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私、ヨッパだって。酔っ払って、過去数十年の記憶を呼び起こして、ああ、あの時はああだった、この時はああだった、いやあ、楽しかった、でも、あの時、こうしていたらどうなってたんだろう?という妄想が楽しいのですわ。

私、ヨッパだって。酔っ払って、過去数十年の記憶を呼び起こして、ああ、あの時はああだった、この時はああだった、いやあ、楽しかった、でも、あの時、こうしていたらどうなってたんだろう?という妄想が楽しいのですわ。

ヰタ・セクスアリス - 雅子 16

雅子、京都にて
1977年11月26日

 1977年十一月二十六日。私は京都に帰ってきた。東京に出てから、年に二回は里帰りしていた。それは、「京都に来る、でも、東京に戻る」であって、「京都に帰ってきた、もう東京には帰らない」というのは初めてだ。私には東京に帰る理由がなくなったのだ。大事な人も失った。

 早速、私は実家から婚家にご挨拶に伺った。婚家は桂川と宇治川に挟まれた伏見デルタと呼ばれる地にある。近鉄京都線で、桃山御陵前駅でおりた。駅から大手筋通りを西にトボトボ歩く。暫く歩くと、右手に坂本龍馬の避難した材木小屋跡なんて碑文があった。遠いなと思った。東高瀬川の橋を渡る。第二京阪道路の手前を左に曲がった。

 婚家は、商家と住宅街が混在する一角にあった。そこでは酒を作っているわけではない。黒塀に囲われて、ヒノキの引き戸の玄関の軒先に杉玉が吊り下げられていた。枯れた茶色になっていた。
 
 ここだ、この家が、私の終の住まいになるだろう家だ。

 東京から帰ってきた十一月末。まさに酒の仕込みが始まる時期だ。婚家の酒蔵では、六人の杜氏さんが能登からやってきて酒造りを担っていて、シーズン中は婚家が彼らの生活の場となる。

 私は唸った。こりゃあ、花嫁修業とか言っていられないじゃない?義母は末期ガンで入院していて、その世話もある。着替えを病院に持っていかないといけない。杜氏さんたちのお世話、仕込みの手配もあるのだ。婚家の手が足りない。

 私は、亭主になるタケルと義父に言った。「この仕込みの時期に、齋藤家の女将さんがいないとダメです。結納して、婚約、結婚式、入籍なんて順を追っていられないでしょう?そんなものは、酒の仕込みが終わる来年にしましょう。タケル、私で良ければ明日にでも入籍して。私が拙いながら、齋藤家の女将をやらさせていただきます」と強引に宣言した。

 タケルも義父も義母も、私のパパとママもお披露目だとかグズグズ言っているが、私を東京から連れ帰ったのはあなた方でしょう?やるからには徹底して私はやります!と言って押し切った。

 翌日、入籍。私は、小森雅子から齋藤雅子になったのだ。最低限のご近所と取引先にはご挨拶に言った。事情が事情だけにみんな納得してくれた。入籍したその日に、私はタケルの部屋に移った。女将さんとしてオーソライズされるためには、入籍もさりながら、跡取りに抱かれないとしょうがないでしょ?

 杜氏さんたちも目を丸くしていた。突然、二十一才の小娘が入籍して、入院している女将さんの代わりに、「不束者ですが、今日から齋藤家の嫁となりました雅子です。義母に成り代わり、今日から女将を務めさせていただきます。よろしくお願いいたします」などと一方的に宣言して、女将さん業を始めたのだから。

 何もかにも手探りだった。今まで義妹を手伝ってくれている近所の奥さんにお聞きしながらお手伝いをするしかなかった。

 杜氏さんたちの三食の用意、生活の世話をするのは、齋藤家の女性の担当。それを今まで女将さんの義母と高校生の義妹がやっていた。義母が入院しているので、義妹一人だが、それも無理。近所の奥さんに頼んでいるが、これも齋藤家の女将さんと女性がやらないといけない仕事だ。つまり、私と義妹なのだ。

