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本能寺の変1582 第61話 9光秀という男 5斎藤氏の盛衰 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第61話 9光秀という男 5斎藤氏の盛衰 

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斎藤妙純が持是院家を継承した。

 斎藤妙純(利国)は、利永の子。
 利藤の弟である。
 妙椿の養子に入っていた。
 持是院家を継ぐ。

妙純と利藤の間に争いが起こった(文明美濃の乱)。

 御多分に洩れず、である。

 同、文明十二年1480。
 妙椿の死から、程なくのこと。
 斎藤氏の主導権をめぐり、争いが起きた。
 妙純と利藤。
 兄弟による闘争である。

妙純が斎藤氏の主導権を握った。

 守護の土岐成頼は、妙純側についた。
 ために、利藤は敗退。
 近江へ逃れた。

妙純は、成頼の後継問題に介入した。

 明応元年1492。
 この頃、土岐成頼は後継者問題を抱えていた。

妙純は、嫡男政房を推した。

 成頼は、政房を廃して、末子元頼に家督を継がせようと考えた。

土岐成頼は、石丸利光と手を組んだ。

 石丸利光は、妙純の家宰(執事)。
 かなりの野心家だったようである。
 妙純を裏切った。 

美濃は、二つに割れた(船田合戦)。

 守護家の実権をめぐる争いである。

  土岐成頼・石丸利光 ✖ 土岐政房・斎藤妙純

 
父子、兄弟、下剋上。
 正に、何でもアリの時代だった。 

妙純がこの戦いに勝利した。

 明応五年1496。
 石丸利光、自害。
 企ては、失敗に終わった。

土岐政房もまた、妙純の傀儡にすぎない。

 父成頼の願いは、成就せず。
 しかし、勝者であるはずの政房もまた、父と同じ傀儡の道を歩む。

斎藤氏は、再び勢いを取り戻した。

 妙純は、ここで、ようやく、養父妙椿と同様の権力を手に入れることが
 できた。
 しかし、好事は長続きせず。

妙純が近江で戦死した。 

 同、明応五年1496暮れ。
 妙純は、近江の陣中で討死した。
 夜間、土一揆が襲撃。
 斎藤氏は、壊滅的被害を蒙った。
 戦死者、千余という。

斎藤氏の勢力は、大きく減衰した。

 この戦いで、多くの一族・重臣が戦死した。
 斎藤氏は、危機的状況に陥った。

同じ頃、京都。

 将軍は、第十代足利義材。
 父は、第八代将軍義政の弟、義視である。

細川政元が将軍足利義材を追放した(明応の政変)。

 明応二年1493。
 細川政元は、クーデターを決行した。
 将軍義材を廃し、新将軍に足利義澄を据えた。
 すなわち、将軍の首を挿(す)げ替えた。

 政元は、細川嫡流家(京兆家)の当主。
 応仁の乱で、東軍を率いた細川勝元の子。
 幕府の管領。
 摂津・丹波・土佐・讃岐、四ヶ国の守護。

 義澄は、義政の別弟、堀越公方足利政知の子である。 

将軍の権威は、失墜した。

 幕府の衰退は、誰の目から見ても明らかだった。
 将軍は、実権を失った。
 ここからである。
 将軍の傀儡化が進行する。

細川政元の専制政治が始まった。

 政元は、政敵を排除し、幕府の実権を掌握した。
 以後、細川京兆家が幕政を牛耳る。

 義材は、越中へ逃れ、亡命政権を樹立した。 
 流れ公方となり果てるも、再起の時を窺う。

細川政元は、叡山を焼討した。

 明応八年1499。
 比叡山が義材に味方した。

 政元は、これを察知、即座に、軍勢を派した。
 叡山は、焼け落ちた。

 信長の叡山焼討は、元亀二年(1571)のこと。
 これに遡ること、72年前の事件。

政元は、細川京兆家の全盛時代を築き上げた。



 ⇒ 次へつづく 第62話 9光秀という男 6長井新左衛門 





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