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リズムを反復し同期させる −読書メモ:中沢新一 山極寿一著『未来のルーシー』を読む

昨年2019年に読んだ文献の中でもっともエキサイティングだったのは、中沢新一氏の『レンマ学』である。その中沢氏の新刊、山極寿一氏との対談共著が『未来のルーシー』である。

ルーシーというのは、322万年〜318万年前ごろの「猿人」につけられた名前である。ルーシーは1974年にエチオピアで化石として発見された

ルーシーは二足歩行に適した骨格をもち、脳のサイズもそれ以前の猿人に比べて大きい。

ルーシーはいわゆるサルの類いが、我々人類ホモサピエンスへと進化する途上にあった300万年前の姿ではないか、と大いに注目を浴びたのである。

そしてこの本のタイトルは「未来の」ルーシーである。

もし現在から300万年後の未来に我々の子孫が何か別種の人類へと進化して生き延びているとすれば、私たちの骨の化石を発見し「300万年も前に、こんな祖先が居たのだ」と驚き、それをきっかけにいろいろと思考をするかもしれない。

「ルーシー」の発見は繰り返される。何度でも反復される。

300万年後の、おそらくもう人類ではない別の種になった子孫たちからみれば、今日の私たちこそが「ルーシー」なのである。

遠い祖先の現在の自分たちとは似ても似つかない姿に「自分と同じもの」を感じ、そして未だ見ぬ遠い未来の子孫の姿にも「自分と同じもの」を見る。

そこで、過去と未来は断絶した2つの極ではない。未来は過去によってその姿を照らし出され、過去もまた未来によって照らし出される。過去というイメージと、未来というイメージ、そのふたつがひとつに交錯するところで、「現在」という私たちの意識の時間、意味の時間が湖水の浮島のように凝集してくる。

大きな円環を描いて、「同じ」ところへ帰ってくる。

もちろんその「同じ」ところというのは、どこか実在する場所ではなく、意味的に同じということである。

生命の歴史

『未来のルーシー』の冒頭で中沢新一氏は、自然と文化を分割する「非対称性」の知ではなく自然と文化が「対称的に入れ子状態になったハイブリッドを基礎にして考え」ることが大切であると論じる(P.17)。

我々が現在目にする自然環境は、生命の長い歴史を通じて、生命と地球の表面の物質がコラボレーションして作り出したものである。

今日大問題になっている人間が温室効果ガスを大量に排出して温暖化を引き起こしているといったことにとどまらない。例えば、大気中にこれだけの酸素が充満している状態からして、太古の生命の活動の結果なのである。酸素が大量に放出されたせいで、温室効果ガスが極端に減ってしまい、地球全体が凍りつく「スノーボールアース」と呼ばれる状態になったこともある。

生命の活動は地球の自然環境に完全に埋め込まれており、生命の一形態である人類の活動もまた、同じように自然環境と相即相入、一体となったプロセスなのである

とはいえ「自然」と「人類の文化」が対立的な非対称の関係に見えてしまうのは、人類の文化が自然の上に、そこから半ば独立した形で記号の生産と保存、移送、置き換えのシステムとして作動するからである。

言い換えれば、私たちは自然を目の前にして、「その意味」を言葉にすることができる(できてしまう)。この意味の領域が記号が動く場所である。

人間が、記号を作り、動かし、意味ということを扱う力を獲得したこと、この進化上の一大イベントが「認知革命」である。

認知革命とは、身振り、声、リズムでも歌でも、何らかの記号によって「目の前に存在し無いこと」「誰も見たことがないもの」を、演じ、作り上げ、かつ共有する能力である。目の前の現実=既知の情報に「置き換え=例える」ことで、未だ見ぬ世界をイメージできるようにする。それはレヴィ=ストロースがいうブリコラージュによる神話的思考である。

『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリは、我々人類がその身体的な弱さ(つまり食物連鎖の中で、肉食動物に食べられやすいということ)にも関わらず、食物連鎖の頂点に登ることができた、最大の要因が「虚構の力」即ち認知革命だったと論じる。

この誰も見たことがない「虚構」を想像し、かつ仲間で共有できるようになったことが、人類の力の源になった。

人類は、その目に直接見たことがないものの存在を確信し共有することで、新たな土地を目指して移動しアフリカを出てしまうほどの旅好き、交易好きになった。

人類の移動好き、交易好きという性向は今日に至るまで衰えるどころかますます強くなっている。ウイルスと競争しながら今日もたくさんの飛行機が飛び回っている。

未だ見ぬ世界を想像し共有する力は、さらに身体を拡張する様々な道具を作り、目の前に広がる景観自体を理想的なものにつくりかえたりする原動力になった。「食べて美味く、保存の効く穀物が見渡す限り実ったらよいなあ」という想像をし、その想像を仲間に話し、賛同を得(あるいは説得したり脅かしたりして)、何年もかけて、何世代もかけて、景観自体を人工的に作り変える。

比喩、置き換え、ニューラルネットワーク

『未来のルーシー』で中沢氏と山極氏は、認知革命がもたらした「比喩」の能力に着目する。「比喩は別種のカテゴリーのものを重ね合わせて表現することを可能にする」と中沢氏は言う(p.31)。そして「比喩能力が発生するには、脳のなかでニューロンとニューロンの接合が複雑化してきて、フードバックの機構が複雑になり、そこに新しい接合様式が発生していなければならない」という。

