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飛行機雲

 雨上がり特有の土の匂いが、開いた窓から流れ込んできた。
 秀樹が顔を上げると、プラスチック制の水のない水槽が、白いレースのカーテンに撫でられている様が見えた。カーテンと水槽が擦れる音を聞きながら秀樹は窓を見た。カーテンの合間から見える空は、まるで溶鉱炉のように赤かった。次に水槽の中で佇んでいる黄色と黒の肌を持つカエルを秀樹はしばらく眺めていたが、空からの飛行機の音で、集中が途切れた。秀樹は立ち上がり窓の外を見た。小学校の校庭ほどの広さを持つ公園が見え、芝生は全て橙色に染まっていた。空には綿を伸ばしたような飛行機雲が伸びていた。
 絵の具の塊のようなカエル、中南米コスタリカ産のヤドクガエルを眺めたのは、自らの目を楽しませるためだけではない。
 人間には、時々、何もかも忘れる時間が必要であると秀樹は考えていた。飛行機雲から目を離すと、アパートの象牙色の壁紙が、淡い橙色に染まっている様子と、それから、コンビニで買った白いプラスチックの時計を見た。
 どれくらい蛙を眺めることに時間を費やしたのかを確認すると、約七分だった。徐々にカエルを眺める時間が伸びているのは、間違いがなかったが、例えば、潜水時間が伸びていくような高揚感はなかった。
 時間だけでなく、集中の質も上がっていたようだ。
 背後で、三歳年上の姉が自分を見つめている事に気付かないほど、眺めることに集中していた。
 姉は細い。細くて、折れて壊れそうなほどだった。
 坊主でやや恰幅の良い秀樹は二十五歳とは見られず、姉の弟とも見られなかった。 
 姉は何かを言おうとしたが、何も言わず、代わりに目を細めて外を見る。
 姉が少し驚いたような表情を見せたので、首を伸ばして秀樹も見てみる。何もなかった。遊具ひとつない雨上がりの公園には誰もおらず、物音ひとつもしなかった。秀樹は首を傾げ、また椅子に座り込み、姉を見てみる。久しぶりに時間の流れがゆったりと感じられた。土の匂いに交じって、うっすらと酒の匂いが姉から漂ってきたので、秀樹は興ざめした。
 姉はプラスチックの箱を指ではじいた。大きな力を込めたのか、乾いた音が部屋中に響いた。カエルは動かなかった。
 望んだ反応かどうかはわからなかったが、姉の動きをカエルを見ている。カエルを観察する時だけ、姉は二十年前、秀樹が一番最初に記憶している姉に戻った。
 コスタリカ産のヤドクガエル。
 姉は最初、カエルの持つ毒々しい色のコントラスを気味悪がっていたが、完全に無毒化された存在であると知ると、むしろ憐みの対象としてカエルを見るようになった。中南米で捕えられ、毒のない虫を与えられ、無毒化されて、飛行機に乗せて地球の裏側まで連れてこられた。もう故郷には戻れないだろう。姉のように同情はしなかった。ただ、波乱万丈の生涯だと思った。
 秀樹は別に姉がカエルを眺めるのは構わなかった。姉がカエルを見る時に浮かべる笑顔が嫌いだった。昔の姉がそのまま出てくるのだ。まだ、本当の姉が死んだわけではないという事を思い知らされてしまう。現在の姉は、秀樹の知っている姉ではないと、秀樹は考えている。姉は頻繁に男を連れ込む。姉の部屋とは完全に隔離してあるので、そいつらとは顔を合わせることは事はないが、そいつらが何者であるかはわかっている。秀樹たちの父親ぐらいの年齢の男たちだ。姉は生きていくために、必要な生産的な活動である事をほのめかしているが、要は売春だろう、と秀樹は心の中で毒づいてみた。それは誰にも聞こえない罵倒だった。内部の声が消え去ると、空しい気分になり、消えかかっている飛行機雲が藍色に染まっている様を眺めた。
 昔の姉を見たのは久ぶりだった。
「地球は回ってるんだな」
 空の端に、星が見えたので、秀樹は自然とそう思い、言葉を口にした。姉は馬鹿にしたような表情を浮かべた。
「地球はひとつね」
 暇だからなのだろう、姉は秀樹と同じぐらい大きな事を言いたくなったらしい。良い言葉だと思ったが、姉の口から出た言葉であるので、胡散臭い自己啓発、スピリチュアルの悪臭が付着しているように秀樹には感じられた。姉がそちらの方向に話題を振る可能性が高かったので、秀樹は素早く話題を変えた。
「地球がひとつはいいんだけどさ」
「何?」
「俺もひとりになりたくてさ」
 前から温めていた言葉だった。言ってしまってから秀樹はばつの悪い表情を浮かべた。婉曲に伝えるつもりはなかった。姉に直接、出て行けと言えない事もなかったが、肉親であるので、妙な手心を加えてしまった。
「カエルは?」
「カエルは人間じゃないだろ」
 鳴き声をあげるが、会話はできない両生類。言葉を知らない色の塊に、自分の心が癒されているのかと思うと、秀樹は少し情けない気分になった。姉が霊的なものに傾倒する事を馬鹿にできたものではない、と苦笑した。

