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四月の雪

 おそらく、生身の人間に会うのは大学を卒業してから初めてだった。
 しかし、あまり人間に会ったという気がしなかった。
 彼女はもちろん幽霊ではなく、実体がある。薄い皮膚を通して、青い血管が見えるし、彼女には血も涙もあるに違いないが、残念ながら、私には信じられなかった。
 こんな失礼な考えを私は不意に思いつく。いつもの事だ。そして、それを悟られてしまうのではないかと緊張するのだが、彼女に関しては、その心配はないと考えた。彼女は艶のある黒髪を持ち、眼鏡をかけている。顔色はあまりよくないが、それよりも気になったのは、私に関する無関心ぶりだった。私自身、大した人間ではないが、もう少し注意を払ってもらっても良いのではないかと思った。
 彼女には心が無いと、彼女の母親から聞いていたし、一目見た時から、私もそう思った。
 私は大学四年になっても、特に就職先は決めていなかった。決められなかったというべきか。ぼんやりしていたら、自動的に一年間の就職浪人が決まった。
 同じ頃、知り合いからアルバイトを頼まれた。
 浪人が決まった女子高生がいるので、家庭教師をしてほしいとの事だった。
 私はその女子高生の親に会った。気に入られたという実感はなかったが、特に嫌われもしなかったのだろう。採用はあっけないほど簡単に決まった。
 大学を卒業すると、彼女が一人暮らしているという部屋に私一人で行った。
 彼女は窓際の机で、茶色い大きめのヘッドフォンをつけていた。その日の気温を考慮すれば、だいぶ厚いセーターを着込んでいるように見えた。暑くないのか、などと私は言わなかった。彼女から、言葉が何も返ってこない事は簡単に想像できた。私が部屋に入ったのに、私など居ないかのように、彼女は音楽を聴き続けていた。頬杖をつき、ただ窓の外、春の陽射しを眺めている。しっかりと、目覚めている彼女を見たのは、その時だけだ。それ以降は、死んだように眠り続ける彼女しか見ていない。彼女の母親の話によると、彼女と母親は遠い南の島に住んでいたらしい。その島には、明治時代に出来た日系人のコミュニティがあり、つい最近まで一家でそこに住んでいたという。本当か嘘かは知らないが、地球温暖化の影響で、島全体が沈みそうなので、脱出してきたという。南の島に移住した日系人たちを誰も覚えていないのか、興味がないのかわからないが、私の知る限り、日本で島の危機はニュースにすらならなかった。話が大きすぎて、私には実感がわかなかった。どうでも良い事だと思ったが、仕事がほしかったので、精いっぱいの作り笑いを浮かべ、それは大変ですね、と言っておいた。徐々に地球の水面が上がっている。私などに実感が出来なくて当然だろう。
 母親は日本語を話すが、違和感があった。
 南の島の閉ざされた環境で話されて来た日本語だ。
 日本語ではあるが、別の惑星の言語のようにも聞こえた。娘もきちんと日本語を喋るから安心してほしいと母親は言った。そのあと、ただし心が無いのだと母親は急いで付け加えた。その時は、もっと、柔らかい表現はないのかと思った。しかし、母親は娘の将来を本当に案じているのは伝わった。ただ単に、ほかの表現がこの母親の頭の中になかったようなのだ。
 家庭教師といっても、付きっきりで行うわけではない。
 夜中、彼女が勉強し、夕方まで眠る。私が夕方にやってきて、勉強の成果を受け取り、採点したり、質問に回答したりする。
 彼女の質問文自体は事務的で感情が感じられないが、字は妙に丸っこくて情感がある。それが私には印象的だった。

