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雷鳥と呼ばれた女性

 雨が来る、と言語学者は空を見上げ、思った。
 前方にはじっとりとした熱帯雨林に覆われた島、雨島が見える。緑の中からは高層ビルのような、雲まで届く大きな樹が突き出している。樹の幹には人工的な正方形の穴がいくつも空いていて、人が住む事も出来そうだった。
 帽子のような灰色の雨雲に、島はすっぽりと覆われていて、樹の上方は雲に隠れて掠れて見える。
 彼女が想像した南の島とは程遠く、陰鬱でじめじめとした印象しか受けなかった。
 すぐ脇に目を向けると、島の案内人が無表情で雲の様子を伺っている。島の出身である彼の気分を害すまいと思い、自身の心情を態度にも言葉にも出さないように努力していたつもりだったが、思わず出た険しい表情をひっこめるのを忘れていた。
「残念。曇ってきたね」
 案内人がカヌーを漕ぎながら言った。あっさりと心情は言い当てられたため、彼女は気まずそうに下を向く。どんな小さな心情でも読み取られるのは好きではなかったし、それを笑ってごまかせる性格ではない。案内人は彼女の態度の変化が理解できず、カヌーを漕ぐ手に力を入れる。漕ぐたびに、彼の褐色の肩に入ったヤモリのタトゥーが、本物の生き物のように、広がったり縮んだりする。
「晴れてる時は、もっと綺麗なんだ」
 案内人が残念そうに呟く。カヌーが浅瀬に着くと、その瞬間、遠くから不機嫌そうな空の音、雷音が響いてきた。雨が来るかもしれない、と案内人は呟き、固く重なり合った岩のような、灰色の雨雲を忌々しそうに見上げた。
 言語学者はサンダルを脱ぎ、カヌーから足を離し、そのまま海へと入った。温い感触が脛を昇ってくる。空が曇っているため、海水の表面は曇った鏡のようになり、言語学者はそこに映ったうすぼんやりとした自分の顔と対面した。その顔は少し疲れて見えた。
「細い脚だ」
 案内人は、彼女の細い杭のような足に視線を這わせた。驚きの混じった表情で見返すと、案内人は笑いながらボートを浜へと引っ張る。
「いままで学者さんは何人か来たがね……」
 カヌーの跡が白い浜にくっきりとついた。さすがに疲れたのか、案内人は浜に座り込んで、空を見上げ、雨雲の様子を伺う。
「女の学者さんは初めてだ」
 言語学者も海から上がり、砂浜に足跡をつけながら、案内人の隣まで歩く。そして、渡ってきた海を振り返った。
 海の向こうには大きな島が見えた。かつてあったじめつく熱帯雨林はすっかり取り払われ、かわりに飛行場とビルが見えた。その島の上空にはまだ青空が残っていて、ビルや空港の表面のガラスには、灰色が混じった青、そして雲間から覗く太陽が映し出されている。
「この島の若いのは、みんなあそこに行ってしまう」
 やけに老成した口ぶりだったが、彼もまた若かった。言語学者と同様、二十代後半といったところだろう。
「仕方が無い。何も無い島、とみんな思ってるからね」
 案内人はゆっくりと立ち上がると、分厚い熱帯雨林を眺めた。
「雨が来る前に抜けよう」
 
 森の中はじっとりと湿っている。数分歩いただけで、言語学者は早くも消耗した。拭っても拭っても、身体からじくじくと汗が染みだしてくる。まるで、自分がじめついた熱帯雨林の一部になったようだ。
「学者さん。純粋に疑問だから聞くんだけど、気を悪くしないでくれ」
 応える余裕は無く、言語学者は黙々と足を進める。案内人は構わず言葉をつづけた。
「どうして、放っておかないんだい?」
 案内人の言葉に言語学者は面食らった。その場で足を止めると、案内人も足を止め、ゆっくりと振り返る。その顔には何の悪意も無かった。放っておけばそれは消滅してしまう。それを何とかするために、何人もの学者が来た。言語学者の中では当たり前のことだった。そして、もちろん自分もその学者の一人である。それを彼女は案内人に伝える。だが、案内人は良くわからないというように首をかしげる。
「だから、消滅したから何だと言うんだ?」
 言語はこの島の大切な文化だ、と伝えても、案内人は重ねて首をかしげるだけだった。
「無くなっても困らないものだしね」
 現在、この島では、この島固有の言語とは別の言語が主流となっている。もう五十年も前からそうだった。
