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コルカタ急行の車窓から(後編)

 我々がバラナシに到着したのは、陽もとっくに沈んだ後、恐らく午後八時頃ではないか。 駅の混雑の中で大きく身体を伸ばした私は、帰路に再度この狭く騒がしい寝台列車に乗らなければならない事を考えて、多少憂鬱になった。眩しい駅の構内を抜けて外に出ると、人影は見えるもその暗闇に目が慣れず、先導して歩く黒木さんに着いて行くので必死な私である。
インドへ降り立った初日も、こんな状況だった事を思い出した。我々はつくづく陽の目とセットでこの異国の光景を拝む機会に恵まれなていないらしい。

 私達はリクシャーの運転手と価格交渉をして、付近のメインストリートまで移動する事となった。コルカタと比較して、露店の数、物乞いの数こそ少ないものの、土地の暑さ、人の活気というのは負けず劣らず。これはインドの国柄なのだろう。
我々が乗ったリクシャーの運転手はその中でもより気が強く、正面の人集りに対して何かを怒鳴ったり、他の車両に体当たりをしたり –– 我々は振り落とされない様に、座席のどこかにしがみつくので精一杯だった –– それは、さながら喧嘩祭りの様であり、目の前で死人が出ない事が奇跡に思えるほどである。

 メインストリートで予約したホテルは、受付の男が怪しい葉巻を頻りに勧めてくる事を別にすれば、コルカタの牢獄よりかは多少まともな環境だった。トイレは有るし、なにより窓を閉める事が出来る。外からは、人の喧騒の代わりに牛の鳴き声、通りに放置してある糞の匂いといった物が、私の視覚、嗅覚を刺激する。こればかりは窓を閉めていても無駄だった。どうやら街全体に染み付いているらしい。
部屋のベランダに立ち、Y君と煙草を吸って明日見てまわる物について話をしていると、私はある事に気付いた。我々は日本を発ち僅か十日足らずで、この異国の生活に慣れ切っている。実際に、バラナシに到着した私が先ず考えたのは、新鮮な体験の事や日本との比較ではない。通りまでの移動方法と、宿の効率の良い探し方である。この事を話すと、Y君も同じ事を考えていたらしい。我々は久しぶりに互いの思考に触れた事もあり、その日の晩は特に饒舌となって、寄ってくる睡魔も気にはならなかった。

 
 沐浴の際は、下着を脱いではダメだ。
私が現地の人にそう怒られている時、Y君と黒木さんはこちらを見て笑いをこらえていた。替えの衣服を持つ二人に対し、私が持っているのは初日から履き続けているこのパンツだけだった。他の下着は皆リュックに入って、主人の代わりに世界を旅している頃である。仕方がないので、履いたままの格好でガンジス川に浸かるも、足元に何か柔らかい物が当たっている。我々は現地人の沐浴に習い、三度頭まで川に浸かって無事にその禊を終えた。
後から足先に触れた物について、ホテルの受付に話をすると、彼は大きい物か?小さい物か?とこちらに尋ねて来た。私が答える前に、多分犬か鼠の死体だよ、と何もない様な顔で言う彼である。生々しい感触が蘇ってきて、足の指が痒くなった事を覚えている。

 ガンジス川は現地にとっての聖なる川である。皆はこの川で身体を洗い、汚れた衣服を洗い、そして自らの罪を洗い流す。死んだ後、岸部にある火葬場で骨だけとなったその身は、ガンジス川に流される事により、犯した罪による輪廻から解き放たれるのだという。動物は勿論、人の死体まで浮いてる川で身を洗うというのは、免疫がない日本人からしてみれば危険な行為なのかもしれない。沐浴を終えたその日の晩に、Y君は高熱を出して数日間寝込む事となった。

 黒木さんは、デリーに住む友人に会いに行くとの事で、そこでお別れとなった。Y君が動けない以上、私に移動する選択は与えられてはいなかったし、何よりコルカタから他人に頼りっぱなしだったこの状況に、良い区切りが付けれると思っていた。我々は握手をして別れたが、その時彼が言った「また機会が有れば」という一言は、まさに一期一会という日本語の素晴らしさを体現していたのではないだろうか。恐らく今後会う事はないであろう優しきタブラ奏者、黒木さんの後姿は、一抹の不安なくその歩みを進めている様に見えた。
黒木さんが離れた後のY君は、多少弱気になっている様だった。横たわった身体は異様なほど熱く、彼が持つ罪はガンジス川でも流し尽くせないほど重たい物なのではないか、日頃の行いのバチが当たったのではないか、と私は本気で心配したのだが、宿の受付から渡された薬を飲ませた翌日から何事もなく動けるようになった彼の姿を見て、呆れた様な安心した様な......。 それがどんな薬であったかは、知る由もない。

