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オーロラ

 オーロラは見えなかった。雪を被った白樺の合間に、揺らめく星が見えるだけでも、スオミには満足だった。夜空を見上げ、そこに星が見えれば、北欧の小さな村に住んでいる事を忘れ、ほんの少しだけ日々の疲れもとれた。
 スオミは倉庫から、大き目のマキを二つほど取り出した。十歳の力では両脇に二つ抱えるのが限界だった。足元で白い犬が尻尾を振っている。犬の役割は、家の裏口のドアを引っ掻いて、スオミの母にドアを開けてもらう事だ。
 家に向かう途中、スオミは白樺の木々の間から見える湖を見た。
 夜空の星を映し出すほど、表面が滑らかで、輝いている。一見すると美しいが、そこには危険な兆候も含まれていた。今夜は肌が切り裂かれるほどの冷え込みだが、最近は妙に生暖かい日が続いていた。それが原因で、湖の表面の氷の生成が十分ではなく、人間が乗ると割れてしまうと言われていた。
 スオミは家に入ると、玉ねぎとジャガイモと鮭の身をミルクで煮込んだシチューを食べた。具はどれもとろけていて、冷えた身体が芯から温まった。スオミとスオミの弟が黙々と食べている間、母親はあまり食事に手を付けず、窓の外を眺めていた。
 父がいなくなって、もうだいぶ時間が経つ。その間、何度陽が昇り、沈み、何度、オーロラが空を覆っただろうか。正確な回数はわからないが、年にすれば四年は経った。
 村の中心部の明かりが、遠くに見える。大きな村というわけではないが、ここと比べれば、まるで毎晩お祭りをやっているかのように見えた。実際のお祭りの時はこの村はずれも少しは賑わう。除け者にされても、祝う権利、祝福される権利だけはわずかにもらえた。
 今年も村の中心から来た人が、真っ白なヨーグルトケーキをくれた。にこやかな顔をした中年の夫婦で、妻の方は去年より少しだけやせたのではないかとスオミは思った。お菓子をくれる前に、あなたの父が行ってしまった事は取り返しがつかないが、と夫婦が前置きするようになったのは、去年からだった。スオミがもう理解できる年頃と思ったのだろう。
 父が何をしたのか、改めて母に問い直すことはしなかった。もう何が起こったかは理解している。父は村で殺人を犯したらしい。それから、村のお守りを盗んで、湖に浮かぶ白樺が茂る浮島に逃げた。生まれたばかりの息子、妻、そして六歳になる娘を置いて。
 その罰は迅速に下った。逃亡した父本人ではなく、残された家族にである。スオミの父は樵をしていた。力が強く、仲間たちからも一目を置かれていた。どうして、罪を犯し逃げ出したのかは、誰にも理解できなかった。母は手先が器用で、工芸品だけは作ることを許された。その工芸品は、ヒンメリという大麦の藁で作られた細工で、綺麗に整った動物の骨組を連想させた。魔除けにもなるというが、スオミはその効果を実感した事はなかった。 
 スオミはこの村があまり好きではない。樵たちは野蛮で粗野で、自分のような家で一人で本を読むような人間には向いていないと思った。追放同然にこの村はずれに引っ越して来ても、むしろ彼らから離れられて、幸運だったとすら思えた。とはいえ、村人から受ける扱いには、腹に据えかねるものがあった。村に良くない事が起こるたび、父がお守りを持って行ってしまったため、と彼らによく責められた。
 
「父さんは、今何をしているの?」
 スオミが尋ねると、母は気まずそうに首を振った。マキはストーブの中で燃えている。ここでは火は命と同義だ。この火が消えれば全員凍死してしまう。
「早く寝なさい」
 母は工芸品を丁寧に組み立てているところだった。何度も見て、スオミは作り方を覚えてしまった。実際、手を動かしたことはないが、自信はあった。手順は神経に焼き付いている。作りたいと申し出たが、断られてしまった。理由を聞いたが、母は何も答えてくれなかった。母にとって、この仕事が全てなのだ。ストーブの火と同じぐらい重要なもの。父を失い、この仕事まで娘にとられてしまったら、自分には何も残らないと考えているのかもしれない。
「父さんに会いたい」