 言語の話者は年々減り続け、絶滅の危機にある。そういった事例は珍しい事ではない。この地球上では数千の言語が消滅の危機に瀕しており、この島の言語もその一つというわけだ。 
 案内人も、その言語を使うことは無い。この島で話せるのは、もはや数人のみ。それも高齢となった老人だけという話だ。
「きちんと島の風習、文化は残っている。言語などなくなっても問題ないとは思うがね」
 カヌーの中で話したが、案内人はあの大きな島での生活が長いらしい。それがまたこの島に戻ってガイドのような事を始めている。この島の文化への純粋な愛着なのか、それともアイディンティティの危機からなのか、言語学者には判別できなかったが、この島の文化への愛は本物のように思えた。だからなおさら分からなかった。なぜ彼はこの島の言語文化を軽視するのか。
「雨踊を知ってるだろ?」
 雨踊とは、島に古くから伝わる儀式で、雨の中一人で踊り続け忘我の極致にたどり着く儀式だ。ヒッピーやトラベラーといった欧米人も良く訪れ、その儀式に参加する。
「あれは、言葉なんて必要ないものだしね」
 案内人の言葉に、言語学者は曖昧に頷く。なんとなく分かってきた。欧米の文化に染まった大きな島での生活により、案内人のアイディンティティは損なわれたらしい。島の文化のそういった部分、非欧米的なものにのめりこむことが、自身のアイディンティティ回復の一助になると案内人は考えているようだ。そしてそれがそのまま彼の言語軽視につながっている。
 雨踊ももちろん重要な島の文化だが、その一部に過ぎない、と言語学者は考えている。しかし、案内人はそれが島の文化、精神の中核に位置するものと考えているらしい。
「わかるか? 自分の中に深く入り込めば、言葉なんていらないんだよ」
 言語学者は何も答えなかった。疲労が言語学者から反論する気力を奪っていた。自身の考えをまとめるだけで精いっぱいだった。
 ふと顔を上げると、大きなオレンジ色の花弁を持ち、その下に半透明な緑色の袋を持つ植物が目に入った。袋の中は液体で満たされ、小さな虫がバラバラになって浮いているのが見える。植物は専門ではないがそれが食虫植物である事はすぐにわかった。それは一つや二つではない。四方八方、そこらじゅうにあり、もれなく虫の死骸が入っている。それらは弱い陽射しを浴びてぼんやりと緑色に光っている。疲労困憊の状態で、生き物の死骸を見るのは良い気分ではない。追い打ちをかけるように、甲高くて大きな鳥の鳴き声が響く。声から推測するに小鳥とはとても思えなかった。声をする方を向くと、予想通り、黄、赤、黒がペンキ絵のように絡まりあう大きなクチバシを持った鳥が樹の上にいて、魂がまるで感じられないぼんやりとした目で二人を見下ろしている。
「もうすぐだ」
 案内人はそう呟くと再び歩き始めた。
 
 森を抜けると村が見えた。村の中心には大きな池があった。靄で霞んでいる池のほとりからは、細長い棒がいくつも突き出ていて、高床式の小さい家々を支えている。家の下では子供たちが遊んでいて、水しぶきとともに池に波紋が広がるが、池の中央までは及ばない。池の中央は常に凪ひとつ立たずに、空と雲、そしてあの巨樹を綺麗に磨いた鏡のように映している。鳥が止まるためのものだろうか、池の中央には小さい棒が突き出ている。言語学者はその小さい棒から目が離せなかった。じっと眺めていると、案内人に後ろから軽く押された。
「ほら、家に案内にするよ」
 案内人は言語学者をとある家へと案内した。特別な家ではない。池を囲う高床式の家のひとつだった。家の中には老人が一人待っていた。左肩には鳥と島独自の文字で入れ墨が入っている。
「文字は雨の鳥という意味らしい。みんな彼のことを雨鳥って呼んでいる」
「雨鳥?」
「森に棲んでる小鳥だ。この島の象徴だよ。その名前をもらえるのは、特別な日に生まれた人だけだ」
 老人は何か工芸品のようなものを掘っていた。まだざっくりとした塊だが、鳥の形になりそうな兆候が見える。
「島の象徴のような方なんですね?」
 言語学者が言うと、雨鳥は首を振る。
「大した事はない。たまたまその日に生まれただけ。……運が良かっただけだ」
 雨鳥が力なく答える。言語学者は小さく頷く。島の象徴などと持ち上げたが、本音では彼に良い印象を受けなかった。自分に似て、どうにも覇気がなく、後ろ暗いところがありそうな老人だ、と思った。
