アーラヤ識とは? −中沢新一著『レンマ学』を精読する(5)
ひきつづき、中沢新一氏の『レンマ学』を読む。今回は88ページの「大乗起信論による補填」を紐解いてみよう。この節は「レンマ学」の構想の核心部分であると思われる。
今回のキーワードはアーラヤ識である。
アーラヤ識とは何だろうか?
アーラヤ識
アーラヤ識とは、人間の心の構造、運動のパターンが形成される場である。アーラヤ識という言葉を用いて、人間の心の不思議に探りを入れることができるのである。
人間の心、私たちが日常的に実感として経験している人間である自分自身の心とは、次のような状態である。
「現実の人間(衆生)の心は、分別や差別をもって世界を認識し、嫉妬心や怒りの感情や貪りと愚かさに支配されている。如来蔵の思想では、人間の心はおおもとの姿(真実性)において清浄な光の波動体であるのに、それがどこからともなく出現する煩悩に覆われることによって、ほんらいの力が見えなくなると考えられている。」『レンマ学』p.88
嫉妬、怒り、貪り、愚かさ、煩悩に覆われる。
なにやら大変なことになっているけれども、情動の流れに一喜一憂して息が詰まったり興奮したりする私たちの心というのは、やはりこういうものだと言わざるを得ない。
さて、ここでさっそく「レンマ」である。
嫉妬、怒り、貪り、愚かさ、煩悩といったことは「分別や差別をもって世界を認識」することから生じる
。大乗起信論のような仏教の思想ではそのように考えるのである。
そしてこの「分別する」「差別する」といった操作あるいは動きが生じる場所、あるいはこの動きじたいによってある動的なパターン=構造を呈するプロセスのことを、アーラヤ識と呼ぶのである。
アーラヤ識は、一面では区別が無いところ、未分のところで動き出し、そして区別を生じる動きである。アーラヤ識は区別する動きであり、その動きの前に区別はなく、その動きのあとに区別があらわれる。それと同時にアーラヤ識には第二の顔がある。それは一度区別したものを、改めて未分のうごめきの中に引っ張り込み、別の様相の区別へと組み替えるという面である。
アーラヤ識は双方向的あるいは螺旋的に動くのである。
アーラヤ識は未分の状態を入力として、区別された状態を出力するという一方通行のフィルタのようなものではない。
アーラヤ識では、未分の状態を区別をすることと、区別された状態を未分にすること、ふたつのプロセスが同時に一度に動いている。
こうしたアーラヤ識から形成される心の動的な構造とはどういうものであるかというと、それは真妄和合識とも呼ばれる二つの側面を持った一つのものということになる。
心の二つの傾向 −心真如と生滅心
いや、側面というと何か立体構造の表側と裏側というイメージを喚起してしまうので、そうは言わないほうがいいかもしれない。
人間の心は二つの様態で働く。区別することと区別を消すこと、二つの異なる傾向をもった動きが一つに共鳴しあうことであり、一つの動きが区別と未分という二つの異なる傾向を持った動きを示す。
「アーラヤ識からレンマ的知性である心真如が生起するやいなや、無明を本質とする生滅心も突如として生起する。」p.93
ここにある心真如(レンマ的知性)と生滅心(無明を本質とする)というのが、アーラヤ識から分岐する人間の心の二つの様態である。
第一の心の様態は心真如であり、こちらは区別を未分の状態にするよう働く。そこでは互いに区別され対立関係にある異なるものたちが、実は相即相入するひとつの事柄になる。異なりながらも同じことになる。
第二の心の様態は生滅心である。こちらは区別すること、その区別の結果を固定化する働きである。
自他の違いと分離・隔絶に起因する愛憎入り交じった悩みや苦しみや欲望は、この生滅心、区別をすること「分別や差別によって世界を認識」するところから生じる。
ここまでの『レンマ学』の用語でいえば、区別をする生滅心は「ロゴス的知性」に結びつき、区別以前の未分のままに動く心真如は「レンマ的知性」に結びつく。
分けて数えること −時間性
心真如も生滅心、分けないことと分けること、両者はあらゆる事柄がひとつでありながら無限に異なり、無限に異なりながらひとつであるという「縁起」のネットワークの二つの様相である。
ここで縁起のネットワークというひとつのざわめきから、なぜ区別することとしないこと、ふたつの様相が分かれるのだろうか?