 スオミが呟くと、母は細工を作る手を止めてスオミを見据えた。スオミの言った事がいかに大それているか、自ずと理解するのを待った。スオミは母親の思う通りにはしなかった。スオミは理解できないふりをした。
「父さんはもう……」
 母は感情を抑えきれず泣いた。そして手を闇雲に振った後、目頭を押さえて沈黙する。
「わかってるでしょ。もういないのよ」
 スオミは、それが嘘であるという事実を母に突きつけなかった。
 父は生きている。湖の浮島の小屋で一人暮らしているのだ。しかし、母の中ではもういないも同然の存在だった。
「あんたも忘れて」
「いいえ」
 スオミが母の元ににじりよると、母は少し身を引いた。娘に対してある種の怖れを感じているようだ。
「父さん、村の大事なお守りを盗んだんだってね」
「父さんから取り返すつもり?」
 取り返せば、何かが変わるとスオミは思っていた。自分たちに降りかかる屈辱、それを何としてでも振り払いたかった。弟に対する侮辱、母に対する侮辱、父に対する侮辱。自分たちは汚れているという評価を振り払いたかった。
「そんな事したって……」
 母の手に力が入った。
「何もならないのよ」
 気が付くと、母は再び涙を流していた。
「もう、元通りには戻らないの」
 スオミはそうは思わなかった。失われた時間は確かに戻らないが、地に落ちた評価は元に戻せるかもしれない。
「父さんの元になんか、いっちゃだめよ。絶対に」
 母はスオミに対して念を押した。父は帰ってこないし、父などいないという母の考え方をスオミに植え付けようとした。そうは言っても、父が存在する事は確かだ。スオミの中では父が自分の人生に影響を与え続ける存在に変わりはない。母や弟にも影響を与える存在である事は母も理解しているはずなのだ。
 スオミは自分の部屋に行くと、安らかに眠っている弟の寝顔を見て、幸福な気分になると同時に、この子に到来する寒々しい未来も想像できた。父が起こした行動の報い、それが弟にも降りかかる。スオミは女であるから、まだこの程度の誹りで済んでいる。弟はどんな扱いを受けるか分かったものではない。

 スオミは父に会いに行く事になった。いつかはそういった時が訪れると思ったが、こんなに早く訪れるとは思わなかった。
 きっかけは、ある日、村の中心部に母のヒンメリを届けに行った時の事だった。フードを被り、人目につかないように行動していたつもりだったが、村長には見つかり、呼び止められた。村長は恰幅の良い白髪の老人で、子供たちにも優しく人気だった。だが、その時の村長からはその柔和な表情が見られず、目の奥には得体の知れない冷徹な感情が見えた。口元や頬は緩んでいたので、表面的には、いつもと同じにこやかな村長に見えた。
「元気かね、スオミ」
「……村長さん」
 村長が村の中心部に顔を出すなど、珍しかった。いつもは南側の村はずれに住んでいて、最近はあまり外出する事も無いと聞いていた。
「村に用があってな……。ところで……」
 村長は周囲を見回し、誰もこの老人と孫ほどの年齢が離れた子供に注意を払っていない事を確認した。
「少し、話せるかな?」
 スオミに顔を近づけ、村長は囁いた。突然の事なので、目を見る事は出来なかった。スオミは視線を逸らし、村長の額の辺りを見ると、皺の奥まで見え、少し気分が悪くなった。
「ええ」
 気圧され承諾したが本心は嫌だった。村長の表情を見る限り、その話が、どうしても良い話とは思えなかった。
「ここではなんだから、家にこないか?」
 
 村の中心部から南側に少し歩くと、すぐに人気のない寂しい風景が見えてきた。村の南側も村はずれには違いないが、スオミの一家のように、弾き出され、追いやられた家族の家は一軒もない。時々、白樺の木から除く家々の庭は、手入れが行き届いていて、この風景の中で唯一生気が感じられた。二人とも何も語らなかった。村長の家で語られる話を想像しながら、スオミはうつむいていた。もしかしたら、この村を出て行ってほしいという話かもしれない。父が消えてから、スオミ一家は何も悪い事はしていない。ひたすら罰に耐え、息を潜めて暮らしてきた。それでも、村長の気が変わる事もありうる。
