい、と店長は囁いた。熱帯植物で見えにくかったが、一人の中年男と若い女性がテーブルに座っている。二人とも、赤いライトで毒々しく染まっている。誰ですか、と聞くと、店長は有名な建築家よ、と答えた。隣は? と尋ねると、さあね、と店長は答えた。行かなければまずいですか、と尋ねると、他にやる事はないでしょ、と店長は答え、去っていた。確かに、一時間おきに誰も聴いていない演奏をしていれば良いのだ。今は他にする事などない。吾郎のピアノを聴いているものは誰もいない、という考えは訂正した。あのテーブルの客は聴いていた、と考えると悪い気はしない。
 吾郎はテーブルに近づいた。建築家と店長が呼んでいた男は、ベルサーチのスーツを着ていて恰幅が良かった。女の方は黒いエナメルの服を着ていたので、ライトが反射して表面に赤や青の光沢を帯びている。金髪の長髪で痩せ形で青白い。顔つきから日本人である事はわかった。良かったよ、と男は言って、男の正面の席を指し示す。あまり好きな風貌ではない、と吾郎は思ったので、簡単な挨拶して帰ろうと思っていたのだが、そうもいかないようだ。香ばしい匂いがした。男の前には白い皿があり、茶色い炒めた米が持ってある。米には少し縁が焦げた目玉焼きが乗っていて、皿の端にはスライスしたトマトとバジルの葉が見える。確かマレーシア料理のナシゴレンという。インドネシアの炒飯みたいなものだ。吾郎も好きだがこんな薄暗いところでは食う気がしない。皿の隣にはグラスに青い液体が注がれている。おそらくチャイナブルーだろう。女の前には、赤いライトを帯びる透明な灰皿と吸殻しかなかった。何か食うか、と男が私に聞いてきたので、私も煙草だけ、と吾郎は答えた。男は煙草を吸わないようだ。吸ってよろしければ、と付け加えた。もう女が吸っているので、聞く必要はないのだが、やはり二人分の煙はきついだろうと気を使った。煙草の煙が飯を不味くすると思うのかね、と男が訪ねた。もっと飯をまずくするものがある、と男が言ったので、吾郎は、何でしょう、と訪ねた。他人の飯だよ。あれを注文しておけば良かったと思いながら食う飯は最悪だろう。そう言って男は笑った。吾郎は反応を保留した。自分の態度がいちいち試されているようでやりにくかった。そんな空気を察したのか、建築家は芸術家同士、仲良くしよう、と言って馴れ馴れしく片目を瞑る。もちろん冗談だろうが、それでも吾郎は思わず吹き出しそうになった。この建築家が何者かは知らないが、少なくても自分はただのピアノ弾きであり、芸術家などではない。音大には行けたが、何も自分では生み出せなかった。耳だけは良く、器用に曲を弾くことは出来た。指の長さと細さはピアニスト向きだと思うが、それは錯覚だった。昔は身体的な才能と内面の才能は同じだと考えていたのだ。どちらかが欠けているものがいるなどと、想像もしなかった。
「何を創ってらっしゃるんです?」
 この建築家とは何の共通点もない。吾郎は仕方なく当たり障りのない話を振る。店長が遠目から様子を伺っている。建築家が上客なのは理解している。怒らせるような真似はしたくないが自信はない。吾郎は半笑いで、大丈夫だ、というように片手を上げる。店長は口角を上げ、親指を上げる。
「今は都市計画に関わっている」
「都市計画?」
「東京湾に新しい島を作るんだよ」
 景気が良い事は誰でも知っている。だが、新しい陸地を作るほどの金が唸っている事を知っているものは少ないだろう。
「……へえ、それは凄いですね」
