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小説

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短編/中編小説をまとめました。。長くないのでサッと読めます。
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2020年6月の記事一覧

オールドタイマー(前編)

オールドタイマー(前編)

 全治一ヶ月、そう医者に告げられた私の心はなお穏やかのままで、都内の大学病院からの帰りに喫茶店へ入れば、一杯の珈琲を飲み干す間に、締切の迫った記事を書き終えてしまった。

 昨晩、私の限られた睡眠を大いに苦しめたのは単なる腰痛であり、医者が発した言葉通り、一ヶ月激しい運動さえしなければ、この痛みも自然と消えて無くなるらしい。
通院の必要もない、仕事も今まで通りで結構。
だが、私が安堵した本当の理由

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『文字』を与えたい男

『文字』を与えたい男

 たった数文字が、何故こんなにも悩ましい。
ほんの数文字に、どれだけ愛を詰め込みたい。
洗い物をする妻を早めに休ませ、私は今日何冊の文献を漁っただろう。何回検索しただろう。
それでもなお、君に与える文字というのは、何か期待をさせすぎても重荷になってしまいそうだし、軽々しく決めたくもない、そんな思考をぐるぐると巡り巡って、結局のところ良い案というのは未だ浮かんでいないんだ。

 明け方になって、私が

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夏至の日

夏至の日

暑く、長い一日だった。
背中にかいた汗が、筋沿いに流れるのを認めた幼い頃の私は、それでも必死になりながら、黒く染みが出来た深緑のシャツを大いに揺らして坂を駆け下りて行った。
軽い足取りではない。決して上手くステップを踏んでいる訳でもなかった。背後から忍び寄る何かが、脚に絡み付く恐怖。がむしゃらにでも進まねば、私はそれに魅入られていただろう。

 四丁目の駄菓子屋と言えば、小学生の間では有名な溜まり

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道頓堀で君に告ぐ

道頓堀で君に告ぐ

昔から、この手の雰囲気は嫌いなんだ。
過去の悪夢が蘇ってくる。
皆隣をじろじろと見合って、すぐに人集りが出来たと思えば、最初から台詞運びが決められているかの様にまるで期待もない。
おまけに、あくまでも他人事という顔で......
まぁ確かに他人事には違いないが、野次馬は皆決まって澄ました表情をしていやがる。
その携帯を下げろ、見せ物じゃない。
本当に道化と間違えているんじゃないか?

––よし。お

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静寂のジムノペディ

静寂のジムノペディ

 夜暗に放たれた月光が、破れた障子の隙間を縫って、弾き手のないピアノを照らしていた。そんな様子をもう一時間近く眺めていた私は、窓縁を這う虫たちが鳴らす声、屋根を走る鼠の足音に鬱陶しさを感じながら、ただ頬より垂れる汗を拭うばかりである。

視線の先には、既にボヤけつつある自身の記憶を通して、一つの情景が映し出されていた。
祖父があの鍵盤を静かに叩く姿。
怯えるかの様に、愛でるかの様に、彼は姿勢やその

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六甲山ホテルにて

六甲山ホテルにて

 誰かが階段を上る音で、私は目を覚ます。その不愉快な木の軋む音、僅かな振動はこの身体を通り、階下の神経質な老夫婦をも執拗までに刺激する。二つの溜息がそれを表している。
理不尽な扱いには職業柄慣れていた。何処からの依頼だったとしても、画家というのは軽んじられる風潮が未だに根付いていたし、この油塗れの服装では、配管工と間違えられても文句は言えない様である。
そして、私のキャンバスは未だ純真無垢なままで

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エンドロールに母の名は

エンドロールに母の名は

 一概に映画のエキストラと言っても、その役割は実に様々。自然な空気感を演出する者、映像に僅かな違和感を生み出す者、それらは一つの作品をより洗練された所へ導く為の、重要な担い手であると自負する私である。
だから先日、母に語った「映画俳優の卵」という自らの現状についての説明も、不本意ではあるものの決して誇張だとは思わない。
しっかり卵と言ってあるし。

