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「レンマ」とは −中沢新一著『レンマ学』を精読する(4)

中沢新一の『レンマ学』引き続き読んでいる。今回は50ページから80ページあたりまでを読んでみたい。

『レンマ学』で中沢新一氏はロゴス的な知性とは異なるレンマ的な知性」の姿を描き出す。

知性というとロゴス的な知性とイコールで考えられることが多いようである。ロゴスを超えたところ、ロゴスの「外」に知性などあるのだろうか?というわけだ

ここで出てくるのが「粘菌」である。粘菌は脳を持たないし、ロゴス的な言語も喋らないが、しかし栄養源を見つけそこに向かって集合体となって移動し、吸収した栄養を集合体の隅々に効率よく行き渡らせる。これは問題解決型の知性である。

粘菌について詳しく知りたい方には、こちらの本がオススメである。

人間の脳や言語の「外」にも知性がある。というよりも、人間の脳や言語は、その外の知性の中から生まれ、その上に浮上したものであって、その一部でさえある。

華厳の哲学 −ロゴスの外に広がる知性の働きを、ロゴスの言葉に変換して記述する

人類史上の様々な哲学・思想のなかで人間の知性に潜むロゴスを超えた「レンマ的なもの」に着目し、それを更に「ロゴス」の言葉でもって説明し記述したのが大乗仏教の「華厳経」である。

華厳の哲学のポイントを、中沢氏は次の一節にまとめている。

『華厳経』は仏教の原点である「十二支縁起」を「法界縁起」の思想にまで高めた。多層をなす存在世界(法界)の全領域にわたって、あらゆる種類の事物が相依相関によってつながりあい動き変化している様相を描き出すことのできる究極のレンマ的論理が、そこには展開されている。」『レンマ学』p.50

あらゆる事物が、相依相関によって「つながり」動き変化する。

あるひとつの事物の存在を、他とは無関係にそれ自体として予めあるものとは考えないで、他のあらゆるものとの関係の中で考える。

あるものの存在がそれであるのは、他のあらゆるものとの関係においてである。この関係は縁起のネットワークと呼ばれる。

縁起のネットワーク

たとえば「わたし」が「わたしである」のは、あの人やこの人やその人や、あらゆる他の人たちや、あれやこれやのモノとの関係においてである。それらの関係が変容すれば「わたし」もまた変容する

「わたし」というのは様々な人やモノが織りなす関係のうごめきであり、関係の癖であり、関係の病であり、関係の業績であり、短絡しかつ隔絶した関係である。

関係を織りなす「その他の人たち」の中には、今はもう死者となった過去の人たちも含まれるし、未だ生まれてきていない未来の人たちも、そのすべてが含まれる。

そして、また「あの人」や「あのモノ」があの人であったりあのモノであったりするのもまた、「わたし」を含む他のすべてのひとたちものたちとの関係においてそうなのである。

レンマ学では、華厳の哲学の言葉を借りて、このあらゆるものが相即相入する関係を縁起のネットワークと呼ぶ

この縁起のネットワークの全体運動を「知る」ことができる知性こそが、レンマ的な知性である。レンマ的知性はそれ自体が縁起のネットワークの一部であり、縁起のネットワークそのものであり、縁起のネットワーク自身の知性であると言っても良い。

縁起の思考=レンマ的思考を、物質から心にいたる存在の全域に展開していこうとした。それが大乗仏教が人類にもたらした最大の贈与と言って良い。」p.50

(煩悩にまみれた)人類の心もレンマとロゴスのハイブリッド

華厳の哲学が「哲学」であるのは、それが、縁起のネットワーク現世を超越し生きた人間にはアクセス不可能「あの世」のものとは”考えなかった”ことにある。

仏教とひとことで言っても色々な経典があり、いろいろな宗派があり、その中には縁起のネットワークを人間から超越したものと考える立場もあるが、「華厳」ではそのようには考えない。

人間が、生身の人間が、煩悩にまみれ欲望に突き動かされる生命体としての人間が、死んで「ホトケ」にならなくても生きた生身のままで縁起のネットワークの一部としてすでに存在しており、さらにはその縁起のネットワークの動きを直接知ることができる知性の芽さえもを備えている、と考える。

そう考えるからこそ「華厳」は「哲学」になる。

心も物質も、レンマとロゴスの隙間に生じる

華厳の哲学は「唯識論」の考え方に基づいている。

唯識論は「識」すなわち、生身の人間にとって世界がこのような世界として現象する様相について論じる

唯識論は人間にとって存在するあらゆる存在を、その「識」によって構成されるものと考える。

「空である力の充実体である心から力の表象が生起して、それが「世界」と呼ばれるものになる。外界の対象の実在が否定されるのは、それが縁起法によって空である前に、力の表象に過ぎないからである。」『レンマ学』p.50

心と物質、精神と物質、人間と自然、あらゆるものとものの区別が、「識」から構成されるものであると考え、予めそれとしてそれ自体として実在するとは考えない。

縁起のネットワークが「人間の心」として捩れたところで、そこに「識」が縺れ出し、そこから互いに区別されつつひとつにつながった諸存在が、人間にとって現象するものとして姿を現す。ここで「大乗仏教の縁起の論理は、人類の心の潜在能力を超越しない」のである。