 吾郎はただのピアノ弾きだ。それ以外に何の感想も言いようがない。その計画により新しい仕事でも増えればよいのだが、そうでなければどうでもよい。それより、自分とは何の共通点もないこの男がどうして自分のピアノを気に入ったのかが気になった。吾郎にとっては、国家規模の都市計画より、そちらの方が興味深い。吾郎は気持ちを込めて演奏した覚えはない。漫然と弾いても、自然と音に魅力が籠ってしまうようなピアニストもいるが、自分にはそんな才能もない。そもそも自分は、ピアニストがピアノを弾いている、という事実を作り出す目的で店に雇われたと思っている。吾郎は話を聞き流しながら、女性を見ていた。建築家がなかなか女性の紹介をしない事が気になった。
「……東京には土地がない。だから新しく創るしかないんだ」
 吾郎の気のない返事にも、気を悪くしなかったらしく、建築家は淡々と壮大な計画を話し続ける。吾郎は女性の表情を伺った。無表情でひたすら煙草だけ吸っている。建築家が彼女のどこに興味を持ったのかが気になる。この男のような客はいくらでもいるが、こんな不愛想な女を連れているのはこの男ぐらいなものだ。
「……絵里だよ」
 吾郎が壮大な計画に興味がない事に気づき、建築家は女性を紹介した。気を悪くしている様子はない。むしろ満足気な笑みすら浮かべている。自分が関わる計画は、たかがピアノ弾きには理解できないほど素晴らしいものだったと、再認識したらしい。
「絵里はあまり心を開かないんだ。気を悪くしないでくれよ」
 建築家は女性の態度を詫びたが、もう遅かった。絵里の不愛想な態度に、吾郎は少し気を悪くしたばかりだった。
「でね、最近、思うんだよ」
 建築家は嘗め回すように絵里を眺める。吾郎に見せびらかすためではないだろう。吾郎の反応は全く気にしていない。この男は絵里が自分の所有物であると確認する時間が、心から好きなのだろうと吾郎は感じ取り、げんなりした。
「絵里は心を開かないんじゃなくて、そう、心がないんじゃないかってな」
 吾郎にはどうでも良い話であった。彼女が心を閉じていようがなかろうが、どうでもよかった。それよりも休憩時間を使わせてほしかった。またしばらくしたらブラジルの音楽を弾かなければならないし、建築家の思わせぶりな態度にはすっかり飽きていた。外で煙草を吸っていたほうがはるかにマシだった。
「……そこで君に頼みがあるんだが」
 身を乗り出した建築家に対して、吾郎は逃げ腰になる。嫌な予感しかしなかった。
「彼女に心があるって証明してくれ」
「心……ですか?」
「もしあるなら、どうすれば開けるのか教えてほしい」
 建築家はそれが当然というように吾郎に仕事を命じた。
「なぜ私なんです?」
「絵里がね、君のピアノに反応したように見えたんだよ」
 悪い気はしなかった。建築家に対する優越感も覚えた。同時にこの男に劣等感を抱いていた事に気づかされ、軽い自己嫌悪を覚えた。吾郎は絵里の細長い煙草がじっとりと燃え進む様を眺めた。ピアノに対して好感は持ってくれたようだが、吾郎の視線に気づかないかのように振る舞う絵里には好感を持てなかった。吾郎のピアノが好きならば好きといえばよい。そうすれば、休憩時間を返上して一曲弾くぐらいの事はしてやるつもりだった。
「お断りします」
「何でだね?」
 吾郎が断りを入れると、建築家はさも心外といった表情で首をかしげる。好感の持てない女の心を開くなど、出来そうにもなかった。そもそも何をすれば良いのかさっぱりわからない。彼女が感涙するまで、ピアノを弾き続ければ良いのだろうか。もしそうなら、指が痙攣するまで弾かなくてはならないだろう。それほどまでに、彼女は表情を顔に出さない。
 この妙な計画には彼女も当然反対すると思っていた。彼女は自分自身にすら無関心に見える。心があると証明してほしがっているとは、とても思えなかった。だが、絵里は意外な事を言った。
「……私からもお願いします」
 考えてみれば変なお願いだ。彼女には自分の心がわからないのだろうか、と吾郎は首をひねる。 
「よし、決まったな」
 吾郎の気持ちも聞かず、建築家は両手を自らの胸の前で一回だけ大げさに叩く。
「さて、後は若いお二人に」
