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中沢新一著『レンマ学』『精神の考古学』『構造の奥』などを読む

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中沢新一氏の著作『レンマ学』『精神の考古学』『構造の奥』などを読み解きます。
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#読書

「何も生まない空」と「生産性を持った空」ー中沢新一著『レンマ学』を精読する(13)

(このnoteは有料に設定していますが、全文無料で公開しています) ◇ 中沢新一氏の『レンマ学』を精読する連続note。本編に続く「付録」を読んでみる。付録と言っても100ページくらいある。 第一の付録「物と心の統一」に次の一節がある。 「言語学をモデルとしてつくられた構造主義が、そのことによって文化的なものと自然過程に属するものとを分離してしまい、物質過程とこころ過程の統一的理解を、逆に阻んでしまっているように思われた。」(中沢新一『レンマ学』p.340) 言語と

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分別する眼と無分別の眼を共鳴させる -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(4)

中沢新一氏の『精神の考古学』を引き続き読む。今回は、第五部「跳躍(トゥガル)」を読んでみよう。「トゥガル(跳躍)」とは、「青空と太陽を見つめる光のヨーガ」である(p.175)。 「光」を「みる」、視覚のモデルこのヨーガを修することで、あるとても不思議な「光」を「みる」ことができるようになるという。 * 通常、「見る」といえば、感覚器官である「眼」に「外界」からの「光」が「刺激」として入力され、それによって神経系に電気的化学的な変化が生じる。その変化がつまり神経系において

”心”の表層を剥がしていくと -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(2)

ひきつづき中沢新一氏の『精神の考古学』を読みつつ、ふと、松長有慶氏による『理趣経』(中公文庫)を手に取ってみる。かの理趣経、大楽金剛不空真実三摩耶経を、かの松長有慶氏が解説してくださる一冊である。 はじめの方にある松長氏の言葉が印象深い。 苦/楽 大/小 何気なく言葉を発したり思ったりする時、「その」言葉の反対、逆、その言葉”ではない”ことを、一体全体他のどの言葉に置き換えることができるのか、できてしまっているのか、やってしまっているのか、ということをいつもいつも、「頭

詩的言語/サンサーラの言葉とニルヴァーナのコトバの二辺を離れる -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む

しばらく前のことである。 「人間は、死ぬと、どうなるの?」 小学三年生になった上の子が不意に問うてきた。 おお、そういうことを考える年齢になってきたのね〜。と思いつつ。 咄嗟に、すかさず、大真面目に応えてしまう。 生と死の二項対立を四句分別する。 念頭にあるのはもちろん空海の「生まれ生まれ生まれて、生のはじめに暗く 、死に死に死に死んで、死のおわりに冥し」である。 こういうのは子どもには”はやい”、という話もある。 が、はやいもおそいもない、というか、はやからずお

中沢新一氏の新著『精神の考古学』を読み始める

中沢新一氏の新著『精神の考古学』を読んでいる。 私が高専から大学に編入したばかりの頃、学部の卒研の指導教官からなにかの話のついでに中沢氏の『森のバロック』を教えていただき、それ以来中沢氏の書かれたもののファンである。また、後に大学院でお世話になった先生は中沢氏との共訳書を出版されたこともある方だったので、勝手に親近感をもっていたりする。 中沢氏の書かれるものには、いつも「ここに何かがある」と思わされてきて、特に『精霊の王』、『レンマ学』、『アースダイバー神社編』は丸暗記す

意味分節理論とは(10) 分節と無分節を分節する ー意味分節理論・深層意味論のエッセンス 〜人類学/神話論理/理論物理学/人間が記述をするということを記述する

noteのシステムから当アカウントが「スキ」を7000回いただいているとの通知がありました。みなさま、ありがとうございます! いったいどの記事が一番「スキ」をいただいているのだろうかと調べてみると下記の「難しい本を読む方法」がスキの数一位でした。 二年ほど前に書いた記事ですが、改めて読むとこの記事自体が難しいような気がしないでもないです。 * * この記事の趣旨を煎じ詰めれば「分かる」ということにはいくつかの種類がある、ということです。いや、いくつもの種類に”なる”と

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無意識-言語-脳をつなぐ「アーラヤ織」 ー中沢新一著『レンマ学』を精読する(8)