 言語学者は、古めかしい一冊のノートを鞄から取り出して老人に見せた。表紙には『雨鳥日記』と書かれている。この島における見聞を集めたものだ。タイトルにこの島の象徴を持ってきたのには、特に深い意味はなさそうだった。そこにはもうすぐ誰も読めなくなってしまうこの島の文字がみっちりと書かれていた。最初のほうは、他言語での翻訳がついていたが、途中から消えていた。筆者はこの島の言語以外の言語には興味を無くしたのか、序盤以降の文章はこの島の言語のみで書かれており、第三者に見せる研究書というよりも個人的な日記となっていた。
 紙いっぱいに広がる生き物のような文字を見て、雨鳥は首を振る。
「私はこの島の文字を読めないんだ。唯一分かるのは、この左肩の文字だけだ。『雨』と『鳥』」
 雨鳥は実に流暢に喋った。もちろん、死にゆくこの島の言語ではない。この地球で億を超える話者がいる言語だ。
「もう、この島の言葉は話せないんですか?」
「一人では話せない……。雲が無ければ雨は降らない」
 意味深な言い回しに、言語学者は困惑したが、すぐ聞き返すことはせず、受け取った言葉を頭の中で巡らせ、思案する。
「……雨鳥は良く言うんだ」
 案内人が割り込んできた。
「会話の形でなければ、もう言葉が出てこないとね。そういうことだろ?」
 白けたような表情で言語学者は案内人を見た。遠くでまた雷が鳴る。言語学者は、雨鳥に、もう誰も話者は残っていないのかと聞いた。
「もう一人いるよ」
 雨鳥が答えた。それは雨鳥より年下の六十歳ぐらいの女性だという。雷鳥という名で呼ばれているらしい。
「その雷鳥はどこに?」
 案内人は窓の外に見える巨樹を指さした。言語学者は目を凝らしてみた。樹の上方にある穴の周辺には、階段らしき出っ張りがいくつも見え、それはそのまま樹の下まで続き、らせん状に巨樹を取り囲んでいる。その出っ張りを歩けば、穴までたどり着けるだろう。今でも、虫のように小さい人間が、穴の周囲で動いているのが時々見える。あそこを登るということは、雲まで続く手すりのないらせん階段を登るようなものだ。言語学者は身震いした。あそこを歩くことを考えるだけで、熱帯の暑さを忘れた。
「あの穴には、本当に人が住んでるんですね」
「そういうことだ」
「雷鳥は一人であそこに?」
「ああ、ずっと穴の中にいても生きていける。樹の実が穴の中に落ちてくるのでな。それを食べればいい」
「会うことはできませんか?」
 案内人は雨鳥の顔を一瞬見て、目を逸らした。言語学者は怪訝な表情を浮かべる。雨鳥は力なく下を向き、話はもう終わった、というように工芸品作る手に熱を込め始めた。
「それがなあ」
 案内人はため息をつく。
「仲が悪いんだよ。二人とも」
 言語学者は唖然として案内人を見た。
「口も利かない仲ってやつだな」
 案内人は乾いた笑いを浮かべるが、残りの二人は笑わなかったので、気まずそうに笑いを消す。
「悪いけど、そういう事だ」
 雨鳥は目を伏せたまま呟いた。
「あなたたち二人が話さないと、この島の言葉は消滅してしまいます」
「仕方がない。それが運命だ」
 言語学者はノートを再び取り出す。
「これは、父が書いたものです」
「あなたの父が? この島の言葉を?」
 雨鳥は手を止め、顔を上げた。案内人は読めもしないのに、ノートを手に取り無造作にページを捲る。それを言語学者はじっと眺める。彼女の中ではそれがひどくゆっくりしたものに見えた。ページがゆっくり捲れる度に、言語学者は過去を思い出す。父は世にも美しい言語を研究しているのだと、幼いころ言語学者に話してくれた。どこか遠い南の島にあり、その言葉は鳥の鳴き声のようであり、文字はヤモリが踊っているようであると。母との仲が悪くなるにつれ、父はこの島の言語研究にのめり込んだ。そして、ついに島に渡り、島の女性と暮らし始めた。
「あなたの父は、今はどうしてるんだね」
 雨鳥が尋ねる。
「もういません。残っているのはこのノートだけです」
「誰からこの島の言葉を学んだ?」
「右肩に鳥のタトゥーが入っている人です」
 ノートの余白にその女性の絵が多くあった。最初は落書きのようだったが、ページが進むごとに、その絵には豊かな情感が籠り始める。だから、言語学者はこの絵の変遷を見ると、感情が掻き毟られる。まるで、遠くに流れてゆく船を見送るようなものだった。