「人類の心には、あらゆる事物が相依相関しながらつながりあって縁起している世界(存在世界)のありさまを直感によって把握する(ギリシア語でいうところの「レンマする」)能力が潜在的に内蔵されている。しかし通常の思考では、それはものごとを線形的に処理して理解するロゴス的知性の活動によって、表層を覆われているために、自在な活動を阻まれている。」p.53

レンマ的な知性は、人間にも備わっているのである

いや、実は、備わっているというどころの話ではない。

シンボル、記号レファレンス、意味するということ、指すということ

レンマ的知性の「異なりながら、同じ」を作り出す力こそが、他でもない実は私たち人類の言語の根底にある「何かで何かを指す」こと、すなわちテレンス・ディーコンのいう「記号レファレンス」や、ソシュールのいう「ランガージュ」の働きを可能にしている。

つまり「意味する」ということの根底には、「あるもので、それとは異なる別のものを指す」という操作があるわけだけれども、この異なったものを異なったまま結びつけ「同じ」とする力こそが、レンマ的な知性の働きなのである。

これは非常に大事なところなので繰り返し書いておく。

異なったものを異なったまま結びつけ「同じ」とする力。

これこそが縁起のネットワークとして動くレンマ的知性の力なのである。

言葉をその意味の極限、意味の先端へと開く「詩の言葉」、詩的言語を可能にしているのも、この異なったものを異なったまま結びつけ「同じ」とする、レンマ的知性の動きなのである。

ロゴスは切断され次元を減らされたレンマ

ロゴス的な言語、ものごとを他とは区別され、互いに混じり合わないと仮定して考えるロゴス的な思考もまた、あくまでも言葉によって、言葉の上で展開されるわけだけれども、ロゴス的な思考が可能になるのは人間が言語を、シンボルを、用いることができるがであり、記号レファレンス能力、意味作用としてのレンマ的知性が動いているからである。

このことを中沢氏は「ロゴスはレンマによって包摂され」ると書く。

純粋レンマ的知性が捉える世界では「出来事は過去・現在・未来という時間秩序の中には配列されていない」のであるが(p.57)、生命体としての人間の神経の束である「脳内の神経組織はそれを過去・現在・未来という線形な時間秩序に順序立てて処理」することになる。

すべてがすべてと異なりながらもつながりあった縁起のネットワークの動きを、互いに他とは断絶しそれ自体として存在するものに区別しそれらが順番に並ぶ姿に変換、転換、写像、切断して「考える」のが、人間の脳の神経組織であり、言語であり、ロゴスなのである。

わたしたちの心がロゴス的知性の働きに覆われているのは、ロゴス的な情報処理をおこなう脳の神経組織によって、生物学的な限界を設けられているからである。」(p.59)

これは逆に言えば、ロゴス的知性というのは、人間の生身の身体とそのあらゆる部分に張り巡らされた神経のネットワークの複雑に動き回る多様体の「ある側面」「ある部分」だということでもある。

この部分としてのロゴスは、生命体としての人間の全体、身体の皮膚や器官の表面を超えて、「他」と常に物質や情報のやり取りをしているコミュニケーション・ネットワークの全体からみると、きわめて小さな「部分」である。しかし私たちはその「部分」の中で、意識を覚醒させ、意識的に言葉を並べて、考える

レンマ的知性はそのロゴス的知性を包摂してそのあらゆる活動に浸透している知性の働きではあっても、それ自身としては取り出すことはできない仕組みである。仏教はそのレンマ的知性の実在に焦点をあわせ、それを「縁起の理法」として描き出そうとした。」p.59

ここで問題になるのが、レンマ的知性とロゴス的知性の関係、そのひとつでありながらふたつの様相を呈する動きが「どうなっているのか」ということである。

縁起のネットワークでは、あらゆるものごとがそれ自体の「個別性」を保ちながら、同時に他のすべての個別的なものと相即相入、つながっている

レンマ的な知性はその縁起のネットワークと直接つながっており、縁起のネットワークそれ自体である。レンマ的知性はそれ自体が縁起のネットワークのうごめき、ざわめき、ゆらぎ、として「線型性によらない」「句構造を持たない」"思考"を行う(p.63)。

このレンマ的な知性が多重に「変換」「翻訳」されることで、「人間の理解する言語の構造に到達する」(p.63)。

「「変換」や「翻訳」がなされるたびに、法界(=レンマ的知性として思考する縁起のネットワーク)に充満している意味=力は、次々と別の表現平面に「射影」されていき、意味の次元を減少させていく。完全な充満状態から隙間だらけの句構造へ、多次元的な非線形言語から線形言語の二次元平面へレンマ的知性からロゴス的知性の平面へと、「射影」されていくについれて、意味の豊かさは減っていく」p.64

ロゴスの言語の句構造や線形構造は、すべてがすべてと異なりながらひとつにつながる縁起のネットワークの運動を、直線上に並べられた項目の列に変換することで、できあがっている。

ここでレンマ学は、意味ということを考える強力な道具となる。

意味のコードを安定化する傾向と、コードを新たに生み出す傾向、閉じる傾向と開く傾向、安定を志向する傾向と不安定を志向する傾向。これら一見すると相反するふたつの傾向が「意味」において同時に動くのは、意味の場がレンマとロゴスのすき間、レンマからロゴスが構成され、そしてロゴスがレンマへと溶け落ちる場所だからである。

つづく

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