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本能寺の変1852 その一因 目次大 240916 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 目次大 240916 

はじめに ←目次 ←「その一因」 ← 
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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】  
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 240823 240828 240915 240916 

「本能寺の変」の「原因・動機」は、一つだけではない。

 以下、「その一因」を1~5+1に大別する。
  只今、進行中!! 

1時代の風潮

 そのような時代だった。→そ第78話②
 油断、すなわち、死。

2光秀の年齢と嫡男光慶

 そのような年齢だった。→そ第78話②
 光秀は、明智の将来が不安っだった。

3光秀という男

 そのような人物だった。→そ第78話②
 光秀は、典型的な戦国武将だった。

4光秀の苦悩

 そのような理由(わけ)があった。→そ第78話②
 解決方法は、ただ一つ。
 なれど、・・・・・。

5志向の相違

 そのようなタイミング(時機)だった。→そ第78話②
 光秀は、分岐点の上に立っていた。
 訣別の時が近づいていた。

+「信長の油断」

 そして、信長が「油断」した。→そ第78話②
 結局、このことが、光秀を決断させる最大の要因となった。

 信長が、上洛せねば、「本能寺の変」は、起きなかった。
 信長が、軍勢を率いていれば、 〃    〃    。 

 信長は、自ら、己の「死」を招いたのである。


さる程に、不慮の題目出来(しゅったい)侯て、

                       →【重史016】

 史実を直視すべし。
 これまでの認識を改めるべきである。


     →その一因 目次中




 ⇒ 次へつづく

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