 杜氏さん達の食事の世話、彼らの洗濯物、部屋の掃除、頼まれたものの買い物、女人禁制の酒蔵以外の部屋の掃除。

 日本酒はおおよそ十一月から四月までの冬の間にお酒づくりを行う。これを寒造りと呼ぶ。酵母や麹といった微生物を扱うため、気温が低く雑菌が繁殖しづらい冬の間に集中してつくる必要があるためだ。

 とりわけ、掃除は重要だ。麹菌の繁殖に雑菌の混入は致命的。毎日、あらゆる場所を掃き拭き磨く。掃除機なんて使えない。ホコリを撒き散らすだけだもの。

 昭和五十二年の酒蔵には、まだまだ女人禁制の風習が残っていた。紺ののれんの向こうの酒蔵には女性は立ち入ってはいけなかった。

 江戸時代に幕府の命令で、それまで必要に応じて年中造っていた酒造りは、冬の間に限定された。日本海側の積雪地帯などでは、冬の間の仕事がない働き盛りの男たちがたくさんいた。彼らが冬の間の仕事を求めて、酒蔵で働くようになったのだ。こうして、酒造りを請け負う杜氏・蔵人制度が始まる。

 一つの蔵で酒を造るのに必要な人数は五、六人から二十数名まで。その蔵の規模によって異なる。酒蔵で働く男たちは蔵人といわれ、それを統括する長を杜氏という。原則的には一つの蔵に杜氏は一人だ。

 微生物という生き物を扱う酒造りは、その期間中、昼夜を問わず、作業は毎日続く。杜氏をはじめ蔵人たちは全員、蔵へ泊り込んで酒を造る。

 現代は、蔵人の平均年齢も四、五十才を超えるが、江戸時代の蔵人は、農家や漁師の後継者たち、若くて元気のある人ばかりだ。そんな若者が、妻や恋人を故郷において、数ヶ月も一日の休みもなく男だけの集団生活をしながら酒造りをする。そんな雰囲気の中へ女性が入ってくるとどうなったか?

 だから、酒蔵は女人禁制になったのだ。清廉で清潔であるべき酒蔵に淫靡な雰囲気を持ち込ませず、女性に蔵人のチームワークを乱させないために、女性を彼らの目が届かぬ場所に遠ざけたのだ。

 それも今は昔、二十世紀の現代、労働力としての私たち女性も必要なはず、その内、この女人禁制もぶち破ってやる、と私は思った。

 そうそう、許嫁との話を忘れていた。

 彼、タケルは、物心つく頃から、親戚の寄り合いなどで顔を合わせていた。彼は伏見だから、学校こそ違ったが、酒造りが始まる季節の冬休み、春休みの間は、邪魔な子供である彼と彼の妹は我が家で引き取っていたのだ。だから、小さい頃は、私の兄、私と、タケルと妹が一緒によく遊んだ。私が最初にお医者さんごっこをした相手もタケルだった。初キスの相手もタケルだった。小学校の頃だったけど。私、マセていたもの。

 彼が中学生になって、酒造りの手伝いができるようになると、我が家に学校の休みに来るということはなくなったが、親戚の寄り合いではちょくちょく顔を合わせた。高校一年生になって、生まれてはじめてデートした相手もタケルだった。その時は、私が何かに苛立って、五回ぐらいのデートで打ち切りにはなったが、付き合いはそのままだった。

 彼も自分の学校の女の子もいることだし、わざわざ遠い親戚の従兄妹と付き合う必要もないわけだ。そして、彼は関西の大学に、私は東京の大学に。もう彼と何かが交差することもないだろうと思っていた。

 役所に婚姻届を彼と出しに行った。披露宴も何もなく、事務的に手続きをした。タケルが「雅子さん、指輪とかさ・・・」と言ったが「こんな忙しいのに、そんなの来春でいいわよ」と突っぱねた。「雅子さん、申し訳ないね。こんなことになっちゃって」と言う。「別に知らない仲でもなし、タケル、その『さん』付止めて!もう私たち、『夫婦(めおと)』なのよ!」と答えた。