 この街の端から端まで、川岸を覆う様にして様々なガートが立ち並んでいる。気が向いた時にこの通りを歩けば、必ずどこかのガートで火葬をしている光景を見る事が出来る。日本の火葬場と異なる点は、その一連の流れの中に悲壮感という物が欠如しているところである。周りを歩く子供達は皆、上手な日本語を話して、我々みたいな旅行者の案内役を買って出る。いわば見世物の様な感覚だ。火葬されているのがアカの他人だからなのかもしれないが、周囲に漂う異臭は死へ向かう匂いではなく、生きてきた匂いという表現で私まで届いた。
案内役の子供から、あんたらもプージャを見に来たんだろ?と話しかけられた。どうやら夜に特定のガートまで行けば、そのプージャとやらを見物する事が出来るらしい。
金を払えば良い席を取ってやると周りから子供達が集まって来たが、Y君はそれをキッパリと断った。ホテルの受付から、プージャを見るならばボートに乗れと口添えがあったようだ。我々はいつもの定食屋にて、パサパサの米とカレーを胃に流し込んだ後、夜に開催されるプージャに向けて備えた。

 陽が落ちて通りの人影が薄らいだ頃、昼と同様ガート沿いを歩いて行けば、簡単にその場所を見つける事が出来る。橙色にライトアップされた祭壇に、手前で列を作って並ぶ群衆。中には日本人らしき観光客の姿も見えた。現地の人は祭壇に置かれた皿に、花や果物といった供物を代わる代わる置いていく。プージャというのはこれを見ても分かる通り、ヒンドゥー教における礼拝の儀式であるらしい。我々は数ルピーを支払って小柄なボートに乗ると岸から僅か数メートルという、偶然にも最高の位置からその祭壇を眺める事となった。

 ベルの様な祭具を一斉に鳴らし始める事で、その儀式は幕を開ける。祭壇に上がった数人の男が松明に火を点け、流れる音楽に合わせて踊りを披露する。気付けば、我々の後方も見渡す限りのボートで埋まってしまっていた。騒々しい礼拝の合間、幾度となく周囲を見渡した私は、川の対岸や星の見えない夜空に広がる底なしの闇を見つけた。まるでぽっかりとこの空間だけが切り取られている様な。我々はいつの間にか、この幻想的な光を放つ光景、歪な騒音に囚われてしまっていたらしい。隣に座るY君と目が合った私ではあるが、それでも何かを発する事は出来なかった。思考が及ばない体験というのは、これほどまでに人を惹き付ける物なのだろうか。その音が止むまでの間、私達はただ口を開けて正面で踊る男の姿を眺めていた。


 旅の終わりが近づいていた。バラナシからコルカタ行きの寝台列車の中で、Y君と私は何を話した訳でもなかった。私は睡眠以外のほとんどの時間を、連結部に座って農村地帯の風景を眺める事に費やした。たまにY君が煙草を吸いに出て来たものの、我々の間に会話というものは生まれなかった。
「自分を探さない旅」という標榜を掲げて日本を発った我々ではあるが、それは即ち「未だ見ぬ世界を探す旅」と置き換える事が出来るのではないだろうか。自分ではなく、自分を取り巻く環境を探す旅。恐らく我々は、世界観などという大袈裟な概念を初めから持ち合わせてはいなかったのだろう。異国の宗教、生活、風土、人柄、そのどれに対する思考も、想像する事すら私はしなかった。
この旅が、自身の持つ世界観を変えたのではない。インドという国が見せてくれたほんの僅かな断片が、私の意識に種を撒いたに過ぎない。それは皮肉にも、本来知る必要のある私自身ではなく、横を歩くY君の姿をより鮮明に映し出した。彼はその険しい顔で、一体何を考えていたんだろうか。

 帰国した我々が最初に取った行動は、余ったルピーを円に替える事だった。予期せぬ出費もかなりあった為、結局手元に残ったのは千円ほどの金額だった様な記憶がある。関西空港内の喫茶店で均等にその金を分ける我々は、もう当分日本を出たくないなと二人で笑いあった。
Y君はその数年後、東アジアにて半年にも及ぶ生活を送った後、アメリカや中国にもその足を伸ばした。彼は帰国する度に、日本が一番と言ってはみるものの、すぐ好奇心の風にやられてしまうらしい。「未だ見ぬ世界を探す旅」は今後も続くものと思われる。
一方の私は、インドを最後にパスポートを使用した覚えがない。有効期限も間違いなく切れている。だが油断をしているとすぐに蘇って来るコルカタの喧騒、バラナシの幻想は、未だ私の胸に強い風を浴びせ続けているのだ。

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