 村長の家は質素だが、他の家々と同様、庭は綺麗に整備され、余分なものは何も置いていなかった。白樺の木を使ったドアは、綺麗に磨き上げられている。村長が整備しているわけではないだろう。毎日、規則正しく、手を抜かず行わなければこの清潔さは出せない。
 村長の家の中にはいると、玄関の隣の小さな部屋に通された。村長の書斎らしく、本棚には本がぎっしりと詰められていて、窓の前には机があり、羽ペンと真新しい紙が置かれている。こんなところで本を読めたら最高だとスオミは考え、一瞬だけ緊張感から解放された。来客用の小さなテーブルがあり、向かい合った椅子が二つある。
「かけて」
 笑顔で言われたが、少しも歓迎されている気がしなかった。スオミが席に着くなり、村長はため息をつき、窓の外に目をやる。窓から遠雷が聞こえた。スオミも窓の外を見た。空には雨雲が低く垂れこめていて、その下にはなだらかな緑の丘が見えた。
「頭が痛くてね」
 窓の外に目を向けたまま、村長は呟きつづける。村の事などスオミには分からない。村はずれに住んでいるし、ましてや子供である。
 村長は続けた。
「天気が変だろう。冬なのに妙に暖かくてね」
 それは既にスオミも感じていた。湖の氷も割れやすくなっている。湖の上で釣りをしていたら、氷が割れ、椅子ごと湖の中へ落ちてしまった人もいると聞いた。
「十年前も、こんな冬があった。そして春は悪いことが立て続けに起こった」
 窓の外の空模様を眺めながら、スオミは村長の言葉を聞き流していた。スオミ一家には特に関係の無い事だと感じていた。つまはじきにされ、息を潜めるように暮らしている自分たちが、これ以上酷いことにはならないと思っていたので、むしろ心が沸き立った。
「みんな不安がっている」
 村長は言葉通りの不安気な顔をスオミに向けた。真剣な表情だったのでスオミは浮かれ気味の内心を隠さなければならなかった。
「どうして欲しいんです?」
「お守りだよ。それをとってきてほしいんだ」
 お守りとは、父が四年ほど前に持ち出してしまったあのお守りの事だった。母が作るヒンメリと形は似ているが別物だ。白樺の木で作られ星の形をしている。
 もちろん、村長もスオミの父が何処に住んでいるか知っている。湖に囲まれた浮島で、冬に湖が凍った時にしか行けない。春や夏にカヌーで行く事も出来ない。湖に住む大きな鯰に飲まれてしまう事が多い。
「娘の君なら、きっと返してくれるだろう」
 村長は繕った柔和な笑顔を浮かべた。
 スオミが自分でも驚くほど不機嫌な表情を浮かべると、今のは間違いであるというように、村長は元の真剣な表情に戻った。そして初めからスオミなどいないかのように、立ち上がる。村長にもスオミの不快感も理解できたのだろう。スオミの一家に罰を与え続けているのは村長である。それだけでは飽き足らず、さらにスオミを危険な旅へと促したのだ。
 
 その夜はとりわけ寒かった。これならば、薄くなっている氷も少しは割れにくくなっているだろう、とスオミは思った。
 凍った湖を渡る決意をしたのは、村長の家から出て、自分の家に帰ってからだった。スオミは村長の家では明確な拒絶を示した。村長が部屋を出ようとすると、その背中に、私の父は死にました、という言葉だけを投げかけた。スオミは冷静さを保つのが精いっぱいだった。お守りを持って帰ったところで、天候が回復したり、災厄を防げるわけではない。ただ村人の不安を解消するため、気休めのために、村長はスオミを危険にさらそうというのだ。
 家では母が酔いつぶれていた。早晩、唯一母が誇れるヒンメリ作りさえ出来なくなるだろうと、スオミは思っていた。母のそばには、知らない男がいて、お前の親父に似ている、とだけ言い残して去って行った。知らない男の出入りが最近多くなっていた。
「良く出来てるね」
 スオミは作りかけのヒンメリを手に取り、母のそばで呟いたが、母は空気が抜けたような笑いを浮かべるだけだった。
 嘘だった。良い出来ではなかった。どんどん粗く、ひどくなっている。母が寝息を立て始めると、スオミはヒンメリを机の上に置いた。ストーブの中に放り込みたかったが抑えた。すると涙が出てきた。
 