 案内人と雨鳥はその絵を見て、顔を見合わせる。
「きっと雷鳥だ」
「本当ですか?」
 言語学者は興奮して雨鳥に詰め寄る。
「雷鳥も私も文字は書けない。あなたの父は雷鳥から言葉を学び、それから自ら文字を研究し、自分のものにしていったのだろう」
 父が研究を始めた時には、すでに文字の方はほとんど滅びかけていた。それを父は甦らそうとしていたのだ。言語学者は、父の情熱に対して、何とも誇らしい感慨を抱いた。
「父の言葉を知りたいか?」
 言語学者は頷いた。そのためにこの島の言葉を学び始めた。思わず目が潤んだ。文字が読めれば、少しでも父の考えを知り、父に近づけるような気がした。言語学者はこの島の言語に対しては、複雑な想いがある。学者としては言語を保護する立場にある。学術的には滅んでよい言語などあってはならないと思っている。だが、この島の言語など、滅んでしまえと思ったことは一度や二度ではない。なにせ、父は娘である自分よりもこの言語を選んだのだ。
「ええ。そのために、言葉を学びたいんです」
 父は自分を捨てた。だがどこかで、父を信じる気持ちがあった。あのノートの中に自分に対する言葉があるような気がしていた。
「自分のため。それだけの理由でこの言葉を学ぼうとしているのだね?」
 言語学者は俯いた。案内人が妙に醒めた目で自分を見ているような気がした。
「それだけではないです」
 言語学者が答える。この島の言語を消滅させてはいけない個人的な理由ではなく、学術的な理由を述べた。
「ここの言葉は、他に無い特徴があります」
「言葉に特徴?」
 雨鳥と案内人は顔を見合わせた。
「一人称が関係性の一部なのです。私は死んだとは言わず、死が私のところに来た、と。ここの言葉は単独では成り立ちません」
「だから、それが消えてしまうと何が困るんだね?」
 雨鳥がぽつりと呟く。言語学者はそれ以上は何も言えず、押し黙った。大切な理由があるような気がしたが、今の自分にはわからなかった。自分がこの言語を守ろうとしてのは、本当に個人的な理由からだけなのだろうか。そう考えると、とても自分が小さく思えた。
 
 夜になり、言語学者が眠りにつくと、夢が来た。夢の中では、判別不明の不明瞭な言語が聴こえてきた。おそらくこの島の言語。普段は見ることも触れることもできないが、無意識の奥底に常に潜み、絶えず表層に出ようとしているようだ。やがて、幼い日のある場面が映し出される。父がやってきて、幼い言語学者に話しかける。彼女は何も答えずにただ本を読んでいる。一人でいるのが好きだった。家の外に出るのも、心を外に出すのも耐えられなかった。父に対する感情は存在したが、それが何であるかを分ろうとはしなかった。
「お前はきっと、心が強いな」
 父はそう言って、娘から離れる。常に感情を一定に保っている彼女を見て、そう考えたのだろうが、実際はそうではなかった。心が弱いから、閉じて厳重に保護しているだけだった。
 父の後ろ姿が消えたところで、目が醒めた。小屋の天井が目に入った。薄闇の中で言語学者は寝返りを打つ。今になって、娘は後悔している。自分が、もう少し心を開いていれば、父は未知の言語に逃げ込む事は無かったのではないか。父が深い孤独を感じることは無かったのではないか。
 私は父を愛していた。
 自然とその言葉が頭に浮かんだ。なぜそのことにもっと早く気付かなかったのだろう。
 窓の外には見事な星空が見えていた。そのあまりの大きさと自分の小ささに自然と涙が出た。この星空には、この島の言語が持つ全てを包み込むような広さと優しさが良く似合うような気がした。
 さきほど頭に浮かんだ言葉をこの島の言語の文法に直してみた。
 父への愛が私のところに来た。
 だが幼い自分は、それに気づくことが出来なかった。
 
 翌朝起きると、小屋の中には誰もいなかった。開いた扉から、人影が見えた。雨鳥も案内人も池の中央を向き目を伏せている。昨日はあれほど騒がしかった子供たちも声を発することなく、池の中央を向いて目を伏せている。言語学者は部屋から出て、池の中央に目を向けた。そこには美しい小鳥が小さな棒に止まっていた。鳥は少しも身じろぎせず、まるで木細工のようである。これが案内人の言っていた雨鳥という鳥なのだろう、と言語学者は思った。