 あの日以来、彼女の母親に会っていないが、今になって聞いておけばよかった思うことがある。
 住んでいるところが、徐々に沈んでいく気分はどうなんですか、と。
 
 今日も、私は彼女の部屋に行くと、ソファで毛布をかぶって横になっている彼女を横目に、机の上にあるノート、問題集を回収した。そして鞄から私が採点したり、質問に答えたりしたノート、問題集を机の上に置いた。窓の外には西日を受けて輝く煉瓦風の壁が見える。西日は我々の部屋の中にも射し、宙に舞う埃を輝かせていた。そしてそのまま彼女の元に注がれ、毛布にひし形に光線の跡をつけている。私はそのまま部屋を出た。あまりにも彼女が動かないので、死んでしまったのかと心配になるほどだった。
 彼女が勉強をしている姿など想像できなかった。
 マンションから出ると、空が急速に翳ってきた。
 近くに小さなバーがあったので入った。
 自分から人間に近づくのは、私にしては珍しい。
 彼女が相手では、人間に会ったという気がしないのか、と私は自分に問いかけてみたが、答えは返ってこなかった。
 店内は薄暗く、カウンターの奥にいるマスターは疲れ切っているように見えた。
 私は出口に近い席に座り、七百円するベルギーのビールを買った。
 つまみに薄くて固いピザを頼んだ。外の桜を見ながら私はカリカリのピザを食べて、ビールで流し込んだ。苦くて舌が痺れた。食道、胃の順に温かくなる。外に目を向けると、桜の下をゆっくり歩く人たち、ベンチに座って足元を見ている人が見えた。
 外の人たちは、ビールをついでくれたマスター同様、どこか疲れ切っているように見えた。
「この辺りに住んでるんですか?」
 マスターが聞いてきたので、首を振る。私は彼の表情は見なかったが、ゆっくりとして、さり気ない口調だった。
 私に対する労りは伝わった。きっと、私も外にいる人々と同じような表情をしているのだろう。
 彼らも私も疲れている。
 疲労の決定的な原因はないのだろう。みんな同じだ。我々には、目に見えなくて言葉には出来ない細かいひび割れのような出来事が重なっているのだ。
「新年度は何をしますか?」
 マスターが私に問いかけた。私はマスターの表情を見た。彼の表情は、完全なつくり笑いというわけではないが、どこかぎこちない笑顔だった。そんなに、私が何も考えていないように見えたのかと不安になった。私はいつものつくり笑いを返さなかった。つくられた感情はこの場には十分足りていた。
 その代り、私は思考した。去年度何をしたのか考えた。悔しいが、確かに何もしていないような気がした。
 私は毛布にくるまれた彼女の姿を思い浮かべた。窓の外には桜の木と向かい側の建物の壁が見える。西日が射していて、レンガ風の壁面にくっきりとした陰影を作り出している。陽光は、彼女の毛布に眩しいひし形の痕をつけていた。その天国のように眩しいひし形の中では、劣化の象徴である毛布の表面のほつれや、何の価値も無い糸くずまで輝いて見えた。
 彼女が勉強している姿を見たことがない、想像できない。さっき、私はそう思ったが、考えてみれば、それは私の記憶違いだった。
 一度、彼女が勉強している姿を見たことがある。
「特に何も」
 私は自分でも驚くほどはっきりとした声で言った。不愛想な私から答えなど期待していなかったのだろう。私の言葉にマスターが驚いて顔を上げ、あのぎこちない笑顔を作り出した。急造だったので、不格好だった。私は思わず表情を緩めてしまった。互いの気持ちが通じ合ったわけではないのが、傍から見れば、そう見えただろう。

 私は彼女が勉強している姿を思い出した。
 一週間ほど前の事、用があり、深夜二時頃、たまたま彼女のマンションの前を通ったのだ。
 四月だというのに、妙に冷える夜だった。
 私の手には熱い缶コーヒーが握られていた。見上げると、彼女は部屋には灯りがついていて、彼女が必死に鉛筆を動かしている様子が見えた。マンションの背後には雲と月と疎らな星が見えた。
 私はマンション前のベンチに腰掛け、コーヒーを飲みながら、彼女の動きを見ていた。
 静かで何の音もしなかった。聴こえるわけがないのだが、彼女の鉛筆の音が聴こえた気がした。
 一年後に試験があり、その試験に合格する。それによって何が変わるというわけではないが、そのぼんやりとした目標だけが私と彼女の前にある。目標を達成する事により、お互いに明るい未来が開けるとは私には思えなかった。彼女は島が沈みそうだから島から逃げ、他にする事がないから大学に行こうとしているだけだ。私も他に行くべきところが無いから、彼女に勉強を教えている。
 コーヒーを飲み切ったので、缶からは素早く熱が奪われていった。
 悲観的な考えを頭に浮かべたのに、私の心境は、妙に静かで、妙に温かかった。
 私はいつまでも、彼女が勉強している姿を眺めていた。あの光景をなぜ忘れていたのか、私にはわからない。記憶から、抜け落ちてしまっていた。

 突然、マスターが顔を上げた。
 外で何か起こったらしいので、私も振り返った。
 雪だった。珍しく、四月に雪が降った。
 雪を見るため、みんな上空を見上げ、動きを止めている。
 一分も経たないうちに、雪は止み、みんな動き始めた。
 私は残ったビールを飲み始めた。時計を見ると、店に入ってから十分ぐらい経っていた。ずっといたかったが、私もここには永遠にいられない。気が付くとマスターもビールを飲んでいた。緊張させてしまったのだろうか、と私は下を向く。それが、不可能だとは分かっているが、誰にも嫌な想いはさせたくなかった。
 世界のどこかでは、島が沈みつつあるのだろうが、我々は動くことを止められない。
 四月の雪でも、我々の動きを止められるのは一瞬だけだ。
「乾杯」
 私がそう言うと、マスターは少し驚いた後、さきほどより少しだけ自然な笑顔を浮かべ、杯をあげた。

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