 吾郎が何か言おうとすると、建築家は笑いながら席を立った。
「都市計画の話。興味があればいつでも聞かせるよ」
 建築家は吾郎の後ろに回り込み、馴れ馴れしく両肩に手を置くが、吾郎は悪い気分にならなかった。むしろ大きな仕事を任されたような気分になり、建築家の人心掌握の上手さに舌を巻いた。建築家が行ってしまうとテーブルには二人だけが残された。
「……ごねると面倒くさいよ」
 助けてやった、と言わんばかりの態度で絵里は言った。どう面倒くさいのか、わからない吾郎にとっては、厄介ごとに巻き込んでくれたとしか思えなかった。
「ピアノが気に入ったって本当?」
 絵里は首を振る。吾郎は煙草を消した。絵里は曲自体が気に入った、と言った。つまり、誰が弾いても良かったわけだ。
「異国情緒があったから」
 吾郎は手を頭の後ろにやり、足を投げ出し椅子に寄りかかる。やはり、自分のピアノ演奏自体には魅力はなかったと悟った。ずいぶん前に理解していたはずだが、まだ自分に期待していた事に気づき吾郎は少し顔を赤らめた。
「異国かあ」
 彼女が言う異国情緒が何をさすのかわからないが、ボサノバを聴いてそういった感想を抱く人は少なくない。過去に一度も行った事がない場所に対する郷愁。それが異国情緒の正体だと吾郎は思っていた。ボサノバに激しいリズムはない。穏やかなリズムがあり、複雑かつ心地よいコード進行がある。吾郎はこのブラジルの音楽が好きだが、ブラジルに行く気はしない。吾郎の頭の中にあるブラジルはこの地球の何処にもない。
「異国に行けるとしたら、何処に行きたい?」
「あのカエルちゃんがいるところがいい」
 絵里は店の端にあるガラスの箱を指さす。中にはヤドクガエルがいる。密林に住む先住民が毒矢の原料に使ったカエルなので、その名がついた。指先でつまめる程度の小さなカエルで、黒いぬめつく皮膚に、赤い絵具で模様を描いたようだ。青と黒の組み合わせもあるし、黄色と黒の組み合わせもある。警告色というものだろうが、皮肉なものだ。人間はそれを警告と受け取らなかった。その鮮やかな模様ゆえに森の宝石と呼ばれ、地球の反対側まで連れてこられるはめになった。店長からはコスタリカ産だと聞いている。なかなかの貴重品らしいので、そこら辺りのカエル捕まえて色を塗ったという客もいたが、むしろそちらの方が難しいだろう。生き物にあれほど鮮やかに色を塗るなど、神様にしか出来そうにない。
「あのカエルは、コスタリカのものだ」
「それって何処?」
「中南米だ」
「行ってみたい。中南米」
「中南米行ったって何も変わらないよ」
「行ったことあるの?」
 なぜ彼女がヤドクガエルに興味を示したのかはわからない。なぜ、あの毒々しいカエルに異国情緒を感じたのかもわからない。
「……ところで」
「何?」
「あの建築家の人も困ってるみたいだね……」
 ほんの少しのやりとりで、あの建築家の苦悩が理解できた。絵里は表情も言い回しも平坦そのものだった。取り付く島がないとはこの事だった。絵里の身体に対する扱い方を見る限り、身体は完全自分のものにしたと考えているようだが、心の部分はほんの少しも理解できていないらしい。そして、なぜ建築家が彼女に惹きつけられるのかわかった。彼女自身がひとつの謎だった。 
「あんたの本心がわからないって」
 絵里の煙草がじんわりと焦げている。煙草は灰皿に押し付けられて火が消えた。    
「みんなそうでしょ? 他人の本心なんてわからない。信じてるだけ」
 確かに彼女の言うとおりだった。人間はカエルと違って嘘がつける。人の本心を証明する術などない。
「まあ、そうかも知れないけど」
 冷めた女だな、と吾郎は思ったが、彼女の目を見て考えを改めた。態度と裏腹に、彼女の目は冷めてはいなかった。吾郎は絵里に対する興味が湧いた。絵里は人並み外れて真面目なのだと思った。証明できないものをそれらしく提示することは出来ない性格なのだろう。真面目な数学者がいたとして、証明できていない定理を証明できたと偽ることはしないだろう。