「目を伏せろ、一緒に魂を持っていかかれる」
 案内人が囁いた。言語学者はあわてて目を伏せる。
「という事になっているらしい」
 案内人が小さく笑いながら言葉を付け足した。鳥が飛び立つと、池のほとりの人々は何事も無かったかのように普段の生活に戻ってゆく。鳥は小さな翼を広げて、悠然と森の中へと消えていった。鳥には、魂を持って行ったという自覚も、時間を止めていたという自覚も無いだろう。
「さて、準備はいいか?」
 雨鳥が当然のように言語学者に語りかける。何のことなのか言語学者は理解できなかった。
「行きたくないのか?」
 案内人が囁く。言語学者は不可解な表情をそのままにして、案内人の顔を見る。案内人はもどかしそうに、首を振る。
「雷鳥だよ雷鳥。行くことにしたんだよ」
 そう言って、案内人は靄で霞む巨樹に目を向けた。
 なぜ、という表情を浮かべると。案内人は顎で雨鳥を指示した。
「なぜ行く気になったんですか?」
 言語学者は、勢い込んで雨鳥の前に立ち、変心の理由を問いかけた。気圧されたのか雨鳥は少し下を向く。案内人は雨鳥の気が変わるのではないかと気を揉んだが、言語学者はお構いなしに理由を問いかける。
「どうしてなんです?」
 雨鳥は、ゆっくりと顔を上げる。その信じられないほど澄んだ目に、彼女は息を飲む。
「思い出したんだ」 
 雨鳥は語りだした。
「あなたの言った通り、ここの言語は全てと繋がっている。それは他の言葉では滅多に見られないのものだ。誰も孤立させたりしない。この言葉を使っていれば、自然とそういった考えになるだろう」
 言語学者は呆然となった。昨日はそういった事を言いたかったのだ。なぜ、思いつかなかったのだろう。彼女は雨鳥の考えの深さに感嘆した。
「この言語を消してはならないと思う。きっと必要なものだ」
「誰にとって?」
「誰にとってもだ」

 森の中は蒸し暑かった。言語学者は噴き出す汗を拭いながら、雨鳥の後を追う。先頭は案内人が歩き、雨鳥の指示で道を進む。
 突然、激しい雨が降ってきた。三人は大きな葉の下に入った。強烈な土のにおいが鼻腔をついた。
「雨で道が塞がらなければいいがな」
 雨鳥は森から巨樹へと通じる道を眺めた。
「ちょっと様子を見てくる」
 案内人は葉の下から出て、巨樹へと向かった。
「あの、いいですか?」
 雨音に消されぬように、言語学者は大きな声を振り絞って言った。
「……雷鳥と仲たがいした原因か?」
 言語学者は頷いた。雨鳥はじっと耐えるように下を向く。
「仲が悪いわけではない。雷鳥は追放されたのだ」
「追放?」
「雷鳥はお前の父親に、深く接触しすぎた。それはこの島では許されない事なのだ」
「じゃあ、あの樹は?」
 言語学者は雨にかすむ巨樹を見上げる。雨音の合間を縫って、長く耳障りな鳥の鳴き声が聴こえた。
「刑務所のようなものだ。魂は地に着くこともなければ、天に昇ることも出来ない。どことも繋がれず、中間点で彷徨う」
 また鳥の鳴き声が聴こえる。下を向いていた雨鳥は意を決したように顔を上げる。
「そして、私が密告したんだ。お前の父との仲を」
 雨鳥は、言語学者に対して鋭く視線を向けたまま、ゆったりと頷く。胸の奥から感情が沁みだしてきた。言語学者は自らの顔が液体のように揺らぎ、めまいがするのを覚えた。
「雷鳥は私に優しくしてくれた。だが、雷鳥はどうして、あのような余所者により優しくしたのか……」
 いままで、雷鳥のことを語る時、雨鳥に表情は無かった。だが今では、その表情に強い感情が込められている。胸に秘めていたものが、表層に沁みだしてきたようだ。
「私は分からなくなり、密告した。二人を離れさせるためなら何でもしただろう」
「父は……」
「余所者だったので、この島から追放されただけだ」
 父にとって、ここが最後の拠り所だった。追放された父の心情を想像すると、言語学者は胸に痛みを感じる。気づくと、葉から出ていて、雨に濡れるがままとなっていた。感情は際限の無いほどまでに高まっていた。肩をいからせながら雨鳥に背を向け、足早にその場を去る。父を売り渡した男だ。近づくのも目を合わせるのも、我慢がならなかった。
「帰るのか」
 雨にかき消されそうなほど小さな声で雨鳥が囁く。
「止めはしないが……」