 その夜、私は寝所をタケルの部屋に移した。タケルがおどおどしているので、寝具も探して、新しいお揃いのお布団を二組、義母の部屋の押し入れから持ってきた。さすがに、タケルの部屋にお布団が並んで二組って、生々しいわね、と思った。

 お風呂をつかって、夕食を済ませ、二人で部屋に入った。私は正座をして、「不束者ですがよろしくお願いいたします」とタケルに挨拶した。これは一度やってみたかったんだ。タケルも慌てて挨拶を返す。私もタケルもお布団に潜り込んだ。冬の旧家は寒いのだ。

 しばらく、私はしばらく天井を見つめていたが、タケルは動かない。まったく、もう。私は、タケルの布団ににじって入った。「ま、雅子!」とタケルが言うが「何よ?夫婦(めおと)でしょう?一緒の布団に寝るのは当たり前じゃありませんか」と彼の寝間着の袂をイジイジしてやる。彼の胸元に頬を預けた。そして、

「タケル、もしかして、あなた、付き合っていた女性がいたんじゃないの?」と聞いた。
「え?ま、雅子、あの・・・」と言うので、
「正直に言ってもいいわよ。言いたくなければ言わないでもいいわ。私はね、まだ結婚とかそういう話はしていなかったけれど、付き合っていた人はいました。同じ大学の一年後輩の人。同じ美術部だった。でも、別れてきました。もう会うこともありません」
「雅子もか・・・俺も同じ大学の生物学の研究室の女性と付き合っていて・・・でも、ごめん、話がこう早く進んでしまって、彼女に説明していないんだ。でも、俺も別れるよ」
「タケル、良いのよ。彼女と付き合っていても。彼女には時間が必要でしょう?ただ、私に知られないようにして頂戴。気にすることはないわよ」

「昔、お医者さんごっこをして、私のあそこを人生で最初に見たのはタケルじゃない?私もあなたのを見たけど・・」なんて昔話をしたりして、体をお互い弄りあっている内に、彼は私が欲しくなったようだ。私も自然に彼が欲しくなった。フランクとのセックスのルールは御破算にして、これからは彼とのルールを作らないと。

彼が果てて、私の上でハアハア言っている。可もなく不可もなく、普通だった。ただ、ちょっと甘えたり、恥ずかしがったり、声を出したり、逝ったフリをしてあげた。

 まさか、フランク相手じゃあるまいし、最初から全力で飛ばすわけにもいかないじゃない?少しずつ、馴らしてあげないと・・・あら?私、美沙子さんみたいに、アバズレになっちゃったのかしらね?

 夫婦でいいところは、避妊の心配などせず、こころおきなくできてしまうこと。むしろ、周りは早く跡継ぎを、なんて言っている。でもなあ、まだ、私、二十一才だからなあ。大学にも戻れるものなら戻りたい。これはタケルとも話し合わないといけないなあ。

 その年から翌年の春まで、嵐のように過ぎていった。十一月の米の手配、精米は終わっていたが、十二月から翌年の三月まで、寒造りと言って、日本酒の仕込みが続くのだ。寒い時期は温度管理がしやすく雑菌の繁殖がしにくいからだそうだ。

 その年の十月、杜氏さんの頭が高齢となって、酒造りがむずかしくなったと能登から連絡があった。七十過ぎだったから当然のこと。それで、副頭が頭となった。若い中卒の蔵人も入れたが、酒造りの人手が足らなくなっていた。

 私は、接客にも必要だからと日本酒の醸造を独自に学習していた。手が足りないなら、私で良ければ手伝います、私は自ら手を挙げ、他の杜氏さんに混じって酒を仕込むことを決心する。

 しかし、酒蔵では、酒造りの場は女人禁制。ところが、義父に酒造りをしたいと思いきって願い出たら、あっさりOKが出た。拍子抜けした。老舗酒蔵の長く続いた風習が終わったようだ。私だけではなく、義妹も手伝うことになった。

 酒造りに関わると簡単に言っても、その世界は厳しい。早朝から始まる重労働。その上でスピードが求められる。日本酒は「生きもの」だから、待ったややり直しがきかない。つまり相当な覚悟を要するのだ。

