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般若、空、否定でもなく肯定でもない。 −中沢新一著『レンマ学』を精読する(3) 40-50ページ

ひきつづき中沢新一氏の『レンマ学』を丁寧に読んでみる。

『レンマ学』が探求するのは人間の知性である。

人間の知性とはどういうものか?

古来からの哲学や宗教、近代の科学まで、人間の知性とは何かという問いに答えようとする様々な思考が繰り広げられてきたが、実はまだこれという正解はない

人間の知性がどういうものだか、実はよく分かっていない

分かっていないのに、いまや人工知能(AI)の時代である。

人工知能は大きく言えば人間の知性を真似るシミュレーションする技術である。人間の脳神経のネットワークが接続されていくプロセスをコンピュータ上でモデル化して、シミュレーションするのである。

ところで脳神経のネットワーク(ニューラルネットワーク)が、人間の知性とイコールなのだろうか?

脳神経は人間の知性の重要な一部、というか一側面であると考えられる。ただし「知性」の全体は脳神経のネットワークを超えるものであるかもしれない(下の右図のような具合)。

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『レンマ学』はそういう脳=AIを超える「知性」のあり方を考える手がかりを貸してくれる。

そういうわけで、今回は四〇ページから五〇ページを中心に読んでみたい。

問われているのは「縁起」ということである。

ロゴス的機構を備えた言語は、縁起のネットワークを捉えることができない

縁起というのは「ありとあらゆる事物が創意相関しあいながら複雑な関係の網の目(ネットワーク)としてつくられている」という考え方である(『レンマ学』p.40)。

ここで最初の問題は、私たち人間の通常の思考はこの縁起の網の目のダイナミックなネットワークを捉えることができない、ということである。

「あらゆる事物が相依相関しあっている無限の網の目を知るためには、人間が自分たちの世界を構成するために用いている知性では不十分だ」(p.40)

「人間が自分たちの世界を構成するために用いている知性」では、なぜダメなのだろうか?

理由は明確である。

それは私たちが「ロゴス的機構を備えた言語」でもって、ものごとを捉えようとするからである。「言語による知性をもってしては、縁起法によって動き変化している世界を把捉することができない」と中沢氏は書いている(p.41)。

では縁起の網の目のダイナミックなネットワークは、人間の知性をもってしては全くアクセス不可能な人間から隔絶された何かなのかといえば、そうではない。

通常のロゴス的言語的な知性ではなく、その周囲を包み込んでいる別種の知性の力を借りることで、人間が人間として生きながら縁起でつながる世界に触れることができる。

般若という知性について

このロゴス的知性とは異なる別種の知性のことを、大乗仏教では「般若」と呼ぶ。色即是空空即是色の般若心経の般若である。そして大乗仏教でいう般若こそが『レンマ学』のいう「レンマ的知性」であると中沢氏は書いている(p.42)。

般若ないしレンマ的知性は、縁起のネットワークと「近い機構でできている」と中沢氏は書く。

般若イコール縁起のネットワークであると直接結び付けずに、あくまでも「近い」という言葉で差異とつながりを同時に表現するところが、まさにレンマ的な知性のことをロゴス的な言葉で描き出さざるを得ないという難題への中沢氏の応答の仕方であると言えるかもしれない。

プラジュニャー(般若)はすべての人間の心(脳)に内在した知性の働きであるが、脳の神経機構の仕組みに適合しているロゴスの働きが全面に出て認識を行っている人間の心にあっては、背後に隠されていて、そんな知性は存在しないもののように思われている。」(『レンマ学』p.41)

般若ないしレンマ的知性は、ロゴス的知性と完全に分離していない。ロゴス的知性とレンマ的知性は別々のものであるが、しかし、ひとつにつながっている。異なりながら同じであり、同じでありながら異なる。イコールでもノットイコールでもない。

これこそ「縁起」的な事態である。

異なりながら同じであり、同じでありながら異なるというのは、何を隠そう事物の縁起的な関係を、人間のロゴス的な言語に変換して記述しようとした時に必要となる論理なのである。

第三の論理、第四の論理

近代以来の科学は「肯定」と「否定」の二つの論理に基づく「同一律、矛盾律、排中律」を原則として、世界のあらゆる現象を整然と記述することができるはずだという考えの上に成り立ってきた。

これに対して般若やレンマの知性では、「肯定」と「否定」に続いて「否定でもなく肯定でもない」「肯定にして否定」という第三、第四の論理が加わる。特にこの第三の「否定でもなく肯定でもない」という論理を「両否の論理」と呼ぶ。

この第三、第四の論理によってあらゆる事物がそれぞれ他とは異なるもので、互いに区別されるものでありながら、同時にひとつにつながりあっているという事態を言葉にすることができるようになる。異なりながらも同じ、同じであるが異なる、ということを「矛盾」として排除せずに言うことができるようになる。

この第三、第四の論理によって、「空(くう)の思想が生まれる。

「あらゆる事物は他のものにつながり、他のものによって成り立っているのであるから、どんなものにもそれ自体の自性(自己同一性を支える性質)はなく、ほんらい空である、という考え[…]」
 縁起から展開された空の思想によれば、わたしに自性はなく、他のものにも自性がないのであるから、自己に対する執着も、他者に対する執着もほんらい起こらないことになる。」(『レンマ学』p.42)

「否定でもなく肯定でもない」「肯定にして否定」という第三、第四の論理によって、同一律と矛盾律と排中律が無効になる。

あらゆる事物は、それ自体として同一性を保ちづづけているわけではなくて、縁起の網の目の中で他のものとの関係によって現象する。そしてもちろん、この「他のもの」もまた、それ自体としての同一性を持っては居らず、縁起の網の目の中で現象する出来事である。

事物は互いに異なりながら同じである。

こうした通常の意味では「矛盾した」言い方によって、縁起の網の目の運動をロゴス的な言葉の世界に「変換」するのである。

ここで一方に、あらゆる事物を縁起的な「空」の方に引き寄せて考える「色即是空」の思想が、他方に空の運動が人間の心に反映されて様々な事物が現象するプロセスを考えようとする「空即是色」の思想がわかれてくる。

前者が「空論」であり、後者が「唯識論」である。

そしてこの両者を総合したのが「華厳経」の思想であるという。

ここで中沢氏は南方熊楠に言及する。

南方熊楠は、華厳経の思想によって、近代科学の限界を越えようとしたというのである。

続く

前回の「『レンマ学』を精読する」はこちら


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