「ところで、あなたずっとピアノを?」
「……ああ、うん。そうだよ。本当は作曲家になりたかったんだけどね」
 藝大まで行ってピアノ科を出たのだが、本当は作曲科に行きたかった。幼いころからどんな音でも記憶できる不思議な耳を持っていたし、細くて長い指を持っていたが、肝心の曲が創れなかった。作れないことはないのだが、誰もが納得する心を打つ曲が創れなかった。吾郎は吾郎が考えるところの表層的な曲しか創れなかった。音楽の表層を人より精緻に聴きわけ、指で再現することは出来る。だが、その奥にあるもの伝える事が出来なかった。鼓膜と指はあるが、魂はなかった。
「……なれなかったなあ。小器用なピアニストにしかなれなかった」
「どんな作曲家になりたかったの?」
「さっき弾いた曲の作曲家かなあ」
 ボサノバの父、アントニオカルロスジョビンみたいになりたかったのだ。彼が存命中にもかかわらず、自分は彼の生まれ変わりだと信じてサインの練習までした。吾郎にとって、彼の名が唯一書けるポルトガル語である。それほど強烈に憧れているのに、彼に会いに行こうとは思わなかった。来日公演にも行かなかった。生身の彼を見たくはなかった。あくまで吾郎が共鳴するのは吾郎の頭の中にある彼であり、彼の魂なのだ。生きた人間として、彼に会いたくはなかった。彼の存在、生身の身体は、吾郎の中にある彼を壊してしまう事を吾郎は恐れた。 
「俺は本物の作曲家じゃなかった」
「初めは本物だと思ってたの?」
「まあ、そうだね」
「その自信は何処から来てたの?」
 そう言われると不思議だった。自分がつまらない存在のはずがない、自分が賞賛に値する存在であると、どうして思ってしまったのか、吾郎にはわからなかった。自分が秀でたところのない平凡な存在では、どうして我慢が出来なかったのだろうか。それは、いくら考えてもわからなかった。
「……宗教みたいなものなのかなあ。それはわからない」
 大袈裟とは思わなかった。宗教。それは過去の自分の状態を表す正確な言葉だと思った。自分の信念の不合理性を意識した事は今までなかった。全く根拠のない自信というわけではなかった。吾郎は良い鼓膜を持っていたし、良い指も持っていた。自分を何者かと思っても、それほどおかしな事ではない。ただ、作曲の才能の片鱗を見せられずにいたのに、相変わらず自分を信じ続けていた音大時代は違う。自分を盲信していると言われても仕方がなかった。あの頃は最悪だった。自分自身に必死にしがみついていた記憶。それを教訓として頭に納め、戒めに使う人間もいるのだろうが、吾郎は違った。自分に頼る自分の姿と、信頼に応えようとしない自分の姿が同時に浮かび、ただ吐き気がした。
「こっちが質問していいかい?」
「どうぞ」
「どうしてあんなオヤジとくっついてるの?」
 つい蔑称で呼んでしまったが後悔はない。初対面からそう呼びたくて仕方がなかった。立派な人物かもしれないが吾郎は好きにはなれなかった。自分に対する強烈な信頼が漏れ出しているような人物は好きになれないし、いちいち人を試すような態度も気に食わない。
「長い話ですよ」
 絵里はそう言って、表情を一瞬だけ崩した。だがそれは、心がある証拠にはならない。一瞬だけ表情を偽るなど誰でも出来る事だ。吾郎は人の感情に対して注意深くなっている自分に気づき、少し驚く。
「いいよ。休憩時間は長いんだ」
「小さい頃、父親が出て行って、強度のファザコンになった」
「わかりやすいな」
 長くもなんともない理由であるが、何となく理解できた。絵里の建築家に対する態度は反抗期の子供のような部分があり、すがるような部分がある。冷たくしていれば、いつか気にかけてくれるという心理が見え隠れした。