 まず、酒米という酒造り専用のお米を仕入れないといけない。これは私には経験不足で、どのお米がいいのか、値段が妥当なのか、わかりゃしない。義父と亭主に任せる。なんでも、酒米は、食用米と比べるとタンパク質の含有量が低く、粘り気が少ないのだそうだ。私は見てもそんなものわからない。

 仕入れたコメを精米する。これが難しい。精米すればするほど、吟醸酒みたいに味のいい酒ができる。だが、精米すればするほど、酒米の重量も減るのだ。製造するお酒の量も減る。それでは、普通飲まれているウチの汎用品の製品の値段に釣り合わないのだ。その損益分岐点を考えないといけない。これは、私の勉強する課題だ。

 次に、家庭でお米を炊く作業と同じ。米を洗って余分な糠を取る。そして、適量の水分を吸収させるために、米を水に浸す「浸漬(しんせき)」をする。これもその加減を見ていたが、何分とか決まっていない。米の様子を見るんですよ、女将さん、と杜氏さんに言われたが、わかるわけがない。それも、家庭と違って、何合とかじゃない。何升でもない。何斗である。女の私にこの重労働は無理だ。早速諦める。

 蒸米、放冷も同じ。米を蒸す。甑(こしき)と呼ばれる大きなせいろで米を蒸す。私なんて、米を詰めた甑(こしき)なんて持ち上げられない。蒸した米は、麹(こうじ)造り、酒母造り、掛米(もろみ造り)用と、それぞれに応じた温度に冷ます。これが放冷。これも早速諦める。悔しいが仕方がない。せめて天井から吊り下げたチェーンブロックを導入できれば、機械化はできるのだろうが、天井の煤が落ちてくるだろうし、物事はそうそう単純じゃないのだ。

 麹造りは私でもできそうだ。蒸米、放冷された米を広げ、麹菌を米に付着させ、米の中で麹菌を繁殖させる。室内の温湿度と麹と混ぜ合わされたお米の温度に依って出来が決まる。これは化学実験と同じ。杜氏さんに聞いて、コツをつかもうと努力する他、杜氏さんが勘でこなしているのを私は温度計や湿度計、ストップウォッチなどで計測して、ノートした。

 次の酒母の製造は、パス。酒母は、アルコール発酵を促す酵母を大量に増殖させたもの。麹と水を混ぜ合わせたものに、酵母と乳酸菌、さらに蒸米を加え、ニ週間から一ヶ月で酒母が完成。酒母を手作業で造りあげる製法が、「生酛(きもと)造り」。生酛(きもと)造りの場合、乳酸の添加はしない。蔵の空気中の乳酸菌を取り込む。

 ただ、私の亭主が言うには、それではあまりに偶然に頼りすぎるし、雑菌を取り込むこともある。ウチの亭主は、この酵母と乳酸菌を厳選して使いたいらしい。義父や杜氏さん達の伝統に反するが、亭主の時代になったらそれをやるだろう。

 酒母をタンクに入れ、麹、蒸米、水を加えて発酵させる醪(もろみ)仕込み、醪(もろみ)を圧搾して、日本酒と酒粕に分ける上槽(じょうそう)、細かくなった米や酵母等の小さな固形物を除去する濾過(ろか)、加熱処理の火入れなんて、私の口を出す話じゃない。

 でも、水質検査ぐらいならできる。何が日本酒にとって最適な水質なのかを化学的に調べれば、学士や大学院の論文が書けそうだ・・・私がこの状態で大学に戻れればの話だが。これで赤ん坊でもできたら、不可能だわ。

 酒の瓶を洗い、ラベルを貼り、包装し、接客することもある。それはまるで、江戸時代にタイムスリップしたかのようだ。

 二年目もあっと言う間に過ぎた。そして、徐々に婚家にも慣れてきた。私は義妹と相談して、婚家と実家、それから、京都の酒蔵と和紙製紙所を誘って、東京で、「今日の京の酒蔵と和紙所」という展示会とカンファレンスを企画した。関西の酒蔵、和紙問屋と言えども、大消費地は関東なのだ。バイヤーの半数以上は、東京の企業様なのだ。