 だが恐らく母は気付いているのだろう。今の私の生

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雨の日、父を想う

雨の日、父を想う

 あの無口な父が、病に侵されている事実を知ったのは、三年前の六月頃。今日と同様の生温い空気、降頻る雨が我が身を冷やす、この忌々しい梅雨がチラリと顔を覗かせた時期である。
仕事中に母から電話が掛かって来たと思えば、向こうからの会話は歯切れの悪い物ばかり。
「最近、元気でやってるの?」
「盆休みは取れそう?」
などという形式上の言葉が数回行き来した後、実はねぇ......という具合に、父が入院したとい

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フィヨルド伯爵夫人

フィヨルド伯爵夫人

 神戸異人館通りの風景を、高台より望む。当時中学生だった私は、登下校の際、あの白や赤茶色のレンガ、グレーの丸石に彩られた街並みに幾度となく目を奪われた。休みの日、友人と坂を下っていると、一人の女性が西洋造りの屋敷に入って行くのが見えた。友人は「あっ......伯爵夫人だ」と呟く。彼曰く彼女は頻繁にこの通りを行き来している様で、端正な顔立ち、細い身体と青いワンピース という姿を見て誰かが付けた、伯爵

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台風124号の接近

台風124号の接近

 妻が家庭内で起こす癇癪について、一々名前を付けているのは私くらいのものだろう。先日三日間に渡って、我が家を大いに荒らしたのは『バースデイ』の名を与えた台風123号による物だった。

 彼女の誕生日に用意したメッセージカード、馴染みのジュエリー店に依頼して拵えた物であったが、なんとカードに記載する宛名が別の客のとすり替わっていた。由々しき事態である。
確かに、相手から受け取った物の宛名が、自分では

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先ずは口から始めよ

先ずは口から始めよ

 幼い頃から、口数の多い人生を送って来た。ある時は皆を楽しませる為、またある時は皆の考えに反論の意を込めて、私の口は自らの脳や心を介さず、ただ開き続けていた。筋が立たない事も多々言ったが、後から自己嫌悪に陥った試しもなかった。
それでいて、周囲から嫌な目で見られた事も一度たりともない。例えそれが、強い口調で責めた相手だったとしても、彼は私の話に聞き入り弁解の一つもしないのである。
そんな私であるか

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東京

東京

 この空が白んでいく迄の間、僕は何を考えていたのだろう。自分の生き様や関わる人の事、そんな物に気を取られていたのかもしれない。そんな思考も悪くない。たまには、そういう思考も必要だと、自身に語りかける。こんなビルとビルの合間にあって、人工的ではない人の様を感じる、そんな感情も必要なのだと。
ベランダからは東京タワー、下界には人の営みが。車は右往左往に動き回って、次の行先を探している。早朝にランニング

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深夜小道

深夜小道

 夜にコンビニまで歩く。往復十分の暗夜行。坂や信号、角もない。そんな道程にも関わらず、夜闇と淡い街光、それが私に少しの冒険心を与える。
六月の初めにしては暖かい。いや、生暖かい。暑がりの私にとって、額と背中に汗滴る季節。だからこそ、あのガラス張りの窓から漏れる光に魅了される。屋号は『ローソン』。立ち読みする者、ただ涼む者、そんな我々を一体何に喩えよう......虫だ。湿気と共に湧く虫である。

 

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コルカタ急行の車窓から(後編)

コルカタ急行の車窓から(後編)

 我々がバラナシに到着したのは、陽もとっくに沈んだ後、恐らく午後八時頃ではないか。 駅の混雑の中で大きく身体を伸ばした私は、帰路に再度この狭く騒がしい寝台列車に乗らなければならない事を考えて、多少憂鬱になった。眩しい駅の構内を抜けて外に出ると、人影は見えるもその暗闇に目が慣れず、先導して歩く黒木さんに着いて行くので必死な私である。
インドへ降り立った初日も、こんな状況だった事を思い出した。我々はつ

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