 言語学者は足を止め振り返ると、雨鳥に駆け寄る。そして雨鳥の呼吸が感じられるほど顔を近づけた。その目からは先ほど見せた深みは姿を消し、かわりに怯えと濁りが満ちていた。彼女には彼がとても小さく見えた。
「どうしていままで雷鳥と話さなかったの?」
 雨鳥は言語学者の髪や鼻筋から水滴が垂れるのを、じっと眺めながら、言葉を練っている。
「どうして私より、あなたの父を選んだか、という事をかね?」
 雨鳥は声を荒げ、挑むように言語学者に言う。彼女は頷く。そして、その時気づいた。雨鳥と自分は同じだ。大切な人に置き去りされた。その感情が、醒めているときも眠っているときも、常に心のうちにある。
「怖かったのだ。距離を置きたかった。雷鳥の考えを知るのが怖かった」
 感情を表に出したがらないところも、自分と似ている。こんな遠い島で、自分のような人間がいるとは想像も出来なかった。言語学者は雨鳥から目をそらし、再び葉から出て雨を浴びる。雨鳥に対する猛烈な憎しみはもうなかった。かわりに憐みの感情があった。そして、それは自分自身への憐れみでもあった。
「お互い、孤立しているほうが良いと思ったんだ」
 雨鳥は、濡れるがままになっている言語学者にか細い声を浴びせる。
「だが、あなたに言われて、ここの言葉を思い出したのだ。誰も孤立させてはならない」
 しばらく、二人は沈黙した。激しい雨音と、合間を縫うように聴こえる鳥の鳴き声だけが響く。
「全て、話すのね?」
「雷鳥にかい?」
 言語学者は頷く。
「ああ、話す」
 その時、案内人が戻ってきた。
 ただならぬ様子に戸惑いながら、道はふさがっておらず、巨樹へは通じていると二人に伝えた。言語学者は頷くと、葉の下に入った。案内人もぎこちなく葉の下に入る。
 雨が小降りになり、そして止むまで、誰も言葉を発しなかった。

 言語学者は、出っ張りに足をかけ、ゆっくりと樹を登っていく。高度とともに恐怖心も上昇していく。
 ここは雨鳥のような老人がいなければ、立ち入ることは許されない場所だ。案内人もここに来るのは初めてで、現代社会に慣れた観光客に対する一切の配慮はされていない。
 言語学者は、雨鳥の家にいた時、この樹に登るのはどういった心地なのだろうかと考えたが、現実はその予想とほとんど変わらなかった。手すりのないらせん階段を上っているようで、膝に力が入らなくなる。ひとつ考慮にいれていなかったのは、階段の材質はすべて木製であることだ。出っ張りは人が一人通れる程度の幅がある板であり、樹に垂直に突き刺してあるだけで、体重をかけると軋む音がして、わずかにたわむ。その原始的な階段を登っているという事を実感させる音と感触が、さらに恐怖心を煽る。
「下を見てはならない」
 雨鳥はそう忠告したが、登り慣れていない言語学者と案内人には無理な相談だった。出っ張りと出っ張りの間は少し空いているので、足元に注意を向けると、否応なしに下まで見える。救いは雷鳥が一番下の位置にある穴に住んでいることだった。
「この出っ張りが壊れたりしないんだろうな、雨鳥」
 先頭を歩く案内人は、最低二回は出っ張りを足の裏で突いてから、体重を乗せる。
「恐怖心のほうが厄介だ」
 一時間ほど登り続けると、遠くに水平線が見えた。風が吹くと、かすかに身体が揺れた。
「雨鳥、雲が来るぞ」
 案内人は森を指さす。確かにそこには一律に動くなんらかの塊があった。雲と違うのは、それが耳障りな、樹を軋ませるような音を発している事だ。
「あれは」
 雨鳥が大きく目を見開いた。
「なんなの?」
 言語学者も最初はそれが雲にしか見えなかったが、近づくにつれ、そうではないことが徐々に理解できてきた。
「オオクチバシだよ」
 感覚を研ぎ澄ましてみると、雲が発する音は鳥の鳴き声に似ていて、総体としての動きは生物、それも鳥類のものに似ている。
「森で見たあれだよ。でかい鳥」
 案内人は顔をしかめて言語学者に言う。人間の子供ほどあるあの鳥が数千羽の群れになっているのだ。言語学者は眩暈がした。
「あれはどこに向かっている?」
 案内人が雨鳥に尋ねる。
「樹の実を求めている」
 雨鳥が樹を見上げる。
「らせん状に登ってくるぞ」
 案内人は顔をゆがめて樹肌にしがみ付く。あれだけの群れが来たら、ここから振り落とされてしまう。
「なんで言わなかったんだ」
 案内人が足元を見た。言語学者も樹を見下ろす。雲は樹のふもとまで来ている。
