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#心理学
「他人の立ち場に立て」と怒る人は、他人の立ち場に立てているのか
「アイツは相手の立ち場に立つって事が出来ないヤツだ」
と苛立つその人が、相手の立ち場に立てない人であることは少なく無い様に思います。
相手の立ち場に立つには、先ず自分と他人の感情を分ける境界線が明確であることが必要です。
感情の境界線は、心の中の確かな【自分】という意識の外郭線です。
心の中の【自分】は、幼少期に親から、感情を肯定的に受け容れられ、存在を尊重されること、によって育まれます。
無価値なこの子の、居場所の作り方
友達から随分ヒドいことをされたり、言われたりしても、ニコニコしている子っています。
その子が、飛び抜けて穏やかな子、という訳では無い様に思えます。
その子が、年齢に似合わない心理的成熟を遂げている、という事も無さそうな感じです。
傷つけられることに、鈍感な気がします。
自分の尊厳を踏まれることに、抵抗が薄い気がするんです。
傷つける方には勿論、如何なものか、と思います。
如何なる場合であ
私たち一人ひとりにできること(駒澤大学心理学科教授:藤田博康) 連載:「多方向への肩入れ」の心理学〜家族の苦しみと回復 第5回
前回は、「多方向への肩入れ」や「対話」による関係回復のプロセスの社会的な意義や可能性とともに、その限界についてもお話ししました。特に、「業」が深い家族や、ひどく拗れた関係において、「対話」による関係修復は専門家とて困難であることを、あえてお伝えしました。
この連載の最終回である今回は、そんな八方塞がりで絶望的な状況で、いったいどうしたら希望の光が見えてくるのかについて、私が思うことをお話しし
優れた子で在りなさい、でも私より劣った子で在りなさい
子供に起きた良き事を、親が我が身に起きた事の様に喜ぶ、
親子の情愛が織りなす景色の中でも、特に尊い情景なのではないか、と思うのです。
我が事の様に喜ぶ事が出来るには、親が子供を一個の独立した人、として感じていることが必要です。
親が子供という存在を「尊重」している、という素地が出来上がっていないと、
「我が事の様に」喜ぶ、では無く、「我が事を」喜ぶになってしまいます。
どういう場合か、と
こころを開いて話してみよう
久しぶりに懐かしい人に会いました。
十六年前に石垣に住み始めた頃にお世話になった人です。
地元の中学校の退職校長のかたで、現在は八十五歳ぐらいでしょうか。
沖縄離島の長老のかたはお元気なかたが多いように見受けられますが、その中でもこの元先生は一段とエネルギッシュで、いつまでも枯れない若さをお持ちです。
あさって囲碁大会の八重山代表で那覇に行くんだよ、と仰ってました。
なにごとも一番に