 伏見の酒蔵の女将が貴船神社につてがあり、千代田区の神田明神の運営する会館で展示会が開催できることになった。酒蔵の展示ブースでは、利き酒もしてもらうつもりなので、飲酒可の場所でないといけない。明神様の会館はそんなことは気にしていないようで、便利だった。

1979年8月

 その年の夏、酒造りのオフシーズンでもあり、「今日の京の酒蔵と和紙所」展示会とカンファレンスの開催にこぎつけた。

 その年の夏、酒造りのオフシーズンでもあり、「今日の京の酒蔵と和紙所」展示会とカンファレンスの開催にこぎつけた。関東の旧来のお付き合いのバイヤーさん、新規のバイヤーさんなどの取引先に招待状を出した。また、一般の方にも酒造り、和紙づくりを知ってもらおうと新聞広告も出した。義父は義母の面倒もあり参加できず、私の亭主とパパ、兄は二日遅れで参加する。展示会を回すのは、私と義妹と女将さんたち。女の時代よ。

 私は、婚家の酒蔵のブースと実家の和紙のブースを行ったり来たりして、社員の応対を補佐していた。酒蔵のブースでは、酒枡をピラミッドにしたりして、見た目にもかなり凝ったつもりだ。展示品は、一升瓶の汎用製品の日本酒の他に、低温殺菌の純米酒を当時は珍しかった500ml、720mlのグラスに詰めたものも展示していた。これは冷酒で飲んで欲しい。試作品の純米大吟醸酒も展示した。

 むろん、展示だけではなく、試飲もしていただく。初見さんのお客様もいれば、関東地方のバイヤーさんなどもいて、顔見知りのお客様だと、試飲が試飲でなくなってしまって、ぐい呑で何杯もお代わりをされる方もいた。私もマズイなあとは思いつつ、お客様と盃を交わしてしまい、少々酔ってしまった。

 昼過ぎになり、昼食時間でお客様も多少まばらになった。私は、酒蔵のブースを義妹にまかせ、和紙は私が見るということで、他のスタッフを昼食に送り出した。

 和紙のサイズは、半紙判という333x242ミリから、画仙紙全紙だと1366x670ミリまである。今回は、さまざまな原色を組み合わせて、画仙紙全紙を十二単のような扇状に展示していた。元美術部だから、補色とかいろいろ考えてしまう。お客様にご覧になっている内に扇形が崩れてしまったので、私はそれを整えようとしていた。画仙紙全紙は大きいので、綺麗に扇状にするには手間がかかった。展示テーブルに俯いて、和紙をなんとか元通りに直していた。

 急に照明が遮られて影が和紙に射した。あら、お客様かしら?と思った。私の上から声が降ってくる。「あの、作業中に申し訳ありませんが、和紙の製法についてお聞きしたいんですが・・・」とその声は言う。聞き覚えのある声だった。私は上体を起こした。

 立ち上がって背を正して、お客様と向き合った。「いらっしゃいませ。どのような製法について・・・」と言いかけて、私は言葉を飲み込んでしまった。三年ぶりの懐かしい人の姿が正面に立っていたのだから。

 彼も驚いていた。偶然にしても出来すぎじゃない?ただ、彼の隣には彼女らしい背の高いスラリとした女性の姿もあった。私も彼も見つめ合ったまま、言葉が出ない。

 何秒か、だったのだろう。でも、それが無限に続くかと思われた。彼の隣の女性が怪訝な顔で私たちを見ているのがわかった。私の顔をジッと見て、彼の顔を見比べている。「あら、お知り合いだったかしら?」と彼女が言う。

 彼女はブースの上の実家の店名を見ていた。「小森・・・」と首を傾げて、思い出そうとしていた。「・・・あなたは、もしかすると・・・雅子さん?」と彼女が言う。なぜ、この見も知らない女性が私の名前を知っているんだろうか?