「オオクチバシはこの季節はそういった動きはしない。最近、動きがおかしいのだ」
 言語学者は水平線に目をやった。島を取り巻く環境は変化している。島の周囲の海面も上昇して、この島よりもっと小さな島が消滅の危機に瀕している。全ては繋がっている。環境が変化すれば、生物も変化する。
「森でも虫食い草が異常に増えたりしてるからな」
「とにかく、登るしかないぞ」
 案内人は慎重な足取りを捨て、樹を駆け上がる。雨鳥も言語学者も駆け上がる。下からは悲鳴のような鳥の鳴き声が迫ってくる。クチバシと樹が掠れる音もさらに重なる。穴が見えた。あそこにたどり着けばなんとかなる。そう考えると余計に呼吸が荒くなった。足元の出っ張りと出っ張りの間から、鳥たちが通り過ぎるのが見えた。単体でも毒々しい色を持つ鳥が、集団になると、悪夢が形を成し、そのまま飛んでいるようだった。
 案内人が最初に穴にたどり着くと、手を伸ばして雨鳥を穴の中に引き入れた。
「早く来い」
 言語学者は、案内人がのばした手をつかもうとしたが、視界が乱れた。突然、足場が崩れ倒れた。木片が回転しながら落ち、下の段の出っ張りにぶつかり、二つに割れるのが見えた。落下は免れたが、意識が遠のいた。ぼんやりした意識でも、後方から鳥の群れが迫っていることがはっきりと理解できた。
 その時、父との最後の別れの記憶が蘇る。屋外だったと思う。冬で雪が降っていた。
 あの島の言語で、お前に覚えておいてほしい言葉がある、と父は言い。その言葉を娘に伝えた。
 あの島の言語は、自分から父を奪ったものだ。別れ際にそれを残すなど、彼女にとっては侮辱以外の何物でもなかった。感情が高ぶり、思わず父を殴った。手の甲を思い切り、父の口に叩き付けた。唇が切れて、血が噴き出した。人に暴力を振るったのは初めてだった。父の傷を見ると、激しい怒りは醒め、純粋な感情の高ぶりだけが残った。父の表情には無念が滲んでいた。想いは何も通じなかった。その思いだけが残ったようだ。小さく口元を結ぶと、言葉の意味を伝えずに、娘から離れていった。彼女からは何故か乾いた笑いが出た。父の姿が消えるまで、ずっと笑い続けた。その間、殴ったほうの手はずっと痛み続けていた。
 そのときの強烈な感情が、言葉を記憶に刻ませていた。
 今になって、死ぬ間際になって、その意味が知りたくなった。言語学者は雨鳥に向けて発声してみる。
 声は届いたらしい。案内人は不可解な表情で雨鳥を見た。雨鳥は何かに気づいて、必死の声で叫んだ。
「鳥の方を見ろ」
 言語学者は顔を上げ、意識をはっきりさせた。そして、振り返って鳥の群れを見た。鳥たちの魂の無い目がはっきりと見えた。言語学者は樹肌にしがみつこうとしていたが、それでは凌げないと思い、出っ張りに手をかけるとぶら下がった。
 足の下には何もない。
 言語学者の上を鳥の群れが通り過ぎる。クチバシが手の甲を掠めた。血が顔に垂れた。羽音、鳴き声、クチバシが樹を引っ掻く音。あらゆる音が重なり轟音となり、言語学者の鼓膜を圧した。
 鳥たちが通り過ぎると、沈黙が残った。見上げると、極色彩の雲が、らせん状に上昇していくのが見える。
 案内人は穴から出ると、慎重に周囲を確認し、言語学者の腕をつかんで引き上げる。
 穴では雨鳥が待っていて、倒れこむ言語学者を抱き留めた。
「なぜ、あの言葉を知っていたんだ?」
「どういう意味だったの?」
「困難と自分を切り離すな。困難に向き合え、という意味だ。そうすれば、どうすればいいか分かる。そういう村の言い伝えだ」

 穴は巨大な樹を貫通していて、島の反対側に海が広がるところまで見渡せた。風が吹くと、心地よく穴の中の空気が移動し、肌の産毛がくすぐられる。見上げると、天井の一部がいくつも四角く切り取られ、眩しく輝く緑の葉と樹の実が風に揺れているところが見えた。壁に映る木漏れ日も穏やかに揺れ、まるで水底にいるような気分になる。少し遅れて、葉がざわめく心地よい音が穴の中に反響し、樹の実が落ちる。樹の実が落ちると、そのまま穴の中に設えてある水がめに落ちる。水音が、穴の隅々まで反響する。言語学者が水がめの水に触れてみると、骨までしみるような冷たさを感じた。
「これが刑務所か?」
 案内人は水底に沈んだ樹の実を眺めた。実に鮮やかな紅をしている。薄暗い水がめの底では、それ自体が光源のようだ。