 夕食は久しぶりに姉と食べた。理由は特にない。話の続きをするつもりはなかった。姉の機嫌も別に損なわれていないからご機嫌をとるためでもない。小さなグレーのテーブルに出前の中華料理が置かれた。麻婆豆腐に酢豚が嫌いなわけではないが、秀樹は少し眠かったのであまり箸が進まなかった。姉は白いレンゲで真っ赤な麻婆豆腐を口に運びながら、合間にチリ産の赤ワインを飲んでいる。
「カエルってさ、ワイン飲める?」
「知らないよ」
「そういえば、あんたパイロットになるって言ってなかった」
「言ってない」
「水泳が得意だったね」
「そうかなあ」
 はぐらかしたが、泳ぎが得意なのは事実だった。パイロット云々は本当に記憶がない。秀樹は手元の箸を眺めた。頬の赤らみを悟られていないか不安になった。過去の自分など、姉の中では存在すらしていないのではないかと考えていたのだが、そうではなかった。秀樹は過去を思い出した。子供の頃は毎日泳いでいた。あらゆるものが不得意だが、肺だけは強かったらしい。泳いだり潜ったりぐらいしか、得意なものはなかった。一方の姉は全てを器用にこなした。勉強もその他ありとあらゆる事も。調べたわけではないし、調べようもなかったが、姉に苦手とするものなど、存在すらしなかったのではないか、と思える。秀樹が本気で姉になりたいと考えた事は一度や二度ではない。
 昔の事を思い出しているうちに、意識が何処かに飛んでいた。姉が何か言っていたらしいのだが、聞こえなかった。自分の言葉を意図的に無視していると、姉は感じたらしい。それほど悪くなかった姉の気分は急激に悪化したらしく、姉は秀樹をなじり始めた。お前はだから、会社を辞めることになったんだ。本当は辞めたのではなくて、クビなのではないか、と。姉は酔っているし、悪意はないことは理解していたのだが、秀樹は苛立った。
「ここは、俺の家だぞ」
 つまり、姉などいつでも追い出せるという宣言だった。秀樹は自分の強気な態度が、姉をさらに怒らせると思ったが、そうはならなかった。姉もここを追い出されては、色々と不都合があるので、下手に出たほうが良いと計算したのだろう。態度を素早く改善させ、卑屈なほどに笑顔を見せ、秀樹に対し、目の前にいるのはお前が知る本来の姉である、と露骨なまでに主張した。懐かしい笑顔だった。確かにそこにいるのは秀樹が知る本来の姉に違いなかった。だが、それは逆に、輝いていた姉が腐敗したという確かな現実を、秀樹に突きつける結果となった。夢を持って家を出たが、堕落して、自己啓発と宗教にのめり込み、弟の家に転がり込んできた姉。姉そっくりの別人だと、秀樹は無意識で納得しながら、恵まれていない人に施すのだという意識で、部屋を貸していた。
「部屋に戻れよ」
 秀樹は立ち上がった。姉も無言で立ち上がり自分の部屋へと戻った。目の前がふらついた。秀樹の中の内在的な憎しみが爆発した。取り繕おうとしたが、無駄だった。姉に対して、もっとひどい言葉を言ったこともあるが、本物の憎しみをたぎらせたのは初めてだった。ノルアドレナリンだかアドレナリンだか知らないが、恐らく心臓に悪い脳内麻薬がたくさん出ていて、胸が痛んで思考があっちこっちに彷徨った。秀樹はベッドに倒れこんだ。そしてそこが、陽の当たる草原であるかのように眠り始めた。
 