「父親が出ていった記憶はある。一緒に連れて行ってくれなかった記憶もね。それから母親が宗教に走ってね。私はカトリック系の学校に行ったり」
「置いて行かれた気分って事か」
「そう。とても悲しい気分。信じてくれるの?」
 吾郎は彼女を信じる事、それが当然というように頷いた。もし彼女に虚言癖があるとしても、それを見抜けるまで親しくなっているわけではない。見抜くために努力するのも疲れる。今は彼女を信じる事が心地よかった。
「あんたは一緒に行ってくれる?」
「何処に? コスタリカ?」
「天国」
 彼女の言う天国とは、現世に存在する極楽的な空間の事なのか、それとも死後の世界の事なのか、吾郎にはわからなかった。彼女が少し自己陶酔しているのだと思った。尋ねるのも野暮だと思ったので、態度を保留した。彼女は無表情で手を伸ばして吾郎の黒いサスペンダーを引っ張り離す。絵里は拗ねている。真面目に答えてほしいらしい。そんな事を言われても困る。吾郎は彼女と話していて、今までに経験した事のない疲労を覚えた。少し頭がぼんやりする。吾郎は本物の熱帯雨林にいる気分になった。熱帯雨林など行った事はないが、きっとこんな感じだろう、と思える。錯覚を抱かせるなら、偽物と侮っていたこの店の内装も大したものだと見直し、吾郎は少しにやけた。椅子にしなだれながら、天井を見上げる。絵里は首を傾げた。二人の間の空気はじっとりとしていて、出口が見えない。
「そんなもの、あるかどうかわからないからね」
「私の本心は信じるのに、天国は信じられないの?」
  
 それから絵里は毎日一人で店に来た。建築家はついてこなかった。建築家を引き連れない絵里はひどく不安定に見えた。足取りはしっかりとしていたのだが、何処かへ連れ去るとしたら簡単に出来るだろう。吾郎がブラジルの音楽の演奏を終えると二人はテーブルで話し込んだ。彼女は自分を気に入っているのだろう、と吾郎は思った。そうでなければ、毎日来たりしないし話など聞かないだろう。吾郎は自分の心変わりはいつからだろうか、と思った。どうでも良いと思っていたのに、今では彼女の心を試してみたくて仕方がない。吾郎は絵里に口づけをしてみた。絵里と何回目に会った時なのかわからない。吾郎の心には何の抵抗も無かったし絵里も無言で受け入れた。あらかじめそれが決められたかのように自然な接近だった。絵里からはポワゾンの匂いがした。毒という意味の香水だ。その名の通り摂取すれば身体には悪そうだった。それから地下倉庫に行くと、冷たい床の上で愛し合ったのだ。暗い地下倉庫には電球が一つだけで、熱帯魚やヤドクカエルが入ったガラス箱を橙色に照らしていた。背骨にまで染み入る冷たさに、吾郎は自分が地の底にいると感じた。ふいに絵里の身体には心が入っているのだろうか、と不安になる。
「表にいるカエルちゃんは死にやすい?」
「さあね。たぶんそうじゃないのか」
 ヤドクガエルは大人を死に至らしめる神経毒を持つが、ここでは飾りに使われている。触れたことがないので、無毒化されているかどうかはわからない。単なる装飾のために安くはないヤドクガエルを輸入しているのだろうか、と吾郎は呆れる。ここのピアノ弾きは悪くない給料だった。ヤドクガエルに使う経費を削れば、もっと上げる事も可能だろう、と思ったが、すぐに思い直した。自分にヤドクガエル以上の価値があるのかわからなかった。どちらも部品に過ぎない。熱帯的な雰囲気を出すための装置だ。ヤドクガエルが目当ての客などいないが、ピアノ目当てで来る客もいないだろう。どちらも代替可能だ。どちらが使用不能になったところで、別の小道具を用意するだろう。ピアノが使えなければ、ガットギターかウクレレを持って来るかもしれない。ヤドクガエルがこの世から死滅すれば、オオクチバシかハチドリを持ってくるかもしれない。この店が作り出す雰囲気にとって、これがなければ成り立たない、というものはない。中心はなく、周辺だけがあり、掴みどころのない熱帯雨林的なイメージを作り出している。それが実在しているかどうかなど、どうでも良いのだ。吾郎は自分がその構成要素のひとつである、という事に気づくと、今いる倉庫が自分にはお似合いの場所に思えた。