 急に彼に言語能力が戻ってきたみたいだ。私の言語能力は退化したままだった。彼が「雅子・・・」と私に呼びかける。その時、ブースに実家の社員が戻ってきて、「若女将、昼食終わりましたので、どうぞ、代わりに行って下さい」と私に言う。

「え?昼食ね。今、このお客様が・・・」と社員の女の子に言いかけると、彼が「そうですか。これから、昼食ですか。私もご一緒しても構いませんか?ねえ、絵美、あの昼食を・・・」と彼が彼女を振り返っていいかけた。

 絵美と呼ばれた彼女は、「私、ちょっとまだ見ていくから、小森さんさえ構わなければ、二人で先に行かれたらどうかしら?外に出て左に行くと明神様の御門の正面に明神そば屋さんがあるわよ?あそこではどうでしょう?」とテキパキと私と彼の顔を見ていった。

彼が「・・・うん、じゃあ、絵美、そうさせてもらうかな。小森さん・・・ああ、小森さんは旧姓でしたね。齋藤さんかな?齋藤さん、どうでしょう?その明神様のおそば屋さんに行ってみませんか?」と私に言う。私はまだ言葉が出ない。頷いてお辞儀をしてしまった。それで、彼に誘導されるようにして、ブースを離れて、おそば屋さんに向かった。足元がフワフワして、和服の裾がうまく裁けない。よろけてしまう。彼が肘を支えてくれた。

 そば屋さんに行く間も言葉が出ず、彼も何も言わなかった。そば屋さんの奥の板の間のテーブルに着いた。しばらく、テーブルを見つめていて、顔を上げると彼が私を見つめていた。「雅子、三年ぶりだね。不意打ちだ。こんな所で会うなんて」と優しく言う。昔よりも声が低く太くなったかしら?

「フ、フランク・・・」懐かしい、面映い、そして、二度と会うとは思わなかった。言葉が続かない。「結局、雅子とぼくが行くプラド美術館の夏は訪れなかったね」と彼が言う。こら!フランク!私が泣くようなことを言うな!泣いちゃうじゃないか!バカモノ!

 美沙子さんの言葉がたくさん思い出された。

「二人の運命のめぐり合わせは交差しなかったのよ。二人共が最終ゴールじゃなくて、通過点だったということ」

「フランクにとって、雅子は、通過儀礼だったのよ。人間が成長していく過程で、次の段階に移行する期間で、どうしても通らねばいけない儀式だった。大人になるための儀式。それが、雅子にとってはフランクだった。フランクにとっては雅子が儀式だったのよ。ある意味、私も二人の儀式なのかな?」

「雅子とフランクは未来でも二度と交差しないと決まっている」
美沙子の嘘つき!『未来でも二度と交差しないと決まっている』って何よ!目の前に今その交差している本物がいるじゃない!馬鹿野郎!

美沙子の嘘つき!『未来でも二度と交差しないと決まっている』って何よ!目の前に今その交差している本物がいるじゃない!馬鹿野郎!

 私は、着物の袂からハンカチを取り出し、目尻に当てる。彼が言葉を続けた。「美沙子も電話をしてきた。彼女がキミの最近の話をしてくれた。彼女も言っていた。雅子も同じだわって。ぼくのことを聞きたがっているって。美沙子は伝書鳩みたいだね」お願い!それ以上言わないで!涙が止まらなくなるわよ!

 私が涙を堪えていると、彼女がやってきた。チェアを引いて音もなく座った。彼女が身を乗り出してテーブル越しにハンカチを握りしめている私の手をそっと包み込んだ。「雅子さん、私はあなたのことをよく知っているんです。フランクから聞いています。美沙子さんともお電話でお話ししたことがあります。私ね、あなたに嫉妬しちゃったの。たった、数ヶ月のお付き合いで、このフランクがあなたについてたくさん話せることがあるんだと。私だったら、そんなに話せることはないんじゃないかしら?って、妬けちゃった」

 私は顔を上げて彼女を見た。さらさらした長い髪、体つきはしなやかで背が高く、スラリとしたウェストと小ぶりな胸。日本人にしては高い鼻。テーブル越しでも強靭な意志と聡明さを感じた。おいおい、フランク、私、彼女に負けてる。

