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反復するリズムが増殖する"過剰な意味"を"日常の意味"へと媒介する −読書メモ:中沢新一 山極寿一著『未来のルーシー』

『レンマ学』中沢新一氏と山極寿一氏の対談共著である『未来のルーシー』。300万年前の人類の祖先の化石に付けられた「ルーシー」という名前を媒介に、次々と話題が絡み合っていく。

地球の生命のひとつとしての人類について、生命の歴史の中で今日の姿に「なった」人類について、人類が他の生命から飛び抜けた力を持ててしまったことについて、縦横無尽にヒントがつながっていく一冊である。

その二回目の読書メモである。ちなみに第一回目はこちら↓である。

『未来のルーシー』77ページで、中沢氏は次のように言う。

認知革命が起こったでは意味増殖が起こります。言語でいうと比喩による言語が発生するようになって、一つの意味を一つの外界の対象に同定しなくなり、ズレが発生してきて、そこから意味の増殖を可能にする脳が活発に動き出す。そうすると夢を見る無意識が発達する」(『未来のルーシー』p.77)

私たちは「比喩」で考えることができる。比喩とは、互いに異なる2つのものの、一方を他方に置き換える操作である。

何かに「例えて」説明されると、とてもわかりやすいと感じたり、よくわからないことでもわかったような気分になれたりする。

この比喩、例える、ということを私たちの遠い祖先が既に行っていた。

例えば、人間と動物の関係を、人間同士の家族関係に「例え」て理解する神話の思考である。

人間も含めてすべての生命体では、身体のレベルで「互いに異なる2つのものを区別する」作用が働いている。五官、感覚器官はもちろん、生命体の表面を覆う「膜」の全面が、様々な区別する装置として動いている。生命体は区別する力によって、自分にとって有害なものを識別してはこれを避け、有益なものをみつけては(あるいは有害なモノの側に区別できないものを)その表面から体内に取り込もうとしたり、放っておいたりする。

外界を自分にとって有益なもの(潜在的に自分の内部と同じになるもの)と、有害なもの(潜在的に自分の内部にならないもの、自分の内部を破壊しかねないもの)の区別する。外界のあらゆるもの区別して、その区別に「有益なものと有害なもの」の区別を重ね合わせる。これが生命に根源的な意味作用である。

この意味作用は意識的な思考以前の段階で動いている。人間に限らず、小さな細菌でもはたらいている。

認知革命、言語、神話的思考

区別をしつつ、置き換える。それによって生命は自分を作り直し続けながら生きている。

これが人間になると、さらに別のレベルが加わる。記号による意味である。

身体が感覚レベルで自動的に行ってしまう「区別」の処理。その産物である感覚印象を、人類は記号という区別と置き換えの体系へと、さらに置き換えることができてしまう。

そうしたところに始まるのが神話的思考である。神話的思考では、人間と動物がもともと同じ祖先から生まれた、であるとか、人間と動物はもともと言葉が通じた、といった話が出てくる。

人間と動物は、異なるものであるが、同時にまた「同じ」ものでもある、という思考。神話は人間と動物が「まったく同じ」「区別できない」とは主張しない。人間と動物は相互につながり、ひとつの全体を成しながら、それでてあくまでも人間は人間、動物は動物である。人間と動物は「異なるが、同じ」という「=」と「≠」が同時に成り立たつ関係にある。「同じ」「異なるが、同じ」は、論理としてはまったく異なるのである。

エネルギー保存と再分配

神話的思考を最初に始めた頃の人類は、狩猟採集民であった。農耕が始まるのはそれから数万年後のことである。動物と人間を異なるが同じものと見る狩猟採集民の神話は次のような傾向をもっていた、中沢氏は言う。

森のエネルギーの総量のなかに人間という存在が埋め込まれていて、そのエネルギー総量は人間と動物と植物の行為によって「保存」されるという思考」(p.70)

「森のエネルギー」の「総量」は一定である、と考える。人間が動物を狩って食べてしまうと、森のエネルギーがその分「減る」。その減ってしまった分を埋め合わせるように、エネルギーを森へ返す操作が必要になり、それが儀礼や、神話を語ることによってなされたという。