「いい生活だな」
 樹の実だけではない、樹肌を彫って作り、樹肌と一体となっている家具や調度品。それらは実に自然で柔らかく、触り心地が良い。こんなところに入れるなら、すぐにでも罪を犯したいと言わんばかりに案内人はため息を漏らす。
「だが、樹としか繋がれない」
 雨鳥は樹の実を見て呟く。案内人は不思議そうな表情で雨鳥を眺める。
「血の匂いがするね」
 奥から声がした。言語学者は手の傷を見た。
「誰か怪我をしてるの?」
 ゆっくりと女性が現れた。
「雷鳥」
 雨鳥が呟く。雷鳥と言われた女性は、天井から射す木漏れ日を浴び、ゆっくりとほほ笑む。
「雨鳥?」
 雷鳥が尋ねる。雨鳥はぎこちなく頷いた。
「話があってきたんだ」
 そう言うと、その場から逃げるように、言語学者を紹介する。
「誰だと思う?」
 雷鳥は首を傾げる。
「お前が通じた男の娘だ」
 言語学者は何と言葉を発してよいのかわからなかった。父は自分を見捨てて、この女性のもとへと行ってしまったのだ。父とは少し歳が離れていただろうが、彼は全く気にしなかっただろう。彼女からは年齢とは全く無関係な包容力のようなものが感じられた。
「父親にそっくりだね。目元が」
 雷鳥は、言語学者の傷ついた方の手を取り、ゆっくりと水がめの中に浸す。彼女は悲鳴を上げそうになった。絵筆をつけたように赤が広がるが、水がめは樹の水脈と繋がり巡回しているので、すぐに元の透明度に戻る。合わせるように、痛みもゆっくりと引いていく。
 言語学者は雷鳥の横顔をじっと眺めた。
「父の事を聞いてよろしいですか?」
「もちろん」
 口元にだけ微笑みを浮かべ、雷鳥は答える。
「なぜ、私の父にそこまで優しくしてくれたのですか?」
 言語学者はじっと横顔を見つめた。
「島に着いた時、あなたの父は除け者のように見えた」
 除け者、という言葉を聞いて、言語学者は胸が痛んだ。孤立させ、明らかな除け者のようにさせたのは、自分だ。もう少し心を開いていれば、結果は違っただろう。
「除け者だったから、何とか繋がらなければならないと思った」
 そう言って、雷鳥は笑顔を浮かべる。
「そして、気が付いたら。離れられなくなっていたのよ」
 また風が吹いて、木漏れ日が液体のように揺れる。その言葉を聞いて、言語学者は、この女性がこの島の言葉を心から愛している事が分かった。だが、父を自分から奪った女には違いない。改めてその事を思い出した。水の中で、言語学者の手は強張った。押し出されるように、血が噴き出す。
「それを知って、私はお前を売ったんだ」
 雨鳥が言葉を挟む。
 雷鳥は少し驚いたような表情をしたが、すぐにまた元の穏やかな表情に戻った。
「どうすればいい?」
 雨鳥は雨に濡れた小鳥のように肩を竦める。
「村がどうなっているか知っていますか?」
 言語学者が言葉を挟む。
「いいえ。ずっとここにいたんですもの」
 雷鳥は肩をすくめる。
「村ではこの人しかもうこの島の言葉をわかる人がいません」
 雷鳥は驚き、雨鳥を見つめる。
「しかも、しばらく使っていないのでな」
 雷鳥がこの島の言語で雨鳥に話しかける。
 言語学者は、初めてこの島の言語の持つ美しさを知った。雨鳥の鳴き声のように美しい。
 雨鳥が島の言語で答える。
 しばらく使っていなかったせいだろう。お世辞にも、流暢とは言えないぎこちないもので、とても鳥の鳴き声とはいかなかったが、雷鳥は微笑んで、再び言葉を紡ぐ。徐々に、雨鳥の言葉も淀みなく出るようになった。
 雷鳥も会話の形でなければ、これほど言葉は出なかっただろう。
 何かが二人の間で滑らかに循環し始めている。
 言語学者の中に滞っていた感情もゆっくりと流れてゆく。
 彼らの言葉、そして、自らの感情の変化を感じると、自分は、あらゆるものの一部だと、言語学者は思った。失われた時間を取り戻すように、二人はいつまでも話し続けた。
「いつまで話してるんだろうな」
 案内人が少し不安そうに尋ねる。
「さあね」
 言語学者が答える。
 美しい言葉のやりとりだった。いつまででも聴いていたかった。言語学者は父の言葉を聴いているような気分になった。
 気が付くと、手の痛みは無くなっていた。

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