「美沙子さんが言っていた・・・御茶ノ水の明大の小講堂でフランクが出会った女性がいるって。あなたが、森、絵美さん?」
「はい、森絵美です。小森・・・齋藤さんか。齋藤雅子さん、どうぞよろしく」
「絵美さん、会えて良かった。でも、複雑な気持ちなのよ」
「わかるわ。元カノと今カノという単純な話じゃないものね?困っちゃうなあ。それはおいておいて、少し遅れてやってきましたけど、二人共、二十分くらい、お通夜してたのね?三年前のお通夜を。それで、オーダーもまだしていないんでしょう?フランク、食事のオーダーくらいしなさいよ。それとも胸が一杯で食事も喉を通らないの?」
「わ、わかったよ、絵美。雅子、何を食べる?」とテーブルの上にあったメニューを開いて私に渡した。

 先にメニューを開いていた絵美さんが「う~ん、おそば屋さんは、おそばにするか、ご飯物にするか、いつも迷うのよねえ。うなぎもある。天丼とお蕎麦というベタなチョイスもある。鴨南蛮にカツ丼、どれにしましょう?天丼と鴨つけそばかしらね?そうしましょう。雅子さんは何にする?」と聞かれた。

「え?私は・・・」そうだ。会場の準備で、朝食もとっていなかったのだ。急にお腹が空いたのに気づく。絵美さんも二品注文したことだし、私だって二品でもおかしくないわね?って、どうも京都の癖で、何かと他の人を気にする癖が付いてしまったようだ。「私は、カツ丼と鴨つけそばにします」と答えた。グゥ~っとお腹がなった。フランクもウナ丼と鴨つけそばを注文した。「ついでに、ビールもいいだろう?二人共?」とビールの大瓶を三本注文してしまった。まあ、ビールくらい良いかな?

 料理が来た。話の糸口がつかめない。絵美さんのことを聞いてみようか?

「絵美さん、さっき私の実家の和紙ブースの上にあるウチの店名を見られて、『小森』から私の名前を思い出されたようですけど、フランクから私のことを聞いていたんですか?」
「ウフフ、雅子さん、気になる?気にならないほうがおかしいわよね?」と頬杖をついて絵美さんは私の顔をジッと見た。「前に付き合っていた人の話が話題に出て、フランクは『あまり趣味が良くない話題』と言っていて渋々だったけれど、私が根掘り葉掘り聞いたのよ。彼の話しを聞いていて、フランクがお付き合いした女性の中で、あなたが特に印象に残ったの。あ!美沙子さんもね」

「フランク!」と私は彼を睨みつけた。
「雅子、ぼくとキミの間もそうだったけど、ぼくと絵美の間も隠し事なしだ。もちろん、彼女に聞かれたから話した。プライバシーに関わることだけど、キミには二度と会えないとも思っていたからね。美沙子は気にしなかったよ。面白がっていたよ」
「フランク!」

 展示会の開催されている明神様の会館の道すがら、絵美さんが私の腕を握って歩いた。あ、この人とはお友達になれそうと思った。会館のエントランスに入って、絵美さんが立ち止まる。

「雅子さん、あそこの柱の後ろ、見える?あそこなら、誰にも見られないと思わない?」と絵美さんが言う。
「え?」何の話?
「ほぉら、フランクとあそこに行って、隠れて、彼にハグしてもらっちゃわない?もう、こういう機会はないかも。三年前、東京駅で別れてから、二人共モヤモヤしてるんでしょう?私、気にしないから。最後に、二人で封印しなさいな」などととんでもないことを言い出す。

「絵美、なんてことを・・・」「絵美さん、私は亭主持ちで・・・」とフランクと私が言いかける。

「あらら、一生、後悔するわよ。私が良いっていうんだから、雅子さんの旦那さんの了解はないけど、すればいいじゃない?雅子さん、フランク、しなさいよ。私、あなた方が誰にも見られないように、見張っていてあげるから・・・」と私とフランクの肩を突いて、柱の陰に押し込んでしまった。絵美さんは、エントランスの中央に行ってしまって、ブラブラしている。

「・・・」
「強引なんだよな、絵美は。あのさ、雅子、どうする?」
「どうするって・・・いまさら、私に、そんなこと聞くの?」こいつの鈍感さはたまに頭に来ることがあった。今もそうだ。何も聞かずにキスすれば良いんだ。私が最後のキスを欲しがっているのがわからないのだろうか?