 ふと絵里の顔を見ると、泣いていた。
 彼女の視線がヤドクガエルに注がれている。カエルの使い捨てに心を揺さぶられている。感情が変な方向に昂ぶっているのだろう。吾郎には予想外の事だった。吾郎はカエルに対する共感など一切出来なかった。同じような境遇にあるが、共感など出来なかった。彼女とは一体化でき、すべてを共用出来たかもしれない、というのは錯覚にすぎなかったようだ、と吾郎は考えた。結局のところ、他人の本心など証明は出来ない、と思い知らされた。
「カエルがかわいそうなら、コスタリカで活動でもしろよ」
 嫉妬交じりにカエルを見つめながら、吾郎は呟く。
「環境保護をするんだよ。カエルの密漁はやめましょう、とかな」
 人と人との繋がりは、どこまでいっても信頼しかない。人を深く信じると、裏切られた時の痛みの大きさに怯える。同時に、天国が実体を伴ったものとして感じられる。 
「私の本心は信じるのに、なぜ天国は信じられないの?」
 吾郎は絵里の質問に答えられなかった。この質問をされたのは最初に会った日の帰り際だけだ。後は自分自身に問い続けている。自問するたびに酒の量も増えていった。フォワローゼズを原液で飲み続けた。喉が焼ける感覚がした。身体を痛めつけている感じが、むしろたまらなかった。
 絵里から発せられた問いかけは、もう一つの問いかけを誘発する。天国があり、そこが、この店のように偽物だらけではなく、本物の滝や植物があり、そこで生まれ育った動植物が生息する素晴らしい場所であるとしたら、この世など何の意味があるだろうか。
「私の本心を信じてる?」
「信じてるよ」
 この頃から、吾郎には昼間の記憶がほとんど無くなっていく。気づいたら店にいて、ピアノを弾いている。顔を上げると、ピアノから一番近い席に絵里が座っていて、小さく手を上げるのだ。周囲の喧騒が少し聴こえにくくなる。絵里の周囲だけが、静かなのだろうと思えた。すると鬱屈が溶けてなくなり、ひたすらピアノを弾くのが楽しくなった。鍵盤を叩く事にずっと以前から喜びを見いだせなくなっていた。目的が無ければもうピアノは弾けなかった。以前は金であったが、今は絵里である。ピアノを止めたら絵里が来ないかもしれないと思うと、ここから降りられなかった。絵里の本心を信じると、天国が身近なものとして信じられた。天国は新宿駅の隣にでもありそうな気がした。天国を信じると生が軽くなり、死の誘惑が大きくなった。
 
 ある日、目覚めると、吾郎は蓋が閉じられたピアノの上にうつ伏せで倒れていた。足の位置に鍵盤があるらしく、つま先を少し動かすと短い音が響く。いつ飲み始めたのか全く思い出せない。はたしてそれが昨日なのか今日なのかもわからなかった。薄目を開けるとピアノの黒い躯体の表面に自分の顔が見えた。心の準備なしに見せられる自分の顔ほど、嫌なものはない。特に泥酔中の顔は。ピアノの黒光りする板には眠っている間に身体から絞り出された唾液も見える。黒のタキシードはヨレヨレになっていた。吾郎は自分が何者かに丸めて捨てられたと感じた。顔を上げると、テーブルに座る客は建築家が一人いるだけで、絵里はいなかった。
「ずいぶん、仲良くなっていたようだな」
 建築家はテーブルから立ち上がると、ゆっくりと吾郎の元に近づいてくる。音楽も何もなく、客も店長も店員もいない。噴水の水音だけが響く。ずっと目を閉じていた吾郎には、壁に沿って這う赤と青のネオンが夜明けの朝日のように眩しかった。現実には今は夜だった。店が死んだように静まり返っているのは異例だ。夜が続く限り、永遠に営業を続けるのがこの店だった。