 持っていくのは、ランプ一つだけだった。
 風が湖の表面をなぶり、白い煙のようなものを舞い上がり、それが月明かりを受け、ぼんやりと輝いている。
 恐る恐る、スオミは一歩を踏み出した。
 湖の氷は、スオミの体重に耐えたので、スオミはほっと息を吐いた。氷の表面を刻む風の音だけが聴こえる。空を見上げると、月の周囲には白いヴェールのような雲がたなびいていて、月の光を強く受けた部分は透けて星空の瞬きが見えた。
 冷気が前進を拒絶するように、自分の周囲を容赦なく取り巻いている気がした。湖の精のようなものがいたら、きっと父の住む浮島に行く事を歓迎していないのだろうとスオミは思った。氷には薄い個所もあり、湖の下で蠢くものが透けて見えるほどだった。大きな魚が何匹か見えた。それに混じって、人の顔をしたものが、横切ったように見えスオミは顔をそらした。スオミは浮島へと急いだ。大丈夫だ、と何度も自分に言い聞かせた。氷は薄くなっているが、割れる事はない。氷が割れる恐怖よりも、浮島へ行く事に対する心理的な抵抗のほうが大きかった。父は自分を迎え入れてくれるだろうか、そもそも、自分のことを覚えてくれているだろうか。
 突然、吹雪が吹いた。月にかかる雲は全く動いてない。地上だけが荒れていた。スオミはうずくまり、ランプの火を守らなければならなかった。その過程でスオミはランプのガラスと頬を接触させてしまった。けものに噛みつかれたような熱さに、思わず声を上げた。寒さで、全身の感覚が薄れてゆく。家族が村の人々に認められるため、自分はやり遂げなければならないのだと、自分に言い聞かせた。まつ毛が白く凍り付いてゆくのがわかる。唇もきっと真っ青なのだろう。その時、氷を踏みしめる音が聴こえた。けものの足音なのか、人の足音なのか、判別がつかなかった。スオミは立ち上がって音が聴こえた方向にランプを向けた。だが、そこには何もなかった。吹雪は相変わらず強かったが、何とか前進できるほどには弱まっていた。スオミは視線を前に見据えた。小さな雪が白い幕となり、その幕が煽られ、交差し重層化し、湖に浮かぶ浮島を見えなくしていた。後ろを振り返っても、元来た道を示す足跡は消えていて、家の灯も見えなくなっていた。
 きっと、幻聴なのだと、スオミは考えようとした。恐怖と寒さがスオミの中で作用して作り出した幻覚。湖の氷の下には魚しかいないし、周囲には誰もいるはずがない。しかし、一度考え始めると、その考えが頭の中で回り始めた。スオミは疲労したので再びうずくまった。突然、湖の表面にヒビが入り、スオミの足元が崩壊した。湖の下では、何かに髪と腕をつかまれた。冷たい水に顔がつかるところで、スオミは目を覚ました。氷は割れていなかった。しばし眠ってしまい、夢をみていたようだ。
 どれくらい眠っていたのかわからないが、吹雪はすっかり止んでいた。スオミの身体を毛布のように覆う白い雪が、ランプに照らされている。湖の表面を覆っていた冷気は消えていた。スオミが倒れていた部分には雪が積もっておらず、氷が鏡のようにスオミの姿を映し出していた。周囲からは何の音も聴こえてこなかった。唯一、スオミが立ち上がる際、狼の遠吠えが一度聴こえたきりだ。月はまだ出ていた。湖畔の針葉樹林の黒い影が藍色の星空を刻んでいる。
 その時、足音が聞こえた。氷の上を爪でひっかくような音。振り返ると、男が一人立っていた。外見はどこにでもいそうな、それこそ父と同じぐらいの年齢の村人に見えた。だが、目が赤すぎた。しかも、ぼんやりと光っている。月明かりでぼんやりとしか見えないはずの男の顔は、目の光で、くっきりとその輪郭まで見えた。漆に触れた手で目をこすれば目が赤くなる事はあるだろうが、発光するなど聞いた事もない。恐ろしいばかりではなかった。生命力溢れるその光を見ていると、冷え切った身体が温まり、力が蘇るようだった。普通の人間ではないとスオミは考え、少し後ずさりした。男の足元に、ここに至るまでの足跡がついていない。スオミは息を飲んだ。
「こんなところで、何をしている?」
「別に。歩いていただけです」