その鍵となるのは「時間性」であると中沢氏は書いている。
時間性という言葉がぽんと出てくると難しい印象を受けるかもしれないけれど、ここで言いたいのは、数をカウントするということ、いち、に、さん、と数える、ということである。
数えるということは、言葉によってなせる技である。
数を数えるということは、いち、に、さん、という具合に区切って、そして互いに区別された「いち」と「に」を順番にならべるということである。
区切って、ならべる。
● → ● → ● → ● → ●
この基本構造は数を数えること以外でも、あらゆる言語に共通の構造である。
こうして並べるから、並べたことによって、「時間性」が生じる。
「ほんらい相即相入して全体運動をなしている法界の諸存在(諸法)が、時間の線形秩序にしたがって「並べられていく」と、突如として妄念が発生する好条件がつくられ、もろもろの煩悩が生まれるのである。」p.92
ちなみにどうして人間の心の第二の様態、つまり言葉は「区切って」「並べる」ようなことをするのかと言えば、理由はとてもシンプルで、人間の言葉がもともと喉や口に空気を通して発声するものだからである。
例えば、まず「あいうえお」と言ってみていただきたい。
それが出来たら、次は、「あ」と「い」と「う」と「え」と「お」を同時に発声してみてほしい。これはなかなか難しい。
仮になんとか口の形を作って喉を震わせて音を出したとしても、その音で、何か意味のある言葉を紡ぐことができるだろうか?
人間の身体がその口や喉、もともと呼吸や摂食のために生じたはずの器官を流用して、あれこれ言葉を喋るためには、音を区切り、音を順番に並べる必要がある。
そのために、ありあわせの器官を「ブリコラージュ」された仮設的な構築物に継ぎ足し継ぎ足しいろいろなモジュールを接合していった末に、いまの私たちの脳の、言語を可能にするシンボル化能力、記号レファレンス能力、時間化された心が出来上がったのであろう。
大乗起信論では、このように時間化された心の方は「生滅心」とよばれ、時間化される以前の心は「心真如」と呼ばれる。生滅心と心真如が、人間の心の二つの様態である。
この心の二つの様態、生滅心と心真如は互いに区別される「二つ」の事柄であると同時に、あくまでも「一つ」である。一つでありながら二つ、二つでありながら一つ。この一見矛盾するようにみえる関係を掴むためには、レンマ的な知性の「両否の論理」が必要なのであった。
二つの心の様態の関係−時間性による薫習
アーラヤ識は心の二つの側面へと開き分かれる。
アーラヤ識から分岐した心の二つの側面は、二つに分かれておりながら一つである。両者は分岐したあとも互いにひとつにつながり続ける。このつながり方を捉えるのが薫習の概念である。
「縁起の理法によって動き変化する法界には、感覚器官につながっている消滅心からの時間化された情報が送り込まれ、薫習による変換(法界構造から時間性ロゴスへ)がおこなわれる。p.93」
薫習というのはおもしろい言葉である。
心真如と生滅心、AとB、ふたつのものが、互いに相手とは異なる別々の者同士でありながら、互いに相手に影響を与え作用する、つながる、接続を開くのである。
薫習によってつながるAとBは、区別不能な状態に溶け合って一体化してしまうのではなくて、あくまでもふたつ、異なり対立する二者のままである。二者のまま区別されながら、しかしつながりひとつになる。
「心真如は生滅心の無明に触れ、それに薫習されることによって、自らの本質を変えないままに、人間の心(衆生心)として活動する能力を得る」p.92
AとBが、互いに薫習しあい、薫習されあったところで、AとBが、それぞれの「本質」は変わらない。
「生滅心はすぐさま心真如を薫習する。生滅心は時間性を本質としているから、レンマ的知性=心真如はたちまちにして時間性に薫習される。しかし心真如は、時間性の「香り」を移されても、レンマ的知性としての自性をまったく変えない。無明が表面を覆っている用に見えても、相変わらず心の内部ではレンマ的知性=法界の活動は続けられている。」p.93
文法の抽象化された構造としてSVOというのがある。
問題はV、動詞である。動詞は主語Sと目的語Oを結びつける。この時、S即O、SはOと別々に区別されるものでありながら同時に同じものなのだ、と言えるようにする特別な動詞Vが必要なのだ。薫習はそういう動詞である。
「しかし、薫習は双方向的で、法界の側からの薫習が生滅心にも加えられる。そうしてこの双方向の薫習を経たなにものかを「心」として人間は体験するのである。」p.93
まとめ
私たち人間が、その区別と差別で煩悩に苛まれるのは「生滅心」の働きのせいなのだけれども、人間の心は実は生滅心だけでなく、生滅心と心真如との「和合」によって成り立っている。ここに人間が煩悩に苛まれつつそこから脱する道がある。
人間はロゴス的知性によって、ものごとを整然と分けることができる(できてしまう)だけでなく、同時にレンマ的知性によって、ロゴスが区別するものたちを区別したまま互いに結びつけることもできる。
このレンマ的知性を、生身の身体で生きたまま動かし、意識の表層のロゴスと交通させることができるならば、それは区別と差別を「前提」とするのではない、別種の知性や共同性の形を思考し構想する出発点になる。
関連図書
大乗起信論といえば、井筒俊彦氏による『意識の形而上学』である。中沢氏が『レンマ学』で取り上げた「薫習」の概念を更に深堀りする手がかりになる。
そして「時間性」について。時間という言葉は日常的によく使われるけれども、考えれば考えるほどなんのことだかわからなくなる不思議な言葉でもある。時間とはなにか、を考えるヒントになるのがこちら、カルロ・ロヴェッリ氏の『時間は存在しない』である。