「そこまでしろとは言ってないが、まあいい」
 朦朧とした意識の中でも、建築家の尊大な物言いははっきりと認識できた。何か言い返したかったが、そんな体力はなかった。できるとすれば、ただピアノの上で泳ぐような動作を繰り返すだけだ。早くここから何処かへ行きたかった。夢の中にいるみたいにもどかしい。
「大丈夫か?」
 建築家は吾郎の顔を掴んで上げる。建築家の表情に憐れみの欠片が現れたのが無念だった。吾郎にとっては、最も同情や憐憫の念をかけられたくない男だった。何とか怒ってもらおうと吾郎は頬を膨らませ、唇を突き出し、爆笑する寸前のような侮蔑に満ちた笑顔を浮かべた。だが効果はない。建築家は淡々と必要な情報の聞き取りを始めた。
「で、心はあったのか?」
 吾郎は建築家の手を払い、逃れるように目を瞑る。建築家が鍵盤を照らすピアノライトを手に取り、吾郎の顔を照らしたので、仕方なく目を開ける。
「わからなかった」
 本心を偽る気は無かった。吾郎には彼女の本心がわからなかった。この男と揉めると面倒くさい事になる、という絵里の忠告は覚えていた。適当な事を言ってこの場をやり過ごすという選択肢もあったが、それを選ぶ事はしなかった。
「あそこまで仲を深めてもわからなかった?」
 何度自分の心に問いかけても、わからなかった、という答え以外は返ってこなかった。やるだけの事はやった。探れるところまで探った。笑ってよいのか、泣いてよいのかわからなかった。悔しいが、建築家の声に憐れみと嘲りが籠るのも納得だった。あそこまで仲を深めても、何もわからなかったのだ。
「絵里は?」
「消えたよ」
 建築家が一人で来ている時点で何となくわかっていた。だからあまり驚きはなかった。吾郎にとっては、建築家の無念そうな表情を見れたのがただ嬉しい。
「で、何処へ?」
「知らん」
「天国?」
「知らないね」
「じゃあコスタリカ?」
 吾郎が問いかけても、建築家は答えなかった。建築家がピアノライトを乱暴に放り出した。ライトはピアノの上に横たわり、吾郎の膝のあたりを照らす。建築家はテーブルへと戻った。吾郎は芋虫のようにピアノ上から鍵盤の方へ滑り落ち、椅子にぐったりと寄りかかる。普段は喧噪にかき消されていて気づかなかったが、噴水の音は雨音のように聴こえる。彼女は何処かに消えてしまった。音は吾郎の今の気分にぴったりだが、香水、小便、シャンパンが入り混じる液体が奏でる音だと考えると、良い気分も台無しだった。
「暇だな」
 建築家はロレックスの腕時計を見た。この店には時計がない。今が何時なのかは個人が持つ時計で確認しなければならない。熱帯雨林に時計はそぐわない、というのが店長の意見だった。吾郎はそれを不便と思った事はない。夜である事は窓の外を見ればわかることだ。夜である限り、店は続くのだ。
「君も暇だろう」
 建築家の言葉に対して、吾郎は何も答えず、椅子にしな垂れかかっている。吾郎には暇の概念がわからなかった。退屈な気分を暇と呼ぶならば、今の吾郎は暇ではない。何も出来ないが退屈ではない。ただ時間が過ぎ去るのが心地よい。雨に打たれ、何もかも流れていくようだ。
「都市計画の話でも聞くか?」
 仕方なしといった表情で、建築家はまた時計を見る。
「やめてくれ」
 荒唐無稽な話。少なくとも吾郎にはそう思えたが、実現しそうな気配もする。自分の立っている場所が根底からゆらぐ。自分の立っている場所が不安定に思えてくる。人工の陸地は苦手だ。偽物の陸地だ。今は頭が痛い。話を聞けば余計に頭が痛くなりそうだった。吾郎が拒否したにもかかわらず、建築家は計画を得意気に話し始める。