「一人でかい?」
 男は指でひげの残る顎に触り、月に目を向け、試案顔を浮かべた。スオミが人間なのか、自分と同じ幽鬼なのか、まだ理解していないようだ。スオミは息を凝らして、男の横顔をまじまじと見た。赤く発光しているのは白目の部分だけだった。黒目は新月の夜のように真っ黒だ。顔は凍死体のように土気色で、まつ毛、高い鼻、唇に白い霜が降りている。濃厚に死を連想させる男の顔と、異常なまでに生命を感じさせる目の光。そのあまりにも極端な対比がスオミの平衡感覚を狂わせた。
「もう、帰るので」
 目を伏せながら、スオミはその場を離れようとした。腰が抜けて動けなくなると思っていたが、あっさりと身体を動かす事が出来た。何かおかしいと思った。氷に映る自分の姿が動いていなかった。
「なんでこんなところにいるのかな?」
 鼓膜に直接響くような声だった。スオミは男に背を向けているが、きっと自分の背をじっと眺めているのだろうと思った。足を止めたくはなかったが、どうしても止まってしまった。振り向くと思案顔だった男は何かを理解した表情になっていた。目は先ほど変わらずに、真っ赤に光り続けている。
「君はスオミだろ?」
 なぜ名前を言い当てられたのかわからないが、動揺を顔に出すわけにはいかなかった。湖のほとりの村で、ずっと人間として生活してきた。その事を男は知ったのだろう。
「ちがいます」
 何かが自分の周囲、足元に集まり始めていると感じた。氷の下の冷たい水に、魚ではない何かが泳ぎ回っている。爪でかりかりと氷を内側からひっかく音がした。
「なんで君はスオミじゃないんだい?」
 男の声はスオミの痩せた腕に、ねっとりと絡みつくようだった。空を見上げると、オーロラが出ていた。星空を柔らかく包む赤いカーテンのようなオーロラだった。いつもと違う色なのでスオミは不吉なものを感じた。氷の表面の雪が解け去り、氷が徐々に薄くなっていく。氷が割れて、青白い顔をしたスオミそっくりの何かがゆっくりと起き上がった。男と同じように、髪や鼻に白い霜が降りていて、とても生きているようには見えない。
「代わりにこいつを家に帰してやろう」
 男がその少女の髪を手で払うと、白銀のような白い粉が舞った。少女は徐々に生気を取り戻してゆく。スオミは不思議な気分になった。鏡や水、氷に映った自分そっくりの姿ならば見たことがあるが、いま目の前にいる少女のような、立体的な姿では見た事がない。
「こいつはスオミの事なら何でも知っている」
 男はスオミそっくりの娘に語り掛けた。
「兄はどうしたんだね?」
 娘は答える。
「兄は狼にかみ殺された」
 スオミ自身も忘れていた事だった。確かに、五歳上の兄は森で狼にかみ殺された。母が泣き叫んでいた事も思い出した。きっと、父の代わりに一家を支えて欲しいと思っていたのだろう。スオミにとっては、あまりにつらい記憶で、記憶の底に封じ込めていた。ふと、足元を見ると、薄くなり透明度を増した氷の下を、兄の遺体がゆっくりと流れていく。スオミは氷から目を逸らした。周囲には生臭い魚のにおいがした。
「お前はいらないな」
 男は自信に溢れた声で呟くと、周囲の空気を揺らすような高笑いを始めた。スオミの上空では、赤いオーロラが存在感を増していた。スオミはその場から逃げ出した。狼の爪が氷を削るような音が聞こえる。あの男が、背後から迫ってきている。魚の臭いがスオミを追い越し前方から漂うほどの密度になった時、スオミは振り返り、男に向かっていつも身に着けているヒンメリを投げた。男の赤い目が大きく縦に伸びた。ヒンメリは男に当たると火花となって散った。男は胸を抑え、驚きの表情を浮かべたまま、後方へと下がってゆく。足が動いている形跡はなかった。誰かに引っ張られるように男の姿は消えてゆく。男の表情といえば、申し出た親切を断られ、ちょっと信じられないな、という表情だった。男の輪郭が闇の中に消えても、赤い目の光だけは、名残り惜しそうにスオミを見つめ、闇の中でしつこく光っていた。赤い光が完全に闇の中に溶けてしまうと、スオミはその場に座り込んだ。目の前で、ヒンメリの燃え滓が氷の上で燻っていたが、すぐ消えた。魚の臭いは消え、焦げ臭い匂いがだけが残った。スオミは氷を見た。そこには今まで通りのスオミの姿があった。空を見上げると、赤いオーロラは消えていて、青に緑がかったいつものオーロラが出ていた。氷は鏡のように星空を映し、オーロラと満月を映し出している。
 