ある事柄を、それとは区別される他の事柄に「置き換える」のが比喩である。

置き換えにはいくつかの様式がある。

例えば人間に限らず、動物や植物、小さな菌類、ウイルスに至るまでが自分身体の表面の「膜」によって、自らと環境を区別し、そして環境の中から自らの内部を置き換える材料となるものを選択し取り込んでは、自分自身を再生産している。これが生命が生きるということである。

第一の置き換えは、このように生命体の表面の「膜」で作用する「環境を自己へ置き換えること」である。これは有機体という物質の特性そのものである。広大な膜の表面の無数の接触点で、膨大な回数の置き換えが進行し続ける。

第二の置き換えは、第一の置き換えの多重化から始まる。生命体の表面で動く無数の置き換えの結果として生じた内部状態の物質的な変異は、今度は生命体内部にある多様な細胞、多様な器官からなる超ハイブリッド式置き換えシステムの連鎖に乗っかっていく。ここで物質のパターンの変動は「情報」現象として観察されるようになる。

第三の置き換えは、第二の置き換えをベースにして、生命体の内部の置き換え関係の「もつれ」あるいはネットワークの中で生じる。中沢氏が言う「ニューロンとニューロンの接合が複雑化してきて、フードバックの機構が複雑に」というのはこのレベルである。ある区別と置き換えの処理の産物が、別の区別と置き換え処理を引き起こし、その結果がまた次の区別と置き換えを引き起こす、という連鎖を生じる。そしてその結果がまたぐるりと回って、もとも区別と置き換えの処理へと入力される。これがフィードバックである。

個々の置き換えシステムが自己の出力を含む多数の置き換えシステムのネットワークの動きを新たな入力として受け取ることで、置き換え処理が置き換え処理を参照する。自分の出力をまた入力として取り込むこと。それを繰り返すことでループ式の置き換えネットワークを強化する。こうして区別を超えた自在な置き換えの連鎖を増殖させつつ、それを散乱させずにひとつにつなぎ合わせる中心ループが生じる

人類の脳における意味の増殖、目の前の現実に、ありとあらゆる多義的で両義的な意味を読み込むことができるという性能は、おそらくこのあたりに由来する

増殖する意味を生きる現場につなぎとめる−「同じものの回帰」

とはいえ、あらゆるものを、あらゆるものに、置き換えられる、という性能は、実際の環境の中で生きていく上では過剰なものである。食べられないものを食べらると思い込んでしまったのでは、死んでしまうからである。

これについて中沢氏は次のように言う。

「もし記号の部分がどんどん流れていってしまったらどういうことになるか。これは十九世紀にフロイトなどが問題にした精神病の問題とも深く関わってきます。流れていくものにストップをかけるものがどこかにないといけないと思うのですが、それは「同じものの回帰」ということではないかと思うのです」(p.34)

荒ぶる置き換えの増殖を、記号の連鎖の増殖を、意味の散乱を、生きた空間につなぎとめるための技術が必要となる。『未来のルーシー』では、そのひとつがおそらく、リズムを刻むこと、音楽だったのではないかという興味深い考えが示されている。

あらゆる方向へ、無数に増殖し続けていこうとする置き換えを、ぐるりと折り返して、ある意味の投錨点となる事柄へと置き換える。そうした意味の投錨点をいくつか用意しておき、ここぞという時にそれを呼び起こしては、散乱した置き換えをそこに回収する。リズミカルな反復を繰り返す儀礼や儀式とは、この投錨点への意味の回収のためのフィードバックループ形成のための技術なのである。

あるいは文字なども、その反復性の強さは、意味の増殖をつなぎとめるテクニックとしては強いものがあるのかもしれないが、逆に「つなぎとめ」「同一性への回帰」が強すぎることが、意味を一義性へと押し込め、意味作用の生命力それ自体を抑圧し、奪うことにもなる。

このあたりのフィードバックループ形成のためのリズミカルな運動としての祝祭の儀礼という考えについては安藤礼二氏の文献がヒントを与えてくれそうである。

区別、対置、置き換え、レンマ学

さて『未来のルーシー』がおもしろいのは、この置き換えの話が、中沢氏の「レンマ学」につながっていくところである。

あらゆる事柄を、あらゆる事柄に置き換えられるとするならば、あらゆる置き換えの中心に、全てがそこから置き換わり、全てがそこへ置き換えられる「生産力をもつゼロ」を想定できるようになる

これはあらゆるものが、他のあらゆるものと相即相入、「インドラの網」のように「異なるが、同じ」=「同じだが、異なる」の関係であり、この関係の動きを捉えるのがレンマ的知性なのである。

ここまで来ると、ぐるりと回って『未来のルーシー』冒頭の話に帰ってくるのである。

自然と文化を非対称的に対立するものとしてではなく、異なるが同じものとして捉えること。人間と動物、あるいは人間と事物の関係も、非対称的な相容れないものではなくて、異なるが同じもの、同じだが異なるものが、関係を断絶することなく、しかしひとつになってしまうこともなく、引力と斥力のバランスをとりながら結びついていること。

そうした広い意味での「アニミズム」を思考することを可能にするのが、レンマ的知性なのである。

ここから、レンマ的知性のひとつの姿である「神話的思考」が、人間と動物、人間と自然の関係を「エネルギーの保存と再分配のシステム」として捉えようとした、という話に進むのであるが、長くなるので続きは次の機会にしたいと思う。

つづく

関連note

『レンマ学』について

安藤礼二氏の『迷宮と宇宙』の読書メモ

「対にする」ことで意味が始まる(レヴィ=ストロース)


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