中沢新一氏の著書『レンマ学』を読む連続読書note、今回は第七章「対称性無意識」を読んでみる。 これまでのところで「生命」や「言語」が、レンマ学の概念の組み合わせを通して捉え直されてきた。そして第六章、第七章、第八章では「無意識」の概念がレンマ学の概念たちのペアからなる構造に写像され、新たにレンマ学的な対象として浮かび上がることになる。 無意識という概念の発見、あるいはフロイトによるその深化は、「近代」から「現代」への切り替えポイントであるとも言える。 無意識の発見が、

般若、空、否定でもなく肯定でもない。 −中沢新一著『レンマ学』を精読する(3) 40-50ページ

ひきつづき中沢新一氏の『レンマ学』を丁寧に読んでみる。 『レンマ学』が探求するのは人間の知性である。 人間の知性とはどういうものか?古来からの哲学や宗教、近代の科学まで、人間の知性とは何かという問いに答えようとする様々な思考が繰り広げられてきたが、実はまだこれという正解はない。 人間の知性がどういうものだか、実はよく分かっていない。 分かっていないのに、いまや人工知能(AI)の時代である。 人工知能は大きく言えば人間の知性を真似るシミュレーションする技術である。人間

中沢新一著『レンマ学』を精読する(2)ー「縁起の論理」より、私は他者であり、他者は私である

中沢新一氏の『レンマ学』を読む。 互いにはっきりと区別された物事を、並べて積み上げたものとして世界を理解するのが「ロゴス」的な知性である。通常「知性」というと、明確に定義され互いにはっきりと区別された言葉を理路整然と積み重ねていくことのように思われているが、ロゴスはまさにそうした知性のあり方である。 ◎私は私であって他の誰でもないし、他の誰かは私ではない。 ◎私と他者は最初から、完全に分かれており、別々である。 その別々のところから初めて、つながりであるとか絆であるとか

中沢新一著『レンマ学』を精読する(1)

中沢新一氏の『レンマ学』は「考える」きっかけが無数に織り込まれた一冊である。これを丁寧に読んでみたい。 まずは第一章「レンマ学の発端」である。 中沢氏はレンマ学で試みることを次のように明示する。 「レンマ学は、大乗仏教の縁起の論理を土台として、新しい「学」を構築しようとする試みである。かつて鈴木大拙や井筒俊彦によっても、このような「学」が構想されたことはあったが、いずれの試みも未完成に終わっている」p.14 この一節だけでも、幾人もの偉大な思考の先達とその言葉たちが、

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反復するリズムが増殖する"過剰な意味"を"日常の意味"へと媒介する −読書メモ:中沢新一 山極寿一著『未来のルーシー』

『レンマ学』の中沢新一氏と山極寿一氏の対談共著である『未来のルーシー』。300万年前の人類の祖先の化石に付けられた「ルーシー」という名前を媒介に、次々と話題が絡み合っていく。 地球の生命のひとつとしての人類について、生命の歴史の中で今日の姿に「なった」人類について、人類が他の生命から飛び抜けた力を持ててしまったことについて、縦横無尽にヒントがつながっていく一冊である。 その二回目の読書メモである。ちなみに第一回目はこちら↓である。 『未来のルーシー』77ページで、中沢氏

リズムを反復し同期させる −読書メモ:中沢新一 山極寿一著『未来のルーシー』を読む

昨年2019年に読んだ文献の中でもっともエキサイティングだったのは、中沢新一氏の『レンマ学』である。その中沢氏の新刊、山極寿一氏との対談共著が『未来のルーシー』である。 ルーシーというのは、322万年〜318万年前ごろの「猿人」につけられた名前である。ルーシーは1974年にエチオピアで化石として発見された。 ルーシーは二足歩行に適した骨格をもち、脳のサイズもそれ以前の猿人に比べて大きい。 ルーシーはいわゆるサルの類いが、我々人類ホモサピエンスへと進化する途上にあった30

3次元の時空を出る :中沢新一『熊を夢見る』を読む

中沢新一氏の著作『熊を夢見る』を読む。 夢、というのは誰もが経験できるもので、それは確実に「ある」。あるいは「存在する」。 それでいて夢は物のようには存在しない。 「これが夢です」というものを箱に入れて置くことはできないし、フリマアプリに出品したりすることもできない(ただ、夢を売り買いするということは昔から行われてはいた)。  そういう夢で、「熊」を見るとはどういうことだろうか。 リアルな3次元の時間と空間を抜け出るさっそくページを開いてみると次のようにある。 「