もらったから、あるいは取ってしまったから、返す。

この一見シンプルなルールが、人間と「森」との間に継続的な相互作用を持続させる。ここには人間と森は「食うものと食われるもの」に区別されるけれども、しかし「ひとつ」の全体を成してつながっていると考えられる。

現実的にはまったく別の二つの事柄のあいだに「同じ」を「見る」知性がここに働いているのである。

農業革命と「神」の強化

自然からもらった分は、お返しする。

もらった者は与える者でなければならない。

この相互関係が破れたのは農業革命の後であるという。

農業では「少量の粒からその一〇〇倍、一〇〇〇倍の穀物が発生」する(p.71)。ここに「今まで人間をコントロールしてきた倫理や道徳、社会構造が制御できない余剰が発生」することになる。

農耕の最初期の起源地のひとつと考えられるギョベクリ・テペの遺跡でも、農耕牧畜の開始後、もともと行われていた狩猟採集民の祭祀が廃れたという。

もちろん、農耕の文化の中にも、人間が受け取ったエネルギーを、自然に対して「生贄」を捧げることで返そうという儀礼もあるが、いずれにしてもどこからか生じた大きな余剰をどう説明するか、何に置き換えて理解するかが、農耕を始めたばかりの人類にとって大きな問題になった可能性がある

そうしたところで「神」がますます強大で圧倒的なものとして観念されるようになったり、神に対して「おかえし」するために、膨大な農耕牧畜の産物を捧げなければならないという考えも出てくる。

「こんなにたくさんもらってしまってよいのだろうか、よほどお返ししないとまずいんじゃないか」という具合である。

増殖していくものとどう折り合いをつけるか

圧倒的な勢いで増殖していくものをどう理解するか。

これは農耕の開始以前から、人類にとって大きな問題だった。

農耕以前の狩猟採集民にとって「増殖してしまい扱いに困る」ものは、穀物ではなく、意味の増殖、イメージの増殖である。

意味の増殖とどう向き合うか。

こちらのnoteでも書いたが、ありとあらゆるものを結びつけ、置き換えてしまうことができるようになった人間。

その頭の中で増殖していく意味を、日常の現実世界につなぎとめておくために、リズミカルに反復する記号(音だったり、視覚的イメージだったり)を用いた儀礼が大きな役割を果たしたと考えられる。

次から次へと置き換わり、変容していく視覚的イメージとしての意味のネットワークの散逸を、反復されるリズムに結びつける。そうすることで増殖するネットワークが、大きなループとそこから枝分かれした網へとへと凝集していく。

リズミカルな繰り返しへと結びつけることで、増殖する意味は、日常の現実へと投錨される。リズミカルな繰り返しは「記号」を生み出し、増殖する過剰な意味を日常の意味へと媒介する

おもしろいのはこういう反復するリズムとしての媒介の記号は、リズムを刻みながらものを叩くとか、身体を動かすとか、身体から声を含めた音を出すとか、そうした言語以前の、言葉によらないコミュニケーションの技法のなかにすでにある、ということである。

言語によらないコミュニケーション

言語によらないコミュニケーションは、「コミュニケーション」ということを”人間が「ロゴスの論理に基づく言語」を用いること”という限定的なイメージから解き放つ。

共生、共進化が当たり前の生命の歴史を考えれば、様々な生物、動物、植物の間では様々なコミュニケーションが行われてきた。そちらのほうがむしろコミュニケーションの先輩であり、言語や固定的なコードに基づく記号の変換処理といった人間のロゴス的コミュニケーションは、その極めて特殊なバージョンということになる。

ここで、ロゴス的な論理を超えた、生命体間のコミュニケーションを動かす論理こそが「レンマ」なのである。

「○○は××でございますね」などと言葉をしゃべるわけではない動物が「言わんとすること」を、私たちはその動きや表情、気配などから「察する」ことができる。

言葉がなくても「わかる(わかったと確信できる)」とき、そこにはレンマの論理で意味作用が、区別と置き換えが行われているのである。

ちなみにレンマの論理についてのnoteはこちらのマガジンにまとめているのでご査収ください。


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