 湖を渡りきると、スオミは浮島に入り、父の家へ向かった。幽鬼を振り切ったが、今度は父と対面するという緊張に耐えなければならなかった。浮島に来る事ばかり考えていて、何を語れば良いのか考えていなかった。父の家は森の中にあった。白樺の間に見える丸太小屋が父の家だった。庭先には鱒が干してあった。
 オーロラを見ていたのだろうか、父が外に出ていた。
「誰だ?」
 父はスオミの姿を見て言った。相手が少女だという事もあり、その声には警戒感はなかった。
「もしかして、スオミか?」
 スオミの記憶の中の父と変わらなかった。スオミの姿はあれからだいぶ変わっていたと思うが、その面影は残っていたようだ。
「一体、どうしたんだ?」
 父はスオミのもとに駆け寄ると、その蒼白な顔をゆっくりと撫でる。
 スオミは気絶した。
 そして目覚めたときは、父の家の暖炉の前にいた。暖炉の上には、村から持ち出したお守りが置いてあった。スオミの視線に気づき、父もお守りを見た。
「あれを、取り返しに来たのか」 
 目を伏せ、スオミは頷いた。
 父が村に対して、恨みを抱いている事だけはわかっている。スオミは父と村の間に一体何があったのかは聞いていない。
「あれは、事故だった」
 父は暖炉の上のお守りをつかむと、スオミに差し出した。
「持って帰れよ」
「父さんも戻ろうよ」
「いや、あんなところには戻りたくない」
 村長と父。どちらの言い分もきっと正しくないのだろうとスオミは思った。父の心は、はっきりと村や家族からは離れてしまっている。スオミには、父の心の中の分裂が良くわかった。父は言葉で表現する事が苦手だ。それは娘であるスオミも同じである。
「持って帰れよ」
 父の言葉から、若干の苛立ちが感じられた。娘が、自分の心を正確に読み取れない事に失望しているようだった。父は心を閉ざしたまま外に出さない。そこから何かを読み取るなど、無理というものだ。
「でも」
 スオミは何も語らなかった。父も何も語らなかったので、暖かい部屋の中に沈黙が訪れた。暖炉の灯りに照らされた父は、その髭だらけの顔を手で摩っている。スオミには、父が自らの沈黙に引きずり込まれそうに見えた。はっきりと父の心臓付近に暗闇が見えた。
「これは嫌がらせのために盗んだだけだ。何の価値もない。持って帰れ」
 改めて父はスオミに言った。そして何度も頷いた。
「こんなものでも、持って帰れば、お前の勇気はきっと認められるはずだ」
「いつか、戻ってくれる?」
 お守りを胸に抱きしめ、スオミが訪ねた。
「いったんこじれたら、もうどうしようもない場合もあるんだ。それにもう、俺は死人と同じ扱いだ」
 父は立ち上がり、スオミをドアまで案内する。
「もう、忘れてくれ」
 父はそれだけ言い残すと、ドアを閉めた。
 スオミは再び凍った湖を渡り始めた。氷の表面を見ると、きちんと自分の姿が映っているので安心した。空には青と緑のオーロラが包み込むように広がっていた。風も止んでいて、星空を刻む針葉樹林も揺れることはない。
 肌は冷気による痛みを感じていたが、胃のあたりは暖かかった。スオミの目から自然と暖かい涙があふれた。手元のお守りをじっと見つめた。持ち帰れた事で、村の人たちにも認められるはずだと思った。
 あの幽鬼が言った通り、自分の代わりなどいくらでもいる。自分は何物でもない存在なのだとスオミは思った。勇気を示さなければ認めてもらえない存在なのだ。父も同様だ。もはや村に黙殺された存在だ。あの事件以来、父の心は凍り付いたままだ。それを溶かせる日が来るのかどうかはわからない。
 父も自分も、いまここにいる事を認められたい。死人ではなく、しっかりと生きている存在と思われたい。スオミはそう思った。

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