 柔らかな朝の光ではなく、骨まで染み入る寒さで秀樹は目を覚ました。瞼を開けて外を見た。窓は開いていて、びっちりと閉じた曇り空が見えた。小雨が降っている事は音でわかった。目をこすり、秀樹は窓際の水槽を見た。ぼやける視界のなかにヤドクガエルの姿はなかった。水槽の蓋は開いていて、プラスチック製の熱帯植物と陶器の石が見えた。そこにカエルがいなければ、本当にただの安っぽい人工的なジオラマだった。
 そのとき、音が聴こえた。隣の部屋からの念仏だ。いつもの事だ。姉が起きて仏壇に拝んでいるのだろう。やたらとはりがあり、姉ではない別人を思わせる声だ。神仏を嫌っていたのに、ここに引っ越すときに姉が運び込んできた。姉とはここ五年ぐらい会っていなかった。その間、姉に何があったのかはわからない。姉をスピリチュアルなものに傾倒させるような出来事があったのだろう。それが何であるか、秀樹はわかりたくなかった。わかっているのは、あの嫉妬に胸を焦がすほど強かった姉ですら、根本から変えてしまうものが、確かに存在する、ということだ。
「姉さん」
 黒い数珠を指に絡めて、感情の籠っていない目で見つめ返す姉を見て、秀樹はただ下を向く。
 この人は、誰なのだろうと思った。
 胃を捩じるような心地よくない感情がこみ上げる。それを抑えて、秀樹は顔を上げた。
「水槽の蓋が開いてるんだよ。窓も」
 姉は正座した状態で、ゆっくりと秀樹の方を向いた。仏壇のすぐ横にあるワインの瓶が目に入った。昨日よりだいぶ減っている。
 ぼんやりとした目に生気が点灯した。昨日の腹いせに自分が逃がしたのではないか、そう疑われていると、姉は気づいたらしい。
「自分じゃない?」
 言葉は冷たく突き放す。
 立場が弱いことを自覚しているのか、ややためらいがちに姉は言った。秀樹は反論出来なかった。自信がなかった。確かに昨日は前後不覚だった。秀樹は口を結んで、部屋を出た。読経の続きが聴こえてこなかった。
  
 カエルを踏みつぶさないように、一歩一歩、慎重に秀樹は公園を歩いた。足元にいるかもしれない。子供のころに絵具を踏んだ場面を思い出し、背筋を伸ばした。今度はただの色の塊ではない生きている。内臓があり血が通っている。雨雲は低く垂れ込めていて、針のように細い雨の冷たさは、骨まで沁みた。芝生は枯れているので、カエルの毒々しい肌は目立つはずだが、見つけることは出来なかった。身を屈める事をやめ、原っぱの真ん中で秀樹はひとり直立した。もう帰りなさいと言うように、雨がゆっくりと強くなってきた。
 全身が湿って感覚が無くなっていく。こういう時は、入れ替わるように喪失感が胸の奥から生まれるので、その前に、カエルについて考える事を止め、未来について考えるべきだと思った。
 あまり、快い気分にはなれない。明るい未来がない事を再確認する作業が、面白いはずがなかった。
 もう、仕事は辞めてしまっていた。そして、もう二度と働ける気がしない。
 姉に頼られる立場だったが、このままだと、いつか姉に頼る立場になってしまうだろう。環境を変える必要があると思った。貯めておいたわずかばかりの金で、中南米へでも行こう。あのカエルの故郷だ。きっと、あいつに似たカエルがそこら中にいるのだろう。色とりどりの圧巻の光景だ。そしてもちろん、奴らは偽物ではない。きちんと毒を持っている。姉は置いていく。金持ち相手に、身体を売っていればいい。地球の反対側まで来て、念仏など聞きたくもない。
 その時、秀樹は何かの音を聞いた。しゃがみこみ、地面に耳をつけてみた。子供の頃を思い出す。昔はもっと地面と近かった。寝っ転がったり、こうして、地面の音を聴いたりした。
 遠くから自動車の音が聞こえた。眠りにも似た心地よさを覚えていると、大地を蹴る音が聴こえた。遠くのほうで、一回、二回。頭の中で、カエルが跳ねる姿が浮かんだ。
 顔を上げ、周囲を見回したが何も見えなかった。足だけが見えた。サンダルが泥で濡れている。顔を上げると、姉がいた。
「何やってんのバカ」
 姉はそう言って、傘を差しだす。
 そこには、昨日のような計算は見られなかった。自然な形で、姉の中から本来の姉が出ていた。
 もうカエルは見つからないと、秀樹は思った。
 だが、本来の姉は死んでおらず、いつでも会えるのだという事実がほんの少しだけ、秀樹の喪失感を埋めた。

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