彼が私の腰に、私が彼の首に腕を回した・・・これで、本当におしまいなんだな・・・私は彼に抱かれて、キスをしながら思った。

もう、交差しないのだ、私たちは。

2021年2月16日(火)

 庭のオクラが今日も12個でかくなった。オクラは1日で急に成長するので、毎日収穫しないとすぐ固くなって食べられなくなるのだ。携帯が鳴った。電話番号は「+81・・・」日本からか?

「もしもし、ロイドですけど」
「フランク?美沙子よ、美沙子!」
「美沙子、お久しぶりですね?お元気ですか?」
「元気も元気。知ってる?ねえねえ、私、曽祖母になっちゃったんだよ!」
「え~、ええっと、美沙子は15才上だから、77才?そうかぁ、ひいばあさんになったんだ・・・」
「もう、あれから何年経つのかしら?1977年?44年よ!44年!」
「44年・・・半世紀ですね」
「もう、私もそろそろ次の段階に進んだほうがいいかもね?」
「何を言ってますか?日本女性の平均年齢は確か82才くらいでしょう?」
「もう、十分生きたわよ。雅子だって彼岸で待っているでしょ?」
「あいつは・・・」
「フランクと最後に会ったのが、京都の彼女のお葬式だったわね」
「美沙子さん、70代に見えませんでしたよ」
「あら?また半世紀前みたいに抱いてくれる?」
「何を仰る。もう、現役引退してますから」
「そっか。いくら平均寿命が長くなって、昔みたいに現役時代が十年、二十年長くなっても、さすがに、70代と60代じゃあ、セックスは無理よね?」
「・・・ひいばあさんになった人の発言とは思えないですよ」
「・・・良かったわね、あの頃・・・もう一度、あの頃に戻ってみたいわ」
「不思議な関係ですね、私たちは」
「まだ、私とあなたは交差してるなんてね。私なんかと交差しないで、雅子とねえ・・・」
「すべては運命なんでしょね」
「あ~あ、気持ちはまだ30代なんだけどなあ・・・」
「・・・面白かったですよ、あの頃・・・」
「最初にキミとセックスしたのをまだ覚えているわ、私・・・」

 数日して、美沙子からSNSが送られてきた。

「あなたねえ、70代のおばあちゃんだからって、すげなく断るもんじゃないわよ!嘘でもいいから、美沙子、今でもキミを抱きたいんだよ、ぼくは、なんて言えばいいじゃないの?

 あら、昔、キミが好きだった詩を思い出したわ。詳しく覚えていなくって、ネットで検索したけど、キミにあげましょう。思い出した?

オデュッセウス、アルフレッド・L・テニスン

 友よ 来たれ
 新しき世界を求むるに時いまだ遅からず
 船を突き出し 整然と座して とどろく波を叩け

 わが目的はひとつ 落日のかなた
 西方の星ことごとく沐浴(ゆあみ)するところまで
 命あるかぎり漕ぎゆくなり

 知らず 深淵われらをのむやも
 知らず われら幸福の島をきわめ
 かつて知る偉大なるアキレウスを見るやも

 失いしは多くあれど 残りしも多くあり
 われら すでに太古の日 天地(あめつち)をうごかせし
 あの力にはあらねど われら 今 あるがままのわれらなり

 時と運命に弱りたる英雄の心
 いちに合っして温和なれど 
 努め 求め たずね くじけぬ意志こそ強固なれ。

かしこ、美沙子より」

ぼくは・・・思い出した・・・


シリーズ『ヰタ・セクスアリス - 雅子』


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複数のシリーズでの投稿数が増えてきましたので、目次代わりに作成しました。


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シリーズ「A piece of rum raisin - 第2ユニバース」

A piece of rum raisin - 第3ユニバース

フランク・ロイドの随筆 Essay、バックデータ

弥呼と邪馬臺國、前史(BC19,000~BC.4C)


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