「東京湾に島作って、そこにエベレストより高い建物を建てるぞ。信じようが信じまいが、大手建設会社が考えている事だ。完成図を見せられないのが残念だが、まるでバベルの塔だぞ。東京の何処からでも見えるんだ」
「やめてくれって」
 建築家の言葉を受けて、吾郎の中に想像の陸地が現れ塔が建った。そんなものはどうしても信じられないが、確かに建ってしまった。
「私も、それが建つことを証明する事は出来ない。信じるしかないんだ」
 建築家は言った。
「信頼が裏切られる事を考えちゃいけない。そうじゃなきゃ、あらゆるものは成り立たない」
「彼女も信じていたんでしょ?」
 建築家は余裕の表情を浮かべようとしたが、失敗して引き攣りだけが残った。彼女は吾郎と同様に、建築家の心の深い部分にまで降り立っていた。建築家も吾郎と同じ痛みを感じているはずだが、吾郎には建築家の痛みが伝わって来なかった。吾郎の心はぴったりと閉じていた。今の吾郎はあらゆるものと共感できない。心を証明をする事は不可能と知ったいま、共感など何の意味も無かった。
「信じていたよ」
 建築家はそれだけ言い残すと、席を立った。そしてゆっくりと店の外へと向かう。彼女の居場所を聞こうと吾郎は建築家の後を追った。途中でテーブルに躓き、噴水の中へと落ちた。強烈な匂いが鼻をつく。香水と酒と小便までは予想通りだったが、それに加えて、嘔吐物の匂いまであるのは予想外だった。吾郎が水から顔を上げると、もう建築家は消えていた。周囲では偽物の熱帯植物が存在を主張していて、いま自分が何処にいるのかわからなくなる。吾郎は立ち上がろうとしたが、眩暈がして、力尽き、再び噴水の中に沈んだ。吾郎は浮き上がれなかった。噴水は一メートルもない深さだが、地球の裏側にまで通じている気がした。噴水のしぶきはシャンパンの味がした。それ以外の味もしたが、気にしなかった。吾郎はいつまでもここで眠っていたかった。
 
 あれから三十年経ったが、東京湾に巨大な島は出来ていない。バベルの塔も建っていない。あれは夢物語にすぎなかった。
 吾郎は地中海ホテルの結婚式で曲を弾き終えた。葬式でも弾いたことがある。どちらも、目の前の状況に感情移入しすぎないという事が重要だった。まともに弾けなくなってしまう。
 奈美が見えた。どうやら案内役を卒なくこなしたようだ。
 エキゾチカも地中海ホテルと同様に偽物で埋め尽くされていたが、エキゾチカにあるのは金のかけられた偽物だった。この世に金をかけていない偽物ほど哀しいものはないが、ここで職場の文句を言っても仕方がない。いま吾郎が出来るのはこれしかない。いくら考えてもピアノを弾く以外に何もできないので、その仕事をするだけだ。とにかく、今日の仕事は終わった。式場から少し離れた庭で、吾郎は海を眺めていた。スーツ姿にそぐわないが、その場にしゃがみ込み、手を額に当て水平線を見た。水平線付近に曇り空が現れ、空と海の境界線をあいまいにしている。吾郎は式場からくすねてきたすっかり冷めたフライドチキンを食べている。冷たい肉と油が口に満ちる。酒の匂いからは少しでも離れたかった。三十年間酒は飲んでいない。芝生と土の匂いを嗅ぐと安心した。拍手が聴こえたので振り返った。新郎新婦が階段を降りている。みんな白い服で階段も白いタイルが使われているので、陽光の反射が眩しかった。花嫁は妊娠七か月らしく、腹が大きい事がウェディングドレスでもわかる。奈美も列に加わっていて、吾郎に気付くとが小さく手を振った。それを過去が別れを告げたがっていると考えるのは、あまりにも都合が良いのだろうか、と吾郎は考え、ただ微笑みを返す。
 天国は消え去り、他に行くべきところもない。
 ただここにいて、死ぬまでピアノを弾くだけだ。
 天気雨が降り始めたので、みんな地中海